デジタル大辞泉
「町人」の意味・読み・例文・類語
ちょう‐にん〔チヤウ‐〕【町人】
江戸時代、都市に住んだ商・工業者の総称。狭義には家持ち・地主をいい、店(たな)借り・地借りは含まれない。中世までは身分として明確には成立していなかったが、近世初期の兵農分離政策により、士・農階層と区別して固定化された。身分的には下位におかれたが、両替商・札差などの金融業者は富を蓄積して領主の経済を動かし、また、町人文化の担い手ともなった。
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ちょう‐にんチャウ‥【町人】
(一)〘 名詞 〙 町に住んでいる者。町に住む商人と職人。狭義には家を持つ町住民をさしていった。あきんど。まちゅうど。市人。町民。
(一)[初出の実例]﹁小松帝親王之間、多借二用町人物一﹂(出典‥古事談︵1212‐15頃︶一)
(二)﹁町人の子は町人の親が育てて商売の道を教ゆる故に﹂(出典‥浄瑠璃・山崎与次兵衛寿の門松︵1718︶中)
まちゅうどまちうど【町人】
- 〘 名詞 〙 =まちにん(町人)〔伊京集(室町)〕
- [初出の実例]「小山田が末の子まちうどとなりて、今もここに荘左衛門とて尚あり」(出典:菅江真澄遊覧記(1784‐1809)恩荷奴金風)
まち‐にん︻町人︼
(一)〘 名詞 〙 町に住んでいる人。まちじん。まちゅうど。ちょうにん。
(一)[初出の実例]﹁鞘なき守刀を添へて捨てけるを、まちにん拾ひ養育して、比叡の山へのぼせけり﹂(出典‥御伽草子・和泉式部︵室町末︶)
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町人
ちょうにん
江戸時代の都市に居住する商工業者。公的な身分称呼としては、町屋敷を所持する地主・家持(いえもち)層に限定される。
[鶴岡実枝子]
町人の語源は、平安末期の京都において、官設の東西市(いち)の衰微にかわって出現した常設の店棚(みせだな)の増加によって形成された商業地区=町の住人を指称する﹁まちびと﹂であった。下って﹃吾妻鏡(あづまかがみ)﹄の建保(けんぽ)3年︵1215︶7月条に﹁町人以下鎌倉中諸商人の員数を定むべきの由、仰せ下さる﹂とあって、町人と諸商人とは区別されている。このことは、当時の一般の諸商人は町屋をもたず、地方の市場を移動遍歴する行商人であり、﹁町人﹂が商人の総称になりえなかったことを示している。その後の農業生産力の上昇、商工業の発達によって、社寺の門前や港町など、商工業者の集住する都市の形成が進められた。さらに海外貿易の振興に伴い、蓄積された商業資本を高利貸資本に活用するなど、豪商が台頭し、戦国大名の御用商人になるなど、社会的存在を顕著にしていった。とくに室町・戦国期には、京都・奈良・堺(さかい)などの代表的な都市では、打ち続く戦乱と治安の不安定さのなかで、町は従前の商工業地区から生活共同体としての町(ちょう)へと変質を遂げ、地縁的な結合を強め、自衛のための自治組織をもつに至り、町人階級を形成しつつあった。もっともこれらの都市共同体は、酒屋・土倉(どそう)などの富商地主であった上層町衆(ちょうしゅう)によって主導され、頻発した土一揆(つちいっき)・一向一揆などには武力をもって対抗する、兵農商未分離の実態を備えていた。
﹇鶴岡実枝子﹈
近世社会における、いわゆる士農工商という身分制度は、統一政権豊臣(とよとみ)氏と、それを引き継いだ徳川政権による兵農分離政策によって編成された。すなわち、16世紀末の刀狩(かたながり)・太閤(たいこう)検地を基軸として展開された兵農分離は、在地の武装を解除して支配階級である武士による武力の独占を図るとともに、農業生産から遊離して地侍(じざむらい)化した上層農民の一部を家臣団に組み入れ、一部を御用商人に登用し、その余を農民身分として土地に緊縛して貢租負担者とした。そして町場に居住する者、および散在の商工業者を都市に集めて町人身分とした。つまり、士と商工の農業生産からの分離による都市集住の制度化によって、身分・居住・職能の三位(さんみ)一体の固定化が図られたのである。それは、一定の経済発展に基づく社会的分業関係に対応した身分編成という側面もあるが、より本質的には、一定度の商品流通を前提とした石高(こくだか)制に基礎を置く幕藩領主の再生産を維持するための政治的身分編成であったといえよう。
近世初頭に諸大名によって建設された城下町には、領主・武士の軍需と消費を支えるための商工業者が集められた。職人町としての鍛冶(かじ)・紺屋(こんや)・大工・木挽(こびき)・革屋・研(とぎ)屋・塗師(ぬし)町などと、商人町としての石(こく)︵穀︶・呉服(ごふく)・塩・魚(さかな)・油・茶町などの町名が城下町に一般的に存在することは、成立期にそれらの業種の商工業者が優先的に町割を受け、同業集居の形態をとり、領主に掌握されていたことを示す。
﹇鶴岡実枝子﹈
徳川政権による幣制の統一、交通網の整備などを背景に、各城下町と江戸・大坂・京都などの中央都市を結ぶ全国的な商品流通の展開は、港湾などの中継交易都市の繁栄をもたらした。このような都市の町人の負担は、多くの場合、地子(じし)︵租︶を免除されたかわりに夫役(ぶやく)︵町役︶が課せられた。ただし、城下町では武器・武具や日用品の生産・修理に携わる指定職種の職人町は技術労働の提供が義務づけられ、また交通機能をもつ町は伝馬(てんま)役を務めたが、その他の町々は城中の普請・掃除、市街地の防災などの人足役に徴用された。もっとも、これらの人足役は早い時期から貨幣納化した。このほか町人は恒常・臨時の町入用を負担したが、町役・町入用とも屋敷地の所持者=家持の負担であった。したがって正規の町人身分とは家持に限定され、町役・町入用を負担しない地借(じがり)・店借(たながり)は町共同体の構成員とは認められず、身分的に区別された。
流入人口の増大に伴う都市域の拡大に象徴される17世紀後半以降の都市の発展は、軍需の減退と相まって同業集居の形態を崩し、都市民の構成を変えていった。すなわち、町の開発に貢献して町役人となった門閥町人や、領主の特需の調達にあたった前期の特権商人にかわって、新興の問屋(といや)・仲買や両替商などが経営を伸長させ、大名貸などによって財政窮乏の深刻化した幕藩領主の御用商人となり、苗字(みょうじ)・帯刀御免や扶持米(ふちまい)を受けるなど士分の待遇を得、町人の上層を占めるに至った。そしてこれら上層町人による町地の集積は不在地主の増加をもたらし、町共同体の形骸(けいがい)化に連なった。かわって地借・店借層をも含めた同業組合としての仲間の結成による職縁的結合が都市の重要な構成要素となり、本来屋敷地所持を基本とする町人の称呼は、一定度自立した経営をもつ地借・店借の商人層にまで拡散され、一般化した。
﹇鶴岡実枝子﹈
﹃坂田吉雄著﹃町人﹄︵1939・弘文堂/再版・1978・清水弘文堂︶﹄▽﹃中井信彦著﹃町人﹄︵﹃日本の歴史21﹄1975・小学館︶﹄
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町人 (ちょうにん)
日本近世における被支配諸身分の中で,百姓や諸職人とともに最も主要な身分の一つ。その基本的性格としては,︵1︶さまざまな商業を営む商人資本であること,︵2︶都市における家持︵いえもち︶の地縁的共同体である町︵ちよう︶の住民であり,正規の構成員であること,︵3︶国家や領主権力に対して,町人身分としての固有の役負担を負うこと,などがあげられる。以下︵1︶~︵3︶について説明する。
︵1︶16世紀末~17世紀初頭において日本の近世社会は,古代末期以来の長期の歴史過程が生み出してきた多様で高度な分業の諸局面を,その担い手である小生産者や小経営,小資本ぐるみ掌握し,これらを各種の諸身分へと一挙に編成替えすることをもって出発した。古代以来,被支配人民の主要なほぼ唯一の身分呼称は百姓であったが,16世紀末~17世紀初めにかけて,統一政権とこれを引き継いだ江戸幕府は農・工・商の三つの分業に応じ,また,あわせてそれぞれの分業の展開を推進すべく,農=百姓,工=諸職人,商=町人の三つの身分の枠組みを設定したのである。この中で町人は中世末期に町という独自の地縁的共同体を形成しながら,さまざまな商業に従事する商人資本の包括的・統一的な身分呼称として位置づけられるに至った。また,都市域における商・工未分離の中小の商人=手工業者の多くも,近世の初頭には商としての側面において,とりあえず町人としてくくられた。
︵2︶商人資本の多くは,都市域における独自の地縁的共同体である町を形成した。町は,その正規の構成員である家持の商人に対して町内における家屋敷や財産を保全し,営業上における信用の基盤を提供し,その家族や使用人︵下人︶,借家人などの生活を保障した。これらの点で,町は,家持の商人にとって必要不可欠な共同組織であった。商人が,その多様な職種の差異にもかかわらず,国家や領主権力によって町人という統一的な身分呼称を付与されたのは,︵1︶でみたような商人資本としての均質性を有していたことによるのと同時に,彼らが町という共同体の正規の構成員=家持としての共通性をもっていたことによる。
︵3︶上記︵1︶︵2︶にみたような意味において,一個の商人資本であり,また町の正規の構成員たる一人の家持であっても,それだけでただちに町人身分としての条件をすべて満たすものではなかった。さらにそのうえで,国家や領主権力によって町人としての認定を得ることが必要不可欠であった。このような認定の基準としては,古代以来存続してきた国家に対する人民の役負担のシステムが再編成されたうえで利用された。そして近世の町人身分は,百姓や諸職人とは異なる固有の役負担を担うこととなった。すなわち,伝馬役と町人足役がそれである。このうち,伝馬役︵馬や人足による労働の奉仕︶は,本来全人民が担うものであるが,諸職人はそれぞれの技術労働を国役︵くにやく︶として奉仕させられたためにこれを免ぜられ,百姓と町人とがこれを負担させられた。しかし平時における伝馬役は,宿駅部分やその周辺の町人や百姓がこれを負担したのである。近世の主要都市の中枢の町は,多くが拠点的な宿駅でもあったから,伝馬役は町人足役に比べて1段階格式の高い役負担として位置づけられることになった。また町人足役は,当該の町が帰属する都市における多様な役負担であり,国家や領主権力への普請や掃除,防災などに関する雑多な人足労働の奉仕がおもな内容であった。
以上のような町人身分の基本的性格は,近世の全過程を通じて公的には大きく変わることはなかった。しかし社会的には,商人資本自体の有する本来的特質や,それに基づく町の構造的変容に応じて,町人ということばの外延の拡大が,早くも近世の前期から進行していった。これはほぼ次のような背景をもつと考えられる。近世の商人は,その主要な所有対象として貨幣,商品,船や馬などの運輸手段,土地などを持っていた。このうち土地の主要な部分である町屋敷は,商人にとって住宅や店舗を営む空間であると同時に,みずからの経営にとっての根幹である信用を生み出す根源でもあった。したがって,信用の源泉が町屋敷以外にも得られれば,町屋敷の所有自体は商人にとって不可欠な要件ではなくなる。例えば,商人の共同組織である問屋や仲間の一員として,当該の営業についての排他的特権を分有していること︵株化した営業権所有をも含む︶,不在家持の代理人である家守︵やもり︶になること,さらには店借︵たながり︶の商人として町や家主の認定をうけることなどが,こうした信用の派生的な源泉になっていくのである。こうして,家持でなく,したがって町の正規の構成員ではなくても,商人は,多様な存在条件を得ていった。その結果,町人という身分呼称は,近世当初に付与された基本的性格をこえて,町方=都市域に居住し,営業する諸商人全般に対する,社会的レベルにおける総括的呼称へとその意味をひろげることとなった。かくて近世の前期以降,先にみた厳密な意味での公的呼称としての狭義の町人と,後で述べた一般的な社会的呼称としての広義の町人が併存し,後者の意味におけることばの使用が,徐々に前者を圧倒していくのである。
執筆者‥吉田 伸之
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町人【ちょうにん】
江戸時代,都市に住む商工業者。武士階級の消費生活を支え全国的流通網のにない手。身分的には蔑視(べっし)されたが経済的実力をたくわえ,江戸時代の貨幣蓄積の中心となり,町人文化の基盤となった。町人は中小商工業者も株仲間を編成,職業を通じて封建的都市秩序に編入され,町奉行(まちぶぎょう)管轄下にあって町名主・町年寄などの町役人や五人組や家主店借・地主地借関係を通じて支配機構に組み込まれた。冥加(みょうが)金,運上,屋敷地に課される地子(じし),伝馬役などの夫役などの負担義務があったが農民に比して軽かった。幕末には打毀(うちこわし)などの原動力となり封建的秩序をゆるがせた。
→関連項目在郷商人|日本|町役人
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町人
ちょうにん
江戸時代,都市に居住した商工階級。厳密には土地,家屋をもつ地主や家持ちに限られたが,一般には店借人 (たながりにん) などの下層民も含んでこう呼ばれた。鎌倉時代頃から大都市に定住して商工業を営み,安土桃山時代の武士の城下町定住に伴って町人としての身分を確立した。堺の会合衆 (えごうしゅう) (納屋衆) ,京都の町衆 (まちしゅう) はその最上層に属し,市政の自治を行なったこともある。江戸時代には士農工商の身分階級のうち,工商 (職人,商人) が町人に属し,町人のなかには幕藩体制に寄生した存在として商品流通を支え,大坂の掛屋,江戸の札差など経済面での支配者として成長したものが多い。文化的にも17~18世紀の元禄文化,19世紀の化政文化の中心的にない手となった。
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町人
ちょうにん
江戸時代,町方 (まちかた) (都市)に居住する商・工身分
町方人別 (まちかたにんべつ) に所属し,地主・家持以外の地借 (じがり) ・店借 (たながり) は一人前の町人とみなされない。室町末期の社会・経済の発展から農・工・商が分化し,特に江戸幕府が商人の農村居住を禁じたので都市に集住した。江戸時代,町人は武士の恩恵のもとで営業すると考えられ,士・農の下に置かれ,年貢の代わりに運上・冥加 (みようが) 金を納めた。国内産業の発達で町人勢力が増大し,その経済力の向上は元禄・化政の町人文化を生み,町人出身の学者・文人も輩出した。井原西鶴は大坂町人の勤勉・倹約・才覚を浮世草子に記している。町人の中には財力で武士をしのぐ者があり,大名・旗本に融資してその財政を制する者や持参金で武士と養子縁組する者も出現した。しかしその代表者が御用商人であるように,封建経済に寄生する性格を免れず,社会変革を指導するまでには至らなかった。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
町人
ちょうにん
百姓と並び近世における最も代表的な身分呼称。中世後期の都市で成立した町(ちょう)は,さまざまな営業を営む商人や手工業者によって形成された地縁的共同体であるが,町の正規の構成員は,町屋敷を所有するとともに町人足役とよばれるさまざまな役負担を担った。これらの条件を満たす者が本来的な意味での町人であり,その家族や借屋人などは町人とはいえない。しかし商人資本の発展や町の構造変容にともなって町人の意味はしだいに拡散し,のちには広く都市に居住し営業を展開する商工業者一般のこともいうようになった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の町人の言及
【江戸っ子】より
…根生いの江戸住民であることを自負・強調する際に多く用いられた。それも武士ではなく,おもに町人の場合である。江戸っ子は,物事にこだわらず金ばなれがよく,意地と張りを本領とし正義感が強かったが,反面,けんかっ早くて軽率だといわれた。…
【近世社会】より
…初期には,この年貢のなかに治水労働などを中心とする労働や,米以外の雑多な生産物も含まれていたが,米主体の年貢へと変わっていく。この年貢米の換貨,領主層の必要とする諸物資の調達のために商業を営む町人,それに加工業を営む職人たちが,領主の統制に服する諸都市で活動することになる。ここにいう領主層は織田信長の全国統一の試み,豊臣秀吉の統一の過程で,戦国期にみられた武士の在地性が失われ,首都・直轄都市・城下町に居住するものとなる。…
【元禄時代】より
…【塚本 学】
【元禄文化】
元禄期およびそれを前後する時期(17世紀末~18世紀初期)に形成された文化。町人と呼ばれる社会階層が文化の主体的な担い手となったこと(町人文化),上方の都市的発展とその環境が推進力となったこと(都市文化),奢侈的風潮にともない衣・食・住ほか生活の諸相に文化としての表現が認められること(生活文化),劇場や出版といったマス・メディアが成立したこと(大衆文化)などの諸傾向を指摘することができる。これらの傾向は総じて〈近世的〉といわれる特色を示しており,したがって元禄文化は,一面で17世紀前半~寛永期に頂点に達した上層町衆の文化(寛永文化)をモデルとしつつ,そこにみられた古典志向,貴族趣味,サロン性を克服し,より広範な町人層の参加のもと,18世紀以降における近世都市大衆文化の展開を用意したものと位置づけることができる。…
【士農工商】より
…なお,安寧を維持しているという点で役にたつものとみなされていた武士には,軍役を果たす義務があった。近世には以上のような職能と役の体系による身分編成のほかに,工商を合わせて[町人]といったように,地縁的な支配の体系による身分の呼称も存在した。これは,中世における町衆,会合衆︵えごうしゆう︶などによる一種の町の自治の発達を背景としながらも,その組織が町触の下達など住民に対する一般的行政機構に転化したこと,17世紀後半以降大規模な戦陣や城普請がなくなったため職人の国役が貨幣納となり,その集団が職人の動員組織としての機能を停止したことによると考えられる。…
【相続】より
…当主が相続人なく死亡した場合,原則として相続が認められず,家が断絶した。養子による相続も条件付きで認められ,かなり行われたが,中には禁令にもかかわらず持参金目当てに町人や富農などの子弟を養子にし,これに相続させる例もあった。幕府および多くの藩では,相続に際し家禄を増減せず,そのまま相続させる世禄制をとっていたが,藩によっては相続の際,禄高を減少する世減制や,相続人が幼少もしくは養子であるとき,禄高を削減して相続させる幼少減知制,養子減知制などを採用したところもある。…
【町入用】より
…日本の近世社会では,国家や領主の権力諸機構,多様な共同体・共同組織,個々の経営体などの諸レベルにおいて,支配や給付,管理や運営,生産や消費,負担や配分などに伴う金銭や物品の出納が行われ,その算用の過程や結果が記録された。町入用はこのうち,[町人]の地縁的共同体である町における管理・運営,負担・配分に関する諸項の,町としての収支会計を意味しており,この点は村と村入用の関係にほぼ等しい。町入用の対象となるものは,以下の3相からなる。…
【町役】より
…日本近世の[町人]が,その地縁的共同体である町(ちよう)を介して勤めた役負担の総称。町役としてくくられる諸負担としては,(1)国家や領主権力への役負担や音信礼,(2)その町人が所属する町の共同体諸経費,(3)当該の町が属する都市の町方全域(惣町)や,その部分(組合町)など,広域の都市行政諸経費などがあるが,本来的には,(1)が町役の原義である。…
【身分統制令】より
…1591年(天正19)に豊臣秀吉が全国に発布した3ヵ条の法令。侍,中間︵ちゆうげん︶,小者などの武家奉公人が百姓,町人になること,百姓が耕作を放棄して商いや日雇いに従事すること,もとの主人から逃亡した奉公人を他の武士が召し抱えることなどを禁止し,違反者は︿成敗(死刑)﹀に処するとしている。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をひかえて,武家奉公人と年貢の確保を目的としたものと思われる。…
※「町人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」