河上肇(読み)カワカミハジメ

デジタル大辞泉 「河上肇」の意味・読み・例文・類語

かわかみ‐はじめ〔かはかみ‐〕【河上肇】

 
18791946  

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精選版 日本国語大辞典 「河上肇」の意味・読み・例文・類語

かわかみ‐はじめ【河上肇】

 

(一)
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「河上肇」の意味・わかりやすい解説

河上肇
かわかみはじめ
(1879―1946)


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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「河上肇」の解説

河上 肇
カワカミ ハジメ


肩書
日本共産党員,京都帝国大学教授

別名
号=梅陰 千山万水楼主人 閉戸閑人

生年月日
明治12年10月20日

出生地
山口県玖珂郡岩国町(現・岩国市)

学歴
東京帝大法科大学政治学科〔明治35年〕卒

学位
法学博士

経歴
明治35年東京帝大講師となり農政学を講じる。38年「社会主義評論」を千山万水楼主人の筆名で「読売新聞」に連載。40年「日本経済新誌」を創刊。41年京都帝大講師となり経済史を担当、42年助教授を経て、大正2年ヨーロッパ留学後、4年教授となり、8年から経済原論を担当。この間、5年から大阪朝日新聞に「貧乏物語」を連載し注目を集める。その後急速にマルクス主義の立場に接近し、マルクスの「賃金と資本」を翻訳し、「唯物史観略解」を刊行。昭和3年辞職。翌年大山郁夫らの新労農党に協力したが、やがて解散を提唱。6年マルクス「政治経済学批判」「資本論」(第1巻)を刊行。7年5月地下運動に入り、「七年テーゼ」を翻訳、9月日本共産党員に入党。8年検挙され、懲役5年の判決。12年出獄後は閉戸閑人と称し、漢詩、短歌、書、篆刻などに親しんだ。18年より「自叙伝」を執筆。20年から体の衰弱がひどくなり、敗戦を病床で迎える。同年共産党に復党。著書に「経済学大綱」「第二貧乏物語」「資本論入門」「マルクス主義経済学」「自叙伝」(全5巻)のほか、詩歌集「雑草集」「旅人」「河上肇詩集」、「河上肇著作集」(全12巻 筑摩書房)、「河上肇全集」(第1期28巻・第2期7巻・別巻1 岩波書店)がある。

趣味
プロ野球 漢詩

没年月日
昭和21年1月30日

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20世紀日本人名事典 「河上肇」の解説

河上 肇
カワカミ ハジメ

明治〜昭和期の経済学者,思想家,社会評論家,詩人 京都帝国大学教授。



生年
明治12(1879)年10月20日

没年
昭和21(1946)年1月30日

出生地
山口県玖珂郡岩国町(現・岩国市)

別名
号=梅陰,千山万水楼主人,閉戸閑人

学歴〔年〕
東京帝大法科大学政治学科〔明治35年〕卒

学位〔年〕
法学博士

経歴
明治35年東京帝大講師となり農政学を講じる。38年「社会主義評論」を千山万水楼主人の筆名で「読売新聞」に連載。40年「日本経済新誌」を創刊。41年京都帝大講師となり経済史を担当、42年助教授を経て、大正2年ヨーロッパ留学後、4年教授となり、8年から経済原論を担当。この間、5年から大阪朝日新聞に「貧乏物語」を連載し注目を集める。その後急速にマルクス主義の立場に接近し、マルクスの「賃金と資本」を翻訳し、「唯物史観略解」を刊行。昭和3年辞職。翌年大山郁夫らの新労農党に協力したが、やがて解散を提唱。6年マルクス「政治経済学批判」「資本論」(第1巻)を刊行。7年5月地下運動に入り、「七年テーゼ」を翻訳、9月日本共産党員に入党。8年検挙され、懲役5年の判決。12年出獄後は閉戸閑人と称し、漢詩、短歌、書、篆刻などに親しんだ。18年より「自叙伝」を執筆。20年から体の衰弱がひどくなり、敗戦を病床で迎える。同年共産党に復党。著書に「経済学大綱」「第二貧乏物語」「資本論入門」「マルクス主義経済学」「自叙伝」(全5巻)のほか、詩歌集「雑草集」「旅人」「河上肇詩集」、「河上肇著作集」(全12巻 筑摩書房)、「河上肇全集」(第1期28巻・第2期7巻・別巻1 岩波書店)がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「河上肇」の意味・わかりやすい解説

河上肇 (かわかみはじめ)
生没年:1879-1946(明治12-昭和21)


19023330貿調0815191719192328193233-371947-481949461調121964-65331982-

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朝日日本歴史人物事典 「河上肇」の解説

河上肇

 
21.1.30(1946)
12.10.20(1879)
,(),,,,,,,,,,,35(1902),,,,38,,60,,41,4(1915),,,,,,14,,,,3(1928),7,,,  
()
 

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「河上肇」の意味・わかりやすい解説

河上肇【かわかみはじめ】

 
19051908192819321937
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河上肇」の意味・わかりやすい解説

河上肇
かわかみはじめ

[生]1879.10.20. 山口,錦見
[没]1946.1.30. 京都
経済学者。啓蒙的マルクス経済学者として大正,昭和初期の左翼運動に大きな影響を与えた。 1902年東京帝国大学法科大学政治科卒業。同大学農科大学講師のほかいくつかの教職を歴任後,一時新聞記者,さらに『日本経済新誌』を主宰。 1908年京都帝国大学講師,1909年助教授,1915年教授。この間 1913~15年にはヨーロッパへ留学,帰国後 1917年『貧乏物語』,1918年雑誌『社会問題研究』を刊行するとともにマルクス主義の体系的な把握に努める。 1928年教授辞職後,大山郁夫らと労農党を結成する。 1932年地下運動に潜入,日本共産党に入党し『赤旗』の編集に参加。 1933年検挙され,1937年まで入獄,獄中で『獄中記』『獄中贅語』を執筆。以降 68歳で病没するまでもっぱら『自叙伝』を執筆。著書はほかに『資本主義経済学の史的発展』 (1923) ,『経済学大綱』 (1928) ,『第二貧乏物語』 (1930) ,『資本論入門』 (5巻,1932) など多数。また『河上肇全集』 (全 36冊,1982~86) が刊行された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「河上肇」の解説

河上肇
かわかみはじめ


1879.10.201946.1.30

1908(41)15(4)貿161928(3)321376351

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河上肇」の解説

河上肇 かわかみ-はじめ

1879-1946 明治-昭和時代前期の経済学者。
明治12年10月20日生まれ。母校東京帝大の講師をへて大正4年京都帝大教授となる。「大阪朝日新聞」に「貧乏物語」を連載。のち雑誌「社会問題研究」を刊行,マルクス主義の研究と紹介につとめた。昭和3年教授を辞職。7年共産党に入党,翌年逮捕される。出獄後は「自叙伝」などを執筆。昭和21年1月30日死去。68歳。山口県出身。著作はほかに「資本論入門」「経済学大綱」など。
【格言など】誤れる常識と闘争しこれを打破して行くことが新興科学の任務である

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旺文社日本史事典 三訂版 「河上肇」の解説

河上肇
かわかみはじめ

1879〜1946
大正・昭和期のマルクス主義経済学者
山口県の生まれ。東大卒。1905年『読売新聞』紙上に「社会主義評論」を連載,のち京都大学に迎えられ教授となる。'19年『社会問題研究』を刊行。しだいにマルクス主義の実践運動に入り三・一五事件('28)で京大を追われ,'29年新労農党結成に参加。「32年テーゼ」を翻訳し,日本共産党に入党したが,'33年検挙,非転向を貫いたが,獄中で引退を声明した。出獄後は自叙伝などの執筆に余生を送った。主著に『貧乏物語』『経済学大綱』など。

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367日誕生日大事典 「河上肇」の解説

河上 肇 (かわかみ はじめ)

生年月日:1879年10月20日
明治時代-昭和時代の経済学者;社会主義者。京都帝国大学教授
1946年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の河上肇の言及

【改造】より

…B.ラッセル,サンガー夫人,アインシュタインなどの外国知識人を招いたり,プロレタリア文学流行期にはそれに多くの誌面を割くなど,つねに時代の新思潮を敏感にとらえ大正末年には《中央公論》とならぶまでに成長した。本誌の最多執筆者だった山川均のほか河上肇,猪俣津南雄,櫛田民蔵ら多くのマルクス主義者に誌面を開放し,社会主義運動とマルクス主義の普及に多大の貢献をした。いっぽう,文芸欄は文壇の登竜門としての権威をもち,志賀直哉《暗夜行路》,中条(宮本)百合子《伸子》,芥川竜之介《河童》などの名作も生まれた。…

【社会問題研究】より

…1919年1月弘文堂書房から発刊された河上肇(かわかみはじめ)の個人雑誌。月刊。…

【周恩来】より

…没落した官僚の大家族で育ち,少年期には辛酸をなめた。瀋陽で小学校を終え,1913年天津の南開中学に進み,17年日本に留学,河上肇の著作などを通じてマルクス主義に近づいた。五・四運動がおこって天津に帰り,学生運動の指導者の一人として活躍し,逮捕投獄されたりした。…

【貧乏物語】より

河上肇(かわかみはじめ)の代表作の一つ。1916年《大阪朝日新聞》に〈貧乏物語断片〉の題で連載,17年京都の弘文堂書房から出版。…

【マルクス】より

…しかし,マルクスの思想が本格的に紹介されるようになったのはロシア革命(1917)以後であり,22年には〈日本共産党〉(委員長堺利彦)が結成され,コミンテルン第4回大会において承認された。 昭和に入ると,福本和夫,三木清,河上肇などによるマルクス論が左翼的インテリのあいだで強い影響を及ぼすようになり,28年(昭和3)には世界で最初の改造社版《マルクス・エンゲルス全集》の刊行が開始された(全27巻30冊,補巻1,別巻1。完結1935)。…

【マルクス主義】より

… 明治が大正に転換し,大正デモクラシーの高揚とロシア革命の影響が,〈冬の時代〉の終りを告げると,社会主義とマルクス主義の研究・運動も復活する。人道主義的立場から《貧乏物語》(1917)を書いていた河上肇は,個人雑誌《社会問題研究》を創刊(1919)し,しだいにマルクス主義研究を進めた。また堺や山川均,荒畑寒村らも《社会主義研究》や《新社会》を発刊して,〈我々の旗印とは何ぞや,曰くマルクス主義である〉と宣言(1919)し,労農ロシアのボリシェビズムへと向かった。…

【陸游】より

…日本では山本北山(1752‐1812)刊《放翁先生詩鈔》が版を重ね,天明から幕末にかけて晩年の俳句風抒情詩がよく読まれた。明治以後も読みつがれ,いくつかの注釈書が出ているが,たとえばマルクス経済学者河上肇なども熱心な読者の一人で,大部な評釈書《陸放翁鑑賞》をのこしている。【一海 知義】。…

※「河上肇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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