細川氏
細川氏 | |
---|---|
細川九曜(肥後細川家) | |
本姓 |
清和源氏義国流 (河内源氏・足利氏流) |
家祖 | 細川義季 |
種別 |
武家 華族(侯爵)-熊本家 華族(子爵)-宇土家 華族(子爵)-茂木家 華族(子爵)-高瀬家 華族(男爵)-内膳家 華族(男爵)-刑部家 華族(男爵)-護晃家 |
出身地 | 三河国額田郡細川郷 |
主な根拠地 |
丹波国 摂津国 阿波国 讃岐国 土佐国 淡路国 |
著名な人物 |
細川頼之 細川勝元 細川政元 細川澄元 細川高国 細川晴元 細川藤孝(幽斎) 細川忠興(三斎) 細川重賢 細川護熙(第79代 内閣総理大臣) |
支流、分家 |
阿波守護細川家(武家) 和泉守護細川家(武家) 熊本細川家(武家・侯爵) 宇土細川家(武家・子爵) 天竺氏?(武家) など |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要[編集]
中世[編集]
細川氏の祖は、足利氏の祖・足利義康の庶長子である矢田義清である。平安時代末期、義清は木曾義仲に属し、都から追い落とした平家軍との戦である水島の戦いでその弟義長とともに戦死している。 鎌倉時代に、足利本家の義氏が三河守護となると、義清の孫義季は兄の仁木実国、弟の戸賀崎︵戸崎︶義宗らとともに三河国へ進出し、細川郷を領して細川次郎と名乗った。しかし足利家同門でも家格が高く本家からの独立性が強かった斯波氏や畠山氏とは異なり、この時代の細川氏はさほど有力な御家人ではなく、その活動の記録はほとんど残されていない。矢田義清が壮年で戦死した際、残された遺児は幼かったと考えられ、有力な縁戚関係もなく足利義兼ら一族の庇護を受けたようだが、その結果、陪臣・家臣という地位にまで下がったのが原因のようである。そのために平安末期~鎌倉初頭までは知行地もほとんどなく勢力が全くなかったと考えられる。三河に移ってから庶流も分出し、漸く勢力を養う事ができたようである。鎌倉期の庶流の中には一族から離れて同族の他氏に仕えた者もおり、後に細川氏の宿敵的存在になる同族の斯波氏の重臣である鹿草氏︵完草氏︶は史料から細川氏の庶流であることは判明しているが、どの流に属していたのかは不明になっている[3]。 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、細川和氏・頼春兄弟やその従兄弟の顕氏・定禅らが足利尊氏に従う。元弘3年 / 正慶2年︵1333年︶に、尊氏が倒幕の兵を挙げると、和氏は上杉重能とともに後醍醐天皇に帰順を願う使者の役割を果たし、京都の六波羅探題攻撃にも加わった。 さらに新田義貞に奉じられて鎌倉を陥落させた尊氏の嫡子・千寿王︵後の室町2代将軍・足利義詮︶を補佐するために下向し、義貞に対抗して鎌倉を足利氏に掌握させる。和氏と顕氏は、尊氏の命により四国に渡り、阿波国、讃岐国を中心に南朝方との争いを勝ち抜き、在地豪族の被官化を押し進めた。この時代に、細川氏は有力な守護大名へと成長する。 和氏の嫡子である細川清氏は、当初将軍義詮の執事職︵後の管領︶として幕政の実権を握ったが、佐々木道誉の讒言により失脚した︵康安の政変︶。その後南朝方に属したが、一族の細川頼之に追討されて滅び、また顕氏の子・細川繁氏も急死したため、頼春の嫡子である頼之が細川氏で随一の実力者となる。代々幕府の管領に任ぜられることになる細川氏本家の京兆家は、子がなかった頼之の弟でその養子となり跡を継いだ細川頼元の後裔を指し︵頼元の血筋自体は政元までで途絶える︶、その他の有力な庶家・分家も、多くは頼之の時代に派生している。 室町時代の細川氏は、京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成することで、一族内訌の危険を減らし、これにより有力守護の勢力を削ごうとする将軍の干渉を排し、管領・有力守護の地位を保ち続けたのである。京兆家[編集]
典厩家[編集]
細川氏︵京兆家︶の分家の一つ。細川満元の三男持賢を祖とする。当主が官途とした右馬頭・右馬助の唐名にちなんで典厩家と呼ばれる。基本的に守護として分国を有することはなく、初期には京兆家において内衆︵重臣衆︶を束ねる役割を果たしていたようだが、後に摂津国西成郡︵中嶋郡︶の分郡守護を務めた。 持賢は13歳で京兆家を継いだ勝元を補佐し、2代当主政国︵野州家細川持春の子︶も9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。3代政賢は永正の錯乱の際に細川澄元に与して細川高国と対立したが船岡山合戦で戦死した。その後は高国与党であった尹賢︵野州家分家細川春倶の子︶が継承した一方、澄元側も政賢の嫡男澄賢を擁立したが、澄賢は大永元年︵1521年︶に死去した。享禄4年︵1531年︶、高国が澄元の遺児細川晴元との抗争の末に滅亡し、それ以前に晴元側に寝返っていた尹賢も晴元と不和となって殺害された。 京兆家当主の座を奪った晴元に対し、細川氏綱︵尹賢の子︶は高国の後継者として天文7年︵1538年︶以降抗争を続けていたが、三好長慶が氏綱を擁立して晴元から離反し打倒した。氏綱は室町幕府最後の管領と言われるが、近年の研究では管領就任は史実ではないとされる一方で、三好政権に対して一定の立場・発言力を保持しており、単なる傀儡でもなく同盟者に近かったと指摘されている。 典厩家の当主は弟の藤賢が継承して将軍足利義輝・義昭に仕えた。織田信長と反目した義昭が挙兵した際にはこれに従って抗戦したが、その後は信長に降伏し近江国坂本城の守備を任された。信長滅亡後は豊臣秀吉に仕えた。氏綱の子藤次は豊臣氏の後、細川忠興・細川忠利に仕え、その子頼次は妹が対馬府中藩主宗義成の室だった縁で同藩に仕えた。藤次の弟元賢からは重賢、乗賢と続き、子孫は金沢藩士︵加賀前田家家臣︶として幕末に至った。野州家[編集]
細川氏︵京兆家︶の分家の一つ。細川満元の弟満国を祖とする。持春、教春、政春、晴国と続いた。持春、教春が2代にわたって下野守を名乗ったことから野州家の名が定着したようである。また、細川政春が弟の春俱の家系が断絶した後に備中守護を継承すると、その官途名である安房守から、房州家とも呼ばれるようになった[8]。備中国浅口郡と伊予国宇摩郡の分郡守護を務めた。野州家から京兆家には、教春の子の勝之が勝元のもとへ、政春の子の高国は政元のもとへと、2代にわたって猶子が続いている。また持春の子・政国が典厩家の持賢の養子に入り、典厩家第2代当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保っていた。野州家は将軍近習としての性格を有した一方で、京兆家、典厩家とも密接な関係を保ち、結果として細川氏一門の幕政関与に貢献したと思われる。 政春の子・高国は、管領・細川政元の養子として京兆家に入り、その家督争いに躍り出ることになる︵なお、高国は政元の存命中に1度は政春から野州家の家督を継いでいたが、政元没後の混乱で再び後継候補に浮上したとする説もある[4]︶。野州家庶流の通董︵通頼・通重︶は細川氏綱と協力し尼子氏に侵攻を受けた備中支配の回復を試みるが、中国地方に勢力を伸ばした毛利氏の客将となり、子孫は長府藩家老として幕末に至った︵長府細川家︶。 野州家歴代当主 (一)細川満国︵細川頼元の子︶ (二)細川持春 (三)細川教春 (四)細川政春 (五)細川晴国 (六)細川輝政 (七)細川通董 (八)細川政之 (九)細川元通阿波守護家︵讃州家︶[編集]
阿波守護家は14世紀中頃、細川頼之の弟・詮春に始まり、代々の当主が阿波守護を代襲したことに由来する。また、讃岐守を称したことから讃州家ともいう。なお細川成之の頃から讃岐守護も兼任するようになり、阿波讃岐細川家とも称した。同時に阿波細川氏とも呼ばれる。 他の細川庶流家とは異なり、室町幕府の相伴衆を務める家柄で、当主は幕府の宿老会議にも度々列席するなど、京兆家に次ぐ細川家として高い家格を有していた。そのため京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波細川家は下屋形あるいは阿波屋形と尊称されている。数え方によって変わるが10代で終わる。 詮春から数えて4代目の持常は、6代将軍足利義教からの信任が厚く、永享12年︵1440年︶に戦死したとされる一色義貫に代わり三河守護職も兼任した。しかし一色義貫の死が義教の陰謀によるものであったため、持常とそれを継いだ成之が三河国に守護権を確立する際には、一色残党の激しい抵抗に遭い、多大な犠牲を払った。 義教の信任厚い持常は、嘉吉の乱で義教が暗殺された後、赤松満祐征伐のため播磨国に出兵するも、山名持豊︵宗全︶に一歩遅れる形となり、播磨守護職は山名氏のものとなる。播磨を巡る山名氏と阿波細川家の潜在的対立は、持常の後を継いだ成之の、赤松家の再興運動への助力という形になって現れる。これらのことは、当初は友好的な関係にあった山名氏と細川京兆家との関係悪化を招き、応仁の乱の遠因ともなった。 成之は、応仁の乱では東軍として京兆家を盛り立てたが、細川勝元の没後、政元の時代においては、権力集中を図る京兆家としばしば対立し、摂津守護代の薬師寺元一の反乱に関与するなどした。成之は孫の一人である澄元を、京兆家・細川政元の養子に送りこむことに成功するものの、それは畿内の争乱をさらに激化させることになり、政元暗殺とその後の﹁永正の錯乱﹂へと事態は進展するのである。 なお、成之の次子の細川之勝︵後の細川義春︶は備中守護の細川勝久の養子となっていたが、成之の嫡男の細川政之が早世したため、義春と改名し阿波守護家を継いだ。後に義春の子の細川之持が短期間であるが備中守護にも任じられている。 成之自身は長命であったが、子である政之︵1488年没︶と義春︵1494年没︶に先立たれ、さらに永正8年︵1511年︶の成之の死の翌年には孫の之持が夭折するなど、短命な当主が続く。若年の当主が続く成之以降の阿波細川家においては、家宰の三好氏が台頭することになる。 京兆家の細川政元の養子となった澄元を擁した三好之長は、畿内において細川高国と抗争を続けたが敗れ、澄元もまた京兆家として主導権を取り戻せぬまま夭折する。 之持の跡を継承した細川氏之は三好元長の補佐の元で成長すると、細川晴元や元長と協調し足利義維を擁立し、堺公方とするなど京都の幕府と対立を続けた。 堺幕府の解体後は、義維を阿波に迎え、平島公方としている。江口の戦いで晴元が没落し、三好長慶が将軍足利義輝をも追放して畿内の実権を握ると、義維の将軍擁立を主張したが、義輝との全面対立を望まない長慶の弟の三好之虎と対立し、天文22年︵1553年︶、之虎により暗殺されることになった。 なお、之持から氏之にかけての阿波守護家の動向には不明な点が多く、異説として之持は天文年間初頭まで健在であったとする若松和三郎の説[9] や持隆は之持の子ではなく澄元の子︵晴元の弟︶とする馬部隆弘の説[10] が出されている。 氏之の子・細川真之は、実休とその子の三好長治の元での傀儡でしかなかった。長治が悪政により阿波を混乱させると、真之は新たに台頭しつつあった土佐の長宗我部元親と手を結び復権を図り、長治を滅ぼしたが、天正10年︵1582年︶に長治の弟である十河存保︵異説によれば、長宗我部元親︶の攻勢を受け自刃し、阿波守護家は滅亡した。 阿波守護家歴代当主 (一)細川頼春︵※阿波守護家の祖︶ (二)細川頼之︵※後に京兆家を継承する︶ (三)細川詮春︵細川頼之の弟※実質的な阿波守護家の初代︶ (四)細川義之︵※阿波守護家としての初代︶ (五)細川満久︵細川満之の子︶ (六)細川持常 (七)細川成之︵細川教祐の子、阿波讃岐家としての初代︶ (八)細川政之 (九)細川義春︵細川政之の弟︶ (十)細川之持 (11)細川氏之 (12)細川真之和泉守護家[編集]
和泉国では細川氏の庶流二家が守護職を世襲した。両守護家の祖は細川頼長︵頼之の甥︶と細川基之︵頼之の猶子︶で、前者を上守護家、後者を下守護家と呼んだらしい。 半国ずつを分掌する半国守護制ではなく一国を共同で管掌する守護二人制だった。その理由としては、和泉国は狭小であるものの畿内の外港・商業都市として南北朝期に発展した堺を抱える重要地域であることから権力を分散させるためとも考えられる。ただし、頼長と基之は和泉守護となる以前から備後・土佐においても守護職に併任されており、別に何らかの理由が存在し、その前例を踏襲した可能性も考えられる。和泉上守護家︵細川刑部家︶[編集]
細川頼之の弟・頼有の子孫が14世紀中頃から和泉守護を代々務めた。頼有のあとは、頼長、持有、教春、常有︵教春の弟︶、政有、元有と世襲した。 明応4年︵1495年︶、細川元有は下守護家や紀伊守護畠山尚順と同盟して管領細川政元と敵対した。和泉両守護家は政元に大敗し恭順したが、そのために畠山尚順に攻め込まれ、明応9年︵1500年︶に元有は戦死、その子・細川元常が跡を継いだ。元有以降の当主は京兆家と同じ﹁元﹂を通字とし、代々﹁五郎﹂を仮名とした。 細川元常は、永正8年︵1511年︶の船岡山合戦で阿波細川家の細川澄元に味方したが、細川高国に敗れ阿波に逃れた︵両細川の乱︶。その後、細川晴元が享禄4年︵1531年︶に上洛すると元常は和泉守護に返り咲いたが、実際には将軍足利義晴の近臣となっており、守護は天文年間の早い段階で元常の子・晴貞が継いだ。天文18年︵1549年︶、細川晴元の重臣三好長慶が晴元の政権を倒した︵江口の戦い︶時、守護代の和泉松浦氏も長慶に味方したために晴貞は和泉を追われた。 晴貞の没後は元常の養嗣子・細川藤孝︵元常の弟三淵晴員の次男という︶が家督を継いだとされていたが、近年の研究により、藤孝の養家は和泉上守護家ではなく将軍近臣の細川氏︵奉公衆の近江源氏佐々木大原氏出身で8代将軍義政期に入名字で細川を称する︶であったという見方が有力となっている︵後述︶。藤孝の後、和泉上守護家の流れは藤孝三男の幸隆を経て長岡興孝︵藤孝嫡男・忠興の五男︶が継いだとされ、肥後細川藩の重臣として続く︵後述の長岡︵細川︶刑部家を参照のこと︶。 和泉上守護家歴代当主 (一)細川頼有︵細川頼春の子︶ (二)細川頼長 (三)細川持有 (四)細川教春 (五)細川常有 (六)細川政有 (七)細川元有 (八)細川元常 (九)細川晴貞細川六位蔵人家[編集]
細川元常の長男・細川元春が分家して地下家︵朝廷の下級廷臣家︶となり、幕末まで子孫が続いた。 六位蔵人家歴代当主 (一)細川元春︵細川元常の子︶ (二)細川常元 (三)細川常勝 (四)細川政勝 (五)細川政朝 (六)細川常勝 (七)細川常誠 (八)細川貴常 (九)細川常芳 (十)細川常顕 (11)細川常保 (12)細川常徳 (13)細川常典和泉下守護家[編集]
頼之の猶子・基之のあと、細川頼久、細川持久、細川基経︵養子か︶、政久が守護職を継承した。明応4年︵1495年︶、政久は和泉上守護家と同盟し、その上で畠山尚順と結び細川政元に対抗したがその後は恭順した。しかし畠山尚順に攻め込まれ戦死した。その後、細川政元は畠山尚順を河内で破り、和泉に攻め入って支配を回復したが、そののち和泉下守護家がその地位を保つことはできなかった。備中守護家[編集]
細川頼之の末弟・細川満之を祖とし、頼重、氏久、勝久と代々備中国の守護職を継承した。他に伊予国新居郡などの領有の記録もある。 備中国はもともと京兆家や阿波守護家など、他の有力守護家の影響が強く及んでおり、庄氏を初めとする国人統制も困難を極め、頼重などは永享3年︵1431年︶に謎の狂死を遂げている。勝久の代に、庄元資︵伊豆守︶との争乱が勃発し︵備中大合戦︶、これは備中守護家が勝利したが、国内の混乱はますます加速する一方で、以後次第に勢力を弱めていく。阿波守護家から迎えた勝久の養子である之勝︵細川義春︶は、実兄・政之の死に伴い後に阿波守護家に戻ったため、勝久の系統がその後守護に就任することはなく、事実上守護家は断絶した。 以降は阿波守護家の細川之持︵義春の子︶が一時的に備中守護を継いだ後、永正の錯乱の際に実の弟である細川澄元を支持した之持に対抗するために細川高国が細川国豊︵細川春倶の子︶を新しい守護として派遣した[11]。その後は高国の実父である野州家の細川政春が備中守護となるが、永正15年︵1518年︶に政春が死去すると、細川国豊が再び備中守護となったとされる[12]。淡路守護家[編集]
細川和氏・頼春の弟師氏を祖とする。その子氏春は、従兄の清氏︵和氏の子︶が南朝に降伏すると、それに従って幕府方と戦った。子孫は代々淡路守護である一方、奉公衆の一番番頭も務めて将軍の近くに仕えた。戦国時代初期に細川尚春が三好之長に滅ぼされて断絶した。 淡路守護家歴代当主 (一)細川師氏︵細川公頼の子︶ (二)細川氏春 (三)細川満春 (四)細川満師 (五)細川持親 (六)細川成春 (七)細川尚春奥州家[編集]
細川氏の庶流の一つ。和氏・頼春の従兄弟の細川顕氏が陸奥守に就任したことが由来とされ、大外様ともいわれた家系のこと。顕氏の兄弟はそれぞれが武勇に優れ活躍したが、彼らは顕氏に先立ちこの世を去る。残った顕氏は讃岐、土佐などの領国化に励み実力をつけ、嫡流の和氏の死後、その弟の頼春と並んで細川氏の実力者となる。顕氏は観応の擾乱で活躍するも、やがて頼春と前後して死去する。顕氏の実子の繁氏は顕氏の領国を受け継ぎ、有力者として武功を積むも急死する。その後は、和氏の子・業氏が後を継いで存続したが、讃岐など領国は頼春の子・頼之に押さえられたため、以後の代々の当主は京兆家に協力的な立場をとった。 細川満経は、京兆家の細川満元の片腕として政界で活躍した。また、業氏は3代将軍足利義満、業氏の子孫の晴経は13代将軍・足利義輝の加冠の際の理髪役を務めるなど、有力な幕臣であった。 細川藤孝の子・忠興は戦国時代末期の当主輝経の養子となって奥州細川家を継承したといい、近世大名の肥後熊本藩細川家は奥州家の末裔とされることもある。また、近年になって藤孝が和泉上守護家とは関係ないとする説も出されているが︵﹁和泉上守護家﹂﹁宇多源氏佐々木大原氏系﹂参照︶、奥州家の養子である忠興の子孫は細川氏の系譜と確実につながっていると言える。 もっとも、藤孝が室町幕府滅亡後に織田信長に属して名字を長岡に改めてからは、忠興もまた﹁長岡与一郎﹂と称し、本能寺の変の後に藤孝が隠居するとその所領である丹後12万石を相続しているので、実際には藤孝の継承者である。 細川輝経は後に妻の弟である松井康之︵忠興重臣︶のもとに招かれたが、丹後田辺城の戦い︵関ヶ原の戦いの一環︶の際に康之が九州に派遣されていたため居城の久美浜城に不在の間に西軍の誘いに乗って城を乗っ取り、西軍敗北後に罪を問われて自害したという︵﹃松井家記﹄︶[13]。 細川奥州家歴代当主 (一)細川頼貞︵細川俊氏の子︶ (二)細川顕氏 (三)細川繁氏 (四)細川業氏︵細川和氏の子︶ (五)細川満経 (六)細川持経 (七)細川成経 (八)細川尚経 (九)細川尹経 (十)細川晴経 (11)細川輝経 (12)細川忠興︵細川藤孝の子。初代小倉藩主︶?遠州家[編集]
代々の当主が遠江守を称したことから、この名が定着した。また、遠州家とその分家は上野氏とも称しており、﹁細川﹂と﹁上野﹂の名乗りが併用されていた[14]。土佐守護代家ともいう。土佐守護は細川家の嫡流である京兆家が代々つとめたが、管領でもあり京都住が常であったことから、庶流であるこの細川家が実際に土佐に在国し守護代を代々つとめた。細川頼益︵よります︶以降の通字は﹁益﹂︵ます︶、満益︵みつます︶以降は足利将軍家の偏諱を受けている︵系図中の太字部分、細川国益︵くにます︶は細川高国の1字を受けている︶。頼益は細川成之の母の兄でもあり、香美郡田村︵現・南国市田村︶に守護代館︵=田村城︶をおいた[15]。 その曾孫、勝益は応仁の乱に際して東軍大将を務める細川勝元の支援のために上京[16]、その跡を継いでいた政益︵まさます︶・国益も永正4年︵1507年︶に細川政元︵勝元の子︶が暗殺される︵永正の錯乱︶と上京し[16]、やがて土佐は守護代不在の地となった[16]。また、勝益の弟である細川元治は﹁上野玄蕃頭﹂と称したために、元治の子孫は玄蕃頭家と称されたが、永正の錯乱の際に元治が高国の擁立を最初に主張したことから実際に高国が京兆家を継ぐとその功労者としてその地位を高めた[17]。その孫である細川国慶は高国の没後はその後継者である細川晴国・細川氏綱陣営の重鎮として細川晴元と戦い、一時京都を占領・支配している[18]。 ●土佐守護代家歴代当主 細川宗義 - 頼種 - 頼元 - 頼益 - 満益︵弟に氏有︶ - 持益 - 勝益 - 政益 - 国益︵*一説に国益は政益の弟で子は益氏とも︶ ●遠州家分家︵義幸流︶・上野氏 細川宗義 - 頼種 - 義幸︵頼元の兄︶ - 氏世 - 氏益 - 元興︵弟に賢氏︶ - 氏盛 ︵*系図は こちら を参照に作成。︶ ●遠州家分家︵玄蕃頭家︶・上野氏 細川宗義 - 頼種 - ︵中略︶ - 持益 - 元治︵勝益の弟︶ - 元全︵政益の弟・元治の養子︶ - 国慶天竺氏[編集]
三河国幡豆郡天竺︵現在の愛知県西尾市天竹町周辺︶を本領としてこれを名字としたとされる[19]。細川義俊の子・細川義有の子孫が﹁細川﹂と﹁天竺﹂を併用した[20]。 建武3年/延元元年︵1336年︶土佐国の北朝方勢力として、細川定禅の弟︵細川三位律師皇海︶のもと、天竺左衛門︵孫太郎氏有?︶と細川兵部大夫氏勝︵天竺孫二郎︶がいた[21][22]。 細川頼之の伊予国侵攻後、正平20年/貞治4年︵1365年︶正月頃まで伊予国湯築城主だった細川天竺禅門が、系図中の誰に相当するかは不明[23][24]。 嘉吉2年︵1442年︶細川持賢の家臣天竺孫次郎賢秀?、大覚寺門跡領の讃岐国香西郡坂田荘を請け負う[25]。 文明元年︵1469年︶細川政国は丹後国与謝郡の分郡守護に任じられたため、家臣の天竺孫四郎賢実を丹後に出兵させた[26]。 ︵年月日不明︶天竺右近花氏︵天竺孫十郎二位少将花氏︶が京より下向し、土佐国大津城主となる[27]。 文明10年︵1478年︶天竺孫十郎二位少将花氏の子・天竺孫八郎肥前守花房︵または父と同名の花氏︶が、土佐国姫野々城主津野之高に攻められ、このときに土佐国大津城主・天竺氏が滅亡したという説がある[27]。 明応2年︵1493年︶閏4月、明応の政変で実権を握った細川政元はかねてから数年来放置されていた亀泉集証から出された蔭涼職の辞表を受理し、自分の側近であった禅僧葦州等縁をその後任とした。葦州は天竺中務少輔国範の子と伝えられている[28]。 明応4年︵1495年︶天竺中務少輔国範は、和泉下守護家出身とされる典厩家当主細川政賢の勘気を受けて逐電した[29]。その後、細川宗家家臣・天竺氏︵典厩家家臣天竺氏︶は、分裂した典厩家のうち、野州家出身の典厩家当主細川尹賢・細川藤賢親子の家臣として活動した[20]。 天文16年︵1547年︶天竺孫八郎肥前守花房︵または父と同名の花氏︶の子・天竺孫十郎左衛門花氏︵祖父と同通称・同名︶が、土佐国岡豊城主長宗我部国親に攻められ、土佐国大津城主・天竺氏は滅亡した︵子の天竺兵部少輔は京に逃れた︶[30]。 天正元年︵1573年︶に備中国軽尾城主から伯耆国美女石城主へと転移となった、毛利氏の家臣・天竺元氏︵細川天竺三郎二郎︶は細川氏綱の子と伝わる[31]。 ●奉公衆・天竺氏 細川 (天竺) 義有(三郎) - 義秋(九郎二郎) - 元義(弥三郎) - 頼顕(三郎?) - 満秋(三郎)︵弟に之顕(弥三郎)︶ - □□(三郎) - □□(三郎) - 源命丸 ●外様衆・天竺氏 細川 (天竺) 義有(三郎) - 義秋(九郎二郎) - 元義(弥三郎) - 義俊(四郎)︵頼顕(三郎?)の弟︶ - 元俊(弥六)︵兄に頼俊(弥三郎)︶・・・□□(□□) - □□(□□) - 氏俊(□□)︵元俊(弥六)の親族?︶・・・元定(□□)︵氏俊(□□)の子?、兄に□□(弥六)?︶ ●細川宗家家臣・天竺氏 細川 (天竺) 義有(三郎) - 義円(弥七)︵義秋(九郎二郎)の弟︶ - 氏之(弥三郎) - 氏勝(孫二郎)︵兄に氏有(孫太郎)︶・・・□□(□□) - 賢秀(孫次郎)︵氏勝(孫二郎)の親族?︶ - 賢実(孫四郎)孫次郎? - 国範(中務少輔)︵兄に□□(孫四郎)孫次郎??︶・・・国勝(越後守)︵国範(中務少輔)の子?、従兄弟に□□(孫三郎)?︶・・・国家(兵部少輔)︵国勝(越後守)の子?︶ ●土佐国大津城主・天竺氏 天竺花氏(孫十郎二位少将)︵細川天竺賢秀(孫次郎)の親族?︶ - 花房(孫八郎肥前守)︵または父と同名の花氏、弟に中村花清(三郎左衛門)︶ - 花氏(孫十郎左衛門)︵祖父と同名(同通称)、弟に小神花吉(次郎兵衛)︶ - □□(兵部少輔) ●京兆家庶子?・天竺氏 細川氏綱 - 天竺元氏(三郎二郎)︵土佐国大津城主・天竺氏の名跡を継いだ?、弟に住田久次(甚兵衛尉)︶ 大津城主天竺氏家臣‥石谷氏・井上氏・公文氏・坂本氏・澤本氏・曾我氏・長崎氏・宮地氏・横山氏・依光氏駿河守家[編集]
細川俊氏の兄・義久を祖とする。駿州家とも。 駿河守家歴代当主 (一)細川義久 (二)細川義胤 (三)細川義門 (四)細川氏清 (五)細川氏久 (六)細川氏家 (七)細川元家 (八)細川政清 (九)細川成清 (十)細川昌勝︵細川澄元の弟・氏久の子︶ (11)細川尹賢︵細川春倶の子、駿河守家当時は澄重︶ (12)細川左衛門佐︵細川春倶の子︶ (13)細川勝国 (14)細川駿河入道宇多源氏佐々木大原氏系[編集]
8代将軍足利義政が瑞渓周鳳に仕える喝食[32] の寿文房を寵愛し、淡路守護細川家の養子という形で細川政誠と名乗らせ御部屋衆に取り立てた[注釈 1]。これは入り名字といって将軍が側近などに足利一門の苗字を与えて序列を引き上げるもので、寿文房は六角氏や京極氏と同族の宇多源氏佐々木大原氏の子だった。入り名字は将軍との個人的な関係に基づくもので一代で終わる場合もあったが、細川一族からの異論がありながらも[34]、名字は子孫に受け継がれた。政誠は大内義興が上洛して足利義稙が将軍に復帰した時に出家して霊芳と名乗り、子とみられる細川高久が後を継いで足利義晴の時代に将軍の諮問に与る内談衆に任じられた。その後は高久の子の細川晴広が継いだことが知られている[35]。この晴広が細川藤孝︵幽斎︶の養父であったとする見解が近年出され[36]、研究者の間では有力になっている。近世[編集]
肥後細川家︵豊前小倉藩、肥後熊本藩主家︶[編集]
長岡︵細川︶内膳家[編集]
長岡(細川)刑部家[編集]
高瀬細川家(肥後熊本新田藩主家)[編集]
宇土細川家[編集]
肥後熊本藩の支藩・宇土藩︵熊本県宇土市︶3万石の藩主。細川忠興の四男・立孝の子の行孝から11代。5代細川興文は本藩の細川重賢と協力して藩校温知館の創設や水道による農地灌漑・殖産興業に努めるなど藩政改革を行い、外様支藩主ながら幕府老中任用も議せられた。本家10代の細川斉茲および12代の細川斉護は宇土細川家の出身である。また、本家17代細川護貞の夫人・温子は11代細川行真の曾孫にあたる︵細川行真-毛利高範︵佐伯藩毛利高謙養子︶-近衛千代子︵近衛文麿夫人︶-細川温子︵細川護貞夫人︶-細川護煕︵本家18代︶︶。谷田部細川家[編集]
常陸国谷田部藩︵茨城県つくば市︶1万6200石の藩主。細川藤孝の次子・興元より9代。藩祖の興元は細川忠興の弟にあたり、はじめ兄・忠興の領国である豊前国で小倉城を任されていたが家を出、徳川家に直仕した。谷田部藩は、熊本藩の支藩ではなく独立した藩である。竜王細川家[編集]
かつて竜王城主としてあった細川家。細川藤孝の三子・幸隆が、長兄で豊前国主︵小倉藩主︶の忠興より豊前竜王城を任され、竜王1万石の領主となった。しかし嗣子なく一代にて断絶。幸隆は、関ヶ原の戦い時において領国を離れていた長兄の留守を善く守った猛将で、戦功により要衝である竜王城を賜った。六位蔵人家[編集]
和泉国上守護・細川元常の子の細川元春が始祖。地下官人の家で藤森・小森両家と共に六位蔵人となる家柄。明治以降は京都府貫属士族[40]。 ●本家 ●細川元春 ●細川常元 ●細川政勝 ●細川政朝 ●細川常勝 ●細川常誠 ●細川貴常 ●細川常芳 ●細川常顕 ●細川常保 ●細川常徳 ●細川常典 ●庶家 ●細川忠朝︵細川政勝子︶ ●細川堯朝︵細川政朝子︶ ●細川元儀︵堯朝の次男︶有栖川宮諸大夫家[編集]
六位蔵人家の分流とされるが詳細な系譜は不明[41]。 ●細川長益 ●細川常成 ●細川兼充︵有栖川宮某の命で常成の名跡を継承︶大覚寺宮侍家[編集]
先祖が誰かは不明。江戸時代末期に大覚寺に仕えた[42]。 ●細川元雄︵従六位下・右馬大允︶明治以降[編集]
明治以降の当主[編集]
●熊本細川家︵熊本藩知事→侯爵︶ (一)細川護久︵斉護の子。初代熊本藩知事、初代侯爵︶ (二)細川護成︵2代侯爵︶ (三)細川護立︵護久の子、3代侯爵︶ (四)細川護貞 (五)細川護熙︵熊本県知事、第79代内閣総理大臣︶ (六)細川護光その他の支流・庶家[編集]
●天竺氏 ●小神氏 ●綾氏 ●上野氏 ●上地氏 ●長岡氏 ●十市氏 ●西内氏 ●野﨑氏系図[編集]
凡例‥太線は実子、破線は養子清和天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| (6代略) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源義国 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[新田氏] 新田義重 | [足利氏] 足利義康 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義清 | 義兼 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義実 | [矢田氏] 矢田義房 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[仁木氏] 仁木実国 | [細川氏] 細川義季 | [戸崎氏] 戸崎義宗 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 義俊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[天竺氏] 義有 | 義久 | 俊氏[※ 1] | 宗義 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 公頼 | [奥州家] 頼貞[※ 2] | [遠州家] 頼種 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
| 顕氏 | 直俊 | 定禅 | 皇海 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
和氏 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 頼春 |
|
|
|
|
|
| [淡路守護家] 師氏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清氏 | 頼和 | 将氏 | 家氏 | 業氏[※ 3] |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 氏春 | 信氏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
| 義和 | [京兆家] 頼之 | [阿波守護家] 詮春 | [和泉上守護家] 頼有 | 頼元 | [備中守護家] 満之 |
|
|
| 満春 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
仁木頼夏[※ 4] | 正氏 | 頼元 |
|
|
|
|
|
|
|
|
| [和泉下守護家] 基之 |
|
|
| 満俊 | 俊春 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
経氏 | 頼氏 | 満元 |
|
|
| [野州家] 満国 |
|
|
| 頼久 | 教久 | 持親 | 安氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
泰経 | 持元 | 持之 | [典厩家] 持賢 | 持春 |
|
|
| 持久 |
|
|
| 成春 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
仲泰 | 勝元 |
|
|
|
|
|
|
|
| 教春 | 賢春 | 勝信 |
|
|
| 尚春 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| 成賢 | 政国 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
泰寛 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 政久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 政元 | 勝之[※ 5] | 政賢 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 勝之 |
|
|
| 政春 |
|
|
| 春倶 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
澄之[※ 6] | 澄元[※ 7] | 高国[※ 8] | 澄賢 | 尹賢[※ 9] | 高国 | 晴国 | 通政(非実在説あり[59]) | 尹賢 | 高基 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 晴元 |
|
|
|
| 晴賢 | 氏綱 | 藤賢 | 通政(非実在説あり[60]) | 通薫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 昭元 | 稙国 | 氏綱[※ 10] |
|
|
| 元賢 | 通薫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 元勝 | 頼国 |
|
|
|
|
|
|
|
|
| [長府細川家] 元通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| [三春藩士細川家] 義元 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 宣元 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 忠元 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 孚元 三春藩家老・小野寺泰忠の子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 昌元 三春藩主・秋田延季の子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐々木信綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
重綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
時綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
時継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
時重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
義信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
満信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
持信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
持綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
細川政誠 細川淡路守護家の名跡を継承 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||
高久 | 誠久 | 治部少輔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
晴広 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
藤孝(幽斎) (三淵晴員の子) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||
[熊本藩主家] 忠興(長岡忠興)1 | [谷田部藩主家] 興元 | 幸隆 | 孝之 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||
忠隆 | 興秋[※ 2] | 忠利2 | [宇土藩主家] 立孝 | [細川(長岡)刑部家] 興孝 | 松井寄之[※ 3] | ||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||
[細川(長岡)内膳家] 忠春 | 光尚3 | 南条元知[※ 4] | |||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||
綱利4 | [熊本新田藩主家] 利重 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||
吉利 | 宣紀5 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||
|
|
| 宗孝6 | 長岡興彭[※ 5] | 重賢 | 長岡紀休 | |||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 重賢7 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| 治年8 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||
長岡年和 | 斉茲(立礼)9[※ 6] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||
立之 | 斉詮 | 斉樹10 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
| 斉護(立政)11[※ 7] | ||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||
慶前 | 韶邦12 | 護久 | 津軽承昭[※ 8] | 長岡護美 | |||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| [細川侯爵家] 護久13 | 護全 | 護孝[※ 9] | ||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||
護成 | 長岡護全 | 護晃 | 護立 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
護立 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
護貞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||
護熙 | 近衞忠煇[※ 10] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
護光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
縁故社寺・菩提寺[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●浅見雅男﹃華族誕生 名誉と体面の明治﹄リブロポート、1994年︵平成6年︶。 ●小田部雄次﹃華族 近代日本貴族の虚像と実像﹄中央公論新社︿中公新書1836﹀、2006年︵平成18年︶。ISBN 978-4121018366。 ●木下聡 著、木下聡 編﹃管領斯波氏﹄戎光祥出版︿室町幕府の研究, 1﹀、2015年2月。ISBN 9784864031462。 ●河村昭一 著﹁南北朝期における守護権力構造﹂、木下聡 編﹃管領斯波氏﹄戎光祥出版︿室町幕府の研究, 1﹀、2015年2月。ISBN 9784864031462。 ●設楽薫 著﹁足利義晴期における内談衆の人的構成に関する考察—その出身・経歴についての検討を中心に﹂、木下昌規 編﹃足利義晴﹄戎光祥出版︿室町幕府の研究, 3﹀、2017年。ISBN 9784864032537。 ●新田完三﹃内閣文庫蔵諸侯年表﹄東京堂出版、1984年︵昭和59年︶。 ●羽生道英﹃Google ブックス 長宗我部三代記 : 四国制覇の夢﹄PHP研究所︿PHP文庫﹀、2008年5月。ISBN 9784569670232。 ●馬部隆弘﹃戦国期細川権力の研究﹄吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02950-6。 ●松田敬之﹃︿華族爵位﹀請願人名辞典﹄吉川弘文館、2015年︵平成27年︶。ISBN 978-4642014724。 ●三春町編﹃三春町史﹄ 第3巻︵通史編3近代1︶、三春町、1975年。全国書誌番号:73021862。 ●山田康弘﹁細川幽斎の養父について﹂﹃日本歴史﹄第730号、吉川弘文館、2009年3月、96-104頁、NAID 40016449981。 ●菅芳生編﹁細川右京家資料集﹂熊日情報文化センター、2013年6月、14‐15頁、65頁 ●華族大鑑刊行会﹃華族大鑑﹄日本図書センター︿日本人物誌叢書7﹀、1990年︵平成2年︶。ISBN 978-4820540342。 史料 ●﹃蔭涼軒日録﹄関連項目[編集]
- 舎利寺の戦い
- 享禄・天文の乱
- 細川政権 (戦国時代)
- 肥後細川庭園 - 江戸時代、細川家の大名屋敷があった場所。
外部リンク[編集]
- 肥後細川藩拾遺
- 熊本大学付属図書館貴重史料蔵書
- 永青文庫(永青文庫)
- 細川家系図一覧(白鷺x城下町)
- 特別展 細川家の至宝(2010年4月20日~6月6日 東京国立博物館)
- 千田稔、華族資本としての侯爵細川家の成立・展開 土地制度史学 1987 年 29 巻 4 号 p. 40-59, doi:10.20633/tochiseido.29.4_40