大阪商船
種類 | 株式会社 |
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略称 | O.S.K. LINES |
本社所在地 |
日本 大阪府下北区富島町14番地 (1884年 - 1925年) 大阪市北区宗是町1番地 大阪ビルヂング (1925年 - 1964年) |
設立 |
1884年5月1日 (有限会社大阪商船会社) 1893年12月31日 (大阪商船株式会社) 1964年4月1日 (三井船舶株式会社と合併) |
業種 | 海運業 |
事業内容 |
海上輸送 旅客輸送 |
関係する人物 | 広瀬宰平(初代頭取)、田中市兵衛、中橋徳五郎、野口遵、堀啓次郎、村田省蔵 |
大阪商船株式会社︵おおさかしょうせん︶は、かつて存在した日本の海運会社である。1964年︵昭和39年︶4月、三井船舶株式会社と合併し、大阪商船三井船舶株式会社︵現・株式会社商船三井︶となった。
海外ではO.S.K. LINES︵Osaka Shosen Kaisha Lines︶の愛称で親しまれていた。
天竜丸
しかしいったんは止んだ競争はたちまち再燃、中小の海運会社は立ち行かなくなり、船の整備費用も出せない状態となった。1882年︵明治15年︶に入ると事態打開のため、大阪富豪である住友財閥の総理人、広瀬宰平を長とする大連合の結成が進められた。しかしいざ連合となると個々の船主の利害が衝突してなかなかまとまらず、さらに連合後の会社運営の問題で創立委員会と船主までが対立、一時は事態が完全に行き詰まり、東京から船舶の査定のために派遣されていた官吏が引き上げるといった騒ぎまで起きたが、広瀬宰平ら創立委員や地方庁が奔走して事態を収拾させた。
そして1884年︵明治17年︶5月1日、大阪府下北区富島町14番地に本店を構え、参加船主55名、船舶93隻、資本金120万円、18本線4支線、地上勤務100余名と海員1000余名により、ついに有限会社大阪商船会社が誕生、この日、伊万里行き﹁豊浦丸﹂、細島行き﹁佐伯丸﹂、広島行き﹁太勢丸﹂、尾道行き﹁盛行丸﹂、坂越行き﹁兵庫丸﹂の木造汽船5隻が大阪を出港した。
その後も出港早々に大阪商船に参加しなかった船主と競争、不振航路の問題、船舶の疲弊・老朽化など問題は尽きなかったが、競争で対立船主を破り、航路の整理を行ない、政府助成金を得て、日本初の鋼船である﹁加茂川丸﹂や、3連レシプロ機関を搭載した﹁宇治川丸﹂など優良船舶を建造、着実に地歩を固めていった。
しかしながら政府助成金に関しては﹁命令航路﹂が組みとなっていたため、経営陣と株主の間で再び対立が発生、これにより創立委員長だった広瀬頭取は辞職、後を継いだ河原頭取の活躍で事態を収拾させた。[1]
くれなゐ丸
たこま丸︵初代︶
1907年︵明治40年︶に入ると、日露戦争後の反動で事態は急変し、日本経済は停滞したが、大阪商船はあくまで積極路線を進むことを決意、土佐商船などを買収し内地航路の整備を開始、同年8月には資本金の4分の1を割って内航部を設立、大阪別府線︵大阪/神戸-別府︶、大阪沖縄線︵大阪/神戸-名瀬/那覇︶、北海道樺太線︵大阪/神戸-門司-新潟-小樽-大泊︶などが開設された。この大阪別府線については、1912年︵明治45年︶より﹁紅丸﹂が、さらに1924年︵大正13年︶より就航した﹁くれなゐ丸﹂がその客室の豪華さで多くの旅客を呼込み、別府温泉が一大観光地となる一役を担った。
近海航路でも﹁櫻丸﹂﹁亞米利加丸︵初代︶﹂など優秀船舶を次々と投入、釜山大連線︵釜山-長崎-大連︶、大阪清津線︵大阪/神戸-清津︶、ウラジオストク直航線︵敦賀-ウラジオストク︶を開設、また日清汽船や朝鮮郵船といった現地企業の設立にも積極的に参与した。
内地、近海での基盤を確保した大阪商船は念願の遠洋航路開設にとりかかり、1907年︵明治40年︶1月より最大の保有船である﹁桑取丸﹂﹁襟裳丸﹂﹁新竹丸﹂﹁室蘭丸﹂など4500トン級の貨物船を使用して北米、南洋︵東南アジア︶への不定期運航を開始した。
そして1909年︵明治42年︶7月、大陸横断鉄道であるシカゴ・ミルウォーキー&セントポール鉄道と提携に成功し、香港タコマ線︵香港-神戸-シアトル/タコマ︶の開設に至った。この航路開設に大阪商船が投じた費用は新造船﹁たこま丸︵初代︶﹂型6000トン級6隻の建造費を含め、資本金の3分の1にあたる650万円に達し、社運をかけた大事業であった。さらに1913年︵大正2年︶にはボンベイ線︵横浜/神戸-シンガポール-ボンベイ︶を開始、極東の一海運会社から世界の海運会社へと発展を遂げた。[1]
大阪商船門司支店︵1917-1964年︶
大阪商船台北支店︵1937-1944年︶
1914年︵大正3年︶7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦を布告、これが引き金となりヨーロッパ全土に戦火が拡大、第一次世界大戦が勃発した。
日本も同年8月にドイツに宣戦を布告し、青島攻略や地中海に艦隊を派遣、1918年︵大正7年︶のチェコスロバキア軍救出作戦︵シベリア出兵︶などに参加、地中海やインド洋でドイツの通商破壊の犠牲となった船舶もあるが、戦争特需により日本の海運業は活況を呈し、開戦時は世界6位の海運国だったのが停戦時には3位まで浮上した。
大阪商船もこの機会を逃さず、1914年︵大正3年︶青島陥落に伴い大阪青島線︵大阪/神戸-青島︶、1915年︵大正4年︶にサンフランシスコ線︵神戸/横浜-サンフランシスコ︶、横浜香港線︵横浜/神戸-香港︶、1916年︵大正5年︶に豪州航路、南米航路、1918年︵大正7年︶にスマトラ線︵神戸-シンガポール/パレンバン︶と次々と航路を開設、世界的な船腹不足を背景に、アジアや欧州など強固な航路同盟が存在する航路にも食い込んでいった。
OSKポスター (1916年)
一方、内地航路は1914年︵大正3年︶、樺太庁の指導で設立した北日本汽船に北海道樺太線を移譲、同年末には摂陽商船を設立し、大阪湾内の各線を譲渡するなど、航路の整理を行った。
OSKポスター (1918年)
ブラジルへの日本人移民を運んだあふりか丸
1919年︵大正8年︶6月、第一次世界大戦が終結し、戦後恐慌が日本を襲うが、大阪商船は停戦前の1918年︵大正7年︶4月に欧州航路初の定期線としてボンベイ・マルセイユ線︵横浜/神戸-ボンベイ-スエズ-マルセイユ︶、ボンベイ・ジェノバ線︵横浜/神戸-ボンベイ-スエズ-ジェノバ︶の2線を開設、12月には横浜ロンドン線︵横浜/神戸-シンガポール-スエズ-ロンドン︶を開設、さらにこれを横浜欧州線と改名し、アントワープやロッテルダムに進出、1919年︵大正8年︶には香港ニューオーリンズ線︵香港-神戸/横浜-パナマ-ニューオーリンズ︶、台湾シンガポール線︵神戸-基隆-シンガポール︶、台湾アモイ線︵神戸-基隆-アモイ︶、1920年︵大正9年︶には横浜欧州線を日本欧州線と改名し、ハンブルクまで進出、ニューヨーク線︵香港-神戸/横浜-パナマ-ニューヨーク︶、ジャワ・カルカッタ線︵横浜/神戸-バタビア-カルカッタ︶を開設するなど、あくまで強気の姿勢で航路拡大を図っていった。[1]
OSKポスター (1921年)
大阪商船本店︵大阪ビルヂング︶
︵1925-1964年︶
畿内丸
1923年︵大正12年︶9月に関東大震災が発生、その後の復興需要で不況は脱したものの、悪化してゆく支那情勢など依然、曙光を見いだせない状態が続いたが、あくまで大阪商船は航路拡大を行い、1925年︵大正14年︶に上海天津線︵大阪/神戸-上海/天津︶、1926年︵大正15年︶には大連台湾線︵大連-神戸-基隆/高雄︶、またアフリカ航路初の定期線としてアフリカ東海岸線︵横浜/神戸-シンガポール-モンバサ/ダルエスサラーム︶を開設、1928年︵昭和3年︶フィリピン線︵神戸/横浜-マニラ︶などを開設させていった。
また1925年︵大正14年︶9月には、大阪市北区宗是町1番地に﹁大阪ビルヂング﹂を建設、本店を移転させた。﹁ダイビル﹂の愛称で長年親しまれたこのビルは、2013年に﹁ダイビル本館﹂に建替えられ、低層部は往年の面影を残したままである。
1930年︵昭和5年︶、世界恐慌のあおりで日本の海運業はまたしても重大な打撃を受け、大阪商船も25年ぶりに無配転落という深刻な状況に陥った。
翌1931年︵昭和6年︶になると事態は好転するどころか、満州事変に伴う支那方面での排日運動激化や、英国の金本位制の廃止などでますます深刻な状態となり、大阪商船も生き残りを図るために日本郵船との協定、いわゆる﹁郵商協約﹂を行った。
これは過度の競争を排除してきた従来の協定を強化したもので、日本郵船が欧州、北米について優先的に航路を掌握するかわりに、大阪商船が南米、近海について優先的に航路を掌握するという﹁世界分割計画﹂というべきもので、以後、日本海運図はこの協定により塗り分けられることとなった。
大阪商船はこの協約でピューゼットサウンド線︵香港タコマ線の改良︶、サンフランシスコ線などを廃止するが、この航路に配船されていた優秀船舶を近海航路に移し、また日本郵船との共同運航となったニューヨーク直航線︵神戸/横浜-ニューヨーク︶に﹁畿内丸﹂など高速船を配備し、従来の48日から28日に航海を短縮するなど、航路の充実を図った。さらに南米航路の南米線を世界一周航海︵横浜/神戸-シンガポール-ダーバン-サントス-ブエノスアイレス-パナマ-横浜/神戸︶とし、また多くの日本人移民の輸送を担い、大阪商船の代名詞ともいうべき事業となっていった。[1]
ぶら志゛る丸︵初代︶
あるぜんちな丸︵初代︶
報國丸
1932年︵昭和7年︶、日本政府は老朽船を整理し、代わりに優秀な新造船の建造補助を行う船舶改善助成施設を実施、老朽船94隻40万総トンを解体し、﹁浅間丸﹂﹁氷川丸﹂︵ともに日本郵船︶など31隻20万総トンを建造、さらに1935年︵昭和10年︶、1936年︵昭和11年︶にも第2回、第3回助成施設が実施され、それぞれ8隻5万1千総トン、9隻5万1千総トンの新造が行われた。
大阪商船では助成施設により﹁かんべら丸﹂﹁東京丸﹂﹁盤谷丸﹂﹁西貢丸﹂を建造、豪州航路や南洋︵東南アジア︶航路の拡充を行った。
1937年︵昭和12年︶には優秀船舶建造助成施設が実施された。これは従来の老朽船の更新が目的ではなく、軍事転用を考慮した優秀船舶の建造が目的の戦時色の強いもので、貨客船12隻15万総トン、その他16隻14万総トンという大規模な計画であった。
大阪商船はこの助成施設により、南米航路向けの﹁ぶら志゛る丸︵初代︶﹂﹁あるぜんちな丸︵初代︶﹂、アフリカ航路向けの﹁報國丸﹂﹁愛國丸﹂﹁興國丸﹂の建造を開始した。[1]
ぶらじる丸︵二代︶
1950年︵昭和25年︶には船舶運営会が解散し、自主自営の下で船舶を運航させることができ、また朝鮮特需により日本経済も上向いていった。同年には大阪留萌線︵大阪/神戸-門司-新潟-小樽/留萌︶、東京室蘭線︵東京-室蘭︶、さらに戦後初の海外定期線として京浜沖縄線︵川崎-名瀬/那覇︶、大阪沖縄線︵大阪/神戸-名瀬/那覇︶を開設させた。
これ以降、大阪商船は戦前にも劣らない積極的な航路拡大を進めていく。1951年︵昭和26年︶に大阪朝鮮線︵大阪/神戸-釜山/仁川︶、バンコク線︵横浜/神戸-バンコク︶、ラングーン・カルカッタ線︵横浜/神戸-シンガポール-ラングーン-カルカッタ︶、ボンベイ・カラチ線︵横浜/神戸-シンガポール-ボンベイ-カラチ︶、東南アフリカ線︵横浜/神戸-シンガポール-モンバサ-ダーバン/ケープタウン︶を開設させ、また同年には、西航南米線を再開、後に再開される東航南米線とともに戦後日本人移民の輸送を担った。1952年︵昭和27年︶にニューヨーク線、フィリピン線を再開、豪州ニュージーランド線︵横浜/神戸-シドニー/オークランド︶を開設させた。このニューヨーク線には、先に紹介した﹁あめりか丸︵二代︶﹂﹁あふりか丸︵二代︶﹂を就航させている。1953年︵昭和28年︶に大阪台湾線を再開、東航欧州線︵神戸/横浜-パナマ-ロンドン/ロッテルダム︶を開設、1954年︵昭和29年︶には東航南米線を再開させた。1956年︵昭和31年︶6月には東航欧州線を打切り、スエズ経由の欧州線を再開させたが、同年11月にはじまった第二次中東戦争によるスエズ運河閉鎖に伴い、欧州線は再びパナマ運河経由となった。この動乱により海運市況は暴騰し、﹁スエズブーム﹂と呼ばれた。1957年︵昭和32年︶に米西海岸線︵神戸/横浜-サンフランシスコ/ロサンゼルス︶、メキシコ湾線︵神戸/横浜-パナマ-ヒューストン/ニューオーリンズ︶を開設、1958年︵昭和33年︶には北米太平洋線︵神戸/横浜-バンクーバー/シアトル/タコマ︶を開設させ、戦後日本の経済成長とともに、世界全域へ躍進していった。
船舶についても、引続き計画造船を活用し、新造させていった。1952年︵昭和28年︶には第8次計画として﹁さんとす丸︵二代︶﹂を、1954年︵昭和29年︶には第9次計画として﹁ぶらじる丸︵二代︶﹂を、1958年︵昭和33年︶には第13次計画として﹁あるぜんちな丸︵二代︶﹂を新造させるなど、船舶の増強につとめた。[1]