鹿子木親員
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鹿子木親員 | |
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鹿子木親員肖像 個人蔵(熊本市立熊本博物館寄託) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天文18年3月3日(1549年3月31日) |
別名 | 寂心(法名) |
主君 | 菊池義武→大友義鑑 |
氏族 | 鹿子木氏 |
子 | 親俊、鎮有 |
鹿子木 親員︵かのこぎ ちかかず︶は、戦国時代の武将。菊池氏、大友氏の家臣。寂心︵じゃくしん︶の法号で知られ、肥後国隈本城︵後の熊本城︶の築城者とされる[1][2]。
略歴[編集]
鹿子木荘の地頭を務めた中原氏の子孫とされる[2]。守護・菊池氏に従い、飽田郡・託麻郡に勢力を伸ばす[1]。永正13年︵1516年︶に阿蘇山と英彦山の衆徒同士の紛争の仲介役にあたる[2]。大友氏から入嗣した菊池義武の時代に家老の地位にあったが[2][1]、義武が実兄・大友義鑑と対立した天文5年︵1536年︶頃に離反して大友氏と共に義武やこれを支援する相良氏と争った[2][1]。 文人として知られ、自詠の和歌が4首伝わっている他[2]、三条西実隆から﹃源氏物語﹄を購入したことが知られている。また、藤崎八旛宮や大慈寺の修造などの寺社興行でも知られ[2]、藤崎八幡宮に残されている後奈良天皇の勅額は天文11年︵1542年︶に親員が要請したものと伝えられている[2][1]。 嫡男・親俊が家督を継いだが、父に先立って没している[1]。そのため、親員の没後にその弟の鎮有が後を継いだ[2]。鎮有は旧主・菊池義武に帰参するが、義武が義鑑の子・大友宗麟に滅ぼされると所領を奪われて没落[2]、隈本城も城親冬に奪われることになった。脚注[編集]
出典[編集]
- 阿蘇品保夫「鹿子木寂心」(『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8)
- 阿蘇品保夫「鹿子木寂心」(『熊本県大百科事典』(熊本日日新聞、1982年))