和人地 (わじんち)
松前地,日本人地,シャモ地︵人間地とも表記︶ともいう。松前藩が蝦夷島統治策の一つとして,和人の定住地,村の所在地と規定した蝦夷島南部の一定地域のこと。和人地以北の地を︿蝦夷地﹀︵千島・樺太島の一部を含む︶と称し,アイヌ民族の居住地とした。こうした地域区分体制は,直接的には松前氏のアイヌ交易独占を実現する方策として成立したものであったが,同時に,幕府︵長崎︶-オランダ・中国,島津氏︵薩摩藩︶-琉球,宗氏︵対馬藩︶-朝鮮,松前氏︵松前藩︶-蝦夷地︵アイヌ民族︶という鎖国体制下の︿四つの口﹀を介した異域・異国との外交・通交関係を軸とした日本型華夷秩序の一環として位置づけられていたところに大きな特徴がある。したがって近世にあっては,和人地までが幕藩制国家の領域,蝦夷地は異域・化外の地という性格を与えられていたことになるが,松前氏には石高がなかったことから,和人地内の村には村高がなかった。
和人地の原型は,1551年︵天文20︶,西は上ノ国の天の川,東は知内川を境として創出された初期和人地にさかのぼることができる。近世の和人地は,上から制度的に設定され,かつ鎖国体制下の日本型華夷秩序の一環として組み込まれていた点で,初期和人地とはその性格を著しく異にしていた。和人地の範囲は,近世前期には原則として西は熊石村,東は亀田村までの地となっていたが,事実上の東端は汐首岬近くの石崎村︵現,函館市石崎町︶であった。その後,前幕領期の1800年︵寛政12︶オヤス︵現,函館市字小安町︶からノダオイ︵現,渡島支庁八雲町野田生︶に至る箱館六ヵ場所が︿村並﹀︵行政上︿村﹀と同等の扱いを受けること︶になるに及んで,東の境は事実上ヤムクシナイ︵現,八雲町山越︶まで拡大された。蝦夷地との境には,西は熊石番所,東は亀田番所︵1800年以降は山越内番所︶を置き,出入アイヌ,和人の取締りを行った。また和人地は,城下町松前︵福山︶を中心に西部を西在,東部を東在と称したが,行政区域上は,城下町松前を中心にした原口村-知内村間,江差を中心にした熊石村-石崎村︵または小砂子村︶間,箱館を中心にした木古内村-石崎村︵または小安-野田追間の地を含む地域︶間の3地域に区分し,各々寺社・町奉行をはじめ檜山︵江差︶奉行,亀田︵箱館︶奉行が支配した。
ところで1821年︵文政4︶の松前氏の復領以降,蝦夷地,とりわけ西蝦夷地の各場所に定住する直接生産漁民がしだいに増加し,とくに55年︵安政2︶の後期幕領以降,幕府がこれら直接生産漁民や商工業者の蝦夷地への定住を積極的に奨励したのに加え,61年︵文久元︶の山越内番所での旅人改めの廃止,64年︵元治元︶のヤムクシナイ・オシャマンベの︿村並﹀化や翌年の西蝦夷地ヲタルナイの︿村並﹀化といった状況のなかで,︿和人地﹀と︿蝦夷地﹀という近世初頭以来の地域区分体制は著しく動揺するに至ったが,近世的な地域区分体制それ自体は幕末に至るまで否定されることはなかった。かかる体制が名実ともに否定されるのは69年︵明治2︶以降のことである。
執筆者‥榎森 進
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和人地【わじんち】
列島・樺太島の一部を含む︶に対して,和人の定住する地域と定めた蝦夷島南西部の一定地域のこと。松前地,日本人地,シャモ地︵人間地とも書く︶ともいう。原型はコシャマインの戦で戦功をあげた武田︵蠣崎︶氏︵松前氏の祖︶が,1551年に道南支配の拠点として設定した初期和人地までさかのぼることができる。近世の和人地は,松前氏のアイヌ交易を独占する方策として制度的に設定されたが,鎖国体制下の異域との外交・通商関係を軸とした日本型華夷秩序の一環に組み込まれていた。範囲は近世前期には西は熊石村,東は汐首岬近くの石崎村︵現函館市石崎町︶。その後,前幕領期の1800年以降,東境はヤムクシナイ︵現八雲町山越︶まで拡大された。和人地は城下町松前︵福山︶を中心に3地域に区分され,それぞれ寺社・町奉行をはじめ檜山︵江差︶奉行,亀田︵箱館︶奉行によって支配された。蝦夷地との境には番所が置かれた。1821年の松前氏復領以降,西蝦夷地に定住する直接生産漁民がしだいに増加し,1855年の後幕領期以降は幕府が蝦夷地への定住を積極的に奨励した。そのため和人地・蝦夷地という近世初頭以来の地域区分体制に動揺をきたし,1869年和人地・蝦夷地を合わせて北海道と改称された。
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和人地
わじんち
シャモ地、人間地ともいわれ、近世北海道で松前(まつまえ)藩域として道南の渡島(おしま)半島部に設定された領域。時代により推移があるが、17世紀には、松前城下より北方の熊石(くまいし)︵八雲町︶、東方の亀田(かめだ)︵函館(はこだて)市内︶が境界で、熊石までを西在(にしざい)、亀田までを東在(ひがしざい)とよんでいた。以遠は蝦夷(えぞ)地とよんで区別し、境界の番所で出入りを規制していた。時期によりアイヌ集落も存在していたが、和人地は日本人の居住地で、松前領民の永住の村落が形成されていた。一方、蝦夷地での日本人の永住は禁止されていた。藩はアイヌ交易を経済基盤の中心としており、交易を独占的に管理するために和人地、蝦夷地は厳格に区分された。松前、江差(えさし)、箱館(はこだて)の沖之口(おきのくち)役所、あるいはこの境界の番所で出入りは厳重に点検された。アイヌの和人地への出入りはとくに強く規制されて、交易に渡来することは厳禁されていた。和人地内の生業は鰊(にしん)漁、昆布(こんぶ)漁などであったが、18世紀末の鰊不漁期以後、西蝦夷地︵日本海側︶への出漁が盛んになり、蝦夷地での日本人定住のきっかけとなった。しかし和人地、蝦夷地の区分は幕藩制の最後まで明確に保持された。なお19世紀末の東在の範囲は、山越内(やまこしない)︵八雲(やくも)町内︶まで拡大された。
﹇田端 宏﹈
﹃榎森進著﹃和人地におけるアイヌの存在形態と支配のあり方について﹄︵﹃蝦夷地・北海道――歴史と生活﹄所収・1981・雄山閣出版︶﹄
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和人地
わじんち
松前地・シャモ地とも。近世の北海道島における地域区分のうち,蝦夷地と区別された渡島(おしま)半島南端の和人の居住地。松前藩の本領にあたる。西は熊石,東は亀田に番所をおき,蝦夷地への人々の往来をきびしく取り締まった。蝦夷地の幕府直轄にともない村並の和人地が拡大し,1800年(寛政12)には東が野田追(のだおい)まで,64年(元治元)には東が長万部(おしゃまんべ)までとなり,さらに65年(慶応元)には西蝦夷地の小樽内が含まれた。69年(明治2)北海道成立により消滅。
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世界大百科事典(旧版)内の和人地の言及
【蝦夷地】より
…さらに鎌倉期以降は,蝦夷=エゾ=アイヌという概念がほぼ定着するとともに,対象地域も主として北海道以北の地を指すようになった。 こうして近世には,蝦夷=エゾ=アイヌ,蝦夷地=北海道および南千島(のち樺太も含む)という概念が定着したが,狭義には,北海道南部の和人地(松前地,シャモ地ともいう)以北の地を指す。これは,[松前藩]が領内統治策の一つとして,蝦夷地と和人地を厳密に区分し,その境に番所(西は熊石番所,東は亀田番所,のち山越内番所)を置いて,アイヌおよび和人の往来を取り締まり,和人の蝦夷地への定住,アイヌと和人百姓との直交易などを厳禁し,原則としてアイヌの居住地は蝦夷地,和人の定住地は和人地としたことによる。…
【蝦夷地交易】より
…その後諸豪族を統一した蠣崎︵かきざき︶氏(のち松前氏と改姓)は安東氏の代官となって事実上蝦夷地交易を独占し,蝦夷地へ出入りする商船に課税し,その一部を安東氏に上納したが,1593年(文禄2)豊臣秀吉,1604年(慶長9)徳川家康よりそれぞれ蝦夷地交易の独占権を公認されてここに[松前藩]が成立した。 松前藩は,この独占的交易を実現するため,領域を蝦夷地(アイヌ居住地)と和人地(松前地・シャモ地ともいう,和人の居住地。和人とは,内地出身者をさす北海道史の用語)に区分し,和人地以北の蝦夷地を封建支配者層の独占的交易の場としたうえで,各地に交易場としての商場︵あきないば︶を設置し,その多くを上級家臣に知行としてあてがい,松前三湊(松前,江差,箱館)に沖口番所を設置して出入り商船,荷物,人物などを取り締まった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」