ニューギニアの戦い

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ニューギニア島
ブナの日本軍を攻撃する連合軍のM3戦車。1943年1月2日
ウェワクを空襲するB-25。1943年8月13日
放棄された綾戸山丸。1942年7月22日、ゴナで揚陸作業中に航空攻撃を受け被弾炎上した

, New Guinea Campaign[1]

[]


19421[2]194238 1945815202

[]


5,00077224,0005,00019西19011942湿12調沿

MO

194238

[]

[]


調194203210DDT[3]

[]


使(Fuzzy Wuzzy Angels)


[]

[]




調240

[]




調調

[]



日本軍[編集]

安達二十三中将
シドニーへ到着し、オーストラリア首相ジョン・カーティンと面会するダグラス・マッカーサー。1942年3月

連合国軍[編集]

主な経過[編集]


194217

123 - 

220 - 

38 - SR

34 - 西西

58 - 

721 - 

824 - 9退

916 - 退

119 - 1817

11 - 

1218 - 西

194318

12 - 

1 - 西2退

323 - 

318 - 

4714 -  

630 - 30Km

81718 - 西100

945 - 西

911 - 

916 - 

910 - 51退

922 - 

1012 - 1820退1219退

1030 - 西222

1215 - 西1226

1225 - 236122736

194419

12 - 西

12 - 182051

229 - 西56西

320 - 

325 - 18482

36 - 湿

33031 - 

33043 - 100

422 - 

517 - 18

527 - 

64 - 2

620 - 182

719 - 

72 - 

7108 - 18退84退

730 - 

85 - 

194520
  • 5月3日 - 竹永事件
  • 5月11日 - 連合軍ウェワクへ上陸。
  • 9月9日 - 日本軍(第2軍)が降伏
  • 9月13日 - 日本軍(第18軍)が降伏

ラバウルをめぐる戦い(東部ニューギニア)[編集]

ニューブリテン島の占領[編集]

1942年1月23日、オーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルに上陸した。守備隊のオーストラリア軍は2月6日までに降伏した。

ニューギニア沖海戦[編集]

アメリカ軍は空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていたが、日本軍のラバウル進攻により、空母レキシントンを基幹とする機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲を計画した。しかし2月20日に日本軍に発見され攻撃を受けたことから、作戦継続を断念して引き返した。

ポートモレスビーをめぐる戦い(東部ニューギニア)[編集]

ニューギニアへの進出[編集]

日本軍の東部ニューギニア、ソロモン方面進攻作戦
珊瑚海海戦で被弾炎上した空母レキシントン
日本軍のポートモレスビー進攻作戦
ブナ・ゴナ地区での戦闘

1942年3月8日、日本軍は連合国軍の拠点ポートモレスビーの攻略を視野に入れて飛行場を確保するため、南海支隊の一部をサラモアに、海軍陸戦隊ラエに上陸させた。どちらも連合軍はすでに撤退していたため、抵抗を受けることなく占領が行われたが、3月10日、空母「ヨークタウン」「レキシントン」を基幹とするアメリカ軍空母機動部隊が日本軍を空襲した。

この攻撃で付近にいた艦船は4隻が沈没、9隻が損傷した。

3月末から4月半ばにかけてオランダ領ニューギニアの攻略が行われこちらは無事終了した。

MO作戦と珊瑚海海戦[編集]


4MO145782MO6

ポートモレスビー作戦[編集]


MO4,000220518171717調718

721158182,000916508退

1032171119

ラビの戦い[編集]

ニューギニア島の東端に位置するミルン湾は海空の基地の好適地であり、6月よりオーストラリア軍が湾沿岸のラビに飛行場建設を開始していた。日本軍は1942年8月4日にラビに連合軍の新飛行場があることを発見した。ラビの飛行場は日本軍にとって重大な脅威になるものと判断され、攻略の必要に迫られた。この頃、陸軍はポートモレスビー陸路攻略作戦を行っていたため戦力に余裕がなく、ラビの攻略は海軍で行うことになった。8月24日、第8艦隊の支援の下に海軍陸戦隊がラビへの上陸作戦を実施した。しかし、連合軍側の防衛体制は日本側の予想よりはるかに強力で、2度の飛行場攻撃はいずれも多くの損害を出して失敗するとともに、足の皮膚病のために歩行困難になる者が続出して攻撃の継続は困難な状況になった。さらに連合軍が積極的な反撃を開始したため日本軍の状況はますます悪化し、9月5日にラビ攻略部隊の撤収が決定され作戦は失敗した。この戦いはニューギニアにおける日本軍の最初の敗北となった。

ブナ・ゴナの戦い[編集]


1942721退[4]1191788186171818

11732退21229

128194312退11711,0007,600200250

126[5]

ラエ・フォン半島をめぐる戦い(東部ニューギニア)[編集]

日本軍の増強とワウの戦い[編集]

東部ニューギニアにおける日本軍の行動
ラエ・サラモア地区での戦闘
連合軍のナザブ平原への降下
フィンシュハーフェンの戦い
ラム河谷及びサイドル付近での戦闘
歓喜嶺での山岳戦
連合軍のフォン半島および西部ニューブリテン島攻略作戦
連合軍のニューブリテン島への上陸

[6]1943120411851退51退

1551102西60Km114128213退[7]

201412051115412517,300323843,60020

665151184196[8]

181203004618020

[9]

カートホイール作戦[編集]


19433286

(一) 1943630

(二)

(三)西

(四) 1943111

[]


51666622630162

76477西4181718100

99495B-17西2050374123851退

51退退911916退4,000211,0007,500

フィンシュハーフェンの戦い[編集]


812080194392292080退102

26792010177932017

201127121920退退

1944121262051退退512928320

ラム河谷の戦い[編集]

その頃オーストラリア軍第7師団は、日本軍が道路を建設していたルートを逆にたどってラム河谷にまで進攻していた。この地区を守備していたのは中井増太郎少将(後に中将)の率いる第20師団歩兵第78連隊であった。1943年10月から1944年1月にかけて、オーストラリア軍はフィニステル山系の歓喜嶺を守る日本軍と戦闘を重ねた。ことにシャギーリッジ(屏風山)では守備する片山中隊が頑強に抵抗し激戦となり、オーストラリア軍も陸空の攻撃を集中させ片山中隊は一兵残らず全滅した。1944年1月31日までにオーストラリア軍は日本軍をフィニステル山系から撤退させ、マダンの日本軍拠点の手前まで迫った。

西部ニューブリテン島の戦い[編集]


19431214西15112西8651712261西西退

アドミラルティ諸島の戦い[編集]


1944229西15123,83031051西

西[]

2[]


194310302219444262192西140°西西2212123612118481944325236[10]35242656257西194456

ホーランジアの戦い[編集]

1944年4月の豪北方面における日本軍の態勢
連合軍の飛び石作戦
連合軍のホーランジアへの上陸
サルミ・ワクデ島地区での戦闘
ビアク島で戦う連合軍
渾作戦

1819443252218湿18湿2018西1944422西350Km西150Km

194331944346退330130421

西24西411633218[11]14,6001869西5001432,20018

[]


19446[12][13] 1943123614,0001944517631112315818163

22480026158退14,0002,000

ビアク島の戦い[編集]


西19431236222

3522235西11,2671,9472223,8154,500

1944527411528299M4退34411

235221126268611

西1627728205204712,443

[]


194472西21911,500[14]158350383112

730西6194513525[15]

その後のニューギニア(終戦まで)[編集]

東部ニューギニア[編集]

アイタペの戦い[編集]

アイタペの戦い
安達軍司令官の降伏

19446181654,000620182

西54,000[ 1]

2041662200西301123212443211

710

84100退13,0003,000

[]


18退19444000194412419455181945911945815

91311,19711鹿194611,148

西[]

[]


22西3512,500

2215,00020015,000194471 3,000126,0007,00013,000

[]




19424

19428

19429西





1943

[16]





[17]

194441020

1816西2028,0004,00045

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ アイタペの戦いの目的が「口減らし」であったとは当時この戦いに参加した第18軍将兵の間でも噂になっていた(尾川正二『野哭―ニューギニア戦記』)。だが5万4,000名の自活が不可能であったかどうかに関しては議論がある。ラバウルでは10万名が自活できた。ラバウルよりはるかに広大なウェワクで自活が全く不可能であったとは考えにくい(森山康平『米軍が記録したニューギニアの戦い』)。

出典[編集]

  1. ^ 太平洋戦線 傷痕今も 「ビルマは地獄 死んでも帰れぬニューギニア」”. 西日本新聞 (2014年9月23日). 2022年10月19日閲覧。
  2. ^ 戦史叢書 14 p.54
  3. ^ Fenner, F., "Malaria control in Papua New Guinea in the Second World War: from disaster to successful prophylaxis and the dawn of DDT", Parassitologia, 1998 Jun, 40(1-2), pp.55-63
  4. ^ 戦史叢書 14 P.189
  5. ^ 戦史叢書 7 P.109
  6. ^ 戦史叢書 40 P.10, P.14
  7. ^ 戦史叢書 28 P.385
  8. ^ 戦史叢書 7 P.233
  9. ^ 戦史叢書 40 P.69, P.94, P.220 戦史叢書 22 P.28
  10. ^ 戦史叢書 23 P.327
  11. ^ 戦史叢書 84 P.29
  12. ^ 戦史叢書 23 P.494
  13. ^ ニミッツ、ポッター P.255
  14. ^ 戦史叢書 22 P.502
  15. ^ 戦史叢書 54 P.433, P.598
  16. ^ 戦史叢書 7 P.284, P.407, P.473, P.536, P.541, P.678 戦史叢書 22 P.535, P.685
  17. ^ 戦史叢書 7 P.675 戦史叢書 22 P.682

[]


71967

14(1)1968

22西1969

231969

28(2)1969

40(3)1970

58(4)1972

84(5)1975

96(3) 1976

54西 1972

1955

1969
2004ISBN 4769821883

1972
2002ISBN 4769823584

︿︿1977ISBN 4061842986ISBN 4061842994

1982
2001ISBN 4769823010

 1989

︿1993

1995ISBN 4794206313

 2002ISBN 4835539893

2003ISBN 4532164427

7% MBC212003ISBN 4-8064-0718-6

西 2006ISBN 4769813163

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CW / EB  /   THE GREAT SEA WAR1662

Center of Military History, United States Army, United States Army in World War II, The War in the Pacific - Victory in Papua, 1957, CARTWHEEL: The Reduction of Rabaul, 1959, The Approach to the Philippines, First Printed 1953

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Center of Military History, United States Army, New Guinea 

Australia's Official War Histories - Second World War, Volume V - South-West Pacific Area - First Year: Kokoda to Wau (1st edition, 1959), Volume VI - The New Guinea Offensives (1st edition, 1961), Volume VII - The Final Campaigns (1st edition, 1963)

1999 ISBN 4-807-499181

---2009ISBN 978-4-8433-3229-0

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外部リンク[編集]