﹃何か面白い事はないか?﹄
﹃俺は昨夜︵ゆうべ︶火星に行って来た﹄
﹃そうかえ﹄
﹃真個︵ほんと︶に行って来たよ﹄
﹃面白いものでもあったか?﹄
﹃芝居を見たんだ﹄
﹃そうか。日本なら﹁冥途︵めいど︶の飛脚﹂だが、火星じゃ﹁天上の飛脚﹂でも演︵や︶るんだろう?﹄
﹃そんなケチなもんじゃない。第一劇場からして違うよ﹄
﹃一里四方もあるのか?﹄
﹃莫迦︵ばか︶な事を言え。先︵ま︶ず青空を十里四方位の大︵おおき︶さに截︵き︶って、それを圧搾して石にするんだ。石よりも堅くて青くて透徹︵すきとお︶るよ﹄
﹃それが何だい?﹄
﹃それを積み重ねて、高い、高い、無際限に高い壁を築き上げたもんだ、然︵しか︶も二列にだ、壁と壁との間が唯五間位しかないが、無際限に高いので、仰ぐと空が一本の銀の糸の様に見える﹄
﹃五間の舞台で芝居がやれるのか?﹄
﹃マア聞き給え。その青い壁が何処︵どこ︶まで続いているのか解らない。万里︵ばんり︶の長城︵ちょうじょう︶を二重︵ふたえ︶にして、青く塗った様なもんだね﹄
﹃何処で芝居を演︵や︶るんだ?﹄
﹃芝居はまだだよ。その壁がつまり花道なんだ﹄
﹃もう沢山だ。止︵よ︶せよ﹄
﹃その花道を、俳優︵やくしゃ︶が先︵ま︶ず看客を引率して行くのだ。火星じゃ君、俳優︵やくしゃ︶が国王よりも権力があって、芝居が初まると国民が一人残らず見物しなけやならん憲法があるのだから、それはそれは非常な大入︵おおいり︶だよ、そんな大仕掛︵おおじかけ︶な芝居だから、準備にばかりも十カ月かかるそうだ﹄
﹃お産をすると同︵おんな︶じだね﹄
﹃その俳優︵やくしゃ︶というのが又素的︵すてき︶だ。火星の人間は、一体僕等より足が小くて胸が高くて、そして頭が無暗︵むやみ︶に大きいんだが、その中︵うち︶でも最も足が小くて最も胸が高くて、最も頭の大きい奴が第一流の俳優︵やくしゃ︶になる。だから君、火星のアアビングや団十郎は、ニコライの会堂の円天蓋︵まるてんじょう︶よりも大きい位な烏帽子︵えぼし︶を冠︵かぶ︶ってるよ﹄
﹃驚いた﹄
﹃驚くだろう?﹄
﹃君の法螺︵ほら︶にさ﹄
﹃法螺じゃない、真実︵ほんと︶の事だ。少くとも夢の中の事実だ。それで君、ニコライの会堂の屋根を冠︵かぶ︶った俳優︵やくしゃ︶が、何十億の看客を導いて花道から案内して行くんだ﹄
﹃花道から看客を案内するのか?﹄
﹃そうだ。其処︵そこ︶が地球と違ってるね﹄
﹃其処ばかりじゃない﹄
﹃どうせ違ってるさ。それでね、僕も看客の一人︵にん︶になってその花道を行ったとし給え。そして、並んで歩いてる人から望遠鏡を借りて前の方を見たんだがね、二十里も前の方にニコライの屋根の尖端︵あたま︶が三つばかり見えたよ﹄
﹃アッハハハ﹄
﹃行っても、行っても、青い壁だ。行っても、行っても、青い壁だ。何処︵どこ︶まで行っても青い壁だ。君、何処まで行ったって矢張︵やっぱり︶青い壁だよ﹄
﹃舞台を見ないうちに夜︵よ︶が明けるだろう?﹄
﹃それどころじゃない、花道ばかりで何年とか費︵かか︶るそうだ﹄
﹃好︵い︶い加減にして幕をあけ給え﹄
﹃だって君、何処まで行っても矢張︵やはり︶青い壁なんだ﹄
﹃戯言︵じょうだん︶じゃないぜ﹄
﹃戯言じゃないさ。そのうちに目が覚めたから夢も覚めて了︵しま︶ったんだ。ハッハハ﹄
﹃酷︵ひど︶い男だ、君は﹄
﹃だってそうじゃないか。そう何年も続けて夢を見ていた日にゃ、火星の芝居が初まらぬうちに、俺の方が腹を減らして目出度︵めでたく︶大団円になるじゃないか、俺だって青い壁の涯︵はて︶まで見たかったんだが、そのうちに目が覚めたから夢も覚めたんだ﹄
底本:「石川啄木集(下)」新潮文庫、新潮社
1950(昭和25)年7月15日発行
1970(昭和45)年6月15日25刷改版
1991(平成3)年3月5日48刷
底本の親本:「啄木全集」筑摩書房
1967(昭和42)年~1968(昭和43)年
入力:青空文庫
校正:鈴木厚司
2004年8月11日作成
2011年1月31日修正
青空文庫作成ファイル:
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