ニューギニアの戦い
概要[編集]
太平洋戦争開始後間もない1942年1月、日本の大本営は﹁ニューギニアおよびソロモン群島の要地の攻略を企画する﹂と決定し、ニューギニアについては﹁ラエ、サラモア攻略後なしうればポートモレスビーを攻略する﹂とした[2]。この決定により1942年3月8日、日本軍は東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し占領した。 これがニューギニアの戦いの始まりであり、ダグラス・マッカーサー大将が率いる連合軍との間で1945年8月15日の終戦まで戦いが続けられた。連合軍の優勢な戦力の前に日本軍は次第に制海権・制空権を失って補給が途絶し、将兵は飢餓や過酷な自然環境とも戦わねばならなかった。ニューギニアに上陸した20万名の日本軍将兵のうち、生還者は2万名に過ぎなかった。また台湾高砂族による高砂義勇兵や朝鮮志願兵、チャンドラ・ボース支援のインド兵やインドネシア人兵補も戦闘に参加している。背景[編集]
ニューギニア島は、日本から真南に5,000キロ、オーストラリアの北側に位置する熱帯の島である。面積は77万平方キロと日本の約2倍の広さであり、島としてはグリーンランドに次いで世界で2番目に大きい。脊梁山脈には4,000メートルから5,000メートル級の高山が連なり、熱帯にありながら万年雪を頂いている。19世紀の帝国主義の時代、ニューギニア島は西半分がオランダ領、東半分の北側がドイツ領、南側がイギリス領に分割された。その後1901年のオーストラリア独立に伴って旧イギリス領はオーストラリア領となり、第一次世界大戦後は旧ドイツ領がオーストラリア委任統治領ニューギニアとなった。1942年当時、ニューギニア全島のほとんどは熱帯雨林と湿地帯によって占められ、人口密度は1平方キロあたり2人以下で人口調査ができないほどの未開の地であった。沿岸部にはポートモレスビー︵南東岸に位置︶などの小都市が存在したが、山間部には狩猟・採集や、サゴヤシの澱粉質である﹁サクサク﹂の採取、芋類の畑作などによって生活する原住民が居住していた。 太平洋戦争が開始されると、日本軍はトラック諸島の海軍基地を防衛する必要からニューブリテン島ラバウルを攻略し前進拠点とした。しかしラバウルはオーストラリア領ニューギニアの中心拠点ポートモレスビーの基地から爆撃圏内にあった。日本軍はラバウルの防衛と米豪遮断作戦を視野に入れてポートモレスビーの重要性を認識し、海路からの上陸作戦を計画した。作戦は﹁MO作戦﹂と名づけられ、ニューギニア島の北岸のラエやサラモアには前進航空基地の設営が計画された。 連合国軍にとっても、ポートモレスビーはオーストラリア本土の最後の防衛線であり、絶対に守り抜かねばならない拠点であった。また、フィリピンから脱出してオーストラリアに拠点を置いていたダグラス・マッカーサー大将にとっては、オーストラリアからニューギニア島北岸を経由するルートは、フィリピンを奪還し東京へと至る対日反攻ルートの起点でもあった。1942年3月8日、日本軍がラエとサラモアへ上陸してニューギニアにおける本格的な戦端が開かれた。戦場の環境[編集]
自然環境[編集]
原地民[編集]
ニューギニアの原住民は日本軍と連合軍の双方から過酷な仕事を命じられながら忠実に物資の輸送や道案内を行い、負傷者の面倒見に一役買った。また、両軍のスパイや民兵として活躍する者もいた。中には逃亡する現地人もいたものの、日本軍から﹁まじめで忠実﹂と賞賛され、連合軍からも黒い天使(Fuzzy Wuzzy Angels)と呼ばれた。ただし、現地人は食料よりタバコを欲しがるということで、日本軍では訓練された台湾の高砂族︵詳細は高砂義勇隊を参照︶に対する評価の方が高いケースもある。 戦争末期に日本軍が分散自活の体制に入ると、原住民の中には連合軍と通じて日本兵を襲撃する者も現れた。ジャングルでの行動に慣れた原住民に対して、衰弱し少人数に分散した日本兵はなすすべもなかった。一方で、食糧採取などにおける原住民の協力なしには、日本兵の多くは生きながらえることはできなかったであろうことも事実である。兵士の生活[編集]
日本側[編集]
兵糧について 物資と補給能力が乏しかった日本軍では、短期決戦を重要視した戦略の基本だったため、食料などの物資の補給は、もっぱら現地調達だった。しかし、日中戦争と違い、人家や田畑が少なく、ジャングルが広がる南方戦線では、食料を徴発することもできず、獲得するのに苦労した。ニューギニア戦線での各部隊の任務としては通常の兵隊業務に加え、耕作や食料採取が任務となっていた。ごく短い期間のみ戦闘携帯食︵陣中餅、乾麺包、砂糖、内容240グラムサイズの魚および牛の缶詰、麦飯、粉醤油、粉味噌などの即席食品類など︶を主として、補給がされないまま少量のコメ、さご椰子澱粉︵幹から採取する。﹃サクサク﹄という︶、タロイモなどのイモ類、椰子の実、バナナの果実類は言うに及ばず雑草を糧とし、他にヤモリ、トカゲ、コウモリ、ワニ、ノネズミ、ヘビ、イボガエル、モグラ、ノブタなどの動物、ゲンゴロウ、トンボなどの昆虫を採取していた。特にヘビ︵刺し身・串焼きなど︶、ワニ︵鉄板焼き︶、イボガエル︵スープ・肉フライなど︶、ノネズミ︵丸焼き︶、ノブタ︵丸焼き︶などは希に採取される機会がありスタミナ食として珍重されたという。戦闘末期、海上封鎖によって、物資の補給が途絶えると完全に自給自足の生活を余儀なくされた。また、地域や部隊によっては、人肉食や個人的な原住民の交流などから真水や食料の取得方法を教えてもらうケースもあった。連合国軍側[編集]
兵糧について 米軍では、主に戦闘食︵レーション︶を生産し、利用した。缶詰のヴァリエーションは豊富で、肉類をはじめ、卵や飲み水の缶詰まであり、ジャングルでの潜伏戦闘では特に重宝された。南方戦線では、補給線が短く、食料などの物資は、船舶や航空機によって小まめに供給された。また、家畜なども空輸されることもあり、キャンプの近くでは、放牧が営まれ、新鮮な肉を得ることが可能だった。食事は、調理班が調理をし、慰問やクリスマスの日などの特別な時は、ケーキなども振舞われた。参加兵力[編集]
ニューギニアの戦いに参加した両軍の部隊を列挙する。参加部隊には入れ替わりがあり、同時期に全部が揃ったわけではない。日本軍[編集]
- 第17軍(一部が参加) - 司令官:百武晴吉中将
- 第18軍 「猛」集団 - 司令官:安達二十三中将、参謀長:吉原矩中将、高級参謀:杉山茂大佐
- 第4航空軍 - 司令官:寺本熊市中将
- 第8方面軍(一部が参加) - 司令官:今村均大将
- 第2方面軍(一部が参加) - 司令官:阿南惟幾大将
連合国軍[編集]
- 南西太平洋方面連合軍総司令官:ダグラス・マッカーサー大将
- アメリカ第6軍 - 司令官:ウォルター・クルーガー中将、第1軍団 - 軍団長ロバート・アイケルバーガー中将
- オーストラリア陸軍 - 司令官:トーマス・ブレーミー大将
- 第3師団、第5師団、第6師団、第7師団、第9師団、第11師団
- 連合国海軍 - 司令官:トーマス・キンケイド中将
- 連合国空軍 - 司令官:ジョージ・ケニー中将
主な経過[編集]
- 5月3日 - 竹永事件
- 5月11日 - 連合軍ウェワクへ上陸。
- 9月9日 - 日本軍(第2軍)が降伏
- 9月13日 - 日本軍(第18軍)が降伏
ラバウルをめぐる戦い(東部ニューギニア)[編集]
ニューブリテン島の占領[編集]
1942年1月23日、オーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルに上陸した。守備隊のオーストラリア軍は2月6日までに降伏した。
ニューギニア沖海戦[編集]
アメリカ軍は空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていたが、日本軍のラバウル進攻により、空母レキシントンを基幹とする機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲を計画した。しかし2月20日に日本軍に発見され攻撃を受けたことから、作戦継続を断念して引き返した。
ポートモレスビーをめぐる戦い(東部ニューギニア)[編集]
ニューギニアへの進出[編集]
1942年3月8日、日本軍は連合国軍の拠点ポートモレスビーの攻略を視野に入れて飛行場を確保するため、南海支隊の一部をサラモアに、海軍陸戦隊をラエに上陸させた。どちらも連合軍はすでに撤退していたため、抵抗を受けることなく占領が行われたが、3月10日、空母「ヨークタウン」「レキシントン」を基幹とするアメリカ軍空母機動部隊が日本軍を空襲した。
この攻撃で付近にいた艦船は4隻が沈没、9隻が損傷した。
3月末から4月半ばにかけてオランダ領ニューギニアの攻略が行われこちらは無事終了した。
MO作戦と珊瑚海海戦[編集]
ポートモレスビー作戦[編集]
ラビの戦い[編集]
ニューギニア島の東端に位置するミルン湾は海空の基地の好適地であり、6月よりオーストラリア軍が湾沿岸のラビに飛行場建設を開始していた。日本軍は1942年8月4日にラビに連合軍の新飛行場があることを発見した。ラビの飛行場は日本軍にとって重大な脅威になるものと判断され、攻略の必要に迫られた。この頃、陸軍はポートモレスビー陸路攻略作戦を行っていたため戦力に余裕がなく、ラビの攻略は海軍で行うことになった。8月24日、第8艦隊の支援の下に海軍陸戦隊がラビへの上陸作戦を実施した。しかし、連合軍側の防衛体制は日本側の予想よりはるかに強力で、2度の飛行場攻撃はいずれも多くの損害を出して失敗するとともに、足の皮膚病のために歩行困難になる者が続出して攻撃の継続は困難な状況になった。さらに連合軍が積極的な反撃を開始したため日本軍の状況はますます悪化し、9月5日にラビ攻略部隊の撤収が決定され作戦は失敗した。この戦いはニューギニアにおける日本軍の最初の敗北となった。
ブナ・ゴナの戦い[編集]
ラエ・フォン半島をめぐる戦い(東部ニューギニア)[編集]
日本軍の増強とワウの戦い[編集]
カートホイール作戦[編集]
ラエ・サラモアの戦い[編集]
フィンシュハーフェンの戦い[編集]
ラム河谷の戦い[編集]
その頃オーストラリア軍第7師団は、日本軍が道路を建設していたルートを逆にたどってラム河谷にまで進攻していた。この地区を守備していたのは中井増太郎少将(後に中将)の率いる第20師団歩兵第78連隊であった。1943年10月から1944年1月にかけて、オーストラリア軍はフィニステル山系の歓喜嶺を守る日本軍と戦闘を重ねた。ことにシャギーリッジ(屏風山)では守備する片山中隊が頑強に抵抗し激戦となり、オーストラリア軍も陸空の攻撃を集中させ片山中隊は一兵残らず全滅した。1944年1月31日までにオーストラリア軍は日本軍をフィニステル山系から撤退させ、マダンの日本軍拠点の手前まで迫った。
西部ニューブリテン島の戦い[編集]
アドミラルティ諸島の戦い[編集]
連合軍の飛び石作戦︵西部ニューギニア︶[編集]
第2方面軍の新設[編集]
南東方面︵ソロモン諸島と東部ニューギニア︶の戦況が悪化する中、日本軍は豪北︵オーストラリアの北側︶方面の防衛体制を強化するため、1943年10月30日に第2方面軍を新設した︵それまで豪北方面は南方軍が担当︶。第2方面軍は満州のチチハルにあったものを転用し、軍司令官も阿南惟幾大将がそのまま発令され、司令部はミンダナオ島のダバオに置かれた︵1944年4月26日にセレベス島のメナドに移動︶。第2方面軍はこれまで豪北のバンダ海、チモール方面で作戦を行ってきた第19軍と新設の第2軍を指揮することになり、西部ニューギニア︵東経140°︵ホーランジアの少し西︶以西︶は第2軍の担当とされた。第2軍司令部も満州から転用されたが、司令官には豊嶋房太郎中将が新任され、豊嶋中将は12月1日にマノクワリに到着した。第2軍に配属される第36師団︵北支から転属︶は12月~翌年1月にサルミに到着した。到着後の最大の任務は飛行場の建設であった。東部ニューギニアの第18軍と第4航空軍はラバウルの第8方面軍からの指揮が困難になったため、1944年3月25日に第2方面軍の指揮下に編入された。第36師団に続いて派遣する部隊の選定はマリアナ・パラオ方面の情勢が緊迫する中で二転三転し[10]、最終的に派遣された主要部隊は第35師団︵北支から転属︶と海上機動第2旅団︵満州で編成︶となった。しかし、これらの部隊はニューギニア方面に向かう途中でアメリカ軍潜水艦の攻撃で、戦地到着前に戦力の多くを喪失した︵竹一船団の遭難︵4月26日と5月6日︶、海上機動第2旅団の遭難︵5月7日︶︶。制空権・制海権がなく船舶も不足する中での輸送は困難を極め、これらの部隊がニューギニアの西端のソロンやその東方のマノクワリに到着したのは1944年5月下旬~6月上旬であった。ホーランジアの戦い[編集]
サルミ・ワクデ島の戦い[編集]
1944年6月中旬にニミッツ大将の指揮でアメリカ軍のサイパン島への進攻が予定されており、マッカーサー大将はこの作戦に協力するために必要な飛行場を確保することを目的として、ワクデ島とサルミの日本軍の飛行場を攻略することにした。しかし、精査してみるとサルミの飛行場は良好でなく、ビアク島の飛行場は良好であることが判明し、ビアク島も攻略することが決定した[12]。この結果、サルミ進攻の目的はワクデ島の攻略を対岸からの砲撃で支援するためと、ワクデ島を占領した後にサルミの日本軍から島を砲撃されることを防止するためとなった[13]。 サルミ・ワクデ島地区は1943年12月に第36師団が到着し、これを基幹とする1万4,000名が守備していた。1944年5月17日、サルミ東方のマッフィン湾へ、アメリカ軍第6歩兵師団、第31歩兵師団︵1個連隊欠︶、第123連隊戦闘団、第158連隊戦闘団が上陸、翌18日にワクデ島へ第163連隊戦闘団が上陸した。 歩兵第224連隊石塚中隊を基幹とする800名のワクデ島守備隊は26日までに玉砕した。サルミ地区のマッフィン湾岸のローントリーヒル︵入江山︶では日本軍がアメリカ軍第158連隊戦闘団と激戦を繰り広げ、アメリカ軍に大きな出血を強いた。その後日本軍は後退して持久体制に入り、連合軍側も積極的な攻勢は行わずサルミ地区の兵力の配備を次第に縮小する中で終戦を迎えた。日本軍の当初の1万4,000名のうち生還者はわずか2,000名であった。ビアク島の戦い[編集]
ヌンホル島・サンサポール[編集]
1944年7月2日、アメリカ軍はヌンホル島︵マノクワリの東方、ビアク島の西方︶にも飛行場確保を目的として進攻した。ヌンホル島には日本軍の飛行場があったが兵力は守備隊の歩兵第219連隊の1個大隊と航空関係部隊を合わせて約1,500名に過ぎなかった[14]。上陸したのはアメリカ軍第158連隊戦闘団で、翌3日に第503空挺連隊も降下した。アメリカ軍は8月31日に完全制圧を発表、日本軍の生存者はわずか12名であった。 続いて7月30日、フィリピン奪還に向けてニューギニア北岸を西進していた連合軍の最後の上陸がマノクワリとソロンの中間のミオス島︵双子島︶と対岸のサンサポールで行われた。次のモロタイ島上陸作戦に向けた基地と飛行場を設営するためで、上陸したのはアメリカ軍第6師団であった。これに対し日本軍は若干の抵抗をなし得ただけで、マノクワリ-ソロン間は陸上、海上とも遮断された。1945年1月、ソロンの第35師団は部隊をサンサポールに派遣し2月から攻撃を開始した。しかし、すでにフィリピン上陸を果たしていたアメリカ軍にとってサンサポールの飛行場は無価値で積極的に防衛する意図はなく、飛行場を放棄した。日本軍も5月に作戦を打ち切り、監視部隊を残してソロンに撤収した[15]。その後のニューギニア(終戦まで)[編集]
東部ニューギニア[編集]
アイタペの戦い[編集]
ウェワク地区での自活とオーストラリア軍との戦い[編集]
アイタペ決戦に敗れた第18軍はウェワクへ後退した。各部隊はウェワクからセピック川流域の地域に分散し、1944年秋にアメリカ軍と交代したオーストラリア軍との散発的戦闘を繰り返しながら、原住民の協力を得て食糧を採取し自活した。サクサクのほか、草の根やトカゲ、昆虫の類など、食べられるものは何でも食べたが、将兵は飢餓と感染症に倒れていった。毒のある植物を食べて中毒死したものも少なくない。4000メートル級の山地越えでは貧弱な装備と低下した体力のために凍死者も続出している。後の証言によれば、日本兵が日本兵や現地人を襲って食べる人肉食事件が発生したとされるのもこの時期である。1944年12月に第十八軍は﹁友軍兵の屍肉を食す事を罰する﹂と布告していたが、これに反して友軍に対する人肉食が発覚した4名が処刑されている。掃討作戦に積極的なオーストラリア軍は包囲の輪を次第に狭め、1945年5月にはウェワクにも侵入、日本軍を内陸部へと追い込んだ。この頃には、日本軍としては珍しい集団投降をする部隊も発生した︵竹永事件︶。第18軍主力の食料・弾薬は1945年9月までには尽き果てると予想され、1か月後の玉砕全滅を覚悟していた1945年8月15日、終戦の知らせがニューギニアに届いた。 9月13日、東部ニューギニアの日本軍はオーストラリア軍に対して降伏し、武装解除の後ウェワク沖合いのムッシュ島に収容された。収容された陸海軍将兵の人数は1万1,197名であった。日本政府はニューギニアの惨状に配慮し復員船を優先的に送ったとされる。ムッシュ島には11月末に最初の復員船﹁鹿島﹂が到着し、1946年1月末までに将兵は順次日本へ帰国した。この間にもムッシュ島では、祖国へ帰る日を待ちわびながら1,148名が衰弱し息を引き取った。西部ニューギニア[編集]
イドレ死の行軍[編集]
フォーヘルコップ半島における日本軍の兵力は、東岸のマノクワリに第2軍司令部をはじめとする2万名、西端のソロンに第35師団司令部をはじめとする1万2,500名があった。 ソロンの陸海軍部隊は孤立しながらも、サクサク︵サゴヤシ澱粉︶の採取などで現地自活し多くが終戦まで持ちこたえた。一方マノクワリでは、第2軍司令官豊島房太郎中将が2万名の自活は不可能と判断、1万5,000名に対して、南方200キロのベラウ湾奥のイドレへ転進しそこで自活するよう命じた。1万5,000名の将兵は1944年7月1日に出発、食糧補給の全くない中で熱帯雨林の横断や 3,000メートル級のアルファク山越えで1~2か月を費やしてイドレにたどり着いたとき、人数は6,000から7,000名にまで減っていた。さらにイドレにはそれだけの人数を養えるサゴヤシは存在しなかった。将兵は終戦までの1年間、飢えとマラリアの生活を送った。戦後イドレ地区からの生還者は3,000名に満たなかった。結果[編集]
ほとんどをジャングルに覆われた未開で広大なニューギニア島の戦いで大きな役割を果たしたのは航空機であった。大型の輸送機を持たない日本軍は兵員や物資の輸送を海上輸送に頼ったが、その海上輸送を確保するためには制空権が必須であった。日本軍は主に陸軍がニューギニアの航空戦を担い、新鋭の三式戦闘機など多くの機材と人員を投入したが、制空権はおおむね次のように推移した。 ●1942年4月まで‥日本側が制空権を掌握 ●1942年8月まで‥制空権は伯仲 ●1942年9月以降‥連合軍がブナ方面での制空権を掌握し、その制空権は逐次西方に拡大 航空戦力は初期においては拮抗していたが、次第に ●航空機の数 ●航空機の性能︵戦闘機は1943年秋以降、爆撃機は最初から︶ ●搭乗員の数、技量、士気、健康管理[16] ●飛行場の建設能力︵建設機械と資材︶ ●レーダー の面でいずれも連合軍側が優位になり、これがニューギニアの戦いの結果に決定的役割を果たすことになった[17]。 ニューギニアの戦いにおいてダグラス・マッカーサーはしばしば最前線に出て将兵を激励し、また大胆な飛び石作戦を実施するなど優れた指導力を発揮した。1944年4月にホーランジアへ司令部を進めたマッカーサーはそこからフィリピン奪還作戦を指揮し、10月20日にレイテ島への帰還を果たした。戦いの焦点はフィリピン、硫黄島、沖縄へと移り、ニューギニアは次第に戦略的価値を失っていった。 東部ニューギニア戦線に投入された第18軍将兵は16万名、西部ニューギニアも含めると日本軍は20万名以上が戦いに参加した。そのうち生きて内地の土を踏んだ者は2万名に過ぎなかった。犠牲者には徴用船でニューギニアへ赴いた船員たちなど軍属や民間人、シンガポールの戦いで降伏したインド人捕虜も含まれ、正確な全貌は不明である。連合軍の戦死者もオーストラリア軍8,000名、アメリカ軍4,000名に上った。現地人の犠牲者数は明らかではないが4万人から5万人とも推定されている。このような状況から帰還兵達は﹁ジャワの天国、ビルマの地獄、生きて帰れぬニューギニア﹂と評したという。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ アイタペの戦いの目的が「口減らし」であったとは当時この戦いに参加した第18軍将兵の間でも噂になっていた(尾川正二『野哭―ニューギニア戦記』)。だが5万4,000名の自活が不可能であったかどうかに関しては議論がある。ラバウルでは10万名が自活できた。ラバウルよりはるかに広大なウェワクで自活が全く不可能であったとは考えにくい(森山康平『米軍が記録したニューギニアの戦い』)。
出典[編集]
- ^ “太平洋戦線 傷痕今も 「ビルマは地獄 死んでも帰れぬニューギニア」”. 西日本新聞 (2014年9月23日). 2022年10月19日閲覧。
- ^ 戦史叢書 14 p.54
- ^ Fenner, F., "Malaria control in Papua New Guinea in the Second World War: from disaster to successful prophylaxis and the dawn of DDT", Parassitologia, 1998 Jun, 40(1-2), pp.55-63
- ^ 戦史叢書 14 P.189
- ^ 戦史叢書 7 P.109
- ^ 戦史叢書 40 P.10, P.14
- ^ 戦史叢書 28 P.385
- ^ 戦史叢書 7 P.233
- ^ 戦史叢書 40 P.69, P.94, P.220 戦史叢書 22 P.28
- ^ 戦史叢書 23 P.327
- ^ 戦史叢書 84 P.29
- ^ 戦史叢書 23 P.494
- ^ ニミッツ、ポッター P.255
- ^ 戦史叢書 22 P.502
- ^ 戦史叢書 54 P.433, P.598
- ^ 戦史叢書 7 P.284, P.407, P.473, P.536, P.541, P.678 戦史叢書 22 P.535, P.685
- ^ 戦史叢書 7 P.675 戦史叢書 22 P.682
参考文献[編集]
●防衛庁防衛研修所戦史室︵編︶﹃戦史叢書7東部ニューギニア方面陸軍航空作戦﹄、朝雲新聞社、1967年 ●防衛庁防衛研修所戦史室︵編︶﹃戦史叢書14南太平洋陸軍作戦(1)ポートモレスビー・ガ島初期作戦﹄、朝雲新聞社、1968年 ●防衛庁防衛研修所戦史室︵編︶﹃戦史叢書22西部ニューギニア方面陸軍航空作戦﹄、朝雲新聞社、1969年 ●防衛庁防衛研修所戦史室︵編︶﹃戦史叢書23豪北方面陸軍作戦﹄、朝雲新聞社、1969年 ●防衛庁防衛研修所戦史室︵編︶﹃戦史叢書28南太平洋陸軍作戦(2)ガダルカナル・ブナ作戦﹄、朝雲新聞社、1969年 ●防衛庁防衛研修所戦史室︵編︶﹃戦史叢書40南太平洋陸軍作戦(3)ムンダ・サラモア﹄、朝雲新聞社、1970年 ●防衛庁防衛研修所戦史室︵編︶﹃戦史叢書58南太平洋陸軍作戦(4)フィンシュハーヘン・ツルブ・タロキナ﹄、朝雲新聞社、1972年 ●防衛庁防衛研修所戦史室︵編︶﹃戦史叢書84南太平洋陸軍作戦(5)アイタベ・ブリアカ・ラバウル﹄、朝雲新聞社、1975年 ●防衛庁防衛研修所戦史室︵編︶﹃戦史叢書96南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後﹄、朝雲新聞社、1976年 ●防衛庁防衛研修所戦史室︵編︶﹃戦史叢書54南西方面海軍作戦 第二段作戦以降﹄、朝雲新聞社、1972年 ●吉原矩﹃南十字星―東部ニーギニア戦の追憶﹄、東部ニーギニア会、1955年 ●尾川正二﹃極限のなかの人間―極楽鳥の島﹄国際日本研究所・創文社、1969年 ●﹃﹁死の島﹂ニューギニア―極限のなかの人間﹄、光人社文庫、新装版2004年、ISBN 4769821883 ●尾川正二﹃野哭―ニューギニア戦記﹄、創元社、1972年 ●﹃東部ニューギニア戦線―棄てられた部隊﹄、光人社文庫、2002年、ISBN 4769823584 ●御田重宝﹃人間の記録―東部ニューギニア戦︿進攻篇﹀﹄﹃人間の記録―東部ニューギニア戦︿全滅篇﹀﹄︵文庫︶、講談社、1977年、ISBN 4061842986、ISBN 4061842994 ●鈴木正己﹃東部ニューギニア戦線﹄、戦誌刊行会、1982年 ●﹃ニューギニア軍医戦記―地獄の戦場を生きた一軍医の記録﹄、光人社文庫、2001年、ISBN 4769823010 ●小松茂朗﹃愛の統率 安達二十三―第十八軍司令官ニューギニア戦記﹄、光人社、1989年 ●奥村正二﹃戦場パプアニューギニア―太平洋戦争の側面﹄、中央公論社︿中公文庫﹀、1993年 ●森山康平﹃米軍が記録したニューギニアの戦い﹄、草思社、1995年、ISBN 4794206313 ●小田切重徳﹃白骨街道 死の転進―食べること生きること死ぬこと﹄、文芸社、2002年、ISBN 4835539893 ●深津信義﹃鉄砲を一発も撃たなかったおじいさんのニューギニア戦記﹄、日本経済新聞社、2003年、ISBN 4532164427 ●菅野茂﹃7%の運命 東部ニューギニア戦線・密林からの生還﹄、MBC21、2003年、ISBN 4-8064-0718-6 ●西村誠﹃太平洋戦跡紀行 ニューギニア﹄、光人社、2006年、ISBN 4769813163 ●三根生久大﹃ニューギニア南海支隊﹁モレスビーの灯﹂﹄、光人社、2006年、ISBN 4769812949 ●大畠正彦﹃ニューギニア砲兵隊戦記―東部ニューギニア歓喜嶺の死闘﹄、光人社NF文庫、2015年、 ISBN 476982923X ●C・W・ニミッツ / E・B・ポッター 共著、実松譲 / 冨永謙吾 共訳﹃ニミッツの太平洋海戦史﹄︵英題 THE GREAT SEA WAR︶恒文社、1662年 ●Center of Military History, United States Army, United States Army in World War II, The War in the Pacific - Victory in Papua, 1957, CARTWHEEL: The Reduction of Rabaul, 1959, The Approach to the Philippines, First Printed 1953︵米国公刊戦史︶ ●Center of Military History, United States Army, Reports of General MacArthur - Volume I: The Campaigns of MacArthur in the Pacific, First Printed 1966, Volume II, Part I: Japanese Operations in the Southwest Pacific Area, First Printed 1966︵米国公刊戦史︶ ●Center of Military History, United States Army, New Guinea ︵米国公刊戦史小冊子︶ ●Australia's Official War Histories - Second World War, Volume V - South-West Pacific Area - First Year: Kokoda to Wau (1st edition, 1959), Volume VI - The New Guinea Offensives (1st edition, 1961), Volume VII - The Final Campaigns (1st edition, 1963)︵オーストラリア公刊戦史︶ ●滝口岩夫﹃新版・戦争体験の真実―イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録﹄、第三書館、初版1999年 ISBN 4-807-499181 ●田中宏巳﹃マッカーサーと戦った日本軍---ニューギニア戦の記録﹄ゆまに書房、2009年。ISBN 978-4-8433-3229-0関連項目[編集]
- ソロモン諸島の戦い
- 南の島に雪が降る
- オーストラリアの歴史
- パプアニューギニアの歴史
- 水木しげる (歩兵第229連隊に所属)
- 奥崎謙三 (独立工兵第36連隊に所属)
外部リンク[編集]
- Australia-Japan Research Project(豪日研究プロジェクト)
- ニューギニア戦跡案内
- NHK 戦争証言 アーカイブス 証言記録 兵士たちの戦争
- NHK 戦争証言 アーカイブス 日本ニュース
- 第93号 1942年(昭和17年)3月17日 ニューギニア攻略
- 第98号 1942年(昭和17年)4月21日 ポートモレスビー大爆撃
- 第150号 1943年(昭和18年)4月21日 戦ふ最前線 オロ湾襲撃
- 第153号 1943年(昭和18年)5月11日 ミルン湾爆撃
- 第168号 1943年(昭和18年)8月24日 ニューギニア水稲の初収穫<躍進する大東亜建設>
- 第170号 1943年(昭和18年)9月8日 ニューギニア前線の海軍女子職員<大東亜建設譜>
- 第174号 1943年(昭和18年)10月5日 ニューギニア戦線
- 第194号 1944年(昭和19年)2月16日 南海決戦場 ニューギニア・ソロモンの激戦
- 第197号 1944年(昭和19年)3月7日 ニューギニアの密林と戦う陸軍部隊
- 第203号 1944年(昭和19年)4月20日 ニューギニア戦線
- 第210号 1944年(昭和19年)6月8日 ニューギニア戦線