デジタル大辞泉
「民会」の意味・読み・例文・類語
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みん‐かい‥クヮイ【民会】
(一)〘 名詞 〙
(二)① 古代ギリシア、ローマなどの都市国家の市民団の議決機関。その呼称や具体的な権限・機能は一定しない。
(一)[初出の実例]﹁ディオクレス︵Diocles︶はシラキュースの立法者であるが、当時民会では屡々闘争殺傷等の事があったので﹂(出典‥法窓夜話︵1916︶︿穂積陳重﹀五)
(三)② 明治時代、皇室・上院︵貴族院︶・下院の三局構成のうちの下院をいう語。また、明治初年の府県会・大小区会・町村会など、地方官の民情諮問機関として開設された地方民会の俗称。
(一)[初出の実例]﹁民会なきが故に上下の情通せずして﹂(出典‥明治月刊︵1868︶︿大阪府編﹀一)
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民会 (みんかい)
ギリシア
古代ギリシアの市民総会である民会は,時代によりポリスにより,その呼称は異なっていた。その原型はホメロスにみられるアゴラagoraで,部族連合王国の成員たる自由人総会も,全ギリシア連合軍の戦士総会もこの名で呼ばれている。アゴラは︿集まる﹀という意味の動詞に由来する語で,民会の行われる場所もこの名で呼ばれた。ポリス成立後の市民総会はホメロスのアゴラの性格を継承し,アテナイではエクレシアekklēsia,スパルタではアペラapella,その他のドリス人ポリスではハリアhaliaまたはハリアイアhaliaia,デルフォイやテッサリアではアゴラと呼ばれた。王政・貴族政の時代には王や貴族の権力が強く,全市民の総会が定期的に開かれたかどうかは明らかでなく,開かれた場合も王や貴族の提案を聞くためであったようにみえる。アテナイではソロンの国制において初めて全市民参加の民会が明確に規定され,スパルタではリュクルゴスの国制において初めて国制上の位置が明らかにされた。アテナイの民会会場は,はじめアクロポリスの北のアゴラであったが,後にはプニュクスの丘となり,最後にはディオニュソス劇場になった。神殿,アゴラ,役所などとともにポリスの公共施設の一つであった劇場が民会会場となった例は,ミレトス,ロドス,シラクサなどにもみられる。スパルタでは別段の施設もないバビュカ︵橋と推定される︶とクナキオン︵スパルタの上流でエウロタス川に合流する川と推定される︶の間で民会が開かれたとの伝承があり,後にはアゴラに近い所に建てられたスキアスskias︵︿天蓋﹀の意︶と呼ばれる建造物で開かれた。民会用の特別の建築物︵民会議事堂︶はまれで,小アジアのトラレス,黒海北岸のオルビアで知られているだけである。
民主政ポリスの民会の権限は,高官や将軍︵ストラテゴス︶の選出,和戦など外交関係の決定,それに基づく国内における対処の決議,新たな立法,一部の司法的機能,外国人への市民権付与の決定など広範な国務にまたがり,ポリスの最高の意思決定機関であった。スパルタの民会は王と長老の提案を受け入れるだけの機関で,王と長老は自分たちの提案が受け入れられないときは民会を退去して解散する権限を有した。民会は定期的に行われるのが普通で,アテナイ民主政にあっては,1年を部族数と同じ10期のプリュタネイアに分け,各部族選出の評議会員50人が1期の政務を担当し,この間に4回の民会を開くことになっていた。スパルタやデルフォイでは月1回であった。直接民主政のもとでは全市民が民会出席の権利をもっていたが,アテナイのような支配領域の広いポリスでは,田園の農民などには欠席者も多かった。しかし民会決議には一定数の出席者を必要とし,個人に関する議決には6000人以上の出席が必要であった。民会には評議会︵ブーレーboulē︶で予審した議題に限って上程されるのが原則であった。出席した市民には平等の発言権が認められ,議決は多数決により,採決は挙手によるのが普通であったが,投票石︵プセフォスpsēphos︶による秘密投票も行われた。スパルタの民会では賛否の叫び声で採決された。
執筆者‥太田 秀通
ローマ
ローマの民会,コミティアcomitiaは全市民の決議集会であるが,貴族を除く平民会,コンキリアconciliaも後に民会の意義を担った。構成は市民団の下部区分に即応し,古来の3部族が含む30クリアでクリア民会,王政期末以来の193ケントゥリアでケントゥリア民会を構成し,トリブス民会︵トリブス︶,平民会は35地区に基づく。市民の個人票も基礎集団ごとに集約し,3民会別々の全体票︵30票,193票,35票︶で多数決に付した。クリア民会は早く意義を失い,公職者のインペリウム,市民の遺言などを承認するにすぎず,ケントゥリア民会がコンスル,プラエトル選挙,立法,宣戦,講和,市民の死刑などを扱い,最も重きをなした。トリブス民会は下級公職者,平民会は護民官を選挙するが,後に前者の立法が増え,前287年から後者の決議も法的効力を得,前2世紀に両者の立法は同一視され,ケントゥリア民会の立法は絶えた。
民会の召集,主宰は公職者の権限で,ケントゥリア民会はコンスル,トリブス民会はプラエトル,平民会は護民官が召集し,案件提示後,直ちに採決する。投票結果は公職者の公表を経て発効するので,主宰公職者は不本意な票決を公表せず,再投票を命じた。主権者のローマ市民は開催請求権,討議権を欠き,公職者の示す法案や公職候補に賛否を表明したにとどまる。また市民は平等に1票をもつが,ケントゥリア民会では富裕市民部分に有利に集計され,トリブス民会では地区市民数の多寡が票の格差を生んだ。これらの問題を前3世紀末の民会改組,前2世紀末の記入投票制はほとんど解決せず,前1世紀には買収と暴力がしばしば民会を支配した。とくに属州,イタリア統治については指導的公職者の無定見とローマ市民の無関心とが相まち,民会はつねに無能であり,ときに反動的であった。帝政期にアウグストゥスは民会選挙,立法を励行し,ことに彼の特別権限は護民官職権によって民会に提案し,つねに立法を経て取得した。しかし後継の元首は元老院で法案を読み上げ,賛否を問う方法を多く用い,96年を最後に民会立法は絶えた。公職者選挙は元首推薦の候補を含め定員と同数の候補を元老院で準備し,民会で選挙したが,やがて元老院選挙に化した。元首が市民に直接呼びかける無定形な集会は後まで残ったらしい。なお属州にコンキリア︵代表者会議︶があった。帝政初期以降,属州の都市や部族の代表が中心市で元首をまつり,属州の問題を議したもので,ときには総督の失政を元首に訴えた。
執筆者‥鈴木 一州
ゲルマン社会
ゲルマン人のもとでは,ディングDing︵ドイツ語︶,シングthing︵古北欧語︶などと呼ばれる自由人の集会があった。古典古代すなわちギリシア・ローマの民会が国政上の一機構であり,評議会,元老院による貴族の発議権に対する平民の同意権︵ないしは拒否権︶が行使される場であるのと異なり,ゲルマン人の︿民会﹀は経済的・政治的にそれぞれ自立した自由人の集合・集会であり,タキトゥスも︽ゲルマニア︾11~12章にいうように,立法・司法機能をもつが執行機能をもたない。集会参加は,すべての武装自弁・自力救済の能力をもつ者の権利であったが,軍事的必要の増大と王権の成長につれて義務ともなる。奴隷,婦人,未成年者はもともと自力救済能力をもたず参加資格がないが,社会変動は武装農民の兵農分離をもたらし,農民は実質的に参加能力を失う。また征服と統合によって集会がカバーする地域が拡大すると,一般農民にとって︵たとえ武装力をもっていても︶交通・滞在の費用の点で集会参加は困難になる。こうして立法と王選出機能をもつ集会は貴族会議もしくは代表制会議となり,集会不参加農民は従属的地位に陥る。しかし地理的規模が適正にとどまり,散居制のために荘園制が成立せず,兵農分離が進展しなかった所では,武装農民が集会によって立法自治能力を保持しつづけた︵アイスランド,フリースランド,ディートマルシェン,チロルなど︶。なお,スカンジナビアにおける民会︵集会︶のあり方については,︿スカンジナビア﹀の項の﹇歴史﹈を参照されたい。
執筆者‥熊野 聰
民会 (みんかい)
1878年の三新法によって地方議会が正式に開設される以前に,地方官の手で各地につくられた府県会・大小区会・町村会の総称。1872年(明治5)ころ愛知県,宇都宮県などで事務打合せのため区戸長会を開設したのがはじまりで,73年には千葉県,兵庫県で公選を加味した民会が開設された。兵庫県令神田孝平の制定した啓蒙的民会規則は《日新真事誌》に全文掲載され全国に影響を与えた。官僚的統治に反対した豪農層の政治参加要求がうまれるにつれて,民心慰撫と上意下達機能の補てんのために地方官が独自に民会を開設する動きがひろまっていった。75年には公選民会開設7県,区戸長会開設1府22県を数えた。政府は各府県任意の民会開設がもたらす弊害を恐れて綱紀を制定し準拠させようとし,第1回地方官会議に地方民会を議題とした。その結果多数決で区戸長会を民会とすることとなったが,既設の公選民会は存続し,またその後も民権運動の発展とともに各地で民会開設要求が強まり,民会を開く地域が増え,府県議会制度の形成を必然化した。町村会設置は少数にすぎなかったが,地方官の町村寄合否認や,町村公共事業への戸長の関与活動に対し,住民の反感が高まったのに対応するため,76年政府は,町村の金穀公借,共有物取扱い,土木起工に住民を参代させる総代制度をつくった。そしてそれを契機に町村会の開設や総代制度の町村会化が一般化し,町村会の制度化へつながっていった。
執筆者:大島 美津子
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民会
みんかい
市民など共同体の構成員が参加する総会。ここでは古典古代社会とヨーロッパの古ゲルマン社会のものについて述べる。
[馬場恵二]
古代ギリシアでは、民会の原型とみなすべき﹁民の集会︵アゴラagora︶﹂はホメロスの英雄叙事詩にすでにみられるが、国王は集会の招集の事実をもって民衆の歓心を買うと同時に民意の動向を確かめる場としていた。紀元前700年ごろのヘシオドスの詩には民会への言及はまったくみられないが、貴族政国家成立の当初から、政権担当者である貴族身分の枠組みを超えた形で民会が国政上の位置を占めていて、同時に軍会の性格をもっていたなどの点は疑えない。民会の名称はアテネではエクレシアekklesia︵招集された会︶またはデーモスdemos︵市民総会︶といったが、ドーリス系諸国ではアペラapella、ハリアhaliaまたはハリアイアhaliaiaといった。スパルタの民会が国家主権の最高機関となったのはリクルゴスの立法によるが、その民会には動議提出権はなく、2名の王をメンバーに含む長老会が提出した議案に対して賛否の意思表示を行い、否決された議案は廃案、もしくは長老会で再審議のうえ修正案が再提出されたのであろう。アテネでは、前6世紀初めのソロンの改革によって、最下層の市民を含む全市民の民会出席の原則が打ち出されて、立法・国政機関としての民会の重要性が著しく増大したが、高官やアレイオス・パゴス会議の権限ならびに名門貴族諸家の政治的影響力が依然として強く、民会はかならずしも自立していなかった。同世紀末のクレイステネスの改革で創設された五百人評議会は、民会に提出する議案を予備審議するとともに、当番部族の評議員のなかから議長が選出されて民会運営にあたった。前462年にエフィアルテスの改革が断行されて、貴族政以来のアレイオス・パゴス会議と高官たちの権限が大幅に縮小され、民会と民衆裁判所の権限が強化された。ここに民会は名実ともに国家最高の議決機関となって、アテネのいわゆる徹底民主政が実現した。前4世紀の制度では、アテネの定例民会は年に40回開催され、通常の主要議題が所定の順番で審議されたが、このほか緊急事態に応じて臨時の民会が招集された。重要な決定には6000名の定足数を必要とし、多数決で採決された。前5世紀の末から民会出席手当の支給も行われた。
なお、古代ローマの民会は、コミティアcomitia︵ラテン語︶とよばれ、クーリア民会、ケントゥリア民会、トリブス民会の3種類および平民会があったが、これらについては、﹁コミティア﹂﹁クーリア﹂﹁ケントゥリア﹂﹁トリブス﹂および﹁平民会﹂の各項を参照されたい。
﹇馬場恵二﹈
民会はディングDing(ドイツ語)とよばれ、古ゲルマン人の政治的意思決定を行うための政治機構=集会であった。民族大移動以前の古ゲルマン人の社会は、いわば国家に相当するキーウィタースとよばれるきわめて多数の小政治単位に分かれていた。キーウィタースは共同体的性格を強く残していたが、共同体の全構成員すなわち成人した自由人の全員が集まって民会を開き、政治的意思決定を行った。民会は政治的機能と同時に司法的機能をも果たし、前者のおもなものは、開戦や講和の決定、定住地の移動、王位の相続の承認(王制キーウィタースの場合)、長老の選出(長老制キーウィタースの場合)、法(慣習法)の修正や変更などで、後者は共同体内部の紛争や刑事事件の処理であった。その点で民会は裁判集会でもあった。緊急の場合を除けば、民会は定期的に(おそらく、年1回ないし数回、新月か満月の日を選んで)行われ、全員が武装して出席した。成人式も民会の席上で行われた。決定は全員一致という形をとり、盾と槍(やり)とを打ち合わせるのが賛成の意思表示であった。
民族大移動期に大部族が形成され、政治単位が大きくなると、全員が集合する形での民会は行われにくくなり、その政治的重要性も失われる。フランク王国では、年一度招集される3月軍会ないし5月軍会がゲルマンの民会の名残(なごり)をとどめていたが、政治的意思決定の重心は聖俗の有力者を招集する王国会議に移り、他方、裁判集会としての機能は、伯(グラーフ)が管轄区域内を巡回しながら、地域ごとの住民を集めて開催する定期裁判集会(年3回)に受け継がれた。
[平城照介]
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民会【みんかい】
︵1︶古代ギリシアの市民総会。その原型はホメロスにみられるアゴラagora︵︿集まる﹀という動詞に由来︶で,アテナイではエクレシア,スパルタではアペラapella,デルフォイ,テッサリアではアゴラと呼ばれた。アテナイでは,前6世紀初めソロンの国制以後,全市民が参加した。民主政下の民会は将軍ほか重要官職の選出,立法,一部の司法的機能のほか外交関係,外国人への市民権賦与等の最高政策決定機関であった。アテナイではプリュタネイア︵1年の10分の1︶ごとに4回,スパルタでは月に1回開催。アテナイでは決議に一定の出席者を必要とするため,前4世紀初めから出席者に日当を支給した。︵2︶都市国家ローマの市民総会コミティアcomitia。クリア会,兵員会,平民会の三つの民会があった。クリア会はローマ最古の民会で,氏族制的社会組織であるクリアを構成要素とする。兵員会は,伝承ではセルウィウス・トゥリウス王が創設したといわれるが,前5世紀ころ成立したとみられる。一種の軍会で軍事的単位である百人組︵ケントゥリア︶が投票の単位をなすが,市民は歩兵・騎兵など,財産評価の原則にたつ兵役義務によって上下の等級に分かれた百人組に属した。コンスル以下の高官の選挙,立法,殺人刑などの裁判を行った。平民会は元来平民︵プレブス︶の集会であったが,トリブスという行政区画単位で投票が行われ,下級政務官の選挙,立法,金銭刑の裁判を行った。のちホルテンシウス法により貴族︵パトリキ︶も平民会の構成員に加えられた。
→関連項目都市国家
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民会
みんかい
古代のギリシア・ローマ・ゲルマン社会において,全市民権者によって構成された政治機関
︻ギリシア︼アテネではエクレシア︵ekklesia︶と呼ばれる。自由民中の成年男子によって構成され,ことに民主政時代に国家の最高機関として重要な役割を果たした。和戦の決定,官職の任命,弾劾,神事などを多数決によって審議し,前4世紀には出席者に日当が払われた。スパルタではアペラ︵apella︶と呼ばれ,和戦の決定,立法などを扱ったが,あまり権限はなかった。民会の議場は一般にアゴラなどの公共の広場が用いられた。
︻ローマ︼コミティア︵comitia,平民会︶はクリア会・兵員会・区民会などに分けられた。共和政中期には,ホルテンシウス法によってその決議は全市民を拘束するようになったが,共和政末期には元老院にその実質的機能を奪われた。形式的には3世紀まで存続。
︻ゲルマン︼ゲルマン社会ではコンシリウム︵concilium︶と呼ばれる。キヴィタスにおける最高決議機関で,自由民の武装した成年男子によって構成された。毎年1回,春季の新月の時期に開かれ,死罪の決定,開戦・講和の決議,戦時における指導者の選定などを行った。採決は全員一致により,否認の場合はつぶやきで,賛成の場合は武器を打ち合わせて意向を表明した。
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民会(みんかい)
①︹ギリシア︺ekklesiaポリスの意志決定機関としての市民総会。原則として成年男子市民全員が出席と議決の権利を持つ。ホメロスの詩にみえるような戦士全員からなる軍会に起源を有し,ポリスごと,また政体により,呼称や成員構成,審議権の広狭を異にするなか,直接民主政を完成させた前5世紀中葉から前4世紀後半のアテネの民会にその典型をみることができる。そこでは五百人評議会の先議を前提に,和戦の決定,法律の制定から個人の顕彰に至る大小さまざまな案件が審議決定された。
②︹ローマ︺兵員会平民会
③︹ゲルマン︺ゲルマン民族
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
民会[古代ギリシア・ローマ]
みんかい[こだいギリシア・ローマ]
民会[古代ギリシャ・ローマ]
みんかい[こだいギリシャ・ローマ]
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世界大百科事典(旧版)内の民会の言及
【アテネ】より
…ペロポネソス戦争直前における成年男子市民の人口3万~4万,その過半は城壁外に住んでいたと推定される。国政はすべて成年男子市民全員を成員とする[民会]の決定により,裁判も30歳以上の男子市民6000人から成る審判人が,そのときどきに一定規模の個別法廷を構成して行った。市民たちはまた各種の役職に交代で就任し,行政の任を分担したが,その際,1年任期制・同僚制・抽選制によって特定人物への権限の集中が周到に避けられている。…
【エクイテス】より
…共和政期の制度では特定額以上の財産を持つ市民(おもに貴族)を騎兵,他の市民を歩兵に登録して軍団を編成した。騎兵は歩兵の上位を占め,[民会]では優先投票権を得た。前4~前3世紀になると,軍団騎兵の戦力は低下し,平民の騎兵で増強しても実効は得られなかったため,実戦には同盟者の騎兵をあて,制度上の特権と地位を保った。…
【ケントゥリア】より
…古代ローマで200ユゲラ(約50ha)の土地,また軍団や[民会]の基本単位をいう。ケントゥムcentum(100)に由来し,前者はヘレディウム(2ユゲラの世襲地)の100倍,後者は百人隊が原義。…
【コンスル】より
…前509年の共和政成立以降,毎年2名が選ばれたという。ケントゥリア民会の選挙後,コンスルはクリア民会で[インペリウム]を受け,先導リクトルの斧と棒に生殺与奪の大権を示しつつ民政,軍事,祭祀,民会・元老院の開催等,国政全般を主導した。下位公職者への干渉権,市民懲戒の強権も帯びながら在任中は弾劾を免れ,元老院,[護民官]の掣肘と1年任期,同僚制の厳守が専制を防いだ。…
【裁判】より
…この場合にも,判断の内容を他の類似の事件にも当てはまる一般的な原理によって理解することができないが,それだけでなく,判断の規準が裁判を受ける側にもあらかじめ知られるように客観的に明らかにされているということがないため,当事者は正しい判断を求めるためのよりどころとして用いうるものがなく,裁判官の賢察,慈悲,恩情にまったく依存することになる。ソクラテスを裁いた古代アテナイの民会の裁判はこの種の裁判の一例であり,また〈大岡裁き〉もこの型に属する。 それに対して,厳格に定義されたことばによって正確に表現された一連の一般的規範を判断規準とすることが要請されており,それらの規範を,(それらの規範および事案の)一般に了解されている意味に即して事案に適用することによって法的判断を形成するべきものとされている場合には,法的判断は,事案が法規範という枠に適合しているか否かの形式的判断によって形成されることになり,同時にその枠およびその適用が意味的に事件の内容に即したものとなるため,形式的で合理的な裁判と呼ばれる。…
【スパルタ】より
…
﹇国制と生活様式,文化﹈
スパルタの国制や市民の生活規範は,リュクルゴスが定めたとされている。彼とその制度については,まだ定説はないが,[大レトラ]をみると,ポリス成立期には2王制,長老会,最終決定権を有する民会という国家機関が存在した。世襲王制,しかも2王制が存続していたというのは,ポリス世界ではきわめて異例なことであった。…
【フランク王国】より
…
﹇王権の性格﹈
1~2世紀のローマの史家タキトゥスは古ゲルマン人の社会状態について︽[ゲルマニア]︾で詳述しているが,これによれば,その時代のゲルマン人は[キウィタス]と呼ばれる多数の小政治単位に分かれていた。タキトゥスは世襲的王(レクス)を頂くキウィタスと,全人民の構成する[民]会で選ばれる首長(プリンケプス)に統治されるものと,二つの政治形態を区別しているが,世襲王制は首長制に比べ,王の有する権力の強さによって特徴づけられるのではなく,王の家門が神に由来するという,王権の宗教的性格によって特徴づけられ,最近の研究はこれを神聖王権という概念で把握する。旧説によれば,フランク王権をはじめ中世初期の部族国家の王権は,キウィタス相互間の征服・統合の過程で,その世襲王権=神聖王権が部族全体の上に拡大されたものとみなされたのであるが,新説では神聖王権からの連続性の面より,新しい要素の加わった点を強調し,この新しい要素を軍隊王権という概念で説明する。…
※「民会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」