駒井重次
駒井 重次︵こまい じゅうじ[1] / しげつぐ[2]、1895年︵明治28年︶2月23日[3][注 1] - 1973年︵昭和48年︶11月12日[1][2]︶は、日本の大蔵官僚、税理士、公認会計士[2]、政治家。立憲民政党衆議院議員︵4期︶[1]。
経歴[編集]
東京市に駒井重格の三男として生まれる。東京高等師範学校附属中学校︵現筑波大学附属中学校・高等学校︶から第四高等学校を経て、1920年東京帝国大学経済学部商科卒[1]。大蔵省に入り、前橋、亀戸、神田橋各税務署長[2]、銀行検査官などを務め[1][2]、1932年に退官、同年の第18回衆議院議員総選挙で初当選し。以来4回当選した。戦後、公職追放となり、追放解除後の1952年と1953年の総選挙で改進党公認で立候補したがいずれも落選した[4]。その後日本大学講師、愛知大学教授、東京税理士会、日本税理士連合会の各会長を務めた[1]。 内閣総理大臣浜口雄幸は親類にあたる[5]。その他[編集]
●母校の第四高等学校寮歌﹁北の都に﹂を作詞した。 ●第四高等学校時代は柔道部で主力として活躍した︵段位は三段︶。 ●初めて総選挙に立候補した際、自身の演説会に民政党から井上準之助が応援演説に駆けつけたが、血盟団員の小沼正に暗殺される事件があり︵血盟団事件︶、駒井は危険を顧みず小沼に掴み掛かり大外刈りで投げ倒した[6]。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『日本近現代人物履歴事典』247頁では「2月27日」。