デジタル大辞泉
「行幸」の意味・読み・例文・類語
み‐ゆき【行=幸/▽御▽幸】
行くことを敬っていう語。特に、天皇の外出をいう。行(ぎょ)幸(うこう)。古くは、上皇・法皇・女院にもいったが、のちに御(ごこ)幸(う)と音読して区別した。
﹁群臣或は帝に勤むるに浙(せつ)に―するを以てするあり﹂︿露伴・運命﹀
﹁こちごちの花の盛りに見(め)さずともかにもかくにも君が―は今にしあるべし﹂︿万・一七四九﹀
︵行幸︶源氏物語第29巻の巻名。光源氏36歳から37歳。冷泉帝の大原野行幸、玉(たま)鬘(かずら)の裳(も)着(ぎ)の行事などを描く。
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ぎょう‐こうギャウカウ【行幸】
(一)〘 名詞 〙
(二)① ( ━する ) ( ﹁ぎょうごう﹂とも ) 天皇が皇居を出て、よそへ行くこと。なお、行く先が二か所以上にわたるときには巡幸という。みゆき。いでまし。
(一)[初出の実例]﹁車駕。︿行幸所レ称﹀﹂(出典‥令義解︵718︶儀制)
(二)﹁他所へ行幸ありけり﹂(出典‥徒然草︵1331頃︶一五六)
(三)[その他の文献]︹漢書‐武帝紀︺
(三)② 香木の名。分類は伽羅(きゃら)。
行幸の語誌
(1)﹁幸﹂のみで﹁行幸﹂の意味がある。天子がお出ましになると、その地方の人々は食帛を賜い、爵祿を与えられ、田租を免じられるなどの僥倖を得るからという︹蔡邑‐独断︺。
(2)﹁行幸﹂は漢音では﹁カウカウ﹂、呉音では﹁ギャウギャウ﹂であるが、一般には早くから﹁ギャウカウ﹂の形が用いられ、中世・近世には﹁ギャウガウ﹂と連濁した形も見られる。
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行幸 (ぎょうこう)
天皇の出行すなわち御行︵みゆき︶。天子の行く所,万民が恩恵に浴し,幸いを受けるので︿幸﹀というと古書に説明する。大宝・養老令や延喜式制では,行幸に際しては,衛府の官人らが儀仗を整え,列次を組んで警固すること︵鹵簿︵ろぼ︶︶,駐泊所は行在所︵あんざいしよ︶または行宮︵あんぐう︶といい,行幸に先立ち,官人を遣わして検察すべきことなどを規定している。奈良時代までは,遷都も含めて,畿内各地の行幸の例は少なくないが,平安奠都以後は,安徳天皇の福原行幸や南北朝争乱期の諸天皇の場合を除き,ほとんど都下ないしその近郊の行幸に限られ,わずかに数度の南都春日社行幸の例を見るにすぎない。ことに江戸時代に入ってからは,幕末孝明天皇の石清水・賀茂両社行幸に至る,京中の行幸さえ幕府に抑制された。しかし1868年︵明治1︶の大阪親征行幸を皮切りに旧慣は打破され,ついで東征・東京遷都が強行され,さらに行幸の足跡は全国に及んだ。ことに72年の旧山口・鹿児島両藩地行幸を主眼とする中国・西国巡幸に始まり,前後6回にわたった巡幸は,北は北海道から南は鹿児島に及び,分権的封建国家から中央集権的近代国家への転換を強力に推進した。また77年東京開催を第1回として5回に及んだ内国勧業博覧会の行幸と,92年に始まる陸軍特別大演習の行幸および民情視察は,富国強兵の国策を象徴するものであった。また第2次世界大戦後,戦災慰問と産業復興を目的とした行幸は,︿昭和の巡幸﹀といわれ,1946年の神奈川県に始まって,54年の北海道行幸まで,全国各地に及んだ。さらに71年の欧州諸国歴訪と75年の米国訪問は,はじめての海外行幸であり,旧交戦国との和解と親善を達成する役割を果たした。
一方,明治に入って,欧米化,近代化に伴い,行幸の諸制度も大きく改変された。一例を天皇の乗用の具に見ると,正式行幸の際の鳳輦︵ほうれん︶をはじめ,平常の葱花︵そうか︶輦や略式の腰輿などの輿は,洋式馬車から自動車に変わり,また汽車,さらに飛行機さえ利用されるに至った。洋式馬車の採用は1871年,自動車は1913年に始まり,汽車の乗用は1872年の新橋・横浜間鉄道開業式,飛行機の搭乗は1954年北海道巡幸の帰途の千歳・羽田間を最初とする。皇后・皇太后・皇太子などの出行を行啓と称することは,平安時代以来慣例となったが,明治以降はこれが公称となった。行啓の範囲も明治になって一挙に拡大され,とくに皇太子の行啓は,見学・視察を目的として全国に及んだ。また1907年の皇太子韓国訪問は,韓国併合政策の一端をにない,21年の皇太子欧州歴訪は国際協調主義外交を推進する役割を果たした。さらに53年の皇太子のイギリス女王戴冠式参列と欧米14ヵ国訪問は,戦後の日本の国際社会復帰を内外に表明した。
執筆者‥橋本 義彦
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行幸(ぎょうこう)
ぎょうこう
﹁みゆき﹂とも読み、﹁幸﹂または﹁御幸﹂とも書く。天皇の出行をいう。天子の行く所、万民が恩恵に浴するので﹁幸﹂というと古書にみえる。平安中期以降、上皇の場合を御幸(ごこう)といって行幸と区別した。明治以後、行幸について鹵簿(ろぼ)︵行列︶や行在所(あんざいしょ)の制をはじめ、各種の規定がつくられたが、大宝(たいほう)・養老令(ようろうりょう)や﹃延喜式(えんぎしき)﹄にも、行幸の際は衛府(えふ)の官人らが儀仗(ぎじょう)を整え、列次を組んで警固し、駐泊所は行在所または行宮(あんぐう)といい、行幸に先だち官人を遣わして検察すべきことなどが定められている。奈良時代までは、遷都も含めて、畿内(きない)近辺の行幸の例は少なくないが、794年︵延暦13︶の平安奠都(てんと)以後は、安徳(あんとく)天皇の福原行幸や南北朝争乱期の諸天皇の遷幸などを除いて、ほとんど都下ないしその近郊の行幸に限られ、わずかに数度の南都春日社(かすがしゃ)行幸をみるだけである。なお上皇の場合は行動も比較的自由で、白河(しらかわ)上皇から後嵯峨(ごさが)上皇にわたる間の熊野御幸(ごこう)はとくに有名である。江戸時代に入ると、幕府の朝廷に対する統制が強まり、京中の行幸すらほとんど行われなかったが、幕末孝明(こうめい)天皇が攘夷(じょうい)祈願のため石清水(いわしみず)・賀茂(かも)両社に行幸したのは、その制約を破棄する契機ともなり、1868年︵明治1︶の大阪親征行幸を皮切りに旧慣は打破され、ついで東征と東京遷都が強行され、その後は行幸の足跡は全国に及んだ。ことに、72年の旧山口・鹿児島両藩地行幸を主目的とする中国・西国巡幸に始まり前後6回にわたった巡幸は、北は北海道から南は鹿児島に及び、分権的封建国家から中央集権的近代国家への転換を強力に推進した。また77年東京開催に始まり5回に及んだ内国勧業博覧会の行幸と、頻繁な大小陸海軍演習の行幸は、富国強兵の国策を象徴するものであった。また第二次世界大戦後の戦災慰問と産業復興を目的とした行幸は、﹁昭和の巡幸﹂といわれ、1946年︵昭和21︶の神奈川県下行幸に始まって、54年の北海道行幸まで、全国各地に及んだ。さらに71年の欧州諸国歴訪と75年のアメリカ訪問は、史上未曽有(みぞう)の海外行幸であり、旧交戦国との和解と親善を達成する役割を果たした。
皇后、皇太后、皇太子などの出行を行啓(ぎょうけい)と称することは、平安時代以来の慣例であったが、明治以降はこれが公称となった。行啓の範囲も明治に入って一挙に拡大され、とくに1907年︵明治40︶の皇太子韓国訪問は、韓国併合政策の一端を担い、21年︵大正10︶の皇太子欧州歴訪は、国際協調主義外交を推進する役割を果たした。さらに第二次大戦後も、皇太子・同妃の海外訪問は20回にも及び、国際親善に大きな成果をあげている。
﹇橋本義彦﹈
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行幸【ぎょうこう】
天皇が内裏から他所に移動すること。幸(みゆき)とも。天子の行く所万民が幸を受ける意という。皇后・皇太子は御啓(ぎょけい),平安時代以降太上(だいじょう)天皇(上皇)は御幸(ごこう)という。古代には令などの規定により警備,列次の組み方,宮城門の開閉,留守官,行宮(あんぐう)の検察,沿道寺社への奉幣などが決められていた。江戸時代には幕府の規制が厳しかったが,1868年の大阪親征行幸以降全国を巡幸し,中央集権的近代国家への転換の推進が図られた。1946年のいわゆる昭和の巡幸は,戦災慰問と産業復興を目的とした。
→関連項目安曇江|河陽宮|主殿寮|鳥養牧|頓宮|由義宮
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行幸
ぎょうこう
天皇の外出をいう。行先が2ヵ所以上にわたっているときは「巡幸」,帰りは「還幸」といわれ,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子の場合は「行啓」という言葉が用いられた。明治になってから,太政官布告によって法律上の用例となったが,第2次世界大戦後その使用が廃止された。
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世界大百科事典(旧版)内の行幸の言及
【行宮】より
…似た語句に〈行在所(あんざいしよ)〉がある。養老令の儀制令に,行幸中の天皇のことを〈車駕(きよが)〉といい,車駕の所に赴くことを,行在所にもうでるといえ,と規定している。また《続日本紀》神亀3年(726)10月10日条に,〈行在所に供奉せる者〉と,〈行宮の側近の百姓〉のごとく,行在所と行宮の両語句を使い分けている。…
【天皇】より
…つねに母の建礼門院徳子といっしょに各地を遊幸しているところからみると,その基底には,旅の母と子という主題がこめられているらしい。神話上はもちろん,近代に入っても,明治天皇の行幸形態のなかにもその要素が濃厚に残存しているといえる。その場合,天皇は,行幸の際の休止所で,丁重にもてなされて,去った後,とどまった空間が聖地と化して保存される傾向があった。…
【鹵簿】より
…儀仗警衛の隊伍を整えた[行幸]の列。明治以後は皇后以下皇族の行列にも用いた。…
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