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相沢三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
相沢 三郎
生誕 1889年9月6日
日本の旗 日本 宮城県 仙台市
死没 (1936-07-03) 1936年7月3日(46歳没)
日本の旗 日本 東京府 代々木
所属組織 大日本帝国陸軍
皇道派
軍歴 1910年 - 1936年
最終階級 歩兵中佐
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  1889︿2296 - 1936︿1173[1]

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相沢事件[編集]


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人物[編集]




宿

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綿[13]










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栄典[編集]

親族[編集]

  • 父:兵之助 - 旧仙台藩士、裁判所書記公証人
  • 母:まき子
  • 妻:米子 - 相沢は死刑執行に際して、妻宛に『まごころに よりそう 助けかひありて 仕へはたして 今帰へるわれ』と辞世の句として残している。

関連作品[編集]

映画
テレビドラマ

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 1頁。
  2. ^ 小坂慶助 2015, p. 163.
  3. ^ 相沢が前夜一泊した西田税から聴取『中外商業新聞』(昭和10年8月15日).『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p3 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  4. ^ 小坂慶助 2015, p. 145.
  5. ^ 小坂慶助 2015, p. 151.
  6. ^ 小坂慶助 2015, p. 151-152.
  7. ^ a b 菅原裕『相沢中佐事件の真相』
  8. ^ 相沢の上告棄却、高等軍法会議『東京朝日新聞』(昭和11年7月2日).『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p14 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  9. ^ 官報 1936年11月5日 七七頁
  10. ^ 相沢三郎、死刑執行される『東京日日新聞』(昭和11年7月4日夕刊).『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p15
  11. ^ a b 「相沢中佐の梅毒説」田々宮英太郎 『検索!二・二六事件 - 現代史の虚実に挑む』 雄山閣出版 1993年
  12. ^ a b 仙台市民図書館 編『要説 宮城の郷土誌』165頁(宝文堂出版販売、1983年10月)
  13. ^ 池田純久『日本の曲り角』
  14. ^ 1967年6月21日 読売新聞文化欄
  15. ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。
  16. ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
  17. ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
  18. ^ 『官報』第3534号「叙任及辞令」1924年6月5日。

参考文献[編集]

  • 菅原裕 『相沢中佐事件の真相』 経済往来社 1971年
  • 田々宮英太郎 『検索!二・二六事件 - 現代史の虚実に挑む』 雄山閣出版 1993年
  • 小坂慶助『特高 二・二六事件秘史[新装版]』文春学藝ライブラリー、2015年。ISBN 978-4-16-813039-7 

関連項目[編集]

  • 東久邇宮稔彦王 - 日本の皇族、陸軍軍人。かつて相沢の上官であり、事件前に稔彦王へ台湾赴任の挨拶のために大阪へ立ち寄っている。