青木重誠
青木 重誠 | |
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生誕 |
1893年3月15日 大日本帝国 石川県 |
死没 |
1943年6月29日(50歳没) オーストラリア ニューギニア島 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1943年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
青木 重誠︵あおき しげまさ、1893年︵明治26年︶3月15日[1][2] - 1943年︵昭和18年︶6月29日[1][2]︶は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。
明治27年版﹁陸軍現役将校同相当官実役停年名簿﹂中の歩兵中尉青木織 之助
聯合艦隊参謀長を務めた元海軍中将草鹿龍之介は、その著﹁一海軍士官の半生記﹂のなかで、﹃︵石川県師範学校附属小学校の︶同級生の中に青木重誠君が居た。そのお父さんは何でも、日露戦争で名誉の戦死を遂げられたそうであったが、お母さんとお姉さんと三人で、石浦神社の横に住んで居た。彼は非常な勉強家であった。然しいつも私が一番で、彼が二番であった。私は子供心に、気の毒な思ひをした。この勉強不勉強の性格は、後年その結果を如実に現はした。彼は士官学校も、陸軍大学も、恩賜の軍刀をいただいた。そして陸軍中将となったが、惜しいかな、ニューギニアに於て戦没した。﹄と回想している。
大正9年版﹁陸軍現役将校同相当官実役停年名簿﹂中の歩兵中尉青木重 誠
余談として、青木重誠の父・織之助については、1894年(明治27年)版の﹁陸軍現役将校同相当官実役停年名簿﹂中に第3師団(師団長・桂太郎中将)所属の歩兵第7聯隊中尉として名があるが、確認できる資料としては以降の名簿に名前が見られない。名誉の戦死を遂げられたならば、日清戦争のときの話と思われる。
経歴[編集]
石川県金沢市本多町出身[1][2][3]。金沢城内に駐屯する歩兵第7聯隊・青木織之助歩兵中尉の長男として生れる[1]。 石川県師範学校附属小学校、金沢第二中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校︵25期︶741名中を首席で卒業[2][3][4]。同期には太平洋戦争開戦時の陸軍省軍務局長武藤章中将、陸軍省人事局長富永恭次中将、参謀本部第一(作戦)部長田中新一中将などがいる。同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第7聯隊附となる[1][3]。歩兵第七聯隊編纂﹃聯隊歴史﹄によると、青木織之助少尉︵第7代︶、青木重誠少尉︵第28代︶と親子で歩兵第7聯隊旗手を務めている。 1920年(大正9年)11月、陸軍大学校︵32期︶を優等で卒業した[1][2][3]。以降、陸軍省軍務局附勤務、陸軍兵器本廠附兼軍務局課員(軍事課)、フランス駐在、陸軍技術本部附兼軍務局課員(軍事課)、整備局課員、軍務局課員、兵器本廠附などを経て、1930年(昭和5年)12月、陸軍省副官兼陸相秘書官となり宇垣一成大将︵1期︶・南次郎大将︵6期︶・荒木貞夫中将︵9期︶と三代の陸軍大臣に仕えた[1]。軍務局課員(軍事課)、歩兵第8聯隊附、参謀本部々員、歩兵第7聯隊長、陸軍省人事局補任課長を経て、日中戦争では第2軍参謀副長として出征し、同軍参謀長、第11軍参謀副長、同参謀長を歴任した[1][2][3]。1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級[1][3]。 陸軍習志野学校長、大本営附などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将となった[1][2][3]。太平洋戦争開戦時、南方軍総参謀副長として出征した[2][3]。1942年(昭和17年)8月、第20師団長となり、ニューギニア戦線に動員され、飛行場建設などに従事中、1943年(昭和18年)6月、マラリアにより戦病死した[1][2]。栄典[編集]
- 位階
- 外国勲章佩用允許