恭愍王(読み)きょうびんおう(英語表記)Kong-min-wang

改訂新版 世界大百科事典 「恭愍王」の意味・わかりやすい解説

恭愍王 (きょうびんおう)
Kong-min-wang
生没年:1330-74


311352-741356使65

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「恭愍王」の意味・わかりやすい解説

恭愍王
きょうびんおう
Kongmin-wang

 
[]17(1330)
[]23(1374)
31 ( 135274)  () 使  ( ) 退 () 24  

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「恭愍王」の意味・わかりやすい解説

恭愍王
きょうびんおう
(1330―1374)


()31135274()2()()()()


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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「恭愍王」の解説

恭愍王 きょうびんおう

1330-1374 高麗(こうらい)(朝鮮)の国王。
忠粛王17年生まれ。忠粛王の次男。高麗王朝第31代。在位1351-74。貞治(じょうじ)5=正平(しょうへい)21年(1366)日本に使者をおくって倭寇(わこう)の禁圧を要求。翌年将軍足利義詮(よしあきら)は使いを派遣,とだえていた国交を再開。王は反元(げん)政策をとり,内政改革をすすめたが,恭愍王23年9月22日暗殺された。45歳。

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367日誕生日大事典 「恭愍王」の解説

恭愍王 (きょうびんおう)

生年月日:1330年2月5日
朝鮮,高麗朝の第31代王(在位1352〜74)
1374年没

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世界大百科事典(旧版)内の恭愍王の言及

【高麗】より

…元の支配下の中国では14世紀中期から反元運動が起こり,元の威信はゆらぎ出した。それを見て恭愍(きようびん)王は新興官僚の支持の下に,1356年,反元運動を起こし,親元派の追放,元の年号の使用停止,双城総管府の奪回,農荘の没収などを断行した。しかし親元派はじめ保守派の反対により中途で挫折した。…

※「恭愍王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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