日本大百科全書(ニッポニカ) 「達磨(禅宗の開祖)」の意味・わかりやすい解説
達磨(禅宗の開祖)
だるま
生没年不詳。禅宗の開祖。インド名はボーディダルマBoddhi-dharma。詳しくは菩提(ぼだい)達磨であり、達摩とも書く。6世紀の初め、西域(さいいき)より華北に渡来し、洛陽(らくよう)を中心に活動した。唐代中期、円覚大師と諡(おくりな)される。従来、11世紀にまとめられる伝承説話以外に、伝記も思想も不明であったが、20世紀に入って敦煌(とんこう)で発見された語録によって、壁観(へきかん)とよばれる独自の禅法と、弟子たちとの問答が確認され、その実像が明らかとなる。同時代の仏教が煩瑣(はんさ)な哲学体系に傾くなかで、壁が何ものも寄せ付けぬように、本来清浄な自性に目覚め、ずばり成仏せよと説く、平易な口語の宗教運動家であった。あたかも8世紀より9世紀にかけて、急激な社会変革の時代に、人々は新仏教の理想を達磨に求め、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)︵文字や言語、経典によって伝えられるものでなく、師弟の心から心に直接伝えられる︶、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)︵ずばりと、自己の心をつかむことによって、自己が本来は仏であると気づくこと︶の四句に、その教義と歴史をまとめる。達磨は仏陀(ぶっだ)より28代の祖師で、正法を伝えるために中国に渡来する。南海を経て南朝の梁(りょう)に至り、仏教学の最高峰武帝︵蕭衍(しょうえん)︶と問答するが、正法を伝えるに足らずとし、ひそかに北魏(ほくぎ)の嵩山(すうざん)の少林寺で、のちに第二祖となる慧可(えか)に会ったともいう。慧可が達磨に入門を求めて顧みられず、一臂(いっぴ)を断って誠を示した説話や、﹁私は心が落ち着きません、どうか私の心を落ち着かせてください。君の落ち着かぬ心を、ひとつ俺(おれ)にみせてくれ、そうすれば落ち着かせてやる。それはどこを探しても、みつけることができません。俺はいま、君の心を落ち着かせ終わった﹂という、慧可との安心問答は有名である。達磨の禅の特色は、そうした対話の語気にあり、やがて人々は、祖師西来意︵達磨は中国に何をもたらしたか︶を問うようになる。この問いに答えることが禅宗のすべてである。
達磨はさらに日本にきて、聖徳太子と問答したとされ、平安末期に達磨宗がおこって、鎌倉新仏教の先駆けとなる。禅宗史の発展が達磨の人と思想を理想化し、新しい祖師像を生むのである。近世日本で、頭から全身に紅衣をかぶり坐禅(ざぜん)する起きあがり小法師(こぼし)の人形で知られる福(ふく)達磨の民俗信仰がおこり、宗派を超えて広く日常化する。祖師達磨の新しい理想化の一つである。
﹇柳田聖山 2017年3月21日﹈
﹃松本文三郎著﹃達磨﹄︵1911・図書刊行会︶﹄▽﹃関口真大著﹃達磨の研究﹄︵1967・岩波書店︶﹄▽﹃柳田聖山著﹃ダルマ﹄︵﹃人類の知的遺産16﹄1981・講談社︶﹄
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