弥生文化(読み)ヤヨイブンカ

デジタル大辞泉 「弥生文化」の意味・読み・例文・類語

やよい‐ぶんか〔やよひブンクワ〕【弥生文化】

 
使  

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精選版 日本国語大辞典 「弥生文化」の意味・読み・例文・類語

やよい‐ぶんかやよひブンクヮ【彌生文化】

 

(一)   使
 

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改訂新版 世界大百科事典 「弥生文化」の意味・わかりやすい解説

弥生文化 (やよいぶんか)


43

19︿1975

 1930195083

 ︿33

 ︿︿


西

沿163.23cm西160.24cm161.45cm

湿50m×30m125m湿

 使使使沿

100200m×70100m400m×300m12西

 23︿︿

西

 使使

11沿沿2g2g沿200300m︿︿

specialistpart-time specialistfull-time specialist




西︿︿︿

 10m西西

1西︿572230︿︿︿︿2030200300︿︿

 ︿︿

︿︿800西
 


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日本大百科全書(ニッポニカ) 「弥生文化」の意味・わかりやすい解説

弥生文化
やよいぶんか

総説

定義

日本本土で、食料生産に基づく生活が始まった最初の文化。およそ、紀元前4、5世紀から紀元後3世紀に及ぶ600~700年間を占める。具体的には、稲作農耕が基盤となった最初の文化であって、先行する縄紋(縄文)文化が、多少の栽培を伴ったにせよ、あくまで食料採集を基盤としていたことと大きく異なる。一方、後続する古墳文化以降の日本文化とは、稲作農耕に基づく点では共通する。

 弥生文化の時代を弥生時代、この文化の担い手を弥生人、この文化の土器を弥生土器とよぶ。ただし、本来は、弥生土器を使った文化、時代を弥生文化、時代とよんできたのであって、現在なお、この旧案を尊重する人もいる。

[佐原 真]

新来的要素・伝統的要素

使()

 

 

 

弥生文化の領域


 ()

 西10

 

弥生時代の時期区分

土器様式と時期

()()()()

 ()

 ()()

 
鉄器時代

()()()()()()()

 

弥生人


 

 
渡来系

()沿()沿

 
縄紋系

しかし、北西九州、南九州、四国の一部、東日本の大部分においては、蒙古人種としては古い形質を備え、顔の彫り深くやや背の低い縄紋人たちが、新文化を摂取して弥生人に衣替えした。ところが、南関東では、その縄紋系の弥生人、縄紋人とは異なった形質が認められており、生活環境や労働の変化が身体の形質に変化を与えた結果と理解されている。

[佐原 真]

稲作の伝播

朝鮮半島から

()()1()

 ()湿

 
東北地方も前期に稲作

日本本土における稲作については、従来の見解が一新された。Ⅰ期の土器(遠賀川式土器)をつくり使った村の分布は、太平洋岸では名古屋、日本海岸では京都府の丹後(たんご)半島までと、最近まで認められてきた。それ以東では、運ばれた土器として、地元の土器に伴って少数みられるにすぎなかった。こうして、本格的な稲作文化がまず栄えたのは西日本であって、東日本ではさらに数十年あるいは100年以上も後れて稲作が始まったともいわれていた。そして、食料採集で十分暮らせたとか、縄紋文化の抵抗があったとか、あるいは寒冷地でイネが栽培できるよう品種改良を加えるための期間を要したとか、説明されてきた。

 ところが近年、日本海沿岸の岩手、秋田、青森県、および青森県の太平洋岸で、西日本のⅠ期の土器と細部の点まで一致する「遠賀川系土器」が豊富にみいだされるようになり、そして青森県砂沢(すなざわ)でこの時期の水田跡が発掘された。こうして現在では、東北地方に至るまで、前期に稲作が開始されたことが確認されたのである。

[佐原 真]

弥生土器

名称・特徴

18841711890197550

 使600800

 ()()()()

 
器種

()()()()()()西使()()

 ()西

 

弥生時代の生活

集落と農耕

()()便20()11320()125

 ()()()()()()

 
食・衣

()沿

 ()()3012()

 
祭祀と葬制

()()()()()3()()()

 ()()()()()

 

世界史・日本史のなかの弥生文化

「古代化」と近代化

世界を見渡すと、日本は農耕を基盤とする生活を甚だ遅れて実現したし、青銅、鉄など金属器の使用・製作の開始も非常に遅れた。しかし、ひとたび農耕社会が形成されると、たかだか700~800年にして、世界的な規模の古墳の出現が示すように強力な王権が台頭している。その速度は非常に速い。この「古代化」の速さは、世界的にも注目されている近代化の速度と並んで注目されてよい。「古代化」がいち早く実現したのは、偉大な中国、朝鮮半島が近くに存在して手本とも脅威ともなったからでもあろう。しかし、また稲作のもたらした蓄えの前提なしにはそれは考えられない。弥生時代の稲の生産高を低く見積もる諸説はこの点からみると疑わざるをえなくなる。

 中国、朝鮮半島北部、インド、西アジア、ヨーロッパなど世界の各地では、本格的な農耕開始にあたって、穀物の栽培と、食用(肉用あるいは乳用)家畜の飼育とが相並んで行われた。しかし、日本では、稲作を主とする農耕が、食用家畜を抜きにして始まり、唯一到来したニワトリも、神聖視されたためか、一般に食の対象とされずに近世に及んだ。5、6世紀に到来したウマ、ウシも騎乗、運搬、耕作用である。したがって、弥生文化に食用家畜が欠落したことは、その後の日本文化に大きく影響した。たとえば、多数の家畜を維持・管理するために不可欠の去勢の技術は、1725年(享保10)に至るまで到来しなかった。これは、去勢男子を宦官(かんがん)とする制が朝鮮半島(新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり))にまで伝わりながら日本に到来しなかったことともかかわりをもつだろう。4~5世紀の渡来人たちは、家畜をいけにえにして「漢神」を祀(まつ)っている。しかし、食用家畜をもつ社会に共通するこの風習は日本に根づかなかった。天皇の即位式、初の収穫祭(大嘗祭(だいじょうさい))にいけにえは採用されず、儒教の儀式(釈奠(せきてん))でもこれは省略されるようになった。また食用家畜を飼う社会で広く行われる血(家畜か人間の)を用いての誓いも到来しなかった。食文化についてみれば、弥生時代に食用家畜を飼い始めなかったことがおもな原因となり、加えて仏教が肉食を禁じたことによって、そう頻繁には肉を食べない習慣が根づくことになった。そして、内臓や血を口にしない、という世界的には珍しい食習慣も形成された。

[佐原 真]

闘争の世へ

世界史のうえで農耕社会の成立は、防御的集団の出現、確実な武器の登場、武器を添えた戦士の墓の出現、武器の崇敬の始まりを促している。日本においても、弥生文化はこれらの特徴のすべてを備えており、弥生時代こそ日本史のうえで、武器、戦争が始まった時代としてとらえられる。最近まで、弥生文化といえば、とかく牧歌的な平和な農村生活を想像することが多かった。しかし、日本の文明への第一歩だった弥生時代は、同時に闘争と殺戮(さつりく)の世への歩を進めた時代でもあったのである。

[佐原 真]

『金関恕・佐原真編『弥生文化の研究』全10巻(1985~ ・雄山閣)』『樋口隆康編『図説日本文化の歴史1 先史・原始』(1979・小学館)』『佐原真著『大系日本の歴史1 日本人の誕生』(1987・小学館)』


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旺文社日本史事典 三訂版 「弥生文化」の解説

弥生文化
やよいぶんか

 
使
3233使湿  

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世界大百科事典(旧版)内の弥生文化の言及

【古代社会】より

…その過渡期の現象として縄文土器を使用した人々が同時に水田耕作を行うようになった場合があり,それらの遺跡も近年各地でみつかるようになった。
【弥生文化の社会】
 この水田耕作を中心にする弥生時代への移行は,北九州にはじまり,やがて関東地方へ波及するが,それには200年ほどの時間の経過を必要としたらしい。この転換は日本の原始社会に,きわめて大きな変革をもたらした。…

【弥生土器】より

…弥生文化に用いられた軟質,赤焼きの土器。縄文土器に後続し,古墳時代の土師器(はじき)に先行する。…

※「弥生文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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