近藤栄蔵
表示
近藤 栄蔵︵こんどう えいぞう、1883年︵明治16年︶2月5日 - 1965年︵昭和40年︶7月3日︶は、日本の社会主義運動家、で︵第一次︶日本共産党幹部である。﹁暁民共産党事件﹂の被弾圧者の一人。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b8/Baibunsha%2C_September_1922.JPG/270px-Baibunsha%2C_September_1922.JPG)
左手前から、新居格︵白いシャツ︶、大杉栄、堺利彦、山崎今朝弥、山 川均、近藤栄蔵。左奥の人物は不明。1922年撮影。
その後1922年7月頃とされる日本共産党︵第一次共産党︶の創立大会に参加し、中央委員に選ばれた。恩師・片山潜の唱えた﹁議会政策論﹂の影響もあって、党内では高津正道・高尾平兵衛らとともに積極的な普選運動参加論を代表し、12月にはこの2人とともに﹁時局研究会﹂を結成した。またこれより以前の1921年1月 - 6月には大杉栄とともに﹃労働運動﹄︵第2次︶を発刊するなど﹁アナ派﹂との提携にも熱心であったが、1923年2月市川で開催された第2回党大会において近藤は党内で力を失い、アナ・ボル提携は頓挫した。その後6月には高津とともに島中雄三を巻き込み無産政党設立準備のため﹁政治問題研究会﹂を結成したが、同月、第一次共産党事件による弾圧の中で地下に潜行しソ連に亡命した︵﹁政治問題研究会﹂は震災後の12月に再建され後の政治研究会の前身となった︶。第一次共産党解党後、1924年6月 - 7月に開催されたコミンテルン第5回大会には片山らとともに日本副代表として参加し、またプロフィンテルン第3回大会で執行部に選出されブハーリン派として活動したが、1926年11月に帰国した。
生涯[編集]
在米日本人社会主義者との交流[編集]
東京市小石川区生まれ。高等小学校卒業後、1902年︵明治35年︶アメリカに渡航し、カリフォルニア農学校を卒業して1910年に帰国。1916年︵大正5年︶ - 1919年に再度渡米し、幸徳事件後にアメリカに亡命していた片山潜の影響を受け、1918年︵大正7年︶8月、田口運蔵ら在米日本人の若手の社会主義者︵いわゆる﹁アメ亡﹂組︶により結成された﹁在米日本人社会主義者団﹂に参加し、翌1919年5月、米騒動のニュースを聞き、日本において共産党を結成し革命をおこなおうと決意、帰国した。コミンテルンとの接触[編集]
帰国後は神戸で靴屋を営むかたわら、1920年4月、東京で山川均・堺利彦・荒畑寒村・高津正道らとともにコミンテルン日本支部準備会︵日本共産党暫定執行委員会︶を結成、翌5月にはコミンテルンへの報告のため上海に派遣され、李東輝ら朝鮮人社会主義者を介して活動資金6,500円を受領したが、多額の金を手にしたことで気が大きくなり、帰国後下関で遊興中、官憲に逮捕された︵下関遊興事件︶。釈放後の8月、非公式・非合法の共産主義者グループ﹁暁民共産党﹂を結成し、9月にコミンテルン極東代表・ヴォイチンスキーの使者として来日した張太雷︵中国共産党︶と会見し極東諸民族大会への参加を要請されたが、直後、﹁共産党本部﹂名義による兵士へのビラ配布で12月22日再び検挙された︵暁民共産党事件︶ため、翌1922年に開催された会議には参加できなかった。第一次共産党に参加[編集]
後半生[編集]
帰国後の近藤は、再建されていた共産党︵第二次共産党︶とは距離を置き、中間派の無産政党である日本労農党に入党。しかし1931年に勃発した満州事変を契機に国家社会主義へ転向し、石川準十郎らと大日本国家社会党︵赤松克麿の日本国家社会党とは別の団体︶結成に加わるが、1942年に治安維持法違反容疑で拘束される。 第二次世界大戦後は公職追放を経て政治活動を完全に止め、1946年には全国戦災者同盟を、1953年には社会福祉法人﹁春陽会﹂をそれぞれ設立。亡くなるまで理事長を務めるなど、もっぱら社会福祉事業で活動した。 1965年7月3日、胆のうがんのため東京女子医科大学付属病院にて死去[1]。人物・評価[編集]
第一次共産党においては、いわゆる﹁アメ亡﹂出身の幹部で、アナ・ボル提携論と積極的な議会政治参加論を代表する人物であった。著書[編集]
脚注[編集]
- ^ 『日本経済新聞』昭和40年7月3日15面(お悔み欄)