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横山貞裕は、﹁和銅2年︵709年︶、出羽で[[蝦夷]]の反乱が起きた。征越後将軍[[佐伯石湯]]が征伐に行った。越前・越中・越後・佐渡の船百艘が出羽征狄所に送られた。その時の船の3分の2、長さ11メートルが[[赤川]]の上流、[[藤島町]]で見つかった。全長は15メートルか。幅1.2メートル、深さ54.5センチメートル、板の厚さ4.5センチメートル、材質は大杉、割竹型のくり船。この頃は波の静かな日に出発、夕方には次の目的地都岐沙羅柵に着き、1日かけて出土地に着けた。漕ぎ方は両側にかいを以て並ぶ。吃水船が浅く速力はあまり出ないが安定性がある﹂と、当時の舟について記している{{Sfn|横山|1983|p=18-19|}}。横山貞裕に従えば、磐舟柵付近から府屋の浜までの約40キロメートルを、1日で航行できたことになる。なお、﹃山北村郷土史﹄および横山貞裕は、都岐沙羅柵を府屋の隣の、山形県鼠ヶ関附近としている。
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横山貞裕は、﹁和銅2年︵709年︶、出羽で[[蝦夷]]の反乱が起きた。征越後将軍[[佐伯石湯]]が征伐に行った。越前・越中・越後・佐渡の船百艘が出羽征狄所に送られた。その時の船の3分の2、長さ11メートルが[[赤川]]の上流、[[藤島町]]で見つかった。全長は15メートルか。幅1.2メートル、深さ54.5センチメートル、板の厚さ4.5センチメートル、材質は大杉、割竹型のくり船。この頃は波の静かな日に出発、夕方には次の目的地都岐沙羅柵に着き、1日かけて出土地に着けた。漕ぎ方は両側にかいを以て並ぶ。吃水船が浅く速力はあまり出ないが安定性がある﹂と、当時の舟について記している{{Sfn|横山|1983|p=18-19|}}。横山貞裕に従えば、磐舟柵付近から府屋の浜までの約40キロメートルを、1日で航行できたことになる。なお、﹃山北村郷土史﹄および横山貞裕は、都岐沙羅柵を府屋の隣の、山形県鼠ヶ関附近としている。
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[[ファイル:米軍による1948年(昭和23年)撮影の写真 鼠ヶ関.jpg|代替文=米軍による1948年(昭和23年)撮影の写真 |
[[ファイル:米軍による1948年(昭和23年)撮影の写真 鼠ヶ関.jpg|代替文=米軍による1948年(昭和23年)撮影の写真 鼠ヶ関|サムネイル|米軍による1948年(昭和23年)撮影の写真 鼠ヶ関]] |
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鼠ヶ関について長井政太郎は「部落は陸繫島辯天岩と本土とを結ぶ五、六米の高さを有する砂嘴の上に發生したもので、東方の山地との間の三角形の低湿地は水田に利用せられてゐる。恐らく砂嘴の爲に堰られた潟湖が次第に鼠ヶ關川に依つて埋没せられたものらしい。部落より二、三米低い。」と述べ、鼠ケ関の三角形状水田地帯は潟湖であったとしている{{Sfn|長井|1933|p=189}}。また、[[田中啓爾]]監修の『郷土新書(第6)』には「加茂台地から鼠ヶ関までの海岸と北の吹浦海岸は磯浜であるが、ほとんど一直線で出入りにとぼしく、頁岩を貫いて噴出した玄武岩の蔭に小さな浜があるのみ」「小さな湾が油戸・由良・小波渡・鼠ヶ関等に見られる。」とあり、鼠ケ関の海岸は磯浜であることを指摘している{{Sfn|田中|1950|p=33}}。 |
鼠ヶ関について長井政太郎は「部落は陸繫島辯天岩と本土とを結ぶ五、六米の高さを有する砂嘴の上に發生したもので、東方の山地との間の三角形の低湿地は水田に利用せられてゐる。恐らく砂嘴の爲に堰られた潟湖が次第に鼠ヶ關川に依つて埋没せられたものらしい。部落より二、三米低い。」と述べ、鼠ケ関の三角形状水田地帯は潟湖であったとしている{{Sfn|長井|1933|p=189}}。また、[[田中啓爾]]監修の『郷土新書(第6)』には「加茂台地から鼠ヶ関までの海岸と北の吹浦海岸は磯浜であるが、ほとんど一直線で出入りにとぼしく、頁岩を貫いて噴出した玄武岩の蔭に小さな浜があるのみ」「小さな湾が油戸・由良・小波渡・鼠ヶ関等に見られる。」とあり、鼠ケ関の海岸は磯浜であることを指摘している{{Sfn|田中|1950|p=33}}。 |
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これらを予測していたのか、田中圭一は﹁府屋は古代における国府の機関が置かれたのではないか。この問題は私達が一度ならずして考えたことであった。﹂と記している{{Sfn|田中|1969|p=10}}。
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これらを予測していたのか、田中圭一は﹁府屋は古代における国府の機関が置かれたのではないか。この問題は私達が一度ならずして考えたことであった。﹂と記している{{Sfn|田中|1969|p=10}}。
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'''アイヌ語で解釈できる地名 |
'''アイヌ語で解釈できる地名 都岐沙羅''' |
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蝦夷について埴原和郎は「蝦夷が狩猟を主な生業としたことや、顔や体つきがーおそらく都の北アジア系の人の人々からみてからみて―特異であったことが伺える。(中略)蝦夷はどうやら在来の縄文系集団の子孫ではないかと思える」「「日本書紀」に書かれているようにエミシが都人とは生活様式も姿かたちも大きく違っていたとすれば、それは文化的には縄文系文化の系統を引き継いでおり、遺伝的には混血の割合がゼロ、ないしはごくわずかだったためと思える」と記している |
蝦夷について埴原和郎は「蝦夷が狩猟を主な生業としたことや、顔や体つきがーおそらく都の北アジア系の人の人々からみてからみて―特異であったことが伺える。(中略)蝦夷はどうやら在来の縄文系集団の子孫ではないかと思える」「「日本書紀」に書かれているようにエミシが都人とは生活様式も姿かたちも大きく違っていたとすれば、それは文化的には縄文系文化の系統を引き継いでおり、遺伝的には混血の割合がゼロ、ないしはごくわずかだったためと思える」と記している<ref>{{Cite journal|和書|author=埴原和郎 |year=1998 |month=06 |title=日本人の誕生 |journal=CEL : Culture, energy and life |publisher=大阪 : 大阪ガスネットワークエネルギー・文化研究所 |issue=45 |pages=27-32 |naid=40004794621 |CRID=1523951030628069888 |quote=特集 人間らしさの再発見「人間性の源とは何か」}} p.201-203 より</ref>) |
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熊谷公男は﹁アイヌ民族の基礎となるアイヌ文化の形成時期は、現在では十三世紀ごろと見るのが普通である。そうすると古代蝦夷は、アイヌ民族が形成される以前に列島の北方地域に居住していた人々と言うことになるから、そもそも蝦夷=アイヌという等式は成り立ちえないのである。﹂ |
熊谷公男は﹁アイヌ民族の基礎となるアイヌ文化の形成時期は、現在では十三世紀ごろと見るのが普通である。そうすると古代蝦夷は、アイヌ民族が形成される以前に列島の北方地域に居住していた人々と言うことになるから、そもそも蝦夷=アイヌという等式は成り立ちえないのである。﹂{{sfn|熊谷公男|2004|p=214}}。
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北海道遺跡分布図には2022年8月 |
北海道遺跡分布図には2022年8月時点、確認された縄文遺跡は7486件ある<ref>(生涯学習推進局文化財・博物館課 - 教育庁生涯学習推進局文化財・博物館課 hokkaido.lg.jp)</ref> |
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吉崎昌一は﹁その地名がアイヌ語によって解釈出来るということと、近世アイヌが実際そこへ行ってアイヌ語で地名を付けたかは別。﹂﹁アイヌ語は日本でかつて使われていた古い言葉の面影を残しているのだから、地名がアイヌ語で解釈出来たとしても不思議はない。﹁本州に地名が付けられたのは、古い段階ではまず縄文文化のステージ、続いて弥生文化の頃だ。土器文化になって、東北地方と北海道の一部の文化が共通する文化がずっと続くね。それから続縄文文化にはいって、北海道の後北文化がずっと本州へ南下する段階がある。そのときつけられたもので、以上はいずれもアイヌ成立以前で、たまたまそれらの地名がアイヌ語で解釈出来るというものだ。アイヌが付けたと言うのは、実際アイヌがそこへ行くか住むかしかない場合だ。﹂と述べている |
吉崎昌一は﹁その地名がアイヌ語によって解釈出来るということと、近世アイヌが実際そこへ行ってアイヌ語で地名を付けたかは別。﹂﹁アイヌ語は日本でかつて使われていた古い言葉の面影を残しているのだから、地名がアイヌ語で解釈出来たとしても不思議はない。﹁本州に地名が付けられたのは、古い段階ではまず縄文文化のステージ、続いて弥生文化の頃だ。土器文化になって、東北地方と北海道の一部の文化が共通する文化がずっと続くね。それから続縄文文化にはいって、北海道の後北文化がずっと本州へ南下する段階がある。そのときつけられたもので、以上はいずれもアイヌ成立以前で、たまたまそれらの地名がアイヌ語で解釈出来るというものだ。アイヌが付けたと言うのは、実際アイヌがそこへ行くか住むかしかない場合だ。﹂と述べている{{sfn|アイヌ : シンポジウムその起源と文化形成|p=200,201}}。
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増田隆一は﹁オホーツク人のミトコンドリアDNAハプログループは、A︵8. |
増田隆一は﹁オホーツク人のミトコンドリアDNAハプログループは、A︵8.1%︶、B︵2.7%︶、C3(5,4%)、G1︵24,3%︶,M7︵5.4%︶、N9︵10.8%︶、Y︵43,2%︶であった。﹂﹁海外の既報の研究によると、ウリチ、ニヴフ、ネギタールなどアムール川下流域の現代集団においても、ハプログループYが存在することが分かっている。﹂﹁ニヴフにおいてはハプログループY頻度が極めて高い︵約66%︶。﹂と報告している。加えて、 sato et al 2009aより として 図2 ﹁これまでの分析でオホーツク人と北海道縄文系との間の遺伝子流動と変遷﹂を掲載し、﹁北海道縄文人→続縄文人/擦文→アイヌ←オホーツク人↔アムール河下流域集団の祖先﹂を図を紹介している<ref>{{Cite journal|和書|author=増田隆一 |date=2013-03 |url=https://hdl.handle.net/2115/52564 |title=遺伝的特徴から見たオホーツク人 : 大陸と北海道の間の交流 |journal=北海道大学総合博物館研究報告 |ISSN=1348-169X |publisher=北海道大学総合博物館 |volume=6 |pages=103-108 |hdl=2115/52564 |CRID=1050001339013381760}}</ref>。
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篠田謙一は﹁縄文時代にはなかったハプログループYがオホーツク文化人によってもたらされ両者の混合によってアイヌが誕生した。と、図7―5 |
篠田謙一は﹁縄文時代にはなかったハプログループYがオホーツク文化人によってもたらされ両者の混合によってアイヌが誕生した。と、図7―5 ﹁北海道のミトコンドリアDNAハプログループの変遷﹂を円グラフで表し説明している。そのグラフには、縄文~続縄文・オホーツク文化・近世アイヌ・現代アイヌのミトコンドリアDNAハプログループの割合が示されて、縄文~続縄文にはYは見られず、オホーツク文化人のYが43%、近世アイヌのYが31%、現代アイヌのYが19%と示されている。なお、縄文~続縄文 [5世紀] オホーツク文化 [9世紀] 近世アイヌ、とそれぞれの間には、いつ頃かの文字がある。また、縄文~続縄文 [7世紀] 擦文 ︷13世紀︸ アイヌと、アイヌ文化の始まりを13世紀からとしている<ref>︵篠田謙一 新版日本人になった祖先たち NHK出版 2019年4刷 p.208-209︶</ref>。
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安達登は﹃学術的研究で明らかにする関東地方縄文時代人の人類学的・考古学的実像﹄の研究概要に﹁考古学的に、北海道においては縄文時代終末期~続縄文時代になると、若いイヌを解体したことを示す証拠が急に出現しだす。類似の事例は続縄文時代並行期のサハリンにおいても見られ、イヌを食用としたことを示す証拠と考えられている。一般に、狩猟のために重要な役割を果たすイヌは狩猟民の間では大切に扱われるが、それを食用に供するという大きな変化は、単に文化や習慣の移入だけでは説明が難しい。ハプログループの変遷と考古学的知見を併せ考えると、縄文時代終末期~続縄文時代に、北海道在来集団とは遺伝的背景が異なる人類集団が、ユーラシア大陸北東部から北海道に渡来してきた可能性があるものと考えられる。﹂と指摘している |
安達登は﹃学術的研究で明らかにする関東地方縄文時代人の人類学的・考古学的実像﹄の研究概要に﹁考古学的に、北海道においては縄文時代終末期~続縄文時代になると、若いイヌを解体したことを示す証拠が急に出現しだす。類似の事例は続縄文時代並行期のサハリンにおいても見られ、イヌを食用としたことを示す証拠と考えられている。一般に、狩猟のために重要な役割を果たすイヌは狩猟民の間では大切に扱われるが、それを食用に供するという大きな変化は、単に文化や習慣の移入だけでは説明が難しい。ハプログループの変遷と考古学的知見を併せ考えると、縄文時代終末期~続縄文時代に、北海道在来集団とは遺伝的背景が異なる人類集団が、ユーラシア大陸北東部から北海道に渡来してきた可能性があるものと考えられる。﹂と指摘している<ref>︵安達登 学術的研究で明らかにする関東地方縄文時代人の人類学的・考古学的実像 KAKEN 2011年度実施実績報告書 研究領域番号 23570280 研究機関 山梨大学 研究代表者 安達 登 ︶</ref>。
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斎藤成也は「ミトコンドリアDNAのデータからみて、アイヌ人に系統的に最も近いのは、樺太北部に居住するニブヒ人だった。」と記している |
斎藤成也は「ミトコンドリアDNAのデータからみて、アイヌ人に系統的に最も近いのは、樺太北部に居住するニブヒ人だった。」と記している<ref>{{cite book|和書 |author=斎藤成也 |title=日本人の源流 : 核DNA解析でたどる |publisher=河出書房新社 |year=2017 |page=178 |ISBN=978-4-309-25372-5 |id={{NDLJP|11299927}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I028568448}}<br />関連プロジェクト:[https://cir.nii.ac.jp/crid/1040282257216040832 全ゲノム解析法を用いた縄文人と渡来系弥生人の関係の解明] 科学研究費助成事業 研究課題/領域番号: 25251043</ref>。 |
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五十嵐由里子は﹁女性人骨にいては、寛骨の耳状面前下部に現れる妊娠痕の発達程度から、妊娠回数が﹁多かった﹂か﹁少なかった﹂か、﹁なかった﹂かを推定できる。﹁子供の死亡率は、北海道集団で最も高い。このことは北海道縄文人は、集団を安定して存続させるために、他の集団より多くの子供を産まなければならなかった。北海道の縄文集団は子供の死亡率も高く出生率も高い。日本列島の北に行けば行くほど、集団は多産多死型になり、南に行けば行くほど、少産少死型になっていた。﹂とし、図4﹁死亡年齢分布﹂で、北海道、宮城県‥蝦島、福島県‥三貫地、愛知県‥吉胡、愛知県‥伊川津、岡山県‥津雲の古人骨を解析した結果﹁生存率‥北海道 |
五十嵐由里子は﹁女性人骨にいては、寛骨の耳状面前下部に現れる妊娠痕の発達程度から、妊娠回数が﹁多かった﹂か﹁少なかった﹂か、﹁なかった﹂かを推定できる。﹁子供の死亡率は、北海道集団で最も高い。このことは北海道縄文人は、集団を安定して存続させるために、他の集団より多くの子供を産まなければならなかった。北海道の縄文集団は子供の死亡率も高く出生率も高い。日本列島の北に行けば行くほど、集団は多産多死型になり、南に行けば行くほど、少産少死型になっていた。﹂とし、図4﹁死亡年齢分布﹂で、北海道、宮城県‥蝦島、福島県‥三貫地、愛知県‥吉胡、愛知県‥伊川津、岡山県‥津雲の古人骨を解析した結果﹁生存率‥北海道‥0~9、10~19才=約45%、20~49才=10%。50~60才‥0%。愛知県吉胡‥0~9才=約100%、10~19才=90%、20~49=55%、59~69才‥0%﹂とグラフに表している。しかし、古墳寒冷期に縄文人~縄文人とオホーツク人との遺伝交流で生まれたというアイヌの多産多死や生存率の予測はされていない。また、縄文時代6地域の観察個体数を見ると、女性が208、男性が155、と示されている。女性の埋葬が男性より多いことは、ムラの集団は母系社会を思わせるが、そのことの記載はない<ref>︵五十嵐由里子 縄文時代の出産率と寿命 日本人類学会︵第54回日本人類学会サテライト・シンポジューム︶平成12年 P.7-10要約︶ 公開シンポジウム (anthropology.jp)</ref>。
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オホーツク文化の南下について吉崎昌一は﹁紀元五~七世紀にかけて、小氷河期とも言われた寒い時期ありますね。﹂﹁気候の寒冷化で流氷の分布が変わり、海獣を追って沿岸のフィッシャー・ハンターが南下してくる理由に説明がつく。﹂と話している |
オホーツク文化の南下について吉崎昌一は﹁紀元五~七世紀にかけて、小氷河期とも言われた寒い時期ありますね。﹂﹁気候の寒冷化で流氷の分布が変わり、海獣を追って沿岸のフィッシャー・ハンターが南下してくる理由に説明がつく。﹂と話している{{sfn|アイヌ : シンポジウムその起源と文化形成|p=46}}。
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八木光則は﹁後北C2・D式の分布図とペつ系地名の分布図とを比較すると、強い相関関係は認められない。﹂﹁続縄文文化の濃密な下北―盛岡は、特にアイヌ語系の濃密な地域となっていない。また、ナィ地域が濃密な秋田県南部では後北C2・Dは出土していない。﹂﹁ぺツ系地名の形成時期については縄文時代後期十腰内1式以降の環状列石を造り上げた地域との関係が最も整合的と考えられる。﹂﹁十腰内期から続縄文後半期の後北C2・Dの分布時期まで、アイヌ語系地名は温存され長い年月の間に定着していいたものと考えられる。﹂﹁ナィ系地名はぺツより古いから、縄文時代後期以前に形成されたことになる。﹂と記し |
八木光則は﹁後北C2・D式の分布図とペつ系地名の分布図とを比較すると、強い相関関係は認められない。﹂﹁続縄文文化の濃密な下北―盛岡は、特にアイヌ語系の濃密な地域となっていない。また、ナィ地域が濃密な秋田県南部では後北C2・Dは出土していない。﹂﹁ぺツ系地名の形成時期については縄文時代後期十腰内1式以降の環状列石を造り上げた地域との関係が最も整合的と考えられる。﹂﹁十腰内期から続縄文後半期の後北C2・Dの分布時期まで、アイヌ語系地名は温存され長い年月の間に定着していいたものと考えられる。﹂﹁ナィ系地名はぺツより古いから、縄文時代後期以前に形成されたことになる。﹂と記し<REF>︵八木光則 アイヌ語系地名と蝦夷 古代国家と北方世界 小口雅史 同成社 2017 p256~257要約︶</REF> ﹁東北地方の環状列石は、縄文時代後期の初期~縄文時代晩期につくられたが、その範囲はベツが多く分布する範囲と重なる。このことからペつは縄時代後期~晩期に形成されたと考えられる。ぺツはナイの内側に分布している。ぺつの形成は四世紀よりも前 ︵P159~160要約︶﹂﹁ナイ・ベツのアイヌ語系地名は、縄文時代に形成されたと考えられる。﹂と記している<ref>{{cite book|和書|author=御所野縄文博物館 |chapter=八木光則﹁縄文時代にさかのぼるアイヌ語系地名﹂ |title=環状列石ってなんだ : 御所野遺跡と北海道・北東北の縄文遺跡群 |publisher=新泉社 |year=2019 |page=163 |ISBN=9784787718198 |id={{国立国会図書館書誌ID|029592642}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I029592642}}</ref>
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都岐沙羅について山田秀三は﹁都岐沙羅はアイヌ語地名に多いサラ(sar葭原)が付いた名かも知れません。だが、トキサラ︵to-Kisara沼の耳・耳︶だったのじゃないでしょうか。沼の一部がくびれたようになったところをトキサラと呼び、北海道の諸地に地名が残っています。﹂﹁都岐沙羅の柵はくびれ込んだトキサラ︵沼の耳︶のところを要害として築かれたのではないでしょうか。﹂︵山田秀三著作集1アイヌ語地名の研究1982年草風館p122~123︶と記している。知里真志保は﹃地名アイヌ語小辞典﹄で、﹁ト・キサラ﹁to′-kisar,-a |
都岐沙羅について山田秀三は﹁都岐沙羅はアイヌ語地名に多いサラ(sar葭原)が付いた名かも知れません。だが、トキサラ︵to-Kisara沼の耳・耳︶だったのじゃないでしょうか。沼の一部がくびれたようになったところをトキサラと呼び、北海道の諸地に地名が残っています。﹂﹁都岐沙羅の柵はくびれ込んだトキサラ︵沼の耳︶のところを要害として築かれたのではないでしょうか。﹂︵山田秀三著作集1アイヌ語地名の研究1982年草風館p122~123︶と記している。知里真志保は﹃地名アイヌ語小辞典﹄で、﹁ト・キサラ﹁to′-kisar,-a とキサㇽ 原義‘沼耳’: 沼の奥が耳のように陸地に入り込んでいる部分。﹂と、北海道豊頃町の湧洞沼の線画図を描いて説明している<ref>︵地名アイヌ語小辞典1956年北海道出版企画センター p.130︶</ref>。
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菱沼右一は |
菱沼右一は 埼玉 上妻・中妻・下妻について ﹁この名のある處は濕地である、思ふに此處に二つの言葉があるやうに思はれる、卽ち﹁ツマ﹂と云う言である、これはトマとも發音される、アイヌ語にトマン又はツマンと云ふ濕地に付けられる言葉がある、卽ちTomanである、﹁沼の湿地﹂とい云ふ、時としては﹁沼﹂をもトマンと云ふ場合がある、︵以下略︶﹂と記し、沼はト・ツと読むことを示している<ref>︵菱沼右一 アイヌ語よりみた日本地名新研究‥江戸以前の東京 中央新報社 昭和14、p.17 国立国会図書館デジタルコレクション 18/174 コマ 書誌ID 000000705410︶</ref>。
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﹃国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ﹄の﹁辞典﹂では。'''kisar'''キサラ ︻名︼[概](所は kisara(ha) キサラ(ハ)) ①耳。 ②(patci パッチ︽鉢︾や sintoko シントコ︽行器、 ひつ︾やsuス︽鍋︾等に二つついている)突起。 ︵出典‥田村、方言‥沙流︶'''kisar''' キサラ ︻kisar︼ 葦︵あし︶原、︵出典‥萱野、方言‥沙流︶'''kisar'''(-a)キサラ §731.みみ︵耳︶(1)kisar(-a)︹ki-sár キさラ︺⦅H. 一般⦆ ︵出典‥知里人間編I、方言‥︶'''kisara'''(r-u)キサラ .みみ︵耳︶(2)kisara(r-u)︹ki-sá-ra キさラ︺[<kisar]⦅S. タライカを除く⦆ ︵出典‥知里人間編I、方言‥︶'''kisar/kisara(ha)''' キサラ/キサラ︵ハ︶ ︻kisar/kisara(ha)︼ 耳. ︵出典‥萱野、方言‥沙流︶'''kisara(ha)'''キサラ(ハ) ︻名︼[所](概は kisar キサラ)…の耳 ︵出典‥田村、方言‥沙流︶と、﹁耳﹂と﹁葦原﹂を出店載せて掲載している |
『国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ』の「辞典」では。'''kisar'''キサラ 【名】[概](所は kisara(ha) キサラ(ハ)) ①耳。 ②(patci パッチ《鉢》や sintoko シントコ《行器、 ひつ》や su ス《鍋》等に二つついている)突起。 (出典:田村、方言:沙流)'''kisar''' キサラ 【kisar】 葦(あし)原、(出典:萱野、方言:沙流)'''kisar'''(-a)キサラ §731.みみ(耳)(1)kisar(-a)〔ki-sár キさラ〕⦅H. 一般⦆ (出典:知里人間編I、方言:)'''kisara'''(r-u)キサラ .みみ(耳)(2)kisara(r-u)〔ki-sá-ra キさラ〕[<kisar]⦅S. タライカを除く⦆ (出典:知里人間編I、方言:)'''kisar/kisara(ha)''' キサラ/キサラ(ハ) 【kisar/kisara(ha)】 耳. (出典:萱野、方言:沙流)'''kisara(ha)'''キサラ(ハ) 【名】[所](概は kisar キサラ)…の耳 (出典:田村、方言:沙流)と、「耳」と「葦原」を出店載せて掲載している<ref>(国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ2024年5月19日閲覧) (nam.go.jp) </ref> |
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高田 純は、北海道で発見された遺跡数から推計された縄文期以後の人口と人口密度を表1で示し、﹁北海道人口は、縄文早期の0.87万から中期に極大の6,5万に増加し、その後、後期の3.9万に減少した。後期から晩期、続縄文期まで大きな人口変化はなかった。ただし、700年前後にオホーツク人が道東沿岸地域に侵入し、人口が4.7千追加された。この追加は、当時の北海道人口の11%増となり大きな変化であった。その後、アイヌ期人口は顕著に減少した﹂と述べ、さらに、結語とし﹁擦文期600年頃、オホーツク沿岸に異文化の人々が移住してきた。その人口は11%と無視できないほど多数であった。しかし数百年の間に、彼らは元々の北海道縄文人と融和したと考えられる。﹂まとめている |
高田 純は、北海道で発見された遺跡数から推計された縄文期以後の人口と人口密度を表1で示し、﹁北海道人口は、縄文早期の0.87万から中期に極大の6,5万に増加し、その後、後期の3.9万に減少した。後期から晩期、続縄文期まで大きな人口変化はなかった。ただし、700年前後にオホーツク人が道東沿岸地域に侵入し、人口が4.7千追加された。この追加は、当時の北海道人口の11%増となり大きな変化であった。その後、アイヌ期人口は顕著に減少した﹂と述べ、さらに、結語とし﹁擦文期600年頃、オホーツク沿岸に異文化の人々が移住してきた。その人口は11%と無視できないほど多数であった。しかし数百年の間に、彼らは元々の北海道縄文人と融和したと考えられる。﹂まとめている<ref>{{Cite journal|和書|author=高田純 |date=2017-03 |url=https://sapmed.repo.nii.ac.jp/records/13994 |title=縄文早期以後の北海道人口密度 |journal=札幌医科大学医療人育成センター紀要 |publisher=札幌医科大学医療人育成センター |issue=8|pages=29-36|doi=10.15114/jcme.8.29 |CRID=1390290699788471168}}</ref>。
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これら埴原和郎・熊谷公男・吉崎昌一・八木光則・菱沼右一/高田 純の論に加え、増田隆一・篠田謙一・安達 登・斎藤成也・五十嵐由里子や北海道縄文遺跡を合わせると、都岐沙羅がアイヌ語で解釈できる「トキサラ」であったとしても、吉崎昌一の言うように、それは最初に住んだ縄文人の言葉であり、埴原和郎が言う縄文人の末裔である蝦夷の言葉につながるということや、五十嵐由里子に従えば古墳寒冷期で安定的な集団を維持できない人達が、地名をつけるほど本土には進出していないことを示唆している。なお、菱沼右一の言うようにトマンは「沼の湿地」であれば、ツマンも「沼の湿地」であり、沼はト・ツと読むことになるが、都岐沙羅は「ツキサラ」と読むことを『アイヌ語よりみた日本地名新研究:江戸以前の東京』には記されていない。 |
これら埴原和郎・熊谷公男・吉崎昌一・八木光則・菱沼右一/高田 純の論に加え、増田隆一・篠田謙一・安達 登・斎藤成也・五十嵐由里子や北海道縄文遺跡を合わせると、都岐沙羅がアイヌ語で解釈できる「トキサラ」であったとしても、吉崎昌一の言うように、それは最初に住んだ縄文人の言葉であり、埴原和郎が言う縄文人の末裔である蝦夷の言葉につながるということや、五十嵐由里子に従えば古墳寒冷期で安定的な集団を維持できない人達が、地名をつけるほど本土には進出していないことを示唆している。なお、菱沼右一の言うようにトマンは「沼の湿地」であれば、ツマンも「沼の湿地」であり、沼はト・ツと読むことになるが、都岐沙羅は「ツキサラ」と読むことを『アイヌ語よりみた日本地名新研究:江戸以前の東京』には記されていない。 |
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一方で瀬川拓郎は﹃アイヌ学入門﹄で、﹁東北地方に多くのアイヌ語の地名がある。この事実はアイヌ集団が東北にいたということ。アイヌ語地名は日本語集団が東北地方に進出し、アイヌ語集団と入れかわる中で残されてきた。﹂﹁古墳時代の四世紀になると北海道の続縄文文化の人々︵アイヌ︶は鉄製品を手に入れるため、仙台-新潟附近まで南下した。東北地方の遺跡から、当時の北海道と同じ土器や墓が見つかっている。当時の東北北部は寒冷化で稲作が困難となったためか、人口希薄地となった。そこへアイヌが南下した。五世紀後葉、古墳社会の人が東北北部へ北上し、アイヌが北へ押しあげられた。六世紀にアイヌは撤退、あるいは古墳時代の人に取り込まれた。東北北部へ北上してきた古墳時代の人々は、エミシとよばれた。﹂と記しているが、これまでの論者とは符合しないばかりかその﹃アイヌ学入門﹄には巻末に引用文献等があるもの、本文記載の文言はどの文献に依るのかも示されていない |
一方で瀬川拓郎は{{harv|﹃アイヌ学入門﹄}}で、﹁東北地方に多くのアイヌ語の地名がある。この事実はアイヌ集団が東北にいたということ。アイヌ語地名は日本語集団が東北地方に進出し、アイヌ語集団と入れかわる中で残されてきた。﹂﹁古墳時代の四世紀になると北海道の続縄文文化の人々︵アイヌ︶は鉄製品を手に入れるため、仙台-新潟附近まで南下した。東北地方の遺跡から、当時の北海道と同じ土器や墓が見つかっている。当時の東北北部は寒冷化で稲作が困難となったためか、人口希薄地となった。そこへアイヌが南下した。五世紀後葉、古墳社会の人が東北北部へ北上し、アイヌが北へ押しあげられた。六世紀にアイヌは撤退、あるいは古墳時代の人に取り込まれた。東北北部へ北上してきた古墳時代の人々は、エミシとよばれた。﹂と記しているが、これまでの論者とは符合しないばかりかその﹃アイヌ学入門﹄には巻末に引用文献等があるもの、本文記載の文言はどの文献に依るのかも示されていない{{sfn|﹃アイヌ学入門﹄|p=70-71}}。
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ちなみにアイヌ語地名の解釈について平山裕人は﹁関東以西の地名の中からチェンバレンやパチェラーがアイヌ語地名で解釈を試みたが、金田一京助が﹁東北地方北部研究の専決﹂と主張。以後この問題は学会レベルでタブーにされた。在野の研究は鼻から相手にされず、その状況は現在も変わっていない。その期間は70年にも及ぶ。﹂﹁金田一プラス面は、アイヌ語地名が学問的正確さが求められるようになった。マイナス面は新たなアイヌ語地名が見つかっても、その論旨を見ることなく即座に否定され、論議の対象となることさえなくなったこと。﹂と記している |
ちなみにアイヌ語地名の解釈について平山裕人は﹁関東以西の地名の中からチェンバレンやパチェラーがアイヌ語地名で解釈を試みたが、金田一京助が﹁東北地方北部研究の専決﹂と主張。以後この問題は学会レベルでタブーにされた。在野の研究は鼻から相手にされず、その状況は現在も変わっていない。その期間は70年にも及ぶ。﹂﹁金田一プラス面は、アイヌ語地名が学問的正確さが求められるようになった。マイナス面は新たなアイヌ語地名が見つかっても、その論旨を見ることなく即座に否定され、論議の対象となることさえなくなったこと。﹂と記している<ref>{{cite book|和書|author=平山裕人 |title=アイヌ史のすすめ |publisher=北海道出版企画センター |year=2002 |pages=214-215 |ISBN=4-8328-0207-0 |id={{国立国会図書館書誌ID|000004010425}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004010425}}</ref>。
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また在野の研究者医師の網野皓之も﹁言語学的にもアイヌ語は琉球語に近く縄文語の発展した言葉であると考えられ、日本語と類縁であることが想像されたのであるが、金田一氏をはじめとする言語学者の重鎮達が |
また在野の研究者医師の網野皓之も﹁言語学的にもアイヌ語は琉球語に近く縄文語の発展した言葉であると考えられ、日本語と類縁であることが想像されたのであるが、金田一氏をはじめとする言語学者の重鎮達が 無縁であるとの誤った結論を導き出してしまった﹂﹁アイヌ語は縄文語の後継言語である場合が多いと言ってよかろう。﹂と、記している<ref>{{cite book|和書|author=網野皓之 |title=アイヌ語で考える縄文地名 |publisher=花伝社, 共栄書房 (発売) |year=2022 |pages=11-12 |ISBN=978-4-7634-2024-4 |id={{国立国会図書館書誌ID|032350639}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I032350639}}</ref>。
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===中世=== |
===中世=== |
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﹃越後瀬波郡絵図﹄に﹁ふる城﹂として描かれている大川城跡、平時の居館である藤懸り館跡がある{{Sfn|春日|丹生|安孫子|瀧口|2022|p=8}}。[[江戸時代]]の地理学者、小田島允武は﹁大川城 海府郷府屋驛山中ニ在、城主大川三郎二郎大川駿府守﹂と記している{{Sfn|小田島|1974|p=312}}。
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﹃越後瀬波郡絵図﹄に﹁ふる城﹂として描かれている大川城跡、平時の居館である藤懸り館跡がある{{Sfn|春日|丹生|安孫子|瀧口|2022|p=8}}。[[江戸時代]]の地理学者、小田島允武は﹁大川城 海府郷府屋驛山中ニ在、城主大川三郎二郎大川駿府守﹂と記している{{Sfn|小田島|1974|p=312}}。
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﹃日本城郭大系第7巻﹄の大川城には、﹁新潟県の最北端、山北町の中心地府屋は、大川が日本海に注ぐ河口にある商業の町。中世には付近一帯を支配した豪族大川氏の城下集落で、町並みの東方の﹁古舘﹂﹁古舘山﹂﹁高館山﹂などには、大川氏の館や山城跡がよく残る。居館跡は市街の東はずれ、大川橋南岸の河岸段丘端にあり、北東辺は断崖、西南辺は空堀で限られた方100mほどの区域と、空堀の外方に突き出した広い三角状の郭からなる。館の南端の山裾には豊かな水源がある。すぐ上には80m四方ほどの複雑な階段状の区画を持つ郭があって、南から西へ土塁を巡らし、館の背後を厳重に固めている。ここから南東に屹立する﹁古館山﹂へ幅3m余りの城道がゆっくりと上がっている。﹁古舘山﹂は館跡との比高50m程の半独立峰で。尾根は北端の主郭を初め、堀や切崖で区分された四郭を並べている。その東側に広い腰郭を伴った堅固な備えを固め、各郭にはそれぞれ土塁が備わっている。﹁古館山﹂と館背後の防禦陣地は、共に館に直結した強固な後ろ盾で、三段構えの配置。縄張りの妙はすばらしく、非常の際は完全に一体となって相互の機能を補完し合い、鉄壁の守りを全うし得たであろう。﹁古館山﹂の南の尾根伝いの約1㎞の所にある﹁高館山﹂︵標高130m︶にも、﹁古館山﹂に匹敵する規模の山城跡が残っている。特に南から西の展望が優れており、後方警戒を兼ねた詰めの城と思われる。﹁古館山﹂と﹁高館山﹂を結ぶ尾根の中ほどに、北面が三角錐状をなす小峰があるが、山頂から山腹にかけての北面には幅 |
﹃日本城郭大系第7巻﹄の大川城には、﹁新潟県の最北端、山北町の中心地府屋は、大川が日本海に注ぐ河口にある商業の町。中世には付近一帯を支配した豪族大川氏の城下集落で、町並みの東方の﹁古舘﹂﹁古舘山﹂﹁高館山﹂などには、大川氏の館や山城跡がよく残る。居館跡は市街の東はずれ、大川橋南岸の河岸段丘端にあり、北東辺は断崖、西南辺は空堀で限られた方100mほどの区域と、空堀の外方に突き出した広い三角状の郭からなる。館の南端の山裾には豊かな水源がある。すぐ上には80m四方ほどの複雑な階段状の区画を持つ郭があって、南から西へ土塁を巡らし、館の背後を厳重に固めている。ここから南東に屹立する﹁古館山﹂へ幅3m余りの城道がゆっくりと上がっている。﹁古舘山﹂は館跡との比高50m程の半独立峰で。尾根は北端の主郭を初め、堀や切崖で区分された四郭を並べている。その東側に広い腰郭を伴った堅固な備えを固め、各郭にはそれぞれ土塁が備わっている。﹁古館山﹂と館背後の防禦陣地は、共に館に直結した強固な後ろ盾で、三段構えの配置。縄張りの妙はすばらしく、非常の際は完全に一体となって相互の機能を補完し合い、鉄壁の守りを全うし得たであろう。﹁古館山﹂の南の尾根伝いの約1㎞の所にある﹁高館山﹂︵標高130m︶にも、﹁古館山﹂に匹敵する規模の山城跡が残っている。特に南から西の展望が優れており、後方警戒を兼ねた詰めの城と思われる。﹁古館山﹂と﹁高館山﹂を結ぶ尾根の中ほどに、北面が三角錐状をなす小峰があるが、山頂から山腹にかけての北面には幅2~3mの廊下状の平坦地を桟敷状に連ねた施設が認められる。これも山城遺構である。これら館・前要害・中要害・奥要害を縦深に配置した一連の城塞は、堀・土塁の用法などから戦国時代の築造とみられる。﹂﹁大川氏は南北朝の動乱時には、大川彦次郎の名が見え、北朝方︵武家方︶に属して小泉氏・立島氏らと行動を共にしている。本庄氏が勢域に赴く戦国時代には、同氏の被官的位置を保っていたようだ。永禄11年(1568)に本庄氏が上杉謙信と敵対するに及び、謙信に臣従して、本拠地が越後北辺にあることから、謙信の命を受けて出羽口の固めに懸命に奔走した。以来、出羽口に風雲急を告げるたびに多いに活躍した。慶長3年(1598)上杉景勝に移封に従い越後を離れた。﹂ と、詳細な記述がある<ref>︵日本城郭大系 第7巻 大川城 編修 平井 聖ほか 新潟県編集 金子拓男 新人物往来社 昭和55年(1980) 初版1刷 p48要約︶︵縄張り図は 春日, 真実、丹生, 泰雪、安孫子, 雅史、瀧口, 泰孝﹃大川城跡︵日本海沿岸東北自動車道︵国道7号朝日温海道路︶関係発掘調査報告書︶﹄公益財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団︿新潟県埋蔵文化財調査報告書293 図版 28/56 を参照︶</ref>。
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『温古の栞(拾壱篇)』「古城跡乃部 府屋の古城跡」には「[[岩船郡]]小泉荘府屋(出羽境の深山より流れ出る荒川雷川合し大川と云へ海に注ぐ處なるを以て往昔は大川の驛と云り)山の古城跡は海岸に瀕し[[金ヶ浦山]]に續き一夫能防ぐ時、萬夫も進むに能はざる要害あり建仁中より土着の勇士大川某なるもの此所に住し佐々木家に随へ城家の征伐に尽力せしを以て其谷入を賜ふ後上杉家へ属し出羽口を守る[[天文 (元号)|天文]]七年五月當代三郎二郎義に依りて長尾為景尓隨へ[[越中国|越中國]]に發向し[[栴檀野村|栴檀野]]に討死す其後丹後守重漣は謙信に仕へ忠臣の名あり天正年中主家遺跡爭への砌り景虎に加擔せしとの讒口に罹り[[春日山 (新潟県)|春日山]]へ謀誘され景勝の面前にて自刃を賜ふ是より廢城となれり」とあり、要害のことや上杉氏との関わりを記している{{Sfn|温古談話會|1891|p=13}}。 |
『温古の栞(拾壱篇)』「古城跡乃部 府屋の古城跡」には「[[岩船郡]]小泉荘府屋(出羽境の深山より流れ出る荒川雷川合し大川と云へ海に注ぐ處なるを以て往昔は大川の驛と云り)山の古城跡は海岸に瀕し[[金ヶ浦山]]に續き一夫能防ぐ時、萬夫も進むに能はざる要害あり建仁中より土着の勇士大川某なるもの此所に住し佐々木家に随へ城家の征伐に尽力せしを以て其谷入を賜ふ後上杉家へ属し出羽口を守る[[天文 (元号)|天文]]七年五月當代三郎二郎義に依りて長尾為景尓隨へ[[越中国|越中國]]に發向し[[栴檀野村|栴檀野]]に討死す其後丹後守重漣は謙信に仕へ忠臣の名あり天正年中主家遺跡爭への砌り景虎に加擔せしとの讒口に罹り[[春日山 (新潟県)|春日山]]へ謀誘され景勝の面前にて自刃を賜ふ是より廢城となれり」とあり、要害のことや上杉氏との関わりを記している{{Sfn|温古談話會|1891|p=13}}。 |
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大川氏について『山北村郷土史』に「天明元年([[1781年]])・安永九年([[1780年]])と大川氏の末裔と名乗る大川新三郎が祖先の城址を尋ねて来ている。新三郎は敬之助とも称し、出羽庄内酒井左衛門家中と言うことになっており、庄内黒川に住んでいたという」との記述がある{{Sfn|山北村郷土史研究会|1965|p=26}}。 |
大川氏について『山北村郷土史』に「天明元年([[1781年]])・安永九年([[1780年]])と大川氏の末裔と名乗る大川新三郎が祖先の城址を尋ねて来ている。新三郎は敬之助とも称し、出羽庄内酒井左衛門家中と言うことになっており、庄内黒川に住んでいたという」との記述がある{{Sfn|山北村郷土史研究会|1965|p=26}}。 |
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大川敬之助が祖先の城址を訪ねて来たことについて﹃大川古城主大略記﹄に﹁安永子年︵九︶中︵1780年︶秋発五日快晴にして、五ツ半前、大岩川村ヨリ鼠ケ關弁財天の霊場を拝し、夫ヨリ艤して、越後大川郷府屋町に至る。富樫又座衛門宅へ立寄。又座衛門先立して命旧地を見る。以下略︶があり、﹁天明元年︵1781年︶辛丑九月十八日早朝、湯温海を出立、構坂、岩川、此所・住吉坂有 |
大川敬之助が祖先の城址を訪ねて来たことについて﹃大川古城主大略記﹄に﹁安永子年︵九︶中︵1780年︶秋発五日快晴にして、五ツ半前、大岩川村ヨリ鼠ケ關弁財天の霊場を拝し、夫ヨリ艤して、越後大川郷府屋町に至る。富樫又座衛門宅へ立寄。又座衛門先立して命旧地を見る。以下略︶があり、﹁天明元年︵1781年︶辛丑九月十八日早朝、湯温海を出立、構坂、岩川、此所・住吉坂有 早田を過 鼠ヶ関を通りて原見村へ出 羽越の境テシロ山、浪間能石を見、夫ヨリ越後国へ出て 鼠喰岩の絶景なるを感眺し 岩砂の海浜を通り通り中浜村、岩崎村の両邑を通りて 一の山川艀ニ渡して 大川郷府屋町へ着きぬ。﹂とある。
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1780年︵安永9年︶の記録には﹁城地乾ニ当り、堀切の外山ニ大川氏の墓所也とて当時畠中ニ石を積み重ね、艸茫々たる所あり。其辺りニ經塚あり。近年又左エ門建しとて石地蔵あり。土民此所を御廟堂と呼びしとぞ。︵中略︶此山前面ㇵ前に記スごとく、階のごとくにた、一段一段ニ屋舗跡あり。後面は山沢流して至而険阻にして、高サ数丈、屏風を立てたるがごとく、足かかりもなき︵﹃大川古城主大略記﹄p.2‥古文書 伏家名︶﹂。また同文書には、河内平にある河内大明神が記されている。この社の場所を基準にし、北磁をもとに﹁乾﹂︵北西︶方向に線を引くと、舌状地の中ほどにある畑附近にあたる。この線上の城内に﹁姫の墓﹂もある。﹃[[広辞苑]]﹄︵第5版︶によれば、外山︵とやま︶とは、﹁端の山。人里に近い山﹂とある{{Sfn|新村|1998|p=1941}}。御廟堂のある比高6〜7メートルの舌状台地は、藤懸り館から見た端の山で人里近い山になる。
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1780年︵安永9年︶の記録には﹁城地乾ニ当り、堀切の外山ニ大川氏の墓所也とて当時畠中ニ石を積み重ね、艸茫々たる所あり。其辺りニ經塚あり。近年又左エ門建しとて石地蔵あり。土民此所を御廟堂と呼びしとぞ。︵中略︶此山前面ㇵ前に記スごとく、階のごとくにた、一段一段ニ屋舗跡あり。後面は山沢流して至而険阻にして、高サ数丈、屏風を立てたるがごとく、足かかりもなき︵﹃大川古城主大略記﹄p.2‥古文書 伏家名︶﹂。また同文書には、河内平にある河内大明神が記されている。この社の場所を基準にし、北磁をもとに﹁乾﹂︵北西︶方向に線を引くと、舌状地の中ほどにある畑附近にあたる。この線上の城内に﹁姫の墓﹂もある。﹃[[広辞苑]]﹄︵第5版︶によれば、外山︵とやま︶とは、﹁端の山。人里に近い山﹂とある{{Sfn|新村|1998|p=1941}}。御廟堂のある比高6〜7メートルの舌状台地は、藤懸り館から見た端の山で人里近い山になる。
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ちなみに﹃山北村郷土史﹄には﹁大川郷誌によれば、大谷沢は大川氏の足軽の地であったと言われている﹂とある{{Sfn|山北村郷土史研究会|1965|p=27}}。
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ちなみに﹃山北村郷土史﹄には﹁大川郷誌によれば、大谷沢は大川氏の足軽の地であったと言われている﹂とある{{Sfn|山北村郷土史研究会|1965|p=27}}。
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立島氏について﹃山北村郷土史﹄は﹃慶長越後絵図﹄に触れ、﹁立島氏所領であるべきところが、大川氏の所領として記載されており、しかも立島氏の名前が全然出てこないのはどうしたことであろうか。﹂﹁文禄・慶長期には立島氏なる者は存在しなかったのであろうか。伝承では、上杉氏会津転封の際、大川氏と共にこれに従って会津に赴いたことになっているのだが、︵中略︶色部文書の中には、立島彦三郎なる者の名が見えていて、大川彦次郎将長門ともに本庄持長を助けて事をなしている。(中略) |
立島氏について﹃山北村郷土史﹄は﹃慶長越後絵図﹄に触れ、﹁立島氏所領であるべきところが、大川氏の所領として記載されており、しかも立島氏の名前が全然出てこないのはどうしたことであろうか。﹂﹁文禄・慶長期には立島氏なる者は存在しなかったのであろうか。伝承では、上杉氏会津転封の際、大川氏と共にこれに従って会津に赴いたことになっているのだが、︵中略︶色部文書の中には、立島彦三郎なる者の名が見えていて、大川彦次郎将長門ともに本庄持長を助けて事をなしている。(中略) 彦次郎・彦三郎の名前からして、両者は兄弟だったのか︵中略︶地理的な位置からしても立島氏は大川氏の一族であって、検地の際は何らかの理由で、大川氏名義で公文書に記したのかと推定。{{Sfn|山北村郷土史研究会|1965|pp=31-32}}﹂﹁菩提寺といわれる北田中の香積寺には位牌及び遺品が伝えられているという。{{Sfn|山北村郷土史研究会|1965|p=23}}﹂と記している。
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立島氏について『温古の栞(貳拾九篇)』の「立島山の古城跡」には「岩船郡小泉莊立島山の古城跡は海岸の眺望に富み要害無双の城地なり建武年中の豪族立島兵庫なるもの此處に住し佐々木家に随へ城家の征伐に尽力せしを以て當谷入を賜ふ(以下略)」とある{{Sfn|温古談話會|1891|pp=14-15}}。 |
立島氏について『温古の栞(貳拾九篇)』の「立島山の古城跡」には「岩船郡小泉莊立島山の古城跡は海岸の眺望に富み要害無双の城地なり建武年中の豪族立島兵庫なるもの此處に住し佐々木家に随へ城家の征伐に尽力せしを以て當谷入を賜ふ(以下略)」とある{{Sfn|温古談話會|1891|pp=14-15}}。 |
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府屋について﹃山北町の民俗4︵社会︶﹄には、﹁江戸時代から明治22年︵1889年︶の町村制の施行までの文書には、﹁府屋町﹂・﹁府屋町村﹂と表記︵要約︶﹂とある{{sfn|筑波大学さんぽく研究会|1988|p=158}}。
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府屋について﹃山北町の民俗4︵社会︶﹄には、﹁江戸時代から明治22年︵1889年︶の町村制の施行までの文書には、﹁府屋町﹂・﹁府屋町村﹂と表記︵要約︶﹂とある{{sfn|筑波大学さんぽく研究会|1988|p=158}}。
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﹃[[和名類聚抄]]﹄の越後国磐船郡の郷名について[[邨岡良弼]]は、﹁上海府、下海府二村、海府以音讀之、海部訓安萬倍、興餘戸︵アマベ︶聲相通﹂と記し、海府・海部・餘戸は安萬部︵あまべ︶と述べ、餘戸郷はアマベ郷としている。その上で﹃越後野志﹄を引用し﹁餘戸 亘 府屋、岩埼、中濱、岩石、碁石、勝木、大蔵、寝屋、蘆谷、寒川、桑川、今川、板貝、笹川、桑川 |
﹃[[和名類聚抄]]﹄の越後国磐船郡の郷名について[[邨岡良弼]]は、﹁上海府、下海府二村、海府以音讀之、海部訓安萬倍、興餘戸︵アマベ︶聲相通﹂と記し、海府・海部・餘戸は安萬部︵あまべ︶と述べ、餘戸郷はアマベ郷としている。その上で﹃越後野志﹄を引用し﹁餘戸 亘 府屋、岩埼、中濱、岩石、碁石、勝木、大蔵、寝屋、蘆谷、寒川、桑川、今川、板貝、笹川、桑川 諸邑”稱 海府浦 盖其地也﹂とある{{Sfn|邨岡|1903|p=22}}。また。﹁山家 越後野志、今山家郷、蒲萄、大澤、大毎、黒川、大代、小俣、大行、須戸、荒沢、大平、高橋、關口、松岡、早稲田邑﹂と記している{{Sfn|邨岡|1903|p=21}}。
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横山貞裕は山家郷について﹁蒲萄山北郷﹂と、他者の説を紹介している{{Sfn|横山|1972|p=45}}。小田島允武の1815年︵文化12年︶の著作﹃越後野志﹄には、蒲萄山北郷・山北郷の文字は見当たらない。前述の海府郷府屋駅があるのみ。小田島允武・邨岡良弼・横山貞裕を合わせると、﹁蒲萄山北郷﹂は﹁大澤、大毎、黒川、大代、小俣﹂[[出羽街道]]筋にあたる。海岸部の府屋~桑川は海府郷。蒲萄、大行、須戸、荒沢、大平、高橋、關口、松岡、早稲田は出羽街道筋の旧[[朝日村 (新潟県)|朝日村]]となる。
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横山貞裕は山家郷について﹁蒲萄山北郷﹂と、他者の説を紹介している{{Sfn|横山|1972|p=45}}。小田島允武の1815年︵文化12年︶の著作﹃越後野志﹄には、蒲萄山北郷・山北郷の文字は見当たらない。前述の海府郷府屋駅があるのみ。小田島允武・邨岡良弼・横山貞裕を合わせると、﹁蒲萄山北郷﹂は﹁大澤、大毎、黒川、大代、小俣﹂[[出羽街道]]筋にあたる。海岸部の府屋~桑川は海府郷。蒲萄、大行、須戸、荒沢、大平、高橋、關口、松岡、早稲田は出羽街道筋の旧[[朝日村 (新潟県)|朝日村]]となる。
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境内は3か所に分れている。標高と面積は、下境内が標高約16メートル、面積概測550平方メートル≒約166坪。中境内が標高約22メートル、面積概測600平方メートル≒181坪。上境内が標高約23メートル。面積概測200平方メートル≒60坪。 |
境内は3か所に分れている。標高と面積は、下境内が標高約16メートル、面積概測550平方メートル≒約166坪。中境内が標高約22メートル、面積概測600平方メートル≒181坪。上境内が標高約23メートル。面積概測200平方メートル≒60坪。 |
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﹃大川郷誌﹄では﹁天養二年︵1145年︶、寛政十一年︵1796年︶七月、及び文政六年︵1823年︶七月二十日三回改築す。社殿は境内の広場にありしを文久二年︵1862年︶七月十五日現地に引き上げたり。︿中略︶大正十二年︵1923年︶八月十五日 |
﹃大川郷誌﹄では﹁天養二年︵1145年︶、寛政十一年︵1796年︶七月、及び文政六年︵1823年︶七月二十日三回改築す。社殿は境内の広場にありしを文久二年︵1862年︶七月十五日現地に引き上げたり。︿中略︶大正十二年︵1923年︶八月十五日 本殿を建築す。﹂ とある{{Sfn|増子|1970|p=6}}。
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﹃山北町史﹄は神明宮の建物について﹁天養二年︵1145年︶に改築。寛政十年︵1798年︶十二月破壊。翌年7月に再建。文政六年︵1823年︶七月二十日に改築した。﹂とある。1862年︵文久2年︶の移転は記されていない。その理由を﹃山北町史﹄は述べていない。 |
﹃山北町史﹄は神明宮の建物について﹁天養二年︵1145年︶に改築。寛政十年︵1798年︶十二月破壊。翌年7月に再建。文政六年︵1823年︶七月二十日に改築した。﹂とある。1862年︵文久2年︶の移転は記されていない。その理由を﹃山北町史﹄は述べていない。
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佐藤伊勢男は﹁現在の神明宮は文久年間に移転されたものである。﹂と記している{{Sfn|佐藤|1990|p=207}}。
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佐藤伊勢男は﹁現在の神明宮は文久年間に移転されたものである。﹂と記している{{Sfn|佐藤|1990|p=207}}。
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{{Reflist|group=注釈}} |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|first=真実|last=春日|first2=泰雪|last2=丹生|first3=雅史|last3=安孫子|first4=泰孝|last4=瀧口|title=大川城跡(日本海沿岸東北自動車道(国道7号朝日温海道路)関係発掘調査報告書)|year=2022|date=2022-12-09|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/130277|ncid=BC18853737|doi=10.24484/sitereports.130277|series=新潟県埋蔵文化財調査報告書293|publisher=公益財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団|ref=harv}} |
*{{Cite book|和書|first=真実|last=春日|first2=泰雪|last2=丹生|first3=雅史|last3=安孫子|first4=泰孝|last4=瀧口|title=大川城跡(日本海沿岸東北自動車道(国道7号朝日温海道路)関係発掘調査報告書)|year=2022|date=2022-12-09|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/130277|ncid=BC18853737|doi=10.24484/sitereports.130277|series=新潟県埋蔵文化財調査報告書293|publisher=公益財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団|ref=harv}} |
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* {{cite book|和書|author=瀬川拓郎 |title=アイヌ学入門 |publisher=講談社 |year=2015 |series=講談社現代新書 |ISBN=9784062883047 |id={{国立国会図書館書誌ID|026086648}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I026086648 |ref={{harvid|『アイヌ学入門』}}}} |
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* {{cite book|和書|author=埴原和郎, 藤本英夫, 浅井亨, 吉崎昌一, 河野本道, 乳井洋一 |title=アイヌ : シンポジウムその起源と文化形成 |publisher=北海道大学図書刊行会 |year=1972 |url=https://www.hup.gr.jp/items/65002038 |ISBN=978-4-8329-3011-7 |ref={{harvid|アイヌ : シンポジウムその起源と文化形成}}}} |
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{{新潟県の自治体}} |
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2024年5月22日 (水) 01:02時点における版
府屋 | |
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北緯38度30分27秒 東経139度32分0秒 / 北緯38.50750度 東経139.53333度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 新潟県 |
市区町村 | 村上市 |
面積 | |
• 合計 | 9.3 km2 |
人口 | |
• 合計 | 6,137人 |
• 密度 | 660人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
959-3907 |
市外局番 | 0254 |
ナンバープレート | 新潟 |