黒色火薬
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黒色火薬︵こくしょくかやく 英: black powder︶は、可燃物としての木炭と硫黄、酸化剤としての硝酸カリウム︵硝石︶の混合物からなる火薬の一種である[1][2]。この3成分の配合比率は品種によって異なり、硫黄を含まない2成分黒色火薬もある。反応時にはかなり大量の火薬滓と白煙を発生させる。
歴史[編集]
●火薬の中では最も古い歴史を持っており、中国で7世紀前半に発明されたといわれている。四大発明︵紙、印刷術、火薬、羅針盤︶の一つである。いずれもルネサンス期ごろまでにヨーロッパに伝えられ、実用化された[3]。黒色火薬は不老不死の神仙になるための丹薬製造(錬丹術)の過程で偶然発見された。唐代の医者孫思邈には、﹁千金要方﹂﹁千金翼方﹂という医学書のほかに﹁丹経﹂という丹薬に関する著書がある。このなかの﹁伏火硫黄法﹂は黒色火薬と同じ原料が使われており手順を誤ると爆発してしまう。これが火薬の発明につながったと推定される。中国で発明された火薬はイスラム圏を通じてヨーロッパに伝わりヨーロッパ社会を大きく変えてゆく[4][5]。 ●中国で黒色火薬が発明されたのは、中国で黒色火薬の成分の一つである硝酸カリウムが産出されるためであり、天然硝酸カリウムは世界中でも限られた地域にしか存在しない[6]。 ●1045年には軍用としての黒色火薬類似の配合組成の記述が中国の北宋政府編集の﹁武経総要﹂に現れている。この書には、火毬用火薬、蒺藜火毬用火薬および毒薬煙毬用火薬などの配合組成が記されている。これらは発射薬としてではなくて炸薬として用いられた[5]。 ●1242年には﹁驚異博士﹂とよばれたイギリスの僧侶であり哲学者、科学者のロジャー・ベーコンによって黒色火薬の組成が記録(Desecretis及びOpus Tertium)された。この黒色火薬の組成は現在まで続いている[7]。 ●14世紀中期には鉄砲の装薬として使用されるようになる。 ●1543年(天文12年)に種子島に1隻の中国船が漂着し、乗り合わせていたポルトガル人が鉄砲をもっていた。島主の種子島時堯は大金を積んで2挺の鉄砲を譲り受けた。時堯自身その使用法を学び、さらに小姓篠川小四郎に命じて火薬の製法を学ばせ、八板金兵衛清定(清貞とも)に鉄砲を研究させた。篠川小四郎は、ポルトガル人より﹁搗篩・和合の法﹂とよばれる黒色火薬の製造法と、その原料が硝石、硫黄および木炭であることを習った。彼はその努力によって、ポルトガル人がもたらした火薬よりさらに強力な発射薬としての黒色火薬をつくることに成功した[5]。 ●1627年にはスロヴァキアのバンスカー・シュチャヴニツァ鉱山で初めての発破が行われた。 ●反応は燃焼よりも爆轟であるため、性状は火薬というより爆薬に近く、燃焼ガスの圧力で弾を圧し出す火器の装薬には余り向いていない。このため改良品として、燃焼反応速度を緩和させた褐色火薬が発明されている。 ●19世紀末には無煙火薬の発明により軍事用途ではあまり使用されなくなっている。 ●日本では20世紀中盤以降は専ら花火の装薬や、消防士や消防団員が用いる信号拳銃︵索投銃︶、あるいは火縄銃の実演射撃に用いられる程度となっており、銃器用途での使用は極度に減少している。朝日新聞︵1988年3月15日付朝刊︶が日本の警察の捜査資料を通じて報じたところでは、赤報隊事件が発生した1980年代末の時点で全国の猟銃所持者約20万人のうち、火縄銃や村田銃を用いているとみられる猟用黒色火薬購入者は、全国でも約300人︵0.15%程度︶にまで減少していた。種類[編集]
標準的な比率(化学量論的組成比)は質量比で硝酸カリウム‥硫黄‥木炭=75‥10‥15。種類 | 硝酸カリウム(%) | 硫黄(%) | 木炭(%) | 粒の直径・性状 | 用途 |
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黒色粉火薬 | 58 - 70 | 16 - 26 | 10 - 20 | 0.1mm以下、微粉末状 | 導火線 |
黒色鉱山火薬 | 65 - 70 | 10 - 20 | 10 - 20 | 3 - 7mmの球状、黒鉛光沢 | 砕石 |
狩猟用黒色火薬 | 73 - 79 | 8 - 12 | 10 - 17 | 0.4 - 1.2mm以下、黒鉛光沢 | 狩猟 |
黒色小粒火薬 | 73 - 79 | 8 - 12 | 10 - 17 | 0.4 - 1.2mm以下、黒鉛光沢なし | 煙火 |
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