黒くろ馬うま旅りょ館かんの客きゃく
影かげのような男
怪かい物ぶつ!
そうだ、怪物にちがいない。
怪かい物ぶつでなくて、なんだろう? 科かが学くが発はっ達たつした、いまの世の中に、東とう洋ようの忍にん術じゅ使つつかいじゃあるまいし、姿すがたがみえない人にん間げんがいるなんて、これは、たしかに変へんだ。奇きか怪いだ!
しかし、それは、ほんとうの話だった。怪かい物ぶつははじめに、ものさびしい田いな舎かにあらわれた。それからまもなく、あちこちの町にも出しゅ没つぼつするようになったのである。たいへんな騒さわぎになったことは、いうまでもない。
その怪かい物ぶつの姿すがたは、まるっきり見みえないのである。すきとおっていて、ガラス、いや空くう気きのように透とう明めいなのだ。諸しょ君くんは、そんなことかあるもんか――と、いうだろう。だが、待ちたまえ!
怪かい物ぶつが、はじめて田いな舎かのその村にやってきたのは、たしか二月もおわりに近い、ある寒さむい朝のことだった。身みをきるような風かぜがふいて、朝から粉こな雪ゆきがちらちら舞まっていた。こんな寒い日は、土地のものだって外を出あるいたりはしない。
その男は、丘おかをこえて、ブランブルハースト駅えきから歩あるいてきたとみえ、あつい手てぶ袋くろをはめた手に、黒いちいさな皮かわかばんをさげていた。からだじゅうを、オーバーとえりまきでしっかり包つつんで、ぼうしのつばをぐっとまぶかにおろし、空くう気きにふれているところといったら、寒さむさで赤くなっている鼻はなさきだけであった。なんともいいようのない、ぞっとするようなふんいきを、あたりにただよわせながら、黒くろ馬うま旅りょ館かんのドアをおしひらいてはいってきたのである。
﹁こう寒さむくちゃあやりきれない。火だ! さっそくへやに、火をおこしてもらいたいな﹂
酒さか場ばへ、ずかずかとはいってくるなり、ぶるるんと、からだをゆさぶって雪ゆきをはらいおとし、黒馬旅館の女あるじに向かって、そう言った。
いまどき、めずらしい客きゃくである。こんな冬の季きせ節つに、しかもこんなへんぴな土地に、旅たびの商しょ人うにんだってめったにきたことはないのだ。おかみさんは、びっくりもし、なげだされた二枚の金きん貨かをみると、すっかりよろこんでしまった。
﹁とうぶん、とめてもらうから﹂
客きゃくをへやに案あん内ないすると、暖だん炉ろに火をもやしてたきぎをくべ、台だい所どころでお手伝いにてつだわせて、おかみさんはせっせと食しょ事くじのしたくをした。
スープ皿さら、コップなどを客きゃ室くしつにはこんで、食しょ卓くたくのよういをととのえた。暖だん炉ろの火はさかんにもえて、ぱちぱちと音をたてている。
ところが、火にあたっている客きゃくはこちらに背せをむけたまま、ぼうしもオーバーもぬごうとはしないで、つっ立っている。中なか庭にわにふりつもる雪をみつめながら、なにか考えているようだった。オーバーの雪がとけて、しずくが床ゆかのじゅうたんの上にしたたり落ちていた。
﹁もし、あのう、おぼうしとオーバーを、おぬぎになりましたら? 台だい所どころでかわかしてまいりますわ﹂
と、おかみさんが声をかけた。
﹁いいんだ﹂
ふりむきもしないで、客が、ぶっきらぼうに言った。おかみさんはあわてて、残りの皿をとりに台所へもどった。
料りょ理うりをはこんで、もういちど客きゃ室くしつにきてみると、客はまだ、さっきとおなじ姿しせ勢いで窓まどのほうをむいていた。
﹁お食しょ事くじのよういができました﹂
﹁ありがとう﹂
へんじはしたが、うごこうともしなかった。おかみさんがでていくと、男は、さっと食しょ卓くたくに近づいた。そして、スープをせっかちにすすり、パンやベーコンをがつがつと食べはじめた。
つぎに、おかみさんがハム・エッグを皿さらにのせて、軽かるくドアをたたいて客きゃ室くしつにはいっていくと、とたんに、男はナプキンを食しょ卓くたくの下になげ、それをひろうようなかっこうをして、身をかがめて口におしあてた。
︵おやっ?︶
と、おかみさんは思った。
ぼうしとオーバーはやっとぬいで、暖だん炉ろのまえのいすにおいてある。長ぐつは、炉ろのかこいの金かな具ぐのうえにおいてあった。
﹁これはあたしが、かわかしてまいりましょう﹂
金具がさびちゃあこまる、とおもって、長ぐつを取りあげながら、おかみさんが言った。
﹁ぼうしは、いじらんでおいてくれ﹂
陰いんにこもったふくみ声で、客きゃくはぴしりと言った。おかみさんはおどろいて、客のほうを見た客はかの女をにらんでいる。
おかみさんは、ぎくっとして、その場にたちすくんでしまった。なんという顔をしているのか……。男の口から下はナプキンにかくれて見えないが、青いめがねをかけたその顔は、頭から顔じゅうをほうたいでぐるぐる巻まき、ほうたいの白い中から鼻はなだけが赤くのぞいていて、そのぶきみさは、全ぜん身しんの毛がそうけ立つはどだった。
﹁あっ﹂
と、あやうく声をたてるところだった。男は茶色のびろうどの服のえりを立てて、顔をうずめている。
﹁いいかい、そのぼうしにはさわらんでくれ!﹂
もういちど、男が、こんどははっきりと言った。
﹁もうしわけありません﹂
おかみさんはぼうしだけ残して、オーバーなどをかかえこむと、にげるように客きゃ室くしつをとびだして台だい所どころにもどった。
ひとりきりになると、男は窓まどぎわにいって、まだ昼ひる間まだというのに、カーテンをひいた。へやのなかが、きゅうに、うす暗くなった。
なに者ものだろう?
男は、じつによく食べた。
カーテンをひいて、へやがうす暗くなると、それで安あん心しんしたのか、食しょ卓くたくにつくと、まるで三日も四日もたべずにいたかのように、皿さらのなかの物をかたっぱしからたいらげていった。
黒くろ馬うま旅りょ館かんのおかみさんは、なんとも気もちのわるい客きゃくをとめたもんだと、考えこんでいたが、この男がまさか怪かい物ぶつであろうとは気がつかない。ぶっきらぼうで、ぶあいそうな客だとはおもうが、なにしろ先さき払ばらいで宿やど料りょうに二枚の金きん貨かをわたしている。わるい気もちはしなかった。
︵あの人はかわいそうな人なんだよ、きっと! ひどいけがをしてるらしいよ。どこで、どんなけがをしたか知しらないが、かわいそうに……。だけど、ほうたいだらけのまっ白しろなあの顔かおには、ぞっとするわ。まるで化ばけものみたいだもの︶
おかみさんは台だい所どころの暖だん炉ろの火で、客きゃくのオーバーや長ぐつをかわかしながら、そんなことを考えていた。
︵ナプキンで口をかくしているところをみると、口のまわりに、大けがをしたんだよ。ぞっとしたりしては、気のどくだわ︶
しばらくして、おかみさんが食しょ事くじのあと片づけに客きゃ室くしつにはいっていくと、客はパイプでたばこをくゆらしていた。顔の下した半はん分ぶんにはマフラーをまきつけて、パイプを口にさしこむのに、マフラーをゆるめようとはしないで、口もとをかくすようにしてパイプを吸すっていた。
暖だん炉ろの火が青めがねにうつって、赤あか々あかとゆらいでいるが、どんな目をしてこちらを見ているか、とおもうと、やはり、ぶきみさが先に感じられてくるのだった。
めずらしく、客のほうからしゃべった。
﹁ブランブルハースト駅えきに、荷にも物つをおいてきたんだが、どうやったら取りよせられるね?﹂
﹁おや、それはおこまりでしょう。さあ、この雪ゆきでは……それに、こんな田いな舎かですからね。たのむといって、すぐに、人手がいいあんばいにございませんわね﹂
男はほうたいだらけの頭で、うなずいていたが、
﹁こまるなあ。どうしても、きょうじゃあだめかね?﹂
と言った。
﹁きょうじゅうには、むりでございますよ﹂
﹁あすになるか? なんとか早く、とどけさせる方法はないものかな? 馬ばし車ゃならいってこられそうなものだが……﹂
がっかりしたようすで、なおもつづけた。
おかみさんは、この雪ではとてもだめだろうと、客のようすを探さぐるようにながめながら、説せつ明めいした。
﹁それがむりなんですよ。このうら山には、とてもけわしい場所がありますんでね、馬ばし車ゃなんか通れやしませんよ。去きょ年ねんでしたか、馬ばし車ゃがひっくりかえりましてね、お客さんと馬ばし車ゃ屋やが死しにました。とんだ災さい難なんで、まあ、こんな日には、おやめになったほうがようござんすね﹂
﹁なるほど、災難って、そういったもんかね﹂
男はそれいじょう、たってたのもうとは言わなかった。
﹁マッチをとってくれんか﹂
パイプをマフラーのあいだから口にさしこんで、おかみさんからマッチをうけ取った。そしておかみさんに背せをむけると、窓まどぎわにいって、カーテンのすきまから中なか庭にわの雪ゆきをながめたまま、ひとことも口をきこうとはしない。おかみさんは、はっとして、へやをでていった。
ふしぎな男は、夕がたまで、へやにとじこもっていた。
怪かい物ぶつの顔かお
ふるびた時とけ計いが四時をうった。あたりはいつのまにか、うす暗ぐらくなっていた。
宿やどのおかみさんは、さっきから、もうなん度も時とけ計いをながめてはためらっていた。
︵四時だわ、どうしてもあのお客きゃくさまのところにいって、お茶のご用をきいてこなくては………だけど、どうしたのかしら、わたしはどうもあのお客きゃくさまの前にゆくのが、気がすすまないんだけど……︶
おかみさんは、また一、二分考えていたが、きゅうに勇ゆう気きをふるい起こして、さっと立ちあがった。そのとき、いきおいよく戸をあけて、
﹁おお! おかみさん、えらく降ふりだしたじゃねえか。いやになるねえ、いつまでも寒くて、この大おお雪ゆきじゃ、わしのぼろ靴ぐつで歩くのはこたえまさあね﹂
と、大声でいいながら、戸とぐ口ちでぶるぶるっと雪をはらって、時とけ計い屋やのテッディ・ヘンフリイが寒さむそうにはいってきた。
外では、まだ雪ゆきがやすみなく降ふりりつづいている。
﹁ああ、テッディさん! まったく、こう寒さむくてはやりきれないわね﹂
おかみさんは、こう言いながら、時とけ計い屋やが片かた手てにぶらぶらとぶらさげている修しゅ理うり道どう具ぐのはいったふくろを見みた、とたん、いいことを思おもいついた。それは、
︵テッディといっしょにあの客きゃくのところへゆく︶
ということだった。そこで、
﹁テッディさん、いいところへきてくださったわ、ちょうど、お客きゃ部くべ屋やの時とけ計いを見てもらいたいと思っていたのよ。あのへやの時とけ計いときたら、動くのは、ちゃんとまちがいなく動くし、時じか間んだって、元げん気きよく打つんだけど、針はりだけがいつも六時を指したきりなのよ。どうしたのかしら?﹂
﹁へんだねえ、ちょっくら、見てみましょう﹂
テッディは首くびをかしげながら言った。おかみさんは、かれをつれて、れいのふしぎな客きゃくの部へ屋やのドアをかるくたたいた。
へんじはなかった。が、おかみさんはさっさとドアをひらいて、部屋へはいりこんだ。
﹁眠ねむっておいでらしいわ﹂
おかみさんは、ひとり言のようにひくくつぶやいた。
男は、暖だん炉ろの前のひじかけいすに、ふかぶかと体からだをうずめて、ほうたいだらけの頭をかしげ、うとうとと、いねむりをしているらしかった。
灯ひのついていない部へ屋やは暗くらかった。ただ赤あか々あかとさかんに燃もえている暖だん炉ろの火が、あたりをぼんやりと照らしだしていた。
男は、うつぶせになったまま、身みう動ごきもしない。
﹁まあ、なんて暗くらいんだろう。灯ひをつけないから、なんにも見えやしない﹂
いままで、明るい台だい所どころにいたおかみさんには、なにもかもが、ぼんやりと見えた。
﹁もし、だんなさま﹂
声をかけて、ひと足、男のほうに近づいた。と、つぎの瞬しゅ間んかん、
﹁あっ!﹂
おかみさんは、ぶっ倒たおれるかと思うほどおどろいてしまった。ひょいと見た男の顔が、なんと怪かい物ぶつそのままの不ぶ気き味みな顔をしているではないか!
暖だん炉ろの火をうつして、赤く光る色いろ眼めが鏡ね、顔いちめんにぐるぐるまきにしたほうたい、そしてなによりおそろしく思えたのは、ぽっかりと深いあなのように開いている大きな口だった。まるで顔の下した半はん分ぶんが、すっかり口にかわったのではないかと思うほどだった。
﹁う、うーん﹂
おかみさんのびっくりした声に目をさましたのか、男は、ゆらりと体からだを動かし、眠ねむそうにいすから立ちあがった。
﹁あっ﹂
男は、目の前にたまげた顔で立ちすくんでいるおかみさんを見ると、あわてて、襟えり巻まきのはしで口のあたりをかくそうとあせった。
その間に、おかみさんは、やっとの思いで、気をとりなおし、
﹁だんなさま、時とけ計い屋やが時計をなおしにまいりましたので、ちょっと……﹂
﹁時計をなおすのかい? いいだろう――﹂
男は、とりつくろったようすで、重おも々おもしくこたえた。
﹁では、テッディさん、ちょっと、待っててください。すぐランプをとってきますからね﹂
おかみさんは、逃にげるようにへやからでてきた。時計屋も、怪あやしげな客きゃくの姿すがたを見て、どぎもをぬかれ、部へ屋やにはいらずに、おかみさんが引っかえしてくるのをじっと待まっていた。
﹁お待ちどおさま!﹂
と言って、おかみさんは、ランプを片かた手てにもち、時とけ計い屋やをうながすような目をして、もういちど部屋にはいっていった。時計屋があとにつづいた。
男は、部屋のまん中につっ立っていた。時計屋は、おずおずと、
﹁おじゃまではございませんか? お客きゃくさま﹂
と言うと、男はちらりと色いろ眼めが鏡ねをきらめかして、
﹁いや、かまわんとも﹂
と、ごうまんな態たい度どでこたえた。時とけ計い屋やは、なにやら、ぞっと背せすじが冷つめたくなるような、いやな感じをうけた。できることなら、時計の修しゅ理うりなどはほうりだして、この部へ屋やからでていきたくなった。
と、男は、こんどはおかみさんにむかい、
﹁おかみさん! ぼくのほかにはだれも、この部へ屋やにはいらせない約やく束そくだったね﹂
と、つめたい声で不ふま満んそうに言った。おかみさんは、たじたじと後うしろにさがり、
﹁ですけど、時とけ計いだけは――﹂
なおしておかなくては、あなたがおこまりになるでしょうと、言うつもりだったが、おそろしさのために、そのあとの声がつづかなかった。
﹁むろん、時とけ計いは正せい確かくでなくてはいけないよ。だが、ぼくは、この部へ屋やにいつでもひとりで静しずかにいたいのだ。だれもはいってこないように気をつけてもらいたいね﹂
ぶきみな男にどなりつけられると、時とけ計い屋やは逃にげだしたくなった。もじもじ、手足を動かした。それをみると、男は、すぐに、
﹁だけど、時とけ計いをなおしてくれるのに文もん句くをいうつもりはないよ。けっこうだよ。なおしてもらおう。きみ、さっそく、やってくれたまえ﹂
時とけ計い屋やのヘンフリイは、すくわれたように大いそぎで時計にとびつき、修しゅ理うりにかかった。
男は暖だん炉ろをうしろにして、両手を背せな中かでくみあわせ、また、おかみさんにむかって、
﹁おかみさん、時計がなおってからでいいから、お茶をいれてくれたまえ﹂
おかみさんは、
﹁ただいま、すぐ持ってまいりますわ﹂
と、いうより早く、出ていこうとした。男は、
﹁おっと、待ってくれたまえ、ブランブルハースト駅えきにある、ぼくの荷にも物つをとりよせるようにたのんでくれたかね﹂
﹁配はい達たつ屋やにたのんでおきましたから、あすの朝早くとどきます﹂
﹁あすの朝……こん夜のうちに、とってくるわけにはゆかないかね﹂
﹁ええ、だめでございますよ﹂
おかみさんは、むかっ腹ぱらをたてていた。と、みると男は、にわかにものやわらかいようすになり、
﹁じつはね、おかみさん。ぼくは科かが学くし者ゃなんだよ。いままではこのひどい寒さむさがこたえて、気きぶ分んがすぐれなかったうえに、疲れきっていたので、なにをやる元気もでなかったが、ここで休やすんでいるうちにやっと元気がでたんだよ。となると、もうじっとしていられないんだ。すぐにも実じっ験けんにとりかかりたくてね……これがぼくの性しょ分うぶんなんでね﹂
人のいいおかみさんは、これを聞くと、たちまち、この男を怪あやしんだり、いやがったりしたことを後こう悔かいして、
﹁さようでございましょうとも、で、駅えきにございますお荷にも物つの中に、実じっ験けん道どう具ぐをおいれになっていらっしゃるのでございますか?﹂
﹁そうなんだ。全ぜん部ぶはいっているんだ﹂
男は、おかみさんがじぶんを信しん用ようしはじめたと見て、また話しつづけた。
﹁ぼくがこの片かた田いな舎かのアイピング村へやってきたのは、だれにもじゃまされないで、思うように研けん究きゅうをやりたいからなんだよ。実じっ験けんをやってる最さい中ちゅうにさまたげられると、たまらないからね。それに、ぼくは、ちょっとけがをしてね﹂
︵やっぱりそうだったんだわ。この方は怪あやしい人じゃなかったのよ。お気のどくに……ずいぶんひどいけがをなさったらしいわ︶
おかみさんは、心のなかでそう思った。男は、よわよわしい調ちょ子うしで、
﹁そのうえ、けがのために視しり力ょくがすっかりよわってしまってね。ときどき痛いたみだすと、何時間も暗くらがりの中で、じっとしていなければならないんだ。痛いたみの起こったときのつらさときたら、まったくたえられないほどなんだよ。そんなときに、だれかに部へ屋やにはいってこられると、とてもいやなんでね。だから、きみもよく心えていてもらって、ぼくの部屋へ他たに人んをいれないでくれたまえ。しずかに休んでいたいんだからね﹂
﹁わかりました。よく気をつけますわ。そんなひどいおけがを、どうしてなさいましたの?﹂
おかみさんは同どう情じょうのこもった声で、やさしくたずねた。すると男は、
﹁話はそれだけだ﹂
うってかわった冷つめたさで言い、おかみさんが二度と口をひらかないように横をむいた。
おかみさんがでてゆくと、男はヘンフリイが時とけ計いの修しゅ理うりをやっているのを、じっと見つめはじめた。
ヘンフリイは、さっきからだまりこんで、せっせと手を動かしている。
針はりをぬき、文もじ字ば盤んをはずし、なかの機きか械いをひっぱりだした。
かれはねんいりに機きか械いをしらべた。男がじっとながめているので、かれはなんとなく気き味みがわるくて、仕しご事とをしている手が思うように動かなかった。
十五分ほどたつと、時とけ計いはすっかりなおったが、ヘンフリイは、いつまでもぐずぐずと機きか械いをいじっている。時ときがたつにつれて恐おそろしさがうすらいでくると、かれは、
︵この奇きみ妙ょうな男の正しょ体うたいを見きわめてやれ!︶
と、いう気になっていた。どうにかして、男と話すおりをつかみたいと思ったが、だめだった。
男は、口をきかないばかりか、身みう動ごきひとつしないで、じっとつっ立っていた。
眼めが鏡ねのレンズが、青白く光ってヘンフリイを見つめている。
ヘンフリイは、たまらなくいらいらしてきた。
︵ちえっ、なんていやなやつだろう。ぞっとするよ。まるで化ばけ物ものとむきあってるような気もちだよ。人にん間げんなら人間らしく、きょうはひどく寒さむいねぐらいのことは、言ったらよさそうなもんだよ。ぶあいそうなやろうだ。が、こういつまでもだまってても、らちがあかねえや。ひとつこちらから先に、声をかけてやろう︶
かれは決けっ心しんして、男の顔を見あげ、
﹁この天気は――﹂
とたんに、するどい声がとんできた。
﹁さっさと仕しご事とを片づけて、でていったらどうだ?﹂
男は、どなりたいのをやっとがまんしているらしく、ふるえる声で言った。ヘンフリイはまっさおになった。男は、かさねて、
﹁短たん針しんをじくにはめれば、すむんじゃないか。さっきから見ていると、やらないでもいいことばかりやってるみたいだぞ﹂
ヘンフリイは、ぎょっとした。男はなにもかも見すかしているのだ。
恐おそろしさで体からだが、がたがたふるえてきた。大あわてで仕しご事とをすませ、道どう具ぐを片づけると、あたふたと部へ屋やをでていった。
台だい所どころにくると、ヘンフリイは、いそがしそうに働はたらいているおかみさんに、
﹁さようなら﹂
と、ふきげんなみじかいあいさつを残のこして、さっさと、雪ゆきがふる外へとびだした。
道にはすっかり雪がつもっていた。
﹁ちくしょうめっ! なにが科学者だい。学者ってものは、もうすこし上じょ品うひんなもんだよ。大きなつらをしやがって……あいつは悪あく魔まかもしれねえぞ﹂
時とけ計い屋やは、道みち々みち、思いつくかぎりの男のわる口をつぶやいた。それでも、やはりむしゃくしゃしていた。
気をつけたがいいぜ!
時とけ計い屋やがどんどん歩いて、グリーソン屋やし敷きのかどまできたとき、のんきな顔で馬ばし車ゃを走らせてくるホールにばったりと出あった。
﹁よう! どうしたい、ヘンフリイ! 浮かねえ顔で、やけにいそいでるじゃねえか﹂
ホールがくったくのない声をはりあげた。
ホールは、怪あやしい男が泊とまった黒くろ馬うま旅りょ館かんのあるじなのだ。かれはみるからに人の好いのんき者で、ホール夫人に気にいるように、てきぱき働はたらくことなど、ぜったいにできない男だった。
ホールの仕しご事とといえば、ときどき、シッダーブリッジ駅えきまで馬ばし車ゃを走らせ、荷にも物つをはこんでくるのが、せいぜいだった。
いまも、駅えきからのかえり道で、いつもとおなじようにホールは途とち中ゅうで、さんざん世せけ間んば話なしに油あぶらを売ってきたところである。
ヘンフリイは、ホールに声をかけられると、いんきな声で、
﹁ホール、おめえのとこには、へんな客きゃくがとまっているな﹂
﹁なんだって?﹂
お人よしのホールは、すぐに馬ばし車ゃをとめて、時とけ計い屋やのほうへのりだしてきた。
﹁おめえ、知らねえのかい? あのみょうちきりんな顔の客きゃくのことを……﹂
ホールは首くびをふった。ヘンフリイは、
﹁おれもおどろいたぜ。おかみさんが客きゃ間くまの時とけ計いをなおしてくれっていうんで、いっしょに客間にはいったらさ、顔じゅうほうたいだらけの、色いろ眼めが鏡ねをかけて、おっそろしく口の大きな、へんな顔の客がいるじゃねえか。おどろいたの、なんのって……おったまげたよ﹂
ホールはおどろいて、口をぽかんとあけてきいていた。それをみると、ヘンフリイはますます熱ねっ心しんに、客のようすをしゃべりたてた。
﹁あれはおめえ、よくねえやつかもしれねえぞ。じぶんでは科かが学くし者ゃだなんて言ってるが……どうだか、わかったものじゃねえ。あいつは、変へん装そうしてるのかもしれないぜ。どこかで悪あく事じを働はたらいて、それをかくすために、ああいうかっこうをして、なるべく人を近よせないでおくつもりかもしれないね﹂
﹁うちのやつは知ってるのかね?﹂
ホールが、心ぼそそうな声をだした。
﹁もちろんだよ。おかみさんもおかみさんだよ。なんだって、あんな男をとめる気になったんだろう? おれが宿やど屋やのあるじなら、相手の顔をよくよくながめ、名まえをたしかめてから、泊とめるか、泊めないか決めるね。女ってものは、よそものっていうと、とかく信しん用ようしがちなものさね。まして科かが学くし者ゃなんていうと、なおさら信しん用ようするがね。部へ屋やをかりて、名まえを言わねえような男は、ろくな人にん間げんじゃねえやね﹂
人がいいばかりで、頭の働はたらきのにぶいホールは、ぼんやりと、
﹁そう言うもんかね﹂
﹁あたりまえだよ。しかし、おかみさんは、一週しゅ間うかんのけい約やくをむすんでしまったんだ。いまさら、あいつがどんな悪わる者ものだったとしても、一週間のあいだは追いだすことはできないんだ。あすになると、あいつのいう実じっ験けん道どう具ぐとやらが、どっさりはこびこまれるらしいぜ。なんの実じっ験けんをするつもりだかわからないがね﹂
﹁ふうん﹂
ホールは、心しん配ぱいそうに考えこんでしまった。ヘンフリイは、なおもくどくどと、
﹁用よう心じんしたほうがいいぜ。おれのおばさんもね、ヘイスティングズでやはり宿やど屋やをやっているがね。見なれぬ客がえらく大きなりっぱなかばんをさげてきたのをみて、すっかり信用してしまったのさ。ところがそのかばんは中がからっぼで、それに気づいたときは、たくさんの宿やど料りょうをふみたおされて、逃にげられたあとだったんだ。おめえたちも、怪あやしい客きゃくには、よくよく気をつけたほうがいいぜ﹂
﹁ありがとう、ヘンフリイ。こいつはどうも、うちのやつにちょっくら、言ってきかせなくてはなるまい。これから大いそぎで帰ろう﹂
すっかり不安になった黒くろ馬うま旅りょ館かんの主しゅ人じんホールは、馬にひとむちあてると、いちもくさんに家へむかって走った。
いきおいこんだホールが家にとびこむと、
﹁おまえさん! いつまで外をうろうろしてたんだい? また油あぶらを売ってたね。そうでなくて、こんなにながく時間がかかるはずがないじゃないの!﹂
ホール夫ふじ人んのがみがみとどなりつける声がとんできた。
﹁なに……それが、あの……その﹂
と、いままでの元気はどこへやら、ホールは叱しかられた猫ねこのようにいくじなくちぢまって、しばらくたってから、やっとこさで、
﹁おまえ、新しいお客きゃくがあったってね。いったいどんな方だい?﹂
と、おずおずしながら聞いた。
﹁だれに聞いたの? ヘンフリイがおしゃべりしたのね。どんな方って……りっぱな方よ。あなたになんか、あの方のことを話したってわかりゃしないわ。科かが学くし者ゃなんですって﹂
それからあとは、いくらホールが聞いても、気のないへんじをしてごまかしてしまった。
︵ちえっ、あいつ、おれにかくしだてをする気だな。いいよ。おれはじぶんの目で、そのへんな客きゃくってやつを見てやるから――︶
ホールは、おかみさんにいくら聞いても、それいじょうは話さないとわかると、だまって決けっ心しんをした。
九時半になった。怪あやしい客きゃくも眠ねむりこんだらしく、黒くろ馬うま旅りょ館かんは物もの音おとひとつしなくなった。
﹁やつも眠ねむったらしいね。どれ、ひとつ、どんなやつだかしらべてこよう﹂
ホールは立ちあがり、足あし音おとをしのばせると、むこう見ずにも、客きゃ間くまにそろそろとしのびこんでいった。思ったとおり、客きゃくは、ふかぶかとベッドにもぐりこんで眠ねむっていた。
ホールは、きょろきょろとあたりを見まわし、机つくえのうえいっぱいに、むずかしそうなこまかい数すう字じをかきこんだ紙かみが散ちらばっているのをみると、ばかにしたようすで、
﹁ふふうん!﹂
と、鼻はなのさきでせせら笑って、ひきあげた。
お人よしのホールは数すう字じをかきこんだ紙を見ただけで、このへんな客きゃくが、おかみさんの言うとおり、学がく者しゃなのだと思いこみ、すっかり安心してしまったのである。
一方、おかみさんは、主しゅ人じんにむかっては、きっぱりと強がりを言ったものの、内ない心しんはやはり、客きゃくのことが気になってしかたがなかった。
ベッドにはいってからも、夜っぴて大きなかぶらのようにまっ白な、ぶきみな顔に追いかけられる夢ゆめをみて、うなされつづけた。
ちょっとした事じけ件ん
﹁おはようございます。荷にも物つを持ってあがりました﹂
馬ばし車ゃ屋やのフィアレンサイドが、つぎの朝はやく元気のいい声をひびかせて、馬ばし車ゃをひき、黒くろ馬うま旅りょ館かんにやってきた。
寝ねぶそくらしく、はれぼったい目をしたおかみさんが、主しゅ人じんのホールといっしょにでてきた。
﹁ごくろうさま﹂
﹁きょうは、きのうの雪ゆきのために、道がひどいぬかるみになっていて、えらい難なん儀ぎでしたよ﹂
フィアレンサイドが、二人の顔をみるなりこぼした。が、二人は、かれの言こと葉ばなどまるで耳にはいらぬようすで、馬ばし車ゃにつまれている、ふうがわりな荷にも物つに見とれていた。
ふつうの人にん間げんの持もち物ものらしいのは、トランクだけだった。トランクは二個あった。そのほかの荷にも物つときたら、何なんともいえずふうがわりなのだ。なにをつめてあるのか、中の物がこわれぬように麦むぎわらをぎゅうぎゅう間あいだにつめこんだ籠かごが十二、三個こ。それにぶあつな本をおしこんだ箱はこが数えきれないほど、そのほかにもえたいのしれぬ荷にも物つが山とつまれている。
ホールは馬ばし車ゃに近より、籠かごの中に手をつっこみ、詰つめ物ものの麦むぎわらをかきわけてさぐった。
中は、ガラスびんらしい。おかみさんは、客をよびにいった。
﹁荷にも物つがきたんだって?﹂
男はうれしそうに、声をあげてとんできた。みるとおどろいたことに、男は、へや着ぎのうえから、オーバーを着、帽ぼう子しをかぶり、手ぶくろをはめ、ごていねいにえりまきまでしっかりと身につけていた。
フィアレンサイドもホールも、男の身じたくが、あんまりものものしいのに、あっけにとられて、ぼんやりとかれの顔を見ていた。男は、せきこんで、
﹁ずいぶん待たされたよ。さっそく運はこびこんでくれたまえ﹂
言いながら、待まちきれないように、荷にば馬し車ゃのうしろにまわり、籠かごのひとつに手をかけようとした。
そのとき、フィアレンサイドがつれてきていた犬いぬが、とつぜん、かれの姿すがたをみて、毛をさかだて、ものすごいうなり声をあげた。
男は、気にもせず、
﹁いいかい、どれもだいじなものだから、気をつけて運んでくれたまえよ﹂
と、いいつけ、玄げん関かんの石いし段だんをあがりかけた。とたんに、犬いぬはひときわ高くうなり声をあげ、ぱっと男の手にかみついた。
﹁うわっ!﹂
男は、大声をあげた。びっくりしたホールとフィアレンサイドは、
﹁こらっ、こいつめ! なにをするのだっ﹂
と、あわててどなりつけ、フィアレンサイドは犬いぬをぶちのめそうと、むちをふりまわした。
そのとき、男は、目にもとまらぬす早さで、ぱっと力まかせに犬いぬをけとばした。
ふいをくらった犬いぬは、よろよろとよろめいたが、こんどは、猛もう然ぜんとうなり声ごえをあげ、もう一度男におそいかかったとみるや、その足に、がぶりっとかみついた。
びりびりと、ズボンがさける音がした。
﹁ひゃあっ!﹂
とびあがったフィアレンサイドが、
﹁こんちくしょうめ、こんちくしょうめ﹂
と、さけびながら、こんどこそ、したたか犬いぬをたたきのめした。
きゃんきゃんと犬いぬは悲ひめ鳴いをあげ、車の輪わのあいだに逃にげこみ、小さくなった。
すべてが、あっという間のできごとだった。
気まずい空くう気きがみんなのあいだに流ながれた。男は、かみさかれた手てぶ袋くろとズボンのすそを、しゃがみこんでしらべていたが、そのままくるりとむきをかえ、いちもくさんに旅りょ館かんの中にかけこみ、足あし音おともあらく、じぶんの部へ屋やにはいってしまった。
フィアレンサイドは、やっと我われにかえった顔つきで、
﹁でてこい! わるいやつだ。とんだいたずらをしくさって。お客きゃくさまのズボンをかみやぶったではねえか……﹂
そして車の輪わのあいだから、おく病びょうそうにこちらをうかがっている犬に、むちをふりまわしてみせた。
ホールは、まだ、ぼんやりとつっ立っていた。フィアレンサイドが浮うかぬ顔で、
﹁ホール、あのお客きゃくさまにけがはなかっただろうかね?﹂
﹁ひどくかみつかれなさったようだったけど、おれ、ちょっと、部へ屋やへいって、ようすをうかがってこよう﹂
ホールは、あたふたとかけだした。廊ろう下かまでくると、これも浮うかない顔で歩いてくるおかみさんにばったりとあった。
﹁フィアレンサイドの犬いぬが、お客きゃくさまの手と足にかみついたんだ﹂
ホールはせきこんで、眉まゆをしかめながら言った。が、おかみさんは、ちょっと、うなずいたきり、足もとめないですれちがってしまった。
客きゃくの部へ屋やのドアは、ひらいたままだった。
﹁お客さま、おけがはありませんでしたか?﹂
ホールは、声をかけ、なにげなく部へ屋やにはいろうとした。
窓のカーテンはすっかりおろされ、部屋の中はうす暗ぐらかった。その中に手てく首びからさきのない腕うでが、にゆっとかれのほうにつきだされ、のっぺらぼうのまっ白な大きな顔が、うす青い三つの深ふかい穴あなをあけて、空くう中ちゅうに浮ういていた。
あっと思うひまもなく、ホールは、なにものともしれぬ強つよい力に、どんと胸むねをつかれ、ひとおしに廊ろう下かにつきだされてしまった。
﹁うわあっ!﹂
よろめきながら、ホールがさけぶと、その目のまえに、ドアがばたんと音をたててしまった。
ホールは、しばらく、ドアを見つめて、ぼんやり考えこんでいた。
﹁これは、いったい、どうしたってことなんだ。どこのどいつがおれの胸むねをついて、廊ろう下かにほうりだしやがったというのだ……﹂
さっぱりわけがわからない。
いっぽう、宿やど屋やのまえは、ものめずらしげにあつまってきた村の人びとで、黒くろ山やまの人だかりになっている。
フィアレンサイドは、その人たちを相あい手てに、さっきのできごとを、くりかえしくりかえし話していた。
﹁おれがとめるひまもないほどのすばやさで、こいつは、がぶりとお客きゃくさまの足にかみついたんだ。へいぜいおとなしいやつだのに、どうしてあんならんぼうなことをやったのか、さっぱりわからねえ﹂
フィアレンサイドは頭をふりふり、いく度たびも言った。
﹁だけどさ、ふしぎじゃないかねえ。ただ立っているだけの人に、なんだってかみついたのかしら?﹂
話をきいていたおかみさんのひとりが、口をはさんだ。雑ざっ貨か屋やのハクスターがもっともらしいようすで、
﹁そうだよ、われわれがここに立っていても、こいつはかみつかないのにさ﹂
﹁だけど、もとはって言えば、フィアレンサイドがこんなろくでなしの犬いぬをかっているのが、大さわぎをおこすもとなんだよ﹂
また、ほかのひとりがいった。
ひとりがだまれば、ひとりがしゃべり、旅りょ館かんのまえはたいへんなさわぎだった。
このさわぎの中に、ホールは魂たましいをなくした人にん間げんのように、ぼうっとしていた。
目ざとく見つけたおかみさんは、
﹁おまえさん、どうしたの? なにかあったのかい?﹂
﹁いいや、なんでもねえ﹂
ホールはうつろな目めで、集あつまってきた人たちを見ていた。
その荷にも物つは?
おしゃべりに夢むち中ゅうになっていた村人たちは、その男がいつのまにか、その部へ屋やから玄げん関かんにでてきていたのに、いっこうに気づかなかった。
﹁う、うう、わんわん!﹂
車のかげに小さくなっていたフィアレンサイドの犬が、きゅうにはげしくほえたてた。
﹁あっ!﹂
思わずふりかえった人びとは、玄げん関かんに不ぶ気き味みな人かげをみて、ぎょっと顔かお色いろをかえた。
そのとたん、
﹁馬ばし車ゃ屋や、なにをぐずぐずしているんだ! はやく荷にも物つをはこべ!﹂
すご味みのあるどなり声が、あたりをふるわせてひびいた。
フィアレンサイドが、びくっと飛とびあがり、ホール夫ふじ人んは棒ぼう立だちになった。
村人は、くものこをちらすように、後もみずにちっていった。
馬ばし車ゃ屋やは、しばらくためらっていたが、勇ゆう気きをふるって男に近より、
﹁だんなさま。あいすみませんことで……おけがはありませんですか? なんとも、はや、申しわけありません﹂
ぺこぺことわびた。男は、じろりと馬ばし車ゃ屋やをにらみ、
﹁けがなんかせんよ。かすり傷きずひとつしてないんだ。それより早く荷にも物つをはこべ﹂
と、おうへいな態たい度どで言った。
馬ばし車ゃ屋やとホールの手で、荷にも物つは男の部へ屋やにはこびこまれた。
男はすぐさま荷物をほどきにかかった。じれったそうに、間あいだにつめた麦むぎわらをほうりだし、中のガラスびんをひとつずつ、だいじそうにとりだした。どのびんにも液えき体たいや粉ふん末まつがつまっている。
男は、おびただしい数かずのガラスびんをとりだすと、こんどは試しけ験んか管んをとりだした。
つぎに、はかり、そのつぎは、えたいのしれぬ機きか械いだった。
﹁やれやれ、これですっかりとりだしたぞ。ぶじに荷にも物つがとどいてなによりだ。うすのろの馬ばし車ゃ屋やめ、おれのだいじな荷にも物つをだいなしにしないかと、はらはらしたよ﹂
男は、ほっとしたようにつぶやき、麦むぎわらや空あき籠かご、空あき箱ばこで、すっかり部へ屋やが汚よごれてしまったのも、気かつかぬようだった。
﹁さあ、さっそく、とりかかろう﹂
男は、息いきをつくひまもなく、窓まどのちかくに機きか械いをならべ、実じっ験けんにとりかかった。
いつのまにやら、暖だん炉ろの火はきえ、底そこびえのする寒さむさがしんしんとせまっていた。
しかし、男は暖だん炉ろの火が消えたことなど、これっぽっちも気にしていなかった。
試しけ験んか管んをならべ、毒どく薬やくとかかれた茶ちゃ色いろのびんをとりあげると、試験管の中に、たらたらと、三、四滴てきの液えきをたらしこんだ。
こんどは、それを火にかけ、また、ほかの薬やく品ひんのふたをとった。
男は、ながい間、こうしてなにもかもわすれ、ただ実じっ験けんにねっちゅうしていた。
時はすぎ、いつのまにか、昼ひるがきていた。ドアをたたく、かるい音がひびいた。
男はすこしも気づかない。おかみさんが、昼の食しょ事くじをはこんできたのだった。
ドアをたたく音は、しばらくつづいていた。男は、むちゅうで試しけ験んか管んをふっていた。
たまりかねたおかみさんは、とうとう、だまってはいってきた。
﹁まあ! これは……﹂
ひと足ふみこんだおかみさんは、たちまちしかめっ面つらになって、ふきげんな声をはりあげた。
部へ屋やがだいなしになっている。わらくずがちらかり、古ふるトランクがなげだされ、空あき籠かごがほうりだされてある。
おかみさんはいきなり、腹はらだちまぎれに、テーブルの上の麦わらを手荒くほうりだした。
がしゃんと、食しょ事くじの皿そらをその上に、音をたててなげだした。
男は、はじめて、﹁おやっ?﹂と、いうように顔をあげた。
﹁お食しょ事くじをもってまいりましたわ﹂
おかみさんは男をにらんで、つっけんどんに言った。
男はへんじもせず、うつむいたままで、テーブルの上においてある眼めが鏡ねを大いそぎでとりあげてかけると、やっと、ゆっくりとおかみさんのほうにむきなおった。
男の動どう作さはすばやかった。しかしおかみさんは、その間あおだに目めだ玉まがぬけ落ちて、ぽかりと二つの深ふかい穴があいているような男の顔に気づいていた。が、なにくわぬ顔でつっ立っていた。男はいたけだかに、
﹁この部へ屋やに用があったら、ノックをしてからはいってもらいたいね﹂
﹁ノックはいたしましたわ。なんどもなんども。でも、だんなさまが、お気づきにならなかったんですよ﹂
﹁それはしたかもしれんさ。しかしだね。この実じっ験けんは一分ぷんもはやく完かん成せいさせなくてはならんのだ。じゃまがはいるとひどくめいわくするんだ。ドアがあく音がするだけでも気がちってこまる。いちど言ったことは、かならず守まもってもらいたいね﹂
おかみさんはぷんぷんして、
﹁わかりました。それでしたら、お部へ屋やに鍵かぎをおかけになったらいかがですか?﹂
﹁なるほど、そうだったな。では、これからは鍵をかけることにしよう﹂
男は、落ちつきはらってこたえた。おかみさんはなおさらいまいましそうに、
﹁よろしかったら、この麦むぎわらを片づけましょうか? ひどくよごれて……﹂
男はぎろりとおかみさんをにらみ、きっぱりと、
﹁ふれんでもらいたいね。この麦わらであなたにひどくめいわくがかかるというのなら、その分だけ金かねをとってくれたまえ。えんりょなしに勘かん定じょ書うがきにつけておいてくれればいいよ﹂
これを聞きくと、いままでぷりぷり腹をたてていたおかみさんが、急きゅうにねこなで声で、
﹁それはおそれいります。どのくらいお掃そう除じだ代いをいただけましょうか?﹂
﹁一シリングでいいだろう?﹂
﹁けっこうですわ﹂
﹁では一シリングとつけておきなさい。勘かん定じょうをするときにいっしょに払はらうから﹂
﹁ありがとうございます。ではどうぞ、お食しょ事くじをなさってくださいませ﹂
おかみさんは礼れいをいい、テーブルかけをひろげて、食しょ事くじのしたくをととのえ、逃にげるように部へ屋やをでていった。台だい所どころへもどりながら、
﹁なんておかしな人だろう。でも、掃そう除じだ代いが一シリングならわるくないわ﹂
と、つぶやいた。
うわさ話ばなし
黒くろ馬うま旅りょ館かんに平へい和わはなくなってしまった。このいなかの旅りょ館かんは、いつもひっそりと静しずかで、一いち番ばん客きゃくのたてこむ夏の間でさえ、たいして変かわったことがあるわけでなく、おだやかな毎日がくりかえされていた。
ところが、奇きみ妙ょうな男がやってきてからというものは、おかみさんも主しゅ人じんのホールもすっかり落おちつきをなくしてしまい、ともすれば暗くらい気もちにおそわれるのだった。
男の部へ屋やからひきとってきたおかみさんは、くるくると忙いそがしげに働はたらきつづけていたが、心の中では、ずっと男のことを考えつづけていた。
客きゃくの部屋は、一日中ひっそりと静かだった。
夕方、とつぜん、れいの客の部屋から、ものすごい音がひびいてきた。
がちゃーん、がちゃがちゃがちゃ!
ガラスびんや試しけ験んか管んがぶつかりあったらしい、はげしい音だった。
﹁たいへんだ!﹂
おかみさんはひと声さけぶと、手にしていた鍋なべをほうりだし、台だい所どころからよこっとびにとびだしていった。
どん、どんどん……。
はげしく客きゃくの部へ屋やの戸とをノックした。なんのこたえもない。
どーんと体からだごとぶつかってみた。しかし、ドアは内うちがわから、しっかりと錠じょうがかかっている。
こんどは、ドアにぴったりとくっつくと、じっときき耳みみをたてた。
部へ屋やの中からは、男のわめく声が聞こえてきた。
﹁だめだ、また失しっ敗ぱいだ。どうもうまくいかんぞ。三十万かな、いや、四十万かな、なにしろたいした数かずだ。おれはだまされたのかな? こんなことをやっていたら、一生かかってもできあがらないぞ、こまったなあ﹂
怒いかりと悲かなしみにしずんだ声だった。
それっきり、しばらく声はとぎれていたが、また、気をとりなおしたのか、
﹁やっぱりがまんしてつづけよう。ここで投なげだしては、いままでの苦くし心んも水の泡あわだ。それにしても、こんど、あいつに会ったら、ただではすまさんぞ﹂
おかみさんには、なんのことかわからなかったが、いかにも意い味みありげな言こと葉ばだった。
おかみさんは、全ぜん身しんを耳みみにして、男の声を聞いていた。
そのとき、
﹁こんにちは、おかみさん。いっぱいのませておくんなせえ﹂
大おお声ごえをあげて、入いり口ぐちの酒さか場ばに客きゃくがはいってきた。
﹁ああ、もうすこし聞いていれば、なんのことだかわかるかもしれないのに……﹂
おかみさんは舌したうちをしながら、酒さか場ばにでていった。
部へ屋やのさわぎはおさまったらしく、それっきり二度とさわぎはおこらなかった。ときどき、いすがきしむかすかな音と、びんがふれあうひびきが、かすかにきこえるだけだった。
いっぽう、馬ばし車ゃ屋やのフィアレンサイドは、黒くろ馬うま旅りょ館かんにきみょうな客きゃくの荷にも物つを運はこんだ日の夜おそく、アイピング村のはずれのちいさなビヤホールで、一杯ぱいかたむけながら、いつまでもいきおいこんでしゃべりつづけていた。
あいては、時計屋のテッディ・ヘンフリイともうひとりの村の男だった。
﹁おれはこの年になるまで、あんな変へんなやろうは見たことがねえよ。おれの犬いぬが、あいつの足をがぶりとやったとき、おれはたしかに見たんだよ。あの男の足はまっ黒なんだ﹂
﹁ほんとうかい? 人にん間げんの足がまっ黒くろだなんてことがあるものかなあ﹂
﹁おれの言うことをうたぐるのかい? おれはちゃんと見たんだぜ。ズボンのさけ目と手てぶ袋くろのやぶれたところから、はっきり黒くろん坊ぼうのようにまっ黒な肌はだがみえたんだ。おめえなんか、どう思っていたかしらねえがね﹂
フィアレンサイドは、酔よいのまわってきたビールのいきおいもあって、テーブルをたたきながら、がんとして言いはった。ヘンフリイはまだ半はん信しん半はん疑ぎで、
﹁だとすると、おかしいじゃないか? あいつの鼻はなはちゃんと白いんだぞ﹂
﹁そうだよ。おめえの言うとおり、やつの鼻は白いんだ。だからさ、おれが考えるのに、たぶんあいつの体からだはあちこち色がちがうんだろう。白いところと黒いところがあってさ。まだらになってるだろうよ。だもんで、やつは恥はずかしがって、あんなにえり巻まきやオーバーをしっかり身につけて、かくしてるんだよ﹂
﹁まるでシマ馬うまみたいじゃないか。白と黒のまだらだなんて、はっはっは﹂
﹁はっはっはっはっ﹂
三人は声をあわせて笑わらいころげた。いつまでたっても、かれらの話はなしはつきそうもなかった。
夕ゆうぐれになると
馬ばし車ゃ屋やのフィアレンサイドと時とけ計い屋やのヘンフリイの口から、黒くろ馬うま旅りょ館かんにとまったきみょうな客きゃくのことは、たちまちのうちにアイピング村にひろまっていった。
うわさはうわさを生んで、村人たちはよるとさわると男の話でもちきりだった。
しかし、村人たちはかれの姿すがたを見かけることは、ほとんどなかった。男はたいてい部へ屋やにこもりきりで、いっしんに実じっ験けんをつづけていたからだ。日にち曜よう日びに、村の人たちがみんなそろってでかける教きょ会うかいへもこないし、日曜だからといって、ゆっくりやすむということもなかった。
ふるくからの習しゅ慣うかんをまもって、平和に暮くらしている村の人たちは、この男のやることが気まぐれで、ひどく変わっているように思えた。
﹁黒くろ馬うま旅りょ館かんでは、よくあんな変かわった客きゃくをとまらせておくねえ。どんな考えでいるんだろう﹂
村人は、ホールやおかみさんのホール夫人に聞こえぬところでは、よくこんなことをささやきあった。ホールは、こんなかげ口を耳にはさむと、
﹁おい、どうかして、あの客きゃくをことわるわけにはゆかないのかい?﹂
と、いやな顔をしながらホール夫人に言った。かれはその客きゃくがきらいだった。廊ろう下かでばったり顔をあわせるようなことがあっても、わざとよこをむいて、虫むしが好すかないことをあからさまにしめしたりした。
おかみさんは、主しゅ人じんが客きゃくのことを言いだすと、できるだけひややかな態たい度どをとり、いかにもりこうぶった口ぶりで、
﹁ただ虫むしがすかないからって、あんなに金かねばなれのいいお客きゃくさんをことわる人があるものですか。夏になって絵かきさんたちが避ひし暑ょにくるまでは、気むずかしくても、きちんきちんとお勘かん定じょうを払はらってくれるお客を、だいじにしなくてはね﹂
こういわれると、ホールはだまりこんでしまった。
ところが、金かねばなれのいいはずの男も、四月にはいると、そろそろふところがさびしくなってきたようすだった。それまでは、たびたびおかみさんの顔をしかめさすようなことをしでかしても、そのたびに、さっさとよぶんのお金をはらって、ホール夫人に叱こご言とをいわせるようなことはなかったが、四月になってからは、目にみえて金ばらいがわるくなってきた。
こうなると、さすがのおかみさんも、ときにはいやな顔を見せるようになってきた。
その日も、ホールとホール夫ふじ人んがおそい昼ちゅ食うしょくをとっていると、その部へ屋やからいらいらと歩きまわる客きゃくの足あし音おとがひびき、そのうちにはげしい怒いかり声こえとともに、壁かべになにかをぶつけるけたたましい音がきこえてきた。
﹁おい、またはじまったじゃないか。いまにあの部へ屋やはめちゃめちゃになって使いものにならなくなるぞ。おれがいったように、あんなえたいのしれないやつは、早く追いだしてしまったほうがよかったんだ﹂
ホールがおかみさんにむかって言った。
﹁うるさいねえ。なにかって言えば、つべこべとうるさいことばかり﹂
おかみさんは高びしゃに言った。しかし、ホールも負けてはいなかった。
﹁なんだい、あんなへんな客きゃくを泊とめるくらいなら、いっそ化ばけ物ものでもとめたほうが気がきいてるよ。まだ夜もあけないうちから起きだして、いそがしそうに動きまわるかと思うと、昼ひるすぎてやっとベッドをはなれて、ゆっくりたばこをすいながら、なん時間ものこのこと部屋を歩きまわっている。ときによると一日にち中じゅうなんにもしないで、暖だん炉ろのまえでいねむりばかりしているときもあるじゃないか。ことに、このごろのいらいらしてるようすときたら、ただじゃないよ。とんでもないことをしでかさないうちに、でていってもらったほうがいいぜ﹂
二人のあらそいはいつまでたってもおわりそうもなかった。ことに客きゃくの金かねばらいがわるくなってからは、よけいにホールが、おかみさんにしつこくいや味みをいいはじめた。
さわぎは黒くろ馬うま旅りょ館かんの中だけではなかった。このごろアイピング村では、日が暮れるがはやいか人びとは、しっかりと戸とぐ口ちの錠じょうをかけ、いつまでも寝ねないでいる子どもにむかって、
﹁いつまでも寝ないでいると、黒くろ馬うま旅りょ館かんのこわい男がやってくるぞ﹂
というのだった。村むら人びとたちは夕ぐれ時、頭から手の先まですっかりつつみこんだかっこうで、人ひと通どおりの少ないうら道とか、木のしげりあった暗くらいじめじめした場所を散さん歩ぽしているれいの男にでくわすと、子どもだけでなく大おと人なでさえ、ひやっと背せすじにつめたい水を浴あびせかけられたような気きぶ分んになった。
怪あやしい客きゃくの正しょ体うたい
牧ぼく師しの家の怪かい盗とう
四月になった、とある日、とうとうたいへんな事じけ件んが持ちあがってしまった。
事じけ件んというのは、牧ぼく師しか館んに気き味みのわるいどろぼうがはいったことなのだ。
夜あけもまぢかな、人の寝ねしずまったしずかな時じか間んだった。
﹁おやっ?﹂
牧ぼく師しの夫ふじ人んは、そっとベッドに起きあがり、耳をすませた。じぶんのねむっている部へ屋やのドアが一度あいて、またしまる音を聞いたような気がしたのである。
しかし部へ屋やには、なんのかわりもない。気のまよいかなと、夫ふじ人んがよこになりかけると、となりの部へ屋やから、ぱたぱたと、はだしで歩く足あし音おとがはっきりときこえた。
﹁あなた﹂
夫ふじ人んは、ふるえながら牧ぼく師しをゆり起こした。
﹁どろぼうよ。ほら足あし音おとが……ね、階段をおりていったでしょう﹂
牧ぼく師しは、夫ふじ人んの言うとおりに、はっきり足音がしているのをきくと、さっとガウンをはおりスリッパをつっかけて部へ屋やをでた。
下のへやから、ごとごとと机つくえのひきだしをあける音がする。
﹁ほら﹂
つづいてでてきた夫ふじ人んが、そっとひじをつついた。
﹁よし﹂
牧ぼく師しは、大またに寝しん室しつへひっかえすと、やにわに、すみっこにおいてあった火ひかき棒ぼうをにぎりしめ、足音をしのばせて、音のするほうへとおりていった。
階かい段だんの中なかほどまでおりたとき、
﹁くっしゃん!﹂
と、大きなくしゃみの音が、あたりのしずけさをやぶってひびいた。びくっと、牧ぼく師しはたちどまった。それっきり音はやんだ。牧ぼく師しは、またそろそろとおりていった。
﹁書しょ斎さいだな﹂
牧ぼく師しは、かたくくちびるをかみしめて、机つくえをかきまわすひくい音のきこえている書斎へ、ひと足ずつ近づいていった。
書しょ斎さいのドアは、ほんのすこしひらいている。まっさおな顔でついてきた夫ふじ人んをうしろにかばいながら、牧ぼく師しは、そっとのぞきこんだ。
﹁ちくしょうめ! どこへしまってやがるんだろう﹂
口ぎたなくののしる声といっしょに、ぼーっとマッチのもえる音がして、黄きい色ろなろうそくの光がゆらいだ。
﹁おお、ここだ! こんなところへかくしていたんだな﹂
どろぼうは喜よろこびの声をあげ、金きん貨かをちゃらちゃらとならした。
﹁うぬっ!﹂
牧ぼく師しは、火ひかき棒ぼうをにぎりしめた。
どろぼうのやつは、とうとう牧ぼく師しがだいじにためていた金きん貨かを見つけたらしい。
﹁あれを盗ぬすまれてはたまるものか。わしがながい間かかって、やっと二ポンド十シリングためたんだぞ﹂
もう、ためらうひまはない。牧ぼく師しは、
﹁このやろう!﹂
どなるといっしょに、ドアをけとばして、おどりこんだ。
﹁あっ!﹂
いると思ったどろぼうの姿すがたは、どこにも見えない。どこへもぐったというのだろう。ただ机つくえの上にともされたろうそくの灯ひが、ゆらゆらとゆれているばかりだった。
二人は、ぽかんと顔を見あわせた。
﹁たしかにここにいましたよ﹂
夫ふじ人んが言った。牧ぼく師しは机つくえの下をのぞきこんだ。夫人はカーテンのかげをさがした。
そのとき、かすかに部へ屋やの空くう気きがゆれて、だれかが部へ屋やをでてゆくけはいがした。
が、やはりだれもいないのだ。
﹁金きん貨かはなくなっていますよ﹂
夫ふじ人んがさけんだ。
﹁うん、ろうそくだってともっている。だれかがこの部屋にいたことはたしかだよ﹂
﹁こんなおかしなことって、あるものでしょうか?﹂
夫人は歯はをがちがちいわせて、ふるえていた。
と、またもや、廊ろう下かで大きなくしゃみがきこえた。
﹁いるぞ﹂
牧ぼく師しは、はじかれたように廊ろう下かにとびだした。あらあらしい足あし音おとは廊ろう下かをかけぬけ、台だい所どころのうら口のかんぬきを、らんぼうにひきあけているらしい。
牧師が台だい所どころにとびこんだしゅんかん、戸はあけられ、かすかな人のけはいが外へむかってかけだしたようだった。しかし、牧師の目には、やはりなにも見えなかった。
牧ぼく師しと夫ふじ人んは、まっさおな顔を見あわしたまま、いつまでもいつまでも、じっと立っていた。
姿すがたのないどろぼうが牧ぼく師しか館んにおしいったといううわさは、その日のうちに、アイピング村じゅうにひろまっていった。
家か具ぐがおどる
牧ぼく師しか館んが姿すがたのないどろぼうにひっかきまわされていたころ、黒くろ馬うま旅りょ館かんの女あるじホール夫ふじ人んは、
﹁おまえさん、起きてくださいよ。ぐずぐずしていてはこまりますよ﹂
さかんに亭てい主しゅのホールをたたき起こしていた。二人は、お手伝いのミリーよりも早く起きて、いつものように穴あな蔵ぐらにしこんだビールにサルサ根こんからとった液えきをまぜ、いちだんと味あじをよくしようというのだ。
おかみさんは、まだ寝ぼけまなこをこすっているホールをひったてて、穴あな蔵ぐらにおりていったが、
﹁おや、サルサ根こんの液えきのはいったびんを持ってくるのをわすれたよ。ちょいとおまえさん、大いそぎでとってきておくれよ﹂
﹁よしきた﹂
ホールは気がるにひきうけ、じぶんの部へ屋やからいいつかったびんをとりだし、穴あな蔵ぐらへゆく階かい段だんをかけおりようとした。
﹁おやっ! 玄げん関かんのとびらのかんぬきがはずれているぞ﹂
ホールはびんを片かた手てに、ぽかんとドアの前につったって、ゆうべたしかに玄げん関かんのドアはしめたはずだ、と思った。
﹁そうだ。おれがろうそくをもって、うちのやつが家じゅうの戸じまりをしてまわったんだから、まちがいないな。それに、はて、あの客きゃくの部へ屋やの戸ともあいてたようだったぞ﹂
ホールはそのまま、おくへひっかえして、客部屋のドアをおしてみた。案あんのとおり、ドアは苦くもなくひらいた。
客きゃくの姿すがたはどこにもみえない。ベッドの中はもぬけのからで、ぬぎちらした服ふくがあたりにちらばっている。ホールは、おかみさんのところにかけおりていった。
﹁おいおい、ジャニイや、ヘンフリイが言ったとおり、あの客は大だい悪あく党とうらしいぜ﹂
おかみさんは、それをきくとかんしゃくをおこしてどなった。
﹁なにをねぼけたことを言ってるのさ。しっかりおしよ﹂
﹁ねぼけてなんかいねえよ。客きゃくは部へ屋やにいねえし、玄げん関かんのかんぬきははずれているんだ。が、やつの服ふくは部へ屋やにほうりだしてあるんだが。とすると、はだかででかけたのかな?﹂
﹁おまえさん、それはほんとの話かい?﹂
﹁ほんとうとも……信しnじないなら、おまえ、じぶんの目でみてみな﹂
おかみさんは顔いろをかえ、とっとっと階かい段だんをのぼっていった。ホールはあとにつづいた。
穴あな蔵ぐらの階かい段だんをのぼって一階にでたときだった。大きなくしゃみが、近くできこえた。
おかみさんはホールのくしゃみだと思い、ホールはおかみさんのだと考えて、おたがいに気にとめなかった。
﹁あら、ほんとにいないわ。へんだねえ、どうしたってんだろう﹂
おかみさんは、さっさと部へ屋やにはいりこんで、ベッドにさわりながらさけんだ。
そのとたん、すぐうしろで、くすんくすん鼻はなをすする音がした。おかみさんはすこしも気づかなかった。
﹁おまえさん、ちょっときてごらんよ。まだ夜あけ前だってのに、このベッドは起きてから一時間もたってるように、すっかりつめたくなってるんだよ﹂
﹁どれどれ﹂
ホールも、おくればせに近よってきた。
このときだった。世にもふしぎな、だれに言っても信しんじてもらえそうもないことが、とつぜんに起こりはじめた。
まずさいしょは、ふとんがくるくるとまかれ、ぱっとベッドの外にとびだした。つぎには柱はしらにかかっていた帽ぼう子しが、きりきりとちゅうに舞まって、二、三回かい転てんしたかと思うと、矢のようにおかみさんの顔めがけてぶつかってきた。
﹁ああっ!﹂
おかみさんが帽ぼう子しをさけようと、右にむいたとたん、こんどは洗せん面めん台だいのスポンジがとんできた。つぎはズボン、そのつぎは服ふく、恐きょ怖うふに顔をひきつらして、かの女が部へ屋やをうろうろと逃にげまどうと、どこからともなく、からからとあざ笑わらうつめたい声がきこえてきた。
さいごに、いすがすうっと宙ちゅうにうかんだ。とみるまに、おかみさんめがけて、すごいいきおいで飛んできた。
﹁たすけてっ!﹂
おかみさんは悲ひめ鳴いをあげて、にげまどった。いすはおかみさんの背せな中かにぴたっとくっついた。
﹁あれっ! たすけて、だれかきて!﹂
なきさけぶおかみさんを、いすはぐいぐいとおし、部へ屋やの外につきだした。ホールは這はうようにして、いっしょに外にころがりでた。
ばたんと、二人のうしろでドアがいきおいよくしまった。
二人が命いのちからがら、台だい所どころまで逃にげのびると、お手伝いのミリーがかけつけてきた。
やっとこさでじぶんの部へ屋やにおちついたとき、ホール夫ふじ人んは、うわ言のように、
﹁ゆうれいだわ、きっとそうだ。そうでなければ、いすやズボンが、まるで生き物のようにとび歩くはずがないわ。ホール、すぐに玄げん関かんのかぎをかけてちょうだい。あの男が帰ってきても中へ入れないように、早く、早く﹂
﹁ジャニイ、気をしずめなさい。ほら、これをぐっとひと口のんでごらん。ずっと気きぶ分んがしずまるから﹂
ホールがうろうろしながら、気つけ薬ぐすりをおかみさんの口におしあてた。
﹁へんだ、へんだと思っていたんだけど……やっぱりあの男はわるい魔まほ法うをつかうんだわ。おっかさんの代だいからのだいじな家か具ぐに、悪あく霊りょうをふきこんだんだわ。でなければ、いつもおっかさんが腰こしかけていた、あのなつかしいいすが、わたしに飛びかかってくるはずがないわ﹂
﹁さあ、ジャニイ、もうひと口飲みなよ。おまえはえらくこうふんしてるよ﹂
ホールが一心しんになだめた。
やがて夜がすっかり明けはなれ、明るい太たい陽ようの光がまばゆくかがやきはじめると、黒くろ馬うま旅りょ館かんには、鍛か冶じ屋やのウォッジャーズ、雑ざっ貨か屋やのハクスターがよび集められた。
しかし、だれひとり、この奇きか怪いな話をきいて、これからどうすればいいか、はっきりと言える者はいなかった。
相そう談だんはおなじところをめぐって、いつまでたってもらちがあかない。
ついに、ウォッジャーズがホールにむかって、
﹁これはやはり、おまえが客きゃ人くじんの部へ屋やにいって、どういうわけでこんな奇きか怪いなことが起こったのか、よくよくわけをきかしてもらってくるのが、いちばんいい方ほう法ほうじゃないかね﹂
と言いだした。これには、すぐにみんながさんせいして、お人よしのホールは、のこのこと客きゃくの部へ屋やにでかけていった。
﹁お客さま、ちょっとうかがわせておもらい申もうしてえだが――﹂
ホールがまのびした声をかけた、とたん、
﹁うるさい、でてゆけ!﹂
すさまじい声といっしょに、ホールは胸むねぐらをどーんとつかれて、ばったりたおれた。
魔まじ術ゅつ師しか?
り、りりりーん! もうれつな勢いきおいでベルがなった。
これで三度ど目めだ。あの化けものの客きゃ部くべ屋やからである。
﹁なんどでもならすがいいわ。だれがいってやるもんか。あんな男は悪あく魔まに食われて死んでしまえばいいんだ﹂
おかみさんは、長いすによこになったきり、にくにくしそうに言って、起きあがろうともしない。
あれっきり客きゃくの部へ屋やにはよりつく人もない。おかみさんは朝ちょ食うしょくをもってゆかなかった。きっと客は、腹はらをすかせて弱よわりきっているのだろう。
昼ひるちかくになると、おかみさんはいいにおいをたてて、じゅうじゅうと肉にくをやきはじめた。
たまりかねた男は、台だい所どころの戸とぐ口ちにたって、
﹁おかみさんはいないかね? すぐに、へやへきてくれ﹂
はや口に言って、姿すがたをけした。
﹁ふん、お呼びかね﹂
おかみさんはうしろ姿すがたに毒どくづきながら、ちょっと考えて、勘かん定じょ書うがきをひょいと盆ぼんの上にのせ、客きゃくのへやにはいっていった。
﹁お勘かん定じょうでございますか?﹂
盆ぼんをつきつけながら、おかみさんはすまして言った。
﹁なにを言ってるんだ。だれが勘定だといった。ぼくはまだ朝食もくってないんだぜ。なぜ、ぼくの食しょ事くじの支した度くをしてくれないんだ。ベルをならしても知らんぷりだ。ぼくは仙せん人にんじゃないぞ。飯めしもくわずに生きていられるか﹂
﹁おやおや、お食しょ事くじのさいそくでございますか? では、わたくしにもさいそくさせてくださいませ。お勘かん定じょうをしていただきたいんです﹂
﹁三日まえに言っただろう。まだ金かねを送ってこないんだよ﹂
﹁あたしは二日まえに、ちゃんと申もうしたはずですわ。これいじょうお金を送ってくるのなんか待まっていられないんです。あなたさまは朝の食事がほんのすこしおくれたからって、がみがみとお叱しかりになりますが、あたしどもはもう、五日もお勘かん定じょうをまっておりますよ﹂
﹁な、なにを言うんだ。人をぺこぺこの空すきっ腹ぱらにさせておいて……け、けしからん。じつにけしからん﹂
﹁けしからんのは、そちらですよ。食事のさいそくをなさるくらいなら、さっさとお勘かん定じょうをはらってからにしていただきたいですね。わたしのほうが、よっぽどさいそくしたいですよ﹂
この言こと葉ばは、さすがに男の心にぐさりとつきささったらしい。男はにわかにおとなしくなり、
﹁まあ、そう腹をたてないでくれたまえ。じつは、ないと思った金が、おもいがけなくポケットの中にすこしばかり残っていたんだ﹂
﹁ええっ!﹂
とたんにおかみさんの頭に、さっき村の人がかけこんで話したばかりの牧ぼく師しか館んのどろぼうのことが、さっと頭にひらめいた。なんとなく思いあたるものがあった。
そこで、ずばりとたずねた。
﹁お金があったんですって? いったい、どこで手にお入れになったのかしら……﹂
みるみる男のようすがおちつきを失うしない、はげしい怒いかりにぶるぶるふるえ、じだんだをふんでどなった。
﹁なにをぬかす。失しつ礼れいなやつめ!﹂
おかみさんはすこしもひるまず、
﹁ちっとも失礼じゃございませんわ。お勘かん定じょうをいただくにしろ、朝の食しょ事くじを用よう意いしますにしろ、そのまえにぜひともはっきりうかがっておきたいことがございます。お客きゃくさまは、いったいどうやって、いすに魔まほ法うをかけてあやつり、いつのまに部へ屋やからぬけだし、また、いつお帰かえりになったのですか? なんのことわりもなく、空くう気きのように、かって気ままに出入りなさってはめいわくでございますよ。それに――﹂
男は、
﹁うるさい、やめろ、やめろ!﹂
ものすごいけんまくでどなりちらし、足をふみならした。
﹁ようし、きさまたちがそんな料りょうけんなら考えがあるぞ。おれがどんな人にん間げんか、おまえらにわかるはずはないんだ。が、知りたければ知らせてやろう。見ておくがいい!﹂
恐きょ怖うふの一いっ瞬しゅん
怒いかりくるった男は、ついにじぶんから正しょ体うたいをあらわしたのだった。
﹁見よ!﹂
男は手てぶ袋くろをはめた手をふりまわし、
﹁おれがどんな人にん間げんか知りたければしらせてやろう。よく見ておけ!﹂
そのすさまじさに、おかみさんはちぢみあがってしまった。
男は、ぱっと手をひろげると、つるりとひとなで顔かおをなでおろした。
すると、顔のまん中に、ぽかりと穴あながあいた。
﹁さあ﹂
男は手ににぎったものを、おかみさんの手のなかにおしつけた。
みるまに変わってしまった男の顔に、どぎもをぬかれてしまったおかみさんは、男のわたすものを、ひょいとうけとった。
が、ひと目みるなり、かなきり声をあげてほうりだしてしまった。
鼻はなだ! たったいままで男の顔にくっついていた鼻なのである。
ピンク色に光った鼻は、ごろごろと床ゆかをころがっていった。
﹁だれかきて!﹂
おかみさんの必ひっ死しのさけびに、ホールや酒さか場ばにいた男の連れん中ちゅうがどやどやとかけつけてきた。
男は、その連中のまえで、ゆうゆうと眼めが鏡ねをはずし、帽ぼう子しをとった。
かけつけた連中は、立ちすくんで息いきをのみ、男のやることをながめているばかりだった。
こんどは、ほうたいをぐるぐるほどきはじめた。
人びとは、ほうたいの下から、どんなおそろしい顔があらわれるのか、と考えただけでも、おそろしさにぞっとして、じっとしていられなくなった。うき足だったひとりが、
﹁こいつあたいへんだ!﹂
大声をあげると、わっとばかり、ひとりのこらず逃にげだしてしまった。
ホール夫人だけは、足がすくんで、その場にとりのこされていた。
男の顔から、ほうたいがつぎつぎととられてゆくにつれて、どうしたというのだろう?――
そのあとには、なにもなくなってしまったのである。考えていたような恐ろしい顔も、みにくい顔もあらわれてはこずに、男の顔はかき消え、首くびなしの怪かい人じんがそこにつっ立っていた。
首なしの化ばけものは、そのまま、玄げん関かんにかけだしていった。
入口の酒さか場ばにより集まって、がやがやとさわいでいた村の連中に、ホール、それからお手てつ伝だいのミリーがけたたましい悲ひめ鳴いをあげて、玄げん関かんのとびらをおしあけて、こぼれ落おちるようにわっと外へとびだした。
それからあとのさわぎは、お話するまでもなかった。
人びとは遠とおまきに黒くろ馬うま旅りょ館かんをとりかこんで、
﹁頭がねえそうだよ。ほんとにねえんだ。帽ぼう子しをとって、ほうたいをはずしたら、その下にあるはずの頭がなかったってんだ﹂
﹁ばかを言え。そんなことがあるはずがねえよ﹂
﹁ほんとだってば、おや、巡じゅ査んさのジャッファーズがきたよ。化ばけものをつかまえにきたんだ﹂
旅りょ館かんをとりかこんでいた人びとは、わっと巡査をとりかこんで、おもい思いにしゃべりたてた。巡じゅ査んさは、いばって、
﹁頭があろうがなかろうが、わしはやつをつかまえなければならん﹂
﹁そうです、そうです。お巡まわりさん、さあ、つかめえてくだせえ﹂
ホールは、まっすぐに玄げん関かんにすすみ、入口のドアをいきおいよくあけた。
ジャッファーズは、えらい元気でとびこんでいった。
旅りょ館かんのうす暗くらい台だい所どころのすみに、首のない人にん間げんが、片手にかじりかけのパン、片手にチーズの大きな切れをもってたっている。
﹁あれですっ!﹂
ホールがさけんだ。
﹁なんだ、きさまたち! なにしにはいってきやがった﹂
首くびなしの化ばけ物ものの、首くびのあたりと思われるあたりから、怒おこった声がきこえてきた。
﹁ほほう、ずいぶん変わったやつだな。しかし首があろうがなかろうが、わしは逮たい捕ほじ状ょうをもってきてるんだから、からだだけでもつかまえていくぞ﹂
巡じゅ査んさは、ぱっと男めがけてとびかかった。男はさっとうしろにとびさがり、パンとチーズを巡じゅ査んさめがけてなげつけた。
﹁こんちくしょう! てむかう気か……﹂
巡じゅ査んさはまっかになって怒おこった。ホールはせいいっぱい気をきかせて机つくえの上のナイフをとり、ちょうど応おう援えんにかけつけた鍛か冶じ屋やのウォッジャーズにわたした。
男はさわぎが大きくなったので、かんかんに腹はらをたてたらしく、いきなり巡査の顔をいやと言うほどなぐりつけた。
﹁あっ!﹂
ふいをうたれた巡じゅ査んさは、一いっ瞬しゅんたじろいだが、猛もう然ぜんと男にくみついていった。
けとばす、つきとばす、すごい格かく闘とうがはじまった。
巡じゅ査んさは、苦くし心んのすえに相手の首くびをしめあげた。もちろん、見えない首をしめあげるのだから、ずいぶんおかしなものだったが、巡査は一生けんめいだった。
男は苦しがって、巡査のむこうずねをけとばした。
﹁足をつかまえてくれ!﹂
巡じゅ査んさは、痛いたさをこらえてさけんだ。ホールが足をおさえにきたが、まごまごするうちに、あばら骨ほねのあたりを音がするくらいけとばされて、胸むねをおさえてしゃがみこんでしまった。
男はふいに、
﹁うむ!﹂
とさけぶと、ばか力をだして巡じゅ査んさをなげとばし、あべこべに巡査を下にくみしいてしまった。
﹁こいつはいけねえ﹂
巡じゅ査んさのはた色が悪いとみたウォッジャーズは、おく病びょ風うかぜにふかれて、戸とぐ口ちのほうへ逃にげだした。そこへ、
﹁おーい、たすけにきたぞ!﹂
と、ハクスターと馬ばし車ゃ屋やがかけこんできた。
巡じゅ査んさとウォッジャーズが、ほっとしたとたん、戸とだ棚なから、がらがらとガラスびんが三つ四つころがりおち、鼻はなをつくいやなにおいが部屋いっぱいにひろがった。
首くびのない男
﹁こうさんするよ﹂
なにを思ったのか、巡じゅ査んさをおさえつけていた手をはなして、首くびなし男は立ちあがった。
みれば、頭ばかりか、右手も左手もなくなっている。手てぶ袋くろがぬげてしまったからだ。
巡じゅ査んさは、すばやく起きなおり、威いげ厳んをつくろいながら、男に手てじ錠ょうをはめようとして、なさけない声を出した。
﹁こいつはいかん、どこへ手てじ錠ょうをはめればいいんだ、見けん当とうがつかんぞ﹂
みんなは、ぎくっとして顔を見あわせた。
﹁ああっ! やつは靴くつをぬいだぞ、靴くつ下したもぬいだ。あれっ! 足がない﹂
ホールが、とんきょうな声をあげた。
怪しい男は、うずくまって靴くつ下したをぬいだと思うと、こんどは上うわ着ぎをぬぎ、チョッキのボタンをはずしはじめた。
それは世よにもふしぎな光こう景けいだった。
服ふくだけが宙ちゅうに浮かび、そして、まるで生せい命めいのあるもののように動いて、一枚一枚ぬぎすてられていくのだ。
人びとはあっけにとられて手も足もでず、ぼんやりとながめるばかりだった。
男は、さっさとボタンをはずし、チョッキをぽいとぬぎすてた。シャツだけになった。
そのとき、巡じゅ査んさがあわてて大声でさけんだ。
﹁やめさせろ! 服をみんなぬがさせると、たいへんなことになるぞ! すっかり見えなくなって、つかまえられなくなるんだ﹂
﹁そうだ、そうだ、いまのうちにつかまえてしまえ!﹂
しかし、すでに男は、手ばやくなにもかもぬぎすてていたので、いまとなっては、あちこち動きまわっている白いシャツだけが、怪あやしい男のありかをしめしているだけになった。
シャツの袖そでがひるがえると、ホールの顔にものすごいげんこつがとんできた。
巡じゅ査んさがシャツめがけてとびついていく。ヘンフリイはうしろからせまっていったが、したたか耳たぶのあたりをなぐりつけられて、悲ひめ鳴いをあげた。
そのうち、シャツがくねくねと気き味みわるく動き、人にん間げんがぬぎすてるようにまるまったと思うと、ぽんと窓まどぎわになげすてられて、怪あやしい男は完かん全ぜんにその姿すがたを消けしてしまった。
かれをつかまえる手がかりは、なんにもなくなったのである。
﹁気をつけろ、ドアをしめろ。外へださないようにして、なんでもいいから、手にさわったものはみんなつかまえて、なぐりつけろ!﹂
﹁ほら、いた!﹂
﹁いや、こっちだ!﹂
だれもかれもむやみに空くう間かんをなぐりつけるばかりで、なんのたしにもならなかった。
﹁おい、おれをなぐるとはけしからんぞ!﹂
﹁おまえをなぐったんじゃないんだよ。あいつはふわふわ浮いてたんでなぐりつけたんだが、やつめ、うまくかわしやがったらしいな。そのはずみでおまえさんをかすったんだ﹂
人びとは、むやみにさわぎ、へとへとにつかれてきた。
そのとき、巡じゅ査んさはかれとハクスターの間に動く、いようなけはいを感かんじた。
﹁やつだ!﹂
かれは、見当をつけてとびついた。手ごたえがあり、男のがっちりとした体からだをつかまえたとたんに、首くびをぐいとしめあげられた。
﹁つかまえたぞ!﹂
巡じゅ査んさは、首くびをしめられて紫むら色さきいろになりながら、一生けんめいにさけんだ。
男は、ひどい力で巡査をしめつけながら、しだいに玄げん関かんのほうにでてきた。それにつれて人びとも右に左によろめきながら外へおしだされていった。
男と巡査がもつれるように玄げん関かんのふみ段だんまできたとき、巡査はもう息いきもたえだえになっていた。
﹁えーい!﹂
男は、かけ声といっしょに、巡じゅ査んさをぶるんとふりまわして、地面になげとばした。巡査は、ひと声うめき声をあげると、その場にばったりと倒たおれたまま、動かなくなってしまった。
﹁わあっ、化ばけものがきたぞ! 巡じゅ査んさがたおされた! やられないうちに逃にげろ!﹂
村びとは後もみずに、つきあたったりつまずいたりしながら、右へ左へ、くもの子をちらすように逃にげていった。
人っこひとりいなくなった道に、巡じゅ査んさのジャッファーズだけが、気をうしなってよこたわっていた。
逃とう走そう
アイピング村から二キロほどへだたったところにある丘おかの中ちゅ腹うふくに、ひとりのこじきがすわっていた。
名をトーマス・マーヴェルという男で、お人よしですこしばかり頭の働はたらきがにぶく、ぶくぶくふとったしまりのない顔をして、頭にはおそろしく時代がかったシルクハットをちょこんとのっけていた。
かれはさっきから目のまえの草のうえに、二足あしの長なが靴ぐつをきちんとならべて、つくづくと見いっていた。
片かた方ほうはいままではいていた長なが靴ぐつで、片方はさっきもらったばかりの長靴だ。
いままでの分は、足にぴったりとしてはき心ごこ地ちはよかったが、ひどい古ふる靴ぐつで、雨がふると、じくじくと水がしみこんできた。
もらったばかりのほうは、古くてもなかなかりっぱな品しなだったが、かれの足にはすこし大きすぎた。
﹁どっちをはいたらいいのかな? 水のしみこむのはいやだし、だぶだぶのやつをはくのもいやだし﹂
トーマスは、さんさんとかがやく太たい陽ようの下で、いつまでも、どちらをはくか迷まよいつづけて、ぼんやりと靴くつをみながらすわっていた。
﹁どちらも長なが靴ぐつだが、古ふるぼけてるな﹂
トーマスのうしろでふいに人の声がした。トーマスは、ふりかえりもせずに、
﹁そうなんですよ。どっちもいただきものですがね。いままでのやつは水がはいるんです。あっしは、いつも靴はこのへんでいただいておるんですよ。このあたりの人たちは、おうようで情なさけぶかいですよ﹂
﹁ばかを言え、このへんのやつらはみんないやなやつらばかりだ!﹂
﹁そうですかね。だが、わたしはそう思いませんね。この靴だっていただきましたしね﹂
トーマスは、こう言ってふりかえった。
ところが、どうしたわけだろう。いまのいままでしゃべっていた男が、どこにも見あたらないのだ。
﹁だんな、いったいどこにいらっしゃるんで?﹂
かれは、きょろきょろと見まわした。
風で木の枝えだがゆれているばかりで、だれひとりいない。
﹁おやおや、おや? おれはよっぱらったのかな? それとも……﹂
﹁こわがらなくてもいいよ。おれはちゃんといるんだから﹂
﹁ひゃあ! だんな、どこにいらっしゃるんですか、こわがるなって言われたって、こわくなりますよ﹂
﹁こわがらなくてもいいと言ってるじゃないか、おちつけよ。おまえにおれの姿すがたがみえなくても、いることは、ちゃんとここにいるんだから﹂
トーマスは、あわてて丘おかの上をぐるぐる見まわした。どこを見ても人っこひとりいなかった。生きているものは、あたりのこずえを飛びまわっている小こと鳥りだけだ。
﹁助けてくれ! おれはどうかしてしまったよ。空から声がふってくるなんて、ただごとじゃねえや﹂
﹁おちつけ、おれは化ばけものじゃないよ。それに、おまえが気がちがったんでもない。おれのいうことを信しん用ようしろ。でないと、石をぶつけるぞ﹂
﹁だって、だんな、どこにおいでなんです?﹂
トーマスの声がおわるかおわらないかに、小石がひょいと地面から舞まいあがったと思うと、びゅっと風をきってかれの肩をめがけてとんできた。
﹁ひゃあ!﹂
トーマスがわめいて逃にげだそうとしたとたん、目に見えないなにかに、どすんと力いっぱいおしとばされて、ひっくりかえってしまった。
﹁さあ、これでもおれのいうことを信しんじないか?﹂
トーマスは、やっとこさで起きあがると、草の上にすわりこんで、ふてくされてこたえた。
﹁どうでもしろ、おれにはなんのことやら、さっぱりわからねえや。ひとりでにとんでくる石だの、空くう中ちゅうからふってくる声だの……気き味みのわるいことはやめにしてもらいたいね﹂
すると、空中の声はやさしくなり、トーマスをなだめるように、
﹁おれの姿すがたがおまえに見えないからって、おれは怪あやしい人にん間げんではないんだ。ただわけがあっておれの姿は空くう気きとおなじで、すきとおっていてだれにも見えないんだ﹂
﹁えっ、おれのことをからかわないでくだせえよ。いくらおれがこじきだからって、ばかにしてもらいますまい。すきとおって姿のない人間なんて、いるわけがありませんよ﹂
﹁ところがいるんだよ。いま、おれの体からだにさわらせてやるからな﹂
あっけにとられているトーマスの手が、だれかの手につよくにぎられた。
トーマスは、おずおずしながら手さぐりであたりをなでまわすと、なるほど、たくましい男の体からだが、はっきりと手ざわりでさぐれた。
﹁こいつはおもしれえや、だんなはほんとにいたんですね。だが体からだがすきとおってしまったなんて、ずいぶんふしぎですねえ。だんなの腹の中には、なにもはいってないんですか? パンだのチーズだの食べれば、腹の中に見えるでしょう﹂
﹁それはそうだよ、消しょ化うかしてしまうまでは見えてるよ﹂
﹁なるほど、しかし、どうしてそんなふしぎな体になりなさったのですかね?﹂
﹁それにはながい話はなしがあるんだ。しかし、そんなことをおまえに話してきかせたって、わかりはしないよ。それよりおれがこうしておまえのあとをつけてきたのは、話したいことがあるからなんだよ﹂
﹁おれにたのみたいことですって……いったい、それはなんですね?﹂
トーマスは、目をくりくりさせてきいた。
﹁じつは、おれははだかなので、いろいろのことでこまりきっているんだ。大いそぎで着る物を手にいれてもらいたいんだよ。それから寝ねる所ところとな――ほかにもいろいろやってもらいたいことはあるが、とりあえずそれだけを、おまえの力でぜひなんとかしてくれ﹂
﹁着る物を手にいれろとおっしゃるんですか、なんだか、あっしは頭がぐらぐらしてきたようだ。すこし落ちついて、ゆっくりと考えさせてくだせえ。だれひとりいない丘おかからいきなり声がして、なんにも見えねえのに、さぐればたしかにだんながいらっしゃる。体からだがすきとおっているんだそうだが……そしてこんどは着きも物のとねる所を手にいれろとおっしゃる。あっしは、すっかりめんくらってしまいましたよ﹂
﹁いまさら、ぐずぐず言うな。透とう明めい人にん間げんのわしが、おまえをえらんだんだ。おれのために働はたらいてくれ。そうすればお礼れいはたっぷりやるよ。わかったな﹂
そして透とう明めい人にん間げんは、大きなくしゃみをした。
﹁そのかおり、おまえがおれをうらぎってみろ、どんなことになるか、おもい知らせてやるからな﹂
男は、言いおわってぽんとトーマスの肩かたをたたいた。トーマスは、きゃっと恐きょ怖うふのさけび声ごえをあげ、
﹁と、とんでもねえ。うらぎったりするものですか……心しん配ぱいしねえでも大だい丈じょ夫うぶですよ。あっしにできることなら、なんでもいたしますよ――なんなりと言いつけてくだせえ﹂
トーマスは、気のどくなほど、はげしくふるえながら言った。
怒いかる透とう明めい人にん間げん
酒さか場ばの中
その日は復ふっ活かつ祭さいだった。
アイピング村では、朝はやくから村じゅうの年よりも若いものも晴はれ着ぎを着きかざって、うきうきしていた。
黒くろ馬うま旅りょ館かんでは、亭てい主しゅのホールと雑ざっ貨か屋やのハクスターは、とりとめのないばか話をだらだらとつづけていた。そこへ、あらあらしくドアをおして、ひとりの男がはいってきた。
古ふるびたシルクハットを頭にのせた、ずんぐりとした小がらの男で、ひどく、しんけんな顔つきで、わきめもふらず酒さか場ばにはいってくると、つかつかととおりぬけて、おくの客きゃ部くべ屋やのほうへ歩いていった。浮ふろ浪うし者ゃのトーマスだ。
そのすばやさときたら、はっと気づいたときには、もう男はおくの客きゃ部くべ屋やのドアをあけていた。
﹁おっと、お客きゃくさん、お客さん、そこはいまではお客さん用に使っていないんですよ。もどってきてくだせえ﹂
ホールが、まのびのした調ちょ子うしでどなった。
男はへんじもしなかったが、まもなく、むっつりした顔でもどってくると、酒さか場ばにきて、ききとれないほどひくい声で、酒を注ちゅ文うもんして飲みはじめた。
﹁おい、かわったやつじゃねえか。気をつけたほうがいいぜ﹂
ハクスターがホールにささやいた。
男は、ぐいぐいと流ながしこむようにたてつづけていく杯はいものみ、口のはたをてのひらでぬぐうと立ちあがって、中なか庭にわにぶらりとでていった。
たばこに火をつけ、ぶらぶらと庭にわを歩きまわっている。いかにも、ものうそうだった。
が、ハクスターは、男がときどき、ちらりと客きゃ部くべ屋やの窓まどにするどい視しせ線んを送っているのを見のがさなかった。
どさり!
重い物が窓まどからおちる音がした。男は身をかがめて、落ちてきたテーブルクロスに包つつんだ大きな包みと、三冊さつのノートを、小わきにかかえこむとみると、うさぎのようなすばやさで木き戸どから大おお通どおりへ走りでた。
﹁どろぼう!﹂
さっととびあがったハクスターは、いちもくさんにかれのあとを追った。
﹁どろぼうだっ! つかまえてくれ!﹂
ホールも、ハクスターのあとを追ってかけだした。
外には、あかるい日の光がさんさんとふりこぼれ、着かざった人びとがのどかにゆききしていた。
シルクハットをかぶり、大きな包つつみをかかえたおかしな人かげは、風のように街がい路ろをかけぬけ、街まちかどをまがって丘おかへむかって走っていった。
﹁どろぼうだ! つかまえてくれ﹂
ホールとハクスターは声をかぎりにわめいた。しかし、往おう来らいの人びとは、あっけにとられて、ただ見送っているばかりだった。
とある街まちかどまできたとき、やっとこさで男に追いついた。
﹁こんちくしょうめっ! もう逃にがさんぞ、つかまえたぞ!﹂
おどりかかったと思ったそのとき、ハクスターは、目に見えないなにものかに、むこうずねを力ちからいっぱいけとばされた。
﹁わっ!﹂
ふいをうたれたハクスターはもんどりうって道にたおれ、それっきり気を失ってしまった。
つづいて同じようにおどりかかっていったホールも、ものの見みご事とに投なげとはされ、腰こしの骨ほねをしたたかうって起きあがれなくなった。
シルクハットの男は、そのまま、すごいいきおいで丘おかのほうへ姿すがたを消していった。
正しょ体うたいが知しれると
夕ぐれがせまってきた。
シルクハットをかぶったれいの男が、ぶなの並なみ木きをぬうようにして、ブランブルハースト街かい道どうをいそぎ足で歩いていた。
テーブルクロスの包つつみとノートは、やはりだいじそうに小わきにかかえている。
いつのまにか、トーマスの足どりがしだいにおそくなり、のろのろと悲しげな顔つきで考えこみながら歩いていると、空くう中ちゅうからせかせかした声がひびいてきた。
﹁おい、さっさと歩け。なにを考えてるんだ。また、さっきのようにおれをまいて逃にげようというのかい? こんど逃にげてみろ、ただではおかないからな﹂
﹁逃にげようなんて、そんなことは考えてませんよ。あっ、そんなに肩かたをつっつかねえでくだせえ。おいら、いまに傷きずだらけになってしまいますぜ﹂
トーマスは、しおしおとこたえた。空くう中ちゅうの声はなおも意い地じわるく、
﹁いいか、こんど逃にげようとしたら、殺ころしてやるからな﹂
﹁とんでもねえ。おいら、あんたをまいて逃にげようなどとは、これっぽっちだって考えていませんよ。ただ、どこでまがったらいいかわからなくて、あのまがり角へはいりこんじまったんですよ。あっしはこのへんの道はちっとも知らねえんです。そんなおそろしいことを言わねえでくだせえ﹂
浮ふろ浪うし者ゃのトーマスは、いまにも泣なきだしそうだった。目にみえて元気を失うしい、あきらめきったようすで、とぼとぼと歩きつづけた。
空くう中ちゅうの声は、もちろん言わずとしれた透とう明めい人にん間げんである。
かれは黒くろ馬うま旅りょ館かんでうばってきた衣いる類いと、研けん究きゅうノートの包つつみをトーマスにもたせ、どこへゆこうとしているのか、しきりに先をいそいでいた。
﹁なあ、トーマス、アイピング村のばか者どもが、考えなしの大さわぎをおっぱじめやがったおかげで、おれの姿すがたが透とう明めいで着きも物のを身につけさえしなければ、だれにも姿をみられなくなるってことを、みんなに知られてしまったんだ。いまいましいじゃないか。そこで問もん題だいはこれから先どうするかってことだ。どうせ、やつらはおれを追いまわすにきまってるだろうし……なにかいい考えはないか﹂
﹁だんな、あっしにいい考えなんてあるはずがないですよ﹂
しばらく二人は、だまって道をいそいだ。しだいに夕やみがあたりをつつんで、遠くの家の灯ひがちらほらと見えてきた。
トーマスは疲つかれきっていた。小わきにかかえた包つつみが、しだいに下にずり落ちていった。
﹁おい、ぼやぼやするな。しっかりと荷にも物つをかかえて歩あるけ。そのノートはだいじなんだ。なくすんじゃないぞ、しっかり持ってろ!﹂
いきなりするどい声がして、トーマスの肩かたをぐいと透とう明めい人にん間げんがついた。トーマスはあわてて、ずるずると包つつみをひきあげ、しっかりとかかえなおしてから、泣き声をあげ、
﹁だんな、だんなはあっしをなんに使おうとおっしゃるんで……はじめは旅りょ館かんからだんなの荷にも物つをもちだす手伝いをしてくれとおっしゃった。それがすむと、あっしの役やく目めはおわったはずなのに、やはりあっしをはなしてはくださらねえで、こうして荷物をかかえてだんなのいくほうへつれてゆきなさる。いったい、どういうお気もちなんでごぜえますか?﹂
﹁つべこべいうな、おまえみたいなやつでもおれにはいり用なんだ。それに、いまにわしが仕しご事とをやりはじめれば、どうしてもおまえの手伝いがいるようになるのだ﹂
﹁なにをおやりなさるのかしらねえが、あっしはとても、だんなの役には立ちましねえ。だいいち、じまんではねえが、力はないし、そのうえ、心しん臓ぞうもよわいんです。せいぜい、さっきぐらいのことしかやれねえですよ。度どき胸ょうはねえし、びくびくしながら手伝ったところで、あんまり役にもたたねえでしょう﹂
﹁力がないのはこまるな、見かけだおしなのか……まあいいさ、それに、なにもびくびくすることはないんだ。おれはだいそれたことをたくらんでいるわけじゃないし、おれがいつもくっついててやるから、おれのいうとおりにやればいいんだ﹂
トーマスは首くびをすくめ、ちょっと考えていたが、思いきって、
﹁だんながいくらこわがらなくてもいいとおっしゃっても、あっしはうす気き味みわるくて死にてえくらいでさあ。いってえ、どんなことをあっしにしろとおっしゃるんで……あっしだって、いやならいやとおことわりできる権けん利りがあるんですがね﹂
﹁だまれ! だまれ、だまれ。だまっておれのいいつけどおりにしていればいいんだ。おまえは利りこ口うな人にん間げんじゃないし、あまり役に立ちそうもないが、おれのいいつけどおりにやりさえすれば、おれはいつもおまえを守まもっていてやろう﹂
透とう明めい人にん間げんは、強い力でぐっとトーマスの手首をつかんで、しかりとばした。
﹁わかってますよ。どうせ、あなたがあっしをはなしてくれないぐらいのことは、知ってまさあね﹂
トーマスは、シルクハットをかぶった頭をたれ、しずみきって歩いていった。
村をすぎていったじぶんには、あたりはとっぷりと日がくれ、美しい星ほしがきらきらと空にかがやきはじめていた。
ポート・ストウ村で
よく朝の十時ごろ、トーマスはポート・ストウ村にたどりついた。
旅たびのほこりをあび、つかれた顔をして村はずれの宿やど屋やのまえのベンチにすわりこんでいた。
ベンチの上にはれいのノートが三冊さつ、革かわひもでしばっておいてある。テーブルクロスの包つつみのほうは、とちゅうで透とう明めい人にん間げんの気がかわり、ブランブルハーストをでたところの松まつ林ばやしですててしまったのである。
トーマスのようすはひどくへんだった。せかせかとあたりを見まわし、なんども、なんどもポケットに手をつっこんでは、しきりになにかをさがしているようすだった。
一時じか間んあまりもトーマスはベンチにすわって、こんな奇きみ妙ょうなことをくりかえしてやっていた。
﹁やあ、いいお天気じゃありませんか﹂
ほがらかな声がひびいて、船せん員いんふうの気さくそうな男が、新しん聞ぶんを片かた手てにトーマスに近づき、ベンチに腰かけた。
﹁そうですね﹂
トーマスはぎくっとしてふりかえり、気ののらないようすでこたえた。しかし、男はトーマスのようすに気をわるくするでもなく、ひどくあいそうよく、
﹁暑あつくもなし寒さむくもなし、じつに気もちのいい朝だ。あなたは、どちらからおいでなさったね﹂
﹁遠くからですよ﹂
﹁ははあ、おやっ、そこにおいていなさるのは本ですかい?﹂
本と聞かれてトーマスは、はっとして大あわてにノートをひざの上にのせた。そのひょうしにかれのポケットで、ちゃらちゃらと金きん貨かの音がした。
男は、目をまるくして、しげしげとトーマスを見つめた。ほこりで汚よごれきったトーマスの服ふく装そうに、金貨の音はどう考えても似につかわしくなかったからだ。しかし、その船せん員いんは、すぐに前とおなじあけっぴろげな態たい度どになって、
﹁おれは、本なんてものはなん年ねん間かんも読んだことがねえが、ずいぶんめずらしいことを書いたのがあるそうだね。その本にもかわったことが書いてあるかね﹂
﹁そりゃあそうでさ﹂
トーマスは、気がかりらしく、ちらっと相あい手ての顔を見て、つづいてあたりを見まわした。
﹁しかし、けさの新しん聞ぶんには、本にまけないほどめずらしいことがのってるぜ﹂
﹁そうですかね﹂
﹁なんだ、おめえ、まだ新聞を読んでいないのかい? 姿すがたの見えねえ人間ってのが、あらわれたそうで、でかでかと書きまくってあるよ﹂
とたんにトーマスは、おちつかなくなってしまった。口をもぐもぐと動かし、むやみにほっぺたをひっかいてから、きこえないほどのほそい声で、
﹁透とう明めい人にん間げんですって、いったいどこにそいつがあらわれたんですね。オーストラリアか、アメリカですかい?﹂
﹁ばかを言いたまえ、そんな遠くの話ではないんだ。この土地にあらわれたんだ﹂
﹁えっ!﹂
トーマスは、ぐるぐるっと心しん配ぱいそうにあたりを見まわした。
﹁はっはっは、この辺へんといってもこのベンチのまわりじゃねえよ。この近くの村にだよ﹂
﹁ああ、そうですか、で、その透とう明めい人にん間げんはなにをしようってんですかね?﹂
﹁あばれたいだけあばれたってことだ。なにしろ体からだが見えねえんだから、どんなことだってやれるさ。だれもつかまえることも、とめることもできないからね。昔むかし、おとぎ話にあったのが、ほんとのことになったんだね﹂
﹁そうですか、あっしはこの四日間、新聞ってやつを見たことがねえんでしてね﹂
﹁透とう明めい人にん間げんがはじめて暴あばれだしたのは、アイピング村がはじまりだそうだ﹂
﹁それで……﹂
﹁その人間はどういう男なのか、アイピング村にくるまではどこに住すんでいたのか、どんなことをしていたのか、さっぱりわかっていないそうだ。ほら、この新聞をみてみたまえ、アイピング村の怪かい事じけ件んって書いてあるだろう﹂
﹁なるほど、それではやはり、ほんとうの話なんですね。信じられねえようだが……﹂
﹁そいつは、はじめ黒くろ馬うま旅りょ館かんにとまっていたんだそうだ。頭にほうたいをまいて服ふくをきこんでいたから、だれひとり透とう明めい人にん間げんだなんて気づかなかったそうだ﹂
トーマスは、そっとあたりを見まわしてからうなずいた。
﹁だが、ついに化ばけの皮かわのはがれるときがきたんだ。アイピング村の連れん中ちゅうは、そいつが透とう明めい人にん間げんとわかったので、大だい格かく闘とうをやってつかまえようとしたが、なにしろ相あい手ての姿すがたはみえないんだ。いたずらにさわぎまわるばかりで、とうとう逃にげられたということだ。﹂
﹁へえ、ふしぎな話ですな。で、アイピング村であばれてから、透とう明めい人にん間げんはどこへいったのでしょうね﹂
﹁さあ、たしかなことではないらしいが、ポート・ストウ方ほう面めんへむかったようすだって書いてあるぜ。おれたちのいるこの村へ、透とう明めい人にん間げんなんていうおかしなやつにやってこられるのは、ありかたくないね﹂
﹁まったくですよ。なにしろ姿すがたがみえないんですからね﹂
トーマスは船せん員いんの話をききながらも、まわりの物もの音おとに気をくばっていた。かすかな風の動きでも、ききのがさないようにしていた。
じつは、その……
そして、あたりにかれの主しゅ人じんの透とう明めい人にん間げんの姿がなさそうだと見きわめをつけると、
﹁あっしはぐうぜんなことから、あなたのいまおっしゃった透とう明めい人にん間げんを知っているんですよ﹂
﹁えっ? おまえが知ってるというのかい?﹂
﹁へえ、そうなんですよ。わしがやっと知りあったときのことを聞いてくだせえ。が、びっくらしねえでくだせえよ。たいへんかわったことなんだから﹂
﹁そりゃあそうだろうよ。いいよ、びっくりしねえから話してきかせなよ﹂
﹁あっしは、透明人間のようにおそろしいやつに、いままで会あった……﹂
言いかけてトーマスはふいに、
﹁いててて、おおいてえ!﹂
苦しそうにさけび、片手で耳をおさえ、片手で本をつかんで、体からだをまげておかしな腰こしつきでベンチから立ちあがった。
透とう明めい人にん間げんは、いつのまにか、トーマスのところに帰ってきていたのだ。
トーマスが、見しらぬ船員にかれのことをしゃべりそうになると、ぐいぐいとトーマスの耳をつまみあげた。
トーマスは、透明人間が帰かえってきていたと知ると、おそろしさでふるえあがってしまった。
もう、かれのことを船せん員いんにしゃべるどころではない。透明人間に耳をひっぱられ、ずるずるとくっついていくだけだった。
しかし、そんなこととは夢ゆめにも知らない船せん員いんは、びっくりしてトーマスをのぞきこみ、
﹁おいおい、どうかしたのかい? どこが痛いたいのだ?﹂
と心しん配ぱいそうにたずねた。トーマスはじりじりとベンチから遠とおざかってゆきながら、
﹁歯はが痛いたいんだよ。急にいたみだしたんで、おおいてえ、いてえ﹂
しかし、トーマスのようすはどこか変へんだった。歯が痛いと言いながら、片かた手てで耳をおさえて、片かた手てでノートをしっかりとつかんでいる。船員は、うさんくさそうにトーマスをじろじろと見て、
﹁おい、どうしたんだい? 透とう明めい人にん間げんのことを話すと言ったじゃないか?﹂
﹁うそでさ。いっぱいかついだだけですよ﹂
トーマスが苦くるしそうにこたえると、船せん員いんはむかっ腹ぱらをたてたらしく、
﹁新聞にだってのっているんだ。透明人間はたしかにいるんだ。なんだ、透明人間を知ってるなんて言って、人をかつぐ気だったのか? しかし、きさまがやつのことをしらなくても、透明人間はいるんだぞ﹂
﹁新しん聞ぶんだって、でたらめを書くこともありますよ。あっしは、このうそをつきはじめたやつを知ってるんですよ。やつの口から透とう明めい人にん間げんなんていうでたらめが話されて、ほうぼうへひろまっていったんですよ﹂
船員は、半はん信しん半はん疑ぎでトーマスの顔をじっと見つめた。
﹁だが、新聞にのっているし……りっぱな人たちが証しょ人うにんになってるしな﹂
﹁うそですよ。うそですよ。だれがなんと言ったってうそにきまってますよ。ばかばかしい、透とう明めい人にん間げんなんてものが、いまの世の中にいるはずがないじゃありませんか﹂
トーマスは必ひっ死しになって、がんこに言いはった。船員はおもしろくない顔をして、
﹁それほどはっきりうそとわかっているなら、なんだってはじめにうそだと言わねえんだ﹂
﹁なにっ!﹂
二人は、ぐっとにらみあった。いまにもどちらからか、げんこのつぶてが飛んできそうなあんばいだった。
﹁トーマス、ぐずぐずするな、おれといっしょにくるんだ﹂
とつぜん、空くう中ちゅうから声がした。
トーマスは、はっとしたようで、そのまま、おかしな腰こしつきでひょこひょこ歩きだした。
﹁逃にげるのか﹂
船員がうしろからどなった。
﹁逃げるもんか﹂
トーマスはくるりとむきなおろうとしたが、あべこべにつきとばされるように、前へとんとんとつんのめった。
そして、それっきり後あともみずに船せん員いんから遠ざかっていった。
だれかと言いあらそいでもしているようなつぶやきが、いつまでも聞こえていた。
船員は、大またをひろげ腰こしに両手をあてがって、遠ざかっていく相手をにらみつけ、
﹁あいつは新しん聞ぶんが読めねえんだよ。なにがうそだい。目を大きくあけて新聞をみろ、ちゃんとくわしく書いてあるから、まぬけめ!﹂
声のつづくかぎり、どなりまくっていた。
空くう中ちゅうを飛とぶ金きん貨か
このことがあって二日ほどたったとき、またまた船せん員いんは、世にもふしぎなできごとにであった。
船員は、じぶんの部じぶ屋んでゆっくりとコーヒーをすすっていた。
たっぷり砂さと糖うをほうりこんだ、濃こいコーヒーをうまそうに飲みながら、かたわらの新聞をながめていると、
﹁おおい、あにき、あにきいるかい﹂
と、われるように戸をたたく者がいる。
﹁だれだい? しずかにしろ、戸がこわれるじゃないか。戸をたたくのをやめて入ってこい﹂
ころがりこんできたのは、かれのなかまのわかい船ふなのりだった。
﹁なんだい、ひどくあわてて……どんな大だい事じけ件んが起こったっていうのかい? えっ、おまえ、透とう明めい人にん間げんにでもぶつかったというのかね?﹂
船員はなかまの顔を、にやにや笑って見ながら声をかけた。
﹁いいや、透明人間じゃない。だが、おなじようにへんなふしぎなことなんだ﹂
﹁ふしぎなこと? まあいいから落ちつきなよ。コーヒーをごちそうするから、ゆっくり話したらどうだい﹂
やがて、熱あついコーヒーがはこぼれ、わかい船ふなのりはひと息いきつくと、まだこうふんのさめないようすで話しだした。
﹁おどろいたの、なんのって、きょうのようにおどろいたことは、いままで一度だってありはしねえよ、あにきだってその場にいあわせたら、きっと目の玉がひっくりかえるほどおどろくにちがいないよ﹂
﹁おれがおどろくか、おどろかないか、そんなことはいいけど、その話というのはどんなことなんだい? おまえはかんじんのことはちっとも話してねえぜ﹂
﹁うん、それだよ。おれが朝はやくセント・マイクル小こう路じを歩いていたんだ。まだ時間が早かったので、街まちはしいんとしていて、通っている人は、おれのずっと先を歩いている年よりきりで、ほかに人かげは前にも後あとにも見えなかった。おれはこんど乗っていく船や、ゆく先の港みなとのことを考かんがえて歩いていた。その時、どういうきっかけだったかわからないが、ひょいとよこの壁かべに目をやった﹂
﹁うん、それで……﹂
﹁そのとたんに、おどろいたねえ。ひとにぎりの金きん貨かが、壁かべにそって空くう中ちゅうをふわふわととんでいるんだ。それを見たときのびっくりしたこと……おれは思わずなんども目をこすったよ。が、なん度見なおしても、ほんものの金貨だ。かなりの早さで飛とんでいくんだ。じっと見つめているうちに、すこしおどろきがおさまると、欲よくがむらむらっと起こったんだ﹂
﹁その金きん貨かを、じぶんのものにしようとしたのかい?﹂
船ふなのりはいつのまにか、わかいなかまのふしぎな話にひきずりこまれて、熱ねっ心しんにきいていた。
﹁おはずかしいが、そうなんだ。あたりに人はいない、金きん貨かは持もち主ぬしがいるようではなし、ちょうど手のとどくところをとんでいるんだ。おれは、一枚や二枚ちょうだいしたって、たいして悪くはあるまいと考えたので、ひょいと手をのばして、その金きん貨かをつかもうとした﹂
﹁うまくつかめたのか?﹂
﹁いいや、手をのばしたとたん、いきなり強い力でなぐり倒たおされて、その場にばったりとたおれてしまった。ひどく腰こしをうってのびてしまったが、かろうじて痛いたみをこらえて立ちあがったときには、金きん貨かはちょうちょうが舞まうように、ふわふわとマイクル小こう路じのかどを消えていったんだ﹂
﹁おまえ、夢ゆめでも見ていたのじゃないか? ゆうべ、ぐっすり眠ねむったのかい?﹂
船ふなのりが疑うたぐりぶかい調ちょ子うしでいうと、わかいなかまは、不ふへ平いそうにほおをふくらし、
﹁いやになるなあ、あにきまでがそんなことを言うのですかい? おれの腰こしは、その時すごい力でなぐり倒たおされて、いやっというほど地面にうちつけたので、いまでもずきんずきん痛いたんでますよ。おれだってさっきまで、金きん貨かが空くう中ちゅうをふわふわ飛とぶなんてことがあるとは思ってませんでしたよ。だけど、はっきりじぶんの目でみたんです。これよりたしかなことはありませんよ。おれは金きん貨かがマイクル小こう路じのかどに消きえてゆくまで、じっと見ていて、その足であにきのところへかけつけてきたんだよ﹂
﹁そうか、では、まんざらうそでもなさそうだし、おまえが寝ねぼけていたわけでもないんだね。とすると、ずいぶんふしぎな気き味みのわるい話じゃないか﹂
﹁そうなんだよ。おれも金きん貨かが見えてる間は無む我がむちゅうだったが、金貨が消えてしまったとたん、ぞっとしたね。がたがたとふるえてきて、どうしてもとまらねえんだ。このごろは変へんなことばかり続つづくじゃないか。透とう明めい人にん間げんだなんて恐おそろしいやつのことを、新聞がでかでか書きたてたと思うと、金貨が空くう中ちゅうをとびまわる。おれはなんとなくおそろしくてしかたがないよ﹂
船ふなのりは、その時、なぜともなく宿やど屋やの前で会ったシルクハットをかぶったみょうな男のことと、そのとき空くう中ちゅうからきこえた声のことをふっと思いだした。
︵おれも頭がどうかしているのかな。あのときふいに空くう中ちゅうから声がきこえてきたような気がしたが……そら耳だと思っていたが、もしかすると、ほんとに空中からきこえたのかもしれないぞ。金貨が空中を飛とぶなら、空中から声がきこえてもふしぎではないかもしれん︶
ひとりで考えこんでしまった。わかいなかまもだまりこんで、やけにたばこばかりすっていた。
金きん貨かが空くう中ちゅうを飛とぶということは、事じじ実つだったらしい。
その証しょ拠うこにポート・ストウ村では、一日じゅう、ほうぼうの物かげやへいのそばを、金きん貨かがふわふわと飛んでいた。
そのようすを見たという人はいく人もあった。
﹁ええ、そうですよ。人もいなければ動物もいません。ただ金きん貨かだけがふわふわとかなりの速はやさで飛とんでるんですよ。わたしが近づいたとたんに、どこへともなく消えてしまったんです﹂
かれらは口をそろえて言った。
﹁そしておどろくじゃありませんか。その金きん貨かは、どうも、ほうぼうの金庫やぜに箱ばこからとびだしてきたものらしいんですよ。村の銀ぎん行こうの金きん庫こからも、ちょうど片かた手てでつかめるほどの金きん貨かと、紙できちんと巻まいた貨かへ幣いとが、ふいに空くう中ちゅうに舞まいあがり、おどろく行こう員いんをしり目めに、ふわふわと飛とんで銀ぎん行こうをでてゆき、表おも通てどおりにとびだすと、そのまま見えなくなってしまったそうだ﹂
ふしぎなことのあったのは、銀ぎん行こうだけではなかった。
食しょ料くり品ょうひんをうっているこじんまりした店では、客きゃくにつり銭せんをわたすために主しゅ人じんが銭ぜに箱ばこのふたをあけた。そのとたん、主しゅ人じんはすぐ身みぢ近かに人のけはいがせまるような感じをうけた。
﹁おやっ?﹂
主しゅ人じんは、あたりを見まわしたが、もちろん、店さきでまだ卵たまごを熱ねっ心しんに見くらべている客よりほかに、だれもいなかった。
主しゅ人じんが銭ぜに箱ばこからつり銭せんをつまみだそうとすると、さっと銭箱の中のひとつかみの金貨が空中へ舞まいあがった。
﹁きゃっ!﹂
主しゅ人じんは悲ひめ鳴いをあげて、舞まいあがった金貨のゆくえを見まもるばかりだった。主人の悲鳴におどろいた客も、空くう中ちゅうをとびながら店をでて大通りへ金貨が逃げていくのを見ると、すっかりたまげて、つり銭もうけとらず、いちもくさんにわが家へ逃げていった。
ポート・ストウ村は、ひっくりかえるようなさわぎになってしまった。
ほうぼうの店や宿やど屋やから、手につかめるほどずつの金きん貨かが空くう中ちゅうをとんで消きえていった。
あちらの通りや、こちらの街まちかどで、人びとは金きん貨かの飛とんでいるのを見かけたが、人が近づくとふしぎなことに、金貨はさっと身をひるがえすようにかき消えてしまった。
こうして、ほうぼうの金きん庫こや銭ぜひ箱ばこから舞まいあがってきた金貨のゆくえを知ったら、村の人たちは、いまよりもっとおどろいたにちがいない。
金きん貨かは人目をさけて、街まちの通りを飛びつづけて村はずれまでやってくると、そこの小さな宿やど屋やのまえで、おどおどとあたりを見まわして心しん配ぱいそうに立っている、古ふるびたシルクハットをかぶった男のポケットに、吸いこまれるようにはいっていった。
たすけてくれ!
バードック町は、うしろになだらかな丘がある。丘のふもとのバスの停てい留りゅ所うじょのすぐ前の酒さか場ば﹃銀ぎんねこ﹄では、さっきからまるまるとふとったおやじが、むちゆうになって、ひとりの客きゃくをあいてに、さかんに、競けい馬ばの話をまくしたてていた。
あいての男は、おやじとはまるっきりはんたいの、やせてひょろひょろした顔いろのわるい男で、商しょ売うばいは馬ばし車ゃ屋やだ。
おやじの言こと葉ばに、ときどきあいづちをうちながら、ビスケットにチーズで、ちびちびと酒さけを飲んでいた。
﹁なんだい? 表おもてのほうがだいぶさわがしいようじゃないか﹂
とめどのないおやじの話をうちきるように馬車屋が言って、立ちあがると、うす汚ぎたないカーテンのすきまから、丘おかのほうをのぞいてみた。
﹁おい、なんだか、おおぜいの人が駈かけていくぜ﹂
﹁どれどれ、ほんとうだ。火事かもしれねえな﹂
酒さか場ばのおやじが気のない調ちょ子うしで言ったとたん、ばたばたと足音が近づき、ドアをさっとひらいて、あの浮ふろ浪うし者ゃのトーマスがとびこんできた。
髪かみをふりみだし、息いきをはずませて、上うわ着ぎのえりもはだけてしまっている。れいの古ふるびたシルクハットは、とっくにどこかへすっとんだらしく、頭へのっかっていなかった。
飛とびこんでくるなり、トーマスは恐きょ怖うふにおののきながら、大声でさけんだ。
﹁やつが追ってくるんだ。あっしのあとを追って……助けてくだせえ。透とう明めい人にん間げんに追われているんです﹂
﹁透とう明めい人にん間げんがくるって……そいつはたいへんだ。おいっ! ドアを閉しめろ、ドアを閉めろ!﹂
酒さか場ばじゅうの者ものが色を失うしなってさわぎたてた。ちょうどきあわせていた警けい官かんは、さすがにほかの者たちよりは落ちついており、すぐに表おもてのドアをしっかりとしめてやった。
おやじも台所のほうへすっ飛とんでいくと、うら口のドアを力いっぱい、ひっぱってしめた。
﹁さあ、もう大だい丈じょ夫うぶだよ﹂
警けい官かんが言ったが、トーマスは泣なきださんばかりの声をふりしぼって、
﹁あっしをかくしてくだせえ。どこかおくのほうの鍵かぎのかかる部へ屋やにかくしてもらいてえんです。やつがあっしを追っかけてくるんです。あいつはどんなところへでもはいってきますよ。あっしのことを殺ころそうと思っているんです﹂
﹁どんなやつかしらないが、ここまでくれば大だい丈じょ夫うぶだよ。ドアはしめたし、そちらに警けい官かんもいらっしゃるんだ﹂
すみっこで、ひとりで酒さけをのんでいた、黒いひげをはやしたアメリカなまりの男が言った。
と、そのとき、ドアがはげしくたたかれた。
﹁透とう明めい人にん間げんだ! はやくどこかへかくしてくだせえ。こんどみつかれば、きっと殺ころされてしまうんだ。おお、神さま!﹂
﹁この中へはいったらいいだろう﹂
おやじが、カウンターのはね板をあげた。トーマスはあわててとびこんだ。
その間じゅう、ドアをたたく音はひっきりなしにつづいた。
﹁だれだ?﹂
警けい官かんがどなりながらドアに近づいた。トーマスは、それをみると泣き声をふりしぼって、
﹁戸をあけねえでくだせえ。たのむからあけねえでくだせえ﹂
黒ひげの男が、
﹁外で戸をたたいているのが、透とう明めい人にん間げんだというのか。どんなやつか、見たいものだな﹂
その言こと葉ばがおわるかおわらないうちに、すさまじい音をたてて、表通りのほうの窓ガラスがわれた。
﹁きゃっ!﹂
トーマスがふるえあがって絶ぜっ叫きょうした。
﹁さあ、こちらへ来こい﹂
おやじは気をきかせてトーマスをおくまった部へ屋やにかくし、鍵かぎをかけてやってから、もとのところへもどってきた。
外では、かけまわるたくさんの人の足音とさけび声がいりみだれて、たいへんなさわぎだった。
警けい官かんはドアに近より鍵かぎ穴あなから外をのぞき見しながら、
﹁ほんとに透とう明めい人にん間げんらしいな。警けい棒ぼうをもってくればよかった﹂
黒ひげの男も警官のあとにつづき、
﹁ねえ、かまわないから、かんぬきをぬいてドアをおあけなさい。やつがはいってきたら、ぼくがこいつに物を言わせましょう﹂
そして、手にしたピストルを警けい官かんの目のまえに、にゅっとつきだしてみせた。
ピストルをみると警けい官かんは、あわてて手をふり、
﹁とんでもない、そいつはこまるよ、きみ。そんなものをふりまわして、相手が運わるく死んでみたまえ、殺さつ人じん罪ざいになってしまうよ﹂
﹁へっへっへ、そんなことは心えていますよ。やつを殺ころしてしまうようなへまはやりませんよ。足をねらいますよ。おれは足をねらう名めい人じんなんだよ。さあ、かんぬきをはずしなさい﹂
カーテンのすきまから外のようすをうかがっていたおやじは、あわててうしろをふりかえり、
﹁わたしをうたんでくださいよ﹂
と、どなった。
﹁さあ、こい!﹂
黒ひげの男は身がまえ、さっとピストルを背せにかくした。
警けい官かんは、ちょっと思しあ案んしていたが、いきなりかんぬきを、さっとひきぬいた。
しかし、ドアはしまったままで、人がはいってくるけはいはさらにない。
二分たち、三分たった。やはり、なんのかわったこともなかった。
三人が息いきをころしてドアを見つめていると、奥おくの部へ屋やから、ひょいとトーマスが頭をだし、
﹁家いえじゅうのドアは、みんなしめてありますかい? 透とう明めい人にん間げんのやつは、きっとぐるっとまわって、開ひらいてるドアをさがしてみますぜ。悪あく魔まのように、ぬけめのねえやつですからね﹂
﹁そいつはたいへんだ。うち口のドアはあけたまんまだ。ちょっとわたしはいってくる。こちらはおまえさんたちにたのみますぜ﹂
ふとったおやじは、ころがるようにかけだした。トーマスは顔をひっこめ、ばたんとドアをしめ、鍵かぎをしっかりとかけた。
やがて、かけもどってきたおやじは、手に大きな肉にく切きり包ぼう丁ちょうをぶらさげ、心しん配ぱいそうに、
﹁庭にわの木き戸ども通つう用よう口ぐちのドアも、みんなしめるのをわすれていたんだ。そのうえ、庭の木戸はあけっぱなしになっていたんだが……﹂
﹁透とう明めい人にん間げんが、そこからはいりこんだんじゃないか?﹂
気の早い馬ばし車ゃ屋やが、おやじが話しおわらないうちに、こわそうにさけんだ。
﹁調ちょ理うり場ばにお手伝いが二人いたが、だれもはいってきたけはいはなかったそうだ﹂
﹁しかし、ゆだんはならないぞ!﹂
警けい官かんはあたりを、ぐるぐると見まわしながらいった。黒ひげの男は、ぐっとピストルをにぎりなおして、調ちょ理うり場ばのほうをにらんだ。
そのとき、ぎ、ぎぎいっーと、おくの部へ屋やのドアが、はげしくきしむ音がしたと思うと、あっと思うまもなく、ぱっと大きくあけはなされた。
酒さか場ばの事じけ件ん
トーマスのかなきり声がひびいた。それはちょうど蛇へびにみこまれた小鳥の、悲かなしいさけび声に似ていた。
﹁それっ!﹂
三人はカウンターをとびこえて、かけつけた。黒ひげの男のピストルがなった。
と、同時に、おくの部へ屋やの鏡かがみが音をたててくだけ落ちた。
﹁助けてくれ! だれかきてくれ!﹂
トーマスは、目に見えぬ人にひきずられながら、じたばたともがいている。
三人は顔を見あわせてためらった。敵てきの姿すがたは、ぜんぜん見えないのだ。どうやってトーマスをかれの手からうばい返かえして助けてやればいいのか、さっぱりわからなかった。
そのひまにトーマスは、ずるずるとひきずられて、おくの部へ屋やから調ちょ理うり場ばへひきずりこまれていった。棚たなからフライパンや鍋なべが、けたたましい音をたててころがり落ちた。
﹁どけろ! どけろ!﹂
警けい官かんはおやじをおしのけ、トーマスの首くびすじをおさえている手があると思われるあたりに、ぎゅっとしがみついた。
﹁ええい! じゃまするな﹂
恐いかりにもえた声がして、警けい官かんはものの見みご事とに、その場になぐりたおされた。
トーマスは必ひっ死しになって、ドアのとっ手にしがみついたが、なんのかいもなく、みるまにひきずられていった。後あとからとびこんできた馬ばし車ゃ屋やとおやじは、めちゃくちゃに手足をふりまわしているうちに、とうとう、透とう明めい人にん間げんの体からだのどこかをつかまえた。
﹁つかまえたぞ! みんなこい! ここにやつがいるぞ!﹂
﹁いたぞ! 透とう明めい人にん間げんがいたぞ﹂
二人は、つかまえたが最さい後ご、どんなことがあってもはなすものかと、むしゃぶりついてあばれまわっている。
さすがの透とう明めい人にん間げんも、トーマスをつかまえていて、二人を相あい手てでは、戦たたかえるわけがない。
﹁ちくしょうめ!﹂
いまいましげに舌したうちして、トーマスをはなした。二人がむやみにあばれて、げんこつをぶんぶんふりまわすので、透とう明めい人にん間げんもいささかもてあましてきたらしい。
﹁うん、なんだって、じゃまをしやがるんだ。おまえらの知ったことじゃないんだ﹂
透明人間と二人は、はげしく取っ組みあってあばれた。
そのうち、やっと起きあがった警けい官かんも加かせ勢いにかけつけ、両りょううでを水みず車ぐるまのようにふりまわして、目に見えぬ敵てきにおどりかかっていった。
トーマスは、あばれまわっている人たちの足もとを這はいまわりながら、必ひっ死しで逃げだす道をさがしている。
調ちょ理うり場ばでの大だい乱らん闘とうが二十分もつづいたころ、
﹁おや、おかしいぞ。やつはどこへいっちまったんだ。外へ逃げたのか?﹂
黒ひげの男が、ふいに、きょろきょろとあたりを見まわしてさけんだ。
﹁中なか庭にわへ逃げたんだ。敵てきは中庭だ﹂
警けい官かんがまっさきにたって、中庭にとびだそうとした一瞬しゅん……。
ぴゅうっ――と風をきって屋や根ねがわらが、かれの頭をかすめて飛んできた。
調理台の皿さら小こば鉢ちが音をたてて、みじんにくだけ散ちる。
﹁ようし、おれがひきうけた﹂
黒ひげの男は、ひと声たかくさけんで、警官の肩かたごしにピストルをつきだし、つづけざまに五発、透明人間のいるらしい方ほう向こうにむけてぶっぱなした。弾たまはうなりを生しょうじて飛とんでいった。ピストルの音がしずまると、庭にわはしいんとしずまりかえった。
かわったことは、なにも起こらなかった。
﹁五発うったぞ。こいつが一番ききめがあったろう。もう、だいじょうぶだ。透明人間の死がいを探さがそうじゃないか﹂
恐おそるべき発はっ見けん
ケンプ博はく士しの来らい客きゃく
その日の夕方、ケンプ博はく士しは、こじんまりしたかれの書しょ斎さいで、書きものをしていた。
博はく士しの家は町をみおろす、丘おかのうえに建っている。そこからは、丘のふもとの﹃銀ぎんねこ﹄酒さか場ばや、バスの停てい留りゅ所うじょが、ひと目でみることができた。おだやかな静かな町で、これといって騒がしい事件がおこらない平和な町であった。
博はく士しのへやの書しょだなには、ぎっしりと本がつまっている。自しぜ然んか科が学く、薬やく理りが学くの本がおもで、窓まどぎわの机つくえには、けんび鏡きょう、スライド、培ばい養ようえき、くすりのびんなどが、いちめんにならべてあった。
とつぜん、ピストルの音がした。ピストルの音は一発ぱつだけではなかった。つづけざまに、五発の銃じゅ声うせいが夕ゆう空ぞらにこだまして、街まちの静せい寂じゃくをやぶった。
博はく士しは気がかりになってきた。
この平和な街まちにピストルの音がひびくのは、きっとなにか起こったにちがいない。
﹁なんだろう?﹂
博はく士しは南がわの窓まどをおしひらいて街まちを見おろした。
いつもとかわらぬしずかな景けし色きだったが、しばらく耳をすませていると、ちょうど、﹃銀ぎんねこ﹄酒さか場ばのあたりで、がやがやとさわぐただならない人ひと声ごえが、風にのってきこえてきた。
﹁酒さか場ばのあたりだな﹂
博はく士しはつぶやいて、なおもじっと、夕方の街まちを見おろしていた。
夕ゆう空ぞらはしだいにくら闇やみのいろにつつまれ、ほそい新しん月げつが夢ゆめのような姿すがたをみせ、星ほしもふたつみっつ数をましていった。
港みなとにとまっている汽きし船ゃに、あかりがつき、きらきらと宝ほう石せきのようにきらめいているのが、とりわけ美しく思われた。
博はく士しは、いつかピストルの音のしたことなどわすれてしまっていた。
さわぐ声もきこえなくなっていた。
博はく士しは窓まどをしめ、もう一度ど、机つくえのまえにすわった。一時間ほどたったとき、玄げん関かんのベルがはげしくなった。応おう対たいにでていくお手伝いの足音がした。
しかし、それっきり、なんの音さたもなかった。
﹁おかしいな? だれか訪たずねてきたのではなかったのかな?﹂
博はく士しは、ふと気になった。大いそぎでお手伝いをよび、
﹁いまのベルは、郵ゆう便びん配はい達たつだったのかね?﹂
﹁いいえ、だんなさま。それがおかしいのでございますよ。ベルはたしかになりましたのに、玄げん関かんにはだれもいないのです。おおかた、子どものいたずらでございましょう﹂
﹁子どものいたずらか﹂
お手伝いがひきとっていくと、博はく士しはスタンドを手もとにひきよせ、一生けんめいに書き物をはじめた。
部へ屋やの中はしずかで、時をきざむ時とけ計いの音だけがきこえている。夜の二時になった。
博はく士しは書きかけの書しょ類るいから頭をあげると、
﹁もう二時か、そろそろ眠くなってきたな、疲つかれもしたし、こん夜はこれでおしまいにしよう﹂
大きくのびをして、灯あかりをけすと、階かい下かの寝しん室しつへおりていった。
博はく士しはひどく疲つかれていた。頭がおもい。
こんな時、博はく士しはいつも愛あい用ようのウィスキーを少し飲んで、ぐっすり眠ねむることにしていた。
﹁こん夜もすこし飲んで眠ねむろう﹂
博はく士しはひとり言をいって、上うわ着ぎとチョッキをぬいだままの姿すがたで台だい所どころにおりていった。
ウィスキーのびんをさげて、ひっかえしてきたとき、階かい段だんの下にしかれているマットに、ひと所、黒いしみができているのが目についた。
﹁だれだろう? こんなところにしみをつけて……﹂
博はく士しはぶつぶつ言いながら、ひょいと身をかがめて、そのしみをながめた。しみは、ちょうどかわきかけた血のように見えた。
﹁おかしいな、血かな?﹂
博はく士しは指ゆびさきで、そっとさわった。思ったとおりだった。
﹁だれがこんなところに血をおとしたのかな?﹂
にわかに胸むなさわぎがして、暗くらい予よか感んがしてきた。
博はく士しは、考えながら寝しん室しつにやってきた。
と、そこでもまたかれは、おそろしいことに出で会あってしまった。
なにげなく手をかけようとしたドアのハンドルが、血でまっかにそまっているのだ。
これはただごとではない。
博はく士しの全ぜん身しんの血ちが、さっとひいていくようだった。かれの頭には、その時、夕方書しょ斎さいできいたピストルの音が、ありありと浮うかんでいた。
おそろしいことが起こりつつあるのではなかろうか?
博はく士しはきっとした表ひょ情うじょうになり、ゆだんなくあたりを見ながら、しずかに部へ屋やにはいっていった。
しかし博はく士しが考えたように、警けい官かんのピストルで傷きずついたギャングはいなかった。
ギャングはもちろん、ねこの子こ一ぴきすら部へ屋やにはみえない。
ただ、ベッドの上のふとんが乱らん暴ぼうにめくられ、血でよごされ、そのうえ、シーツがびりびりにひきさかれていた。
ギャングは、警けい官かんに追われて、この家に逃げこみ、ついさっきまでこの寝しん室しつにしのびこんでいたにちがいない。
﹁そうだ。きっとそうにちがいない。なによりの証しょ拠うこに、ベッドにいままで人が腰こしかけていたらしいくぼみができているじゃないか﹂
博はく士しは血ちですっかりよごれたベッドのまわりを、念ねんいりにしらべた。
﹁いつのまにしのびこんだのかな?﹂
博はく士しがふしぎそうにつぶやいた、そのとき、
﹁やあ、しばらくだったじゃないか、ケンプ!﹂
いかにもなつかしそうによびかける声が、耳のはたでひびいた。
﹁あっ!﹂
ふいをうたれてかれは、けげんそうに部へ屋やじゅうをぐるぐる見まわした。
どこにも声の主ぬしの姿すがたはない。
﹁だれだね?﹂
博はく士しの声はうわずっていた。しかし、こんどは返へん事じがなかった。
ただ部へ屋やをよこぎって歩く足音がして、洗せん面めん所じょのカーテンが、生き物のように動き、するするとひらいたと思うと、すぐにもとのようにしまった。
博はく士しは声をのみ、ぶきみに動くカーテンをみつめて棒ぼう立だちになっていた。
傷きずついた透とう明めい人にん間げん
それから五分もたったであろうか……。
博はく士しには、ながい時間がたったようにも思われた。
もう一度カーテンがゆれ動き、なかから、ぼんやりと、血ちのにじんだほうたいでぐるぐる巻きにした頭があらわれてきた。
頭だけだ。空くう中ちゅうにぼんやり浮うかびあがったほうたいまきの頭は、目もなければ鼻はなもない。いや頭ぜんたいがないのだ。ほうたいだけが、しっかりとまきつけられている。
もちろん手も足もありはしない。
たいていの者なら、ひと目みただけで気きぜ絶つしてしまうところだ。
が、気きじ丈ょうな博士はまっさおになりながら、じっとそのふしぎなものを見つめていた。
﹁ケンプ!﹂
ふしぎなものは博士をよんだ。
﹁え?﹂
﹁おどろいてるな。ぼくはグリッフィンなんだよ。ほら大だい学がくで同どう級きゅうだったグリッフィンだよ。おぼえてるだろう﹂
﹁グリッフィンだって……なにをばかなことを……この化ばけものめ!﹂
博はく士しはいきなり、ほうたいのほうへ手をのばした。と、どうだろう……。
人の体からだにふれたではないか!
ぎょっとして手をひっこめ、まじまじと空くう中ちゅうにうかぶおかしなものをみた。
﹁おちついてくれよ、ケンプ。おれはまちがいなくグリッフィンなんだ。ただおれはふとしたことで体からだがすきとおってしまい、人の目に見えなくなってしまったんだ。世せけ間んのやつらが透とう明めい人にん間げんだとさわいでいるだろう﹂
透とう明めい人にん間げんは目に見えぬ手で、しっかりと博はく士しの手をにぎりしめて、いっしんに話した。
しかし、博はく士しは、その手をふりほどき、めちゃめちゃに手をふりまわして、透明人間にぶつかってきた。
﹁しずかにしろ! ケンプ、話せばわかることなんだ、話をきいてくれ﹂
﹁なにを、このやろう、このばけものめ。話はなしもなにもあるものか、ふんづかまえてやるぞ﹂
﹁だまれ、おれがおまえなんかにつかまるものか……﹂
透とう明めい人にん間げんは、むかっ腹ぱらをたてたらしく、とうとう、博はく士しの足をえいっとすくい、ベッドの上にほうりだし、大声をあげて助けをよびそうにしている口の中へ、シーツのはしをぐっとねじこんだ。博はく士しは、こうなっては手足をばたばたさせて、もがくばかりだった。
﹁しずかにしてくれたまえよ、ケンプ。きみをおどしたり、きみに害がいをくわえるつもりできたんではないんだ。ぼくはいまこまっているんだ。きみの助けがほしくてやってきたんだよ﹂
博はく士しは、このうえ手むかってもむだだと考えたのか、おとなしくなった。透とう明めい人にん間げんは、口におしこんだシーツをとりのぞき、
﹁ねえ、きみ、どうかぼくの言うことを信しんじてくれたまえ。ぼくは大だい学がくにいたときと同じグリッフィンなんだ。ただ、あることで姿すがたが見えなくなったが、人さまの目に見えないだけで、ぼく自じし身んは、なんにも変かわったことはないんだ。心こころも体からだも昔むかしのままのグリッフィンなんだよ﹂
博はく士しは物わかりのいい人だったし、頭の慟きのするどい人だったので、姿すがたの見えないほうたいの化ばけものの言こと葉ばに真しん実じつのあることを見ぬき、
﹁ずいぶんきばつな話だが、話をきけばあるいはわかるかもしれん。話してみたまえ。それにきみの言うように、わしの目には、きみの姿すがたは見えないが、たしかに体からだはあるらしいな。わしの手がたしかにさわったし、きみの腕うでがわしをなげとばしたからな﹂
﹁そうなんだ、そうなんだ。たしかにぼくは頭もある手足もあるんだ……。おそろしい化ばけものなんぞじゃないんだ。ただ研けん究きゅうの結けっ果かでこんなことになってしまったんだ﹂
﹁研けん究きゅうの結けっ果かだって? 研究の結果できみが透とう明めい人にん間げんになったというのかい?﹂
﹁そうだよ﹂
﹁信しんじられないね。だいいち、透とう明めい人にん間げんがグリッフィンだと言ったところで、たしかにかれだという証しょ拠うこはないわけだ。顔をみることもできんし……もっとも声はグリッフィンらしいが﹂
﹁きみ、まだそんなことを言うのかい……ぼくはまちがいなくグリッフィンだよ。ゆっくり話せば疑うたがいははれるよ。信じてくれたまえ、ケンプ!﹂
﹁では、話してみたまえ﹂
﹁話そう、が、そのまえにすまないがウィスキーと食しょ事くじと着きる物ものがほしいんだよ。じつはけがをしているので、傷きずはいたむし疲れきっているんだよ﹂
﹁食たべ物ものに着きも物のだって……すこし待まちたまえ、なにかあるだろう。が、家のものをさわがしたくないから、まにあわせだよ﹂
博士は、落おちつきをとりもどしていた。科かが学くし者ゃらしく、ちみつに頭を働かし、このふしぎな透とう明めい人にん間げんの秘ひみ密つをできるかぎり探さぐりだしてやろうと考えていた。
﹁なんでもけっこうだよ。死ぬほどつかれているんだ。なにか食べてゆっくりと眠ねむりたいだけなんだ﹂
博士は衣いし裳ょう戸とだ棚なから、古くなったガウンをとりだして、
﹁これでまにあうかね?﹂
﹁けっこうだよ。それにズボン下とくつした、そしてスリッパがあれば申し分ないが……﹂
空くう中ちゅうの声がへんじをするといっしょに、博はく士しの手からガウンがとりあげられ、空くう中ちゅうでばたばたとゆれていたが、そのうち、透とう明めい人にん間げんが着きこんだらしく、しゃんと立ってボタンがひとつずつかけられていった。
﹁やれやれ、これで身じたくがととのったよ。あとはウィスキーに食べ物があればいいんだ。裸はだかで腹はらをすかせているのは、まったくつらいよ。まだ夜になると裸ではこおりつきそうに寒いし、腹はらがすいてたおれそうになるし、まったくつらかったよ﹂
透とう明めい人にん間げんは、服ふくをきてしまうと、ゆっくりといすに腰こしをおろした。
﹁ねえ、ケンプ。早くウィスキーを飲のませてくれないか﹂
透とう明めい人にん間げんは、せかせかとさいそくした。
﹁いま持もってくるよ。だが、こんなきちがいじみたことにであうのは、生まれてはじめてだよ。ぼくは催さい眠みん術じゅつにかかっているのかな?﹂
﹁ばかなことを言いたまえ、ぼくは催眠術なんぞやらないよ﹂
博士は、足音をしのばせて台所におりてゆくと、冷ひえたカツレツとパンを手にしてもどってきた。
﹁ウィスキーはここにある。さあ食べたまえ﹂
博はく士しはサイドテーブルにそれらをならべると、ほうたいとナイト・ガウンの化ばけものに声をかけた。ウィスキーをグラスについでやると、ナイト・ガウンの袖そでが動いて、すっとグラスを持ちあげた。グラスを持ちあげたというより、グラスがひとりで空くう中ちゅうに浮かびあがっていったような感じだった。
口のあたりと思われるところでグラスがかたむくと、みるまにウィスキーは飲みはされた。
﹁ああ、うまい﹂
つぎに、カツレツが空くう中ちゅうに舞まいあがった。つづいてパンも……。
﹁なるほど、見えないよ。で、傷きずをしているといったが、どこを傷つけられたんだね﹂
﹁傷きずはたいしたことはないんだ﹂
透とう明めい人にん間げんはがつがつと口いっぱいにほおばって、むさぼるように食べながら言った。
見るまにウィスキーも食べものも、へっていった。
﹁ああ、うまい、それにしてもぼくがほうたいをさがしてまよいこんだのが、きみの家だったとはふしぎだな。ぼくは運うんがよかったよ。こん夜は泊とめてもらいたいね。ひさしぶりにゆっくり眠ねむりたいんだ。ベッドを血ちでよごしてすまなかったね。体からだは透とう明めいになっていても、血だけはかたまると見えてくるんだよ……。そのためにさっきも、あやうくつかまるところを、きみの所ににげこんでたすかったんだ﹂
﹁また、どうしてピストルでうちあいなんかやったんだね﹂
﹁ばかなやつが、ぼくの金かねを盗ぬすもうとしたんだ。そいつはぼくがなかまにしようと思ってた男だのに……﹂
﹁そいつも透とう明めいなのかい?﹂
﹁いいや、かれはふつうの人にん間げんだよ。あいつはぼくを恐おそれてびくびくしていたくせに、ぼくをうらぎろうとしたんだ。あいつめ、こんど会あったらぶち殺ころしてやる。ちくしょうめ!﹂
透とう明めい人にん間げんは、はげしく体からだをふるわして怒おこりだした。ナイト・ガウンがそれにつれてぶるぶるとふるえた。
博はく士しは、グリッフィンが大学生のころから、ひどくおこりっぽい感情のはげしい男だったのを思いだして、一生けんめいになだめた。透とう明めい人にん間げんは、ようやく怒いかりをしずめ、
﹁ぼくは武ぶ器きをつかったりなんかしなかったんだ。それだのに、やつらはおれにむかって、つづけざまにピストルをうつんだ。たいていのやつらはぼくをこわがって、ぼくを追おっぱらおうとして乱らん暴ぼうするんだよ﹂
﹁なるほど、が、きみがそんな体からだになったいきさつを、話してきかせてほしいな﹂
﹁それはゆっくり話すよ。そのまえに、たばこがほしいんだが﹂
博はく士しはいわれるままに、たばこを透とう明めい人にん間げんにあたえた。ところが、見るからに奇きか怪いなことが起こった。それは透明人間が、うまそうにたばこを吸すいはじめると、たばこの煙けむりが流れるにしたがって、口くちからのど、そして鼻はなと、そのかたちがぼんやりとうきあがってきたのだ。
﹁ありがたい。きみのおかげで、寒さむさからも空くう腹ふくからものがれることができたよ。そのうえ、おちついてたばこをすうことまでできたんだ。まったく感かん謝しゃするよ。しかし、ケンプ、きみは学がく生せい時じだ代いと、ちっとも変わっていないな。きみのようにどんなときでも落ちつきはらって、てきぱきと物ごとをかたづけてゆける人間こそたよりになるんだ。これからどうか、ぼくをたすけてくれたまえ﹂
透とう明めい人にん間げんが言った。博士は、じぶんもちびちびとウィスキーをのみながら、
﹁いったいきみはぼくに、なにをやれというのだね。ぼくは人をたすけるどころか、ぼく自身どうしたらいいかと思いまよっているんだよ﹂
と、博はく士しはくらい表ひょ情うじょうでこたえた。そのうち透とう明めい人にん間げんは、にわかにうめき声をあげ、体からだをえびのようにまげ、頭をかかえこんだ。
熱ねつがでてきて、傷きずがいたみはじめたのだ。
﹁きみ、この部へ屋やで朝までゆっくり眠ねむりたまえ。そうすればきっと、あすの朝は気きぶ分んもさわやかになるだろうから……﹂
博士は親しん切せつにすすめた。ところが透とう明めい人にん間げんは、苦くるしそうにうなり声をたてながら、どうしても眠ねむろうとしなかった。
﹁きみ、えんりょしないで眠りたまえ。そうすれば気分もよくなるし……﹂
透明人間は、なにを思ったのか、しばらくだまって博士をじっと見つめていたが、
﹁ぼくは、心をゆるした人間につかまるのはいやだね﹂
と言った。博はく士しはぎくりとした。
なにもかも見すかしたような透とう明めい人にん間げんのことばは、博はく士しの心をぐさりと突つきさした。
友ともをどうしよう
﹁ぼくがきみを警けい官かんの手にわたすなんて、そんなばかなことがあるものか……ぼくを信しんじてゆっくりとやすみたまえ﹂
しかし、透とう明めい人にん間げんはどこまでも用よう心じんぶかかった。部へ屋やのなかをねんいりに見わたしてから、ふたつの窓まどをしらべ、そしてドアの鍵かぎをあらため、警けい官かんがまんいちかれをおそうことがあっても、逃げだす道があることをたしかめてから、やっと、よこになった。
﹁おやすみ﹂
博士が透とう明めい人にん間げんに言って、ドアをしめようとすると、急きゅうにナイト・ガウンがすーっと近ちかづいてきて、
﹁だいじょうぶだろうね、ケンプ。ぼくをゆっくりねむらしてくれるね。警けい官かんにわたしはしないだろうね﹂
博はく士しは顔いろをかえ、
﹁わすれたのかい。たったいま、やくそくしたじゃないか。よけいな心しん配ぱいをしないで、ぐっすりやすみたまえ﹂
ドアをしめると、すぐに中から鍵かぎをかける音がした。
博はく士しは、
﹁やれやれ、とうとうじぶんの寝しん室しつから追いだされてしまった。まるっきり、夢ゆめをみているのか、気がちがっているのか……わけがわからない﹂
なんども頭をふりながら、廊ろう下かをゆっくりと歩いて書しょ斎さいにはいった。
博はく士しは、ぐったりといすに身をなげだして、もの思いにしずんでいたが、
﹁そうだ、新しん聞ぶんを見れば、なにか手がかりがつかめるかもしれんぞ﹂
ぽつりとひとり言ごとをもらし、いくとおりもの新しん聞ぶんをかきあつめ、机つくえの上にひろげて、むさぼるように読みはじめた。
どの新しん聞ぶんも、アイピング村でのさわぎが、大げさに書きたてられている。
﹁ふうん、村人をなぐりたおしてあばれまわったというのか……なんて乱らん暴ぼうなことをするのだ。えっ、なに、巡じゅ査んさはなぐられて気きぜつしたっていうのか。そして宿やど屋やの女おん主なし人ゅじんはおそろしさのために、寝こんでしまったのか。なんというおそろしいことをやる男だ﹂
博はく士しは、ぼんやりと前ぜん方ぽうを見つめて、考えこんでいたが、ぽとりと新聞を手から落としてしまった。いくら考かんがえても、この奇きか怪いな事じけ件んははっきりしない。
博はく士しは、長いすによりかかって眠ねむろうとしたが、目がさえて、寝ねつかれそうもなかった。
やがて、窓まどから、しらじらと朝のひかりが流ながれこんできたが、博士はまだふいに飛とびこんできたやっかいな透とう明めい人にん間げんを、どうしようかと思いなやんでいた。
﹁やれやれ、これでやつが起おきだしてくれば、また、服ふくだけの化ばけものと、しかつめらしい顔をして話し、なんにもないところへ、たべものがつぎつぎと消えていくのを見ていなくてはならないのか。どうかして、この災さい難なんからのがれるすべはないかな﹂
へいぜいは頭のするどさをほこり、どんなことでもあざやかにかたづけてしまう博はく士しも、思ってもみなかった透明人間には、すっかり手をやいたらしかった。
夜がすっかりあけはなたれると、お手伝いが朝の新聞をかかえてやってきた。
博士は、お手伝いにむかい、
﹁いいか、朝ちょ食うしょくを二人まえ用よう意いして、ここまでもってきなさい。そしてわしが呼よぶまで、二階かいへかってにくることはならんよ。わかったな﹂
﹁はい﹂
お手伝いは、博士が研究であたまをつかいすぎて、気が変になったのではないかと、心配しはじめた。
博はく士しは、お手伝いがはこんできた熱あついコーヒーをすすると、いくらか気きぶ分んがはっきりした。
朝の新しん聞ぶんをひろげ、透とう明めい人にん間げんのことが書かれているところを、ねんいりに読んだ。
﹁新聞には、透明人間は狂きょ人うじんになったにちがいないと書いてあるぞ。じっさいやつは、気がくるっているにちがいない。なにをやりだすか、わかったもんじゃない。しかも空くう気きのように自じゆ由うな身だ。悪あく事じをやりだせば、こんなおそろしい敵てきはない。そいつがおれの家いえにまいこんできたんだ。それにやつは、昔むかしの友だちのグリッフィンだというのだから……﹂
博士は机つくえのまえに、どっかりと腰こしをおろすと、ながい間、頭をかかえて考えこんでいた。
﹁おお、どうしてそんなことができよう――友ともだちの信しんらいをうらぎるなんて……。だが……たとえ友だちであっても――﹂
博はく士しは、思いまよったすえ、ひきだしから便びんせんをとりだすと、ペンを走らせだした。
書いてはすて、書いてはすて、博士はなんども書きなおして、やっと一通つうの手てが紙みをかきあげると、封ふうをして、宛あて名なをしたためた。
それには肉にく太ぶとの博はく士しのいつもの字で、
﹃ポート・バードック署しょ アダイ警けい部ぶどの﹄――と書かれてあった。
光ひかりと色いろ
透とう明めい人にん間げんは起きあがるやいなや、あばれはじめた。けさはひどく、きげんがわるいらしい。
いすをなげとばし、洗せん面めん所じょのコップをたたきわった。
もの音で博はく士しが、あわててかけつけてきた。
﹁どうしたのだ? なにか気にいらないことでもあるのかい?﹂
﹁なに、頭の傷きずがすこしばかりいたみだしたので、気きぶ分んがすぐれないんだ。いやな気もちがするんだ﹂
博はく士しはだまって、ちらばっているガラスのかけらをひろいあつめ、
﹁きみのことが、すっかり新聞にのっているよ。世せけ間んは透とう明めい人にん間げんのうわさでもちきりらしい。ただ、ぼくの家にきみがしのびこんでいることは知らないがね﹂
﹁うるさいやつらだ! なぜぼくを、しずかにしておいてはくれないんだろう﹂
﹁それはむりだよ。世の中は、物わかりのいいやつばかりでできてやしないんだ。そいつらは、どこまでもきみをつかまえようとさわぐだろうね。そこで、これからどうするかね? むろん、ぼくはできるかぎりの手てつ伝だいはするよ。だが、きみはいったい、どうしたいと思ってるのかね﹂
透とう明めい人にん間げんは考えこんでいるらしく、ベッドのはしにすわりこんだまま、だまっている。
ケンプ博はく士しは、しばらくしてから、さりげなく、
﹁書しょ斎さいに朝ちょ食うしょくのよういをさせてあるよ﹂
と、さそった。透とう明めい人にん間げんはすなおに立ちあがり、博はく士しのあとについて書しょ斎さいにはいってきた。
ゆうべとおなじように、ナイト・ガウンだけが、すーっと食しょ卓くたくのまえにすわりこんで、手も口もなんにも見えないのに、どんどん食べはじめた。
はじめて見たときほどおどろかなかったが、やはりへんな光こう景けいだった。
食しょ事くじがおわりかけたころ、ケンプ博はく士しは、
﹁これから先さきのことを相そう談だんするまえに、なぜきみがそんな体からだになったか、くわしく話してもらいたいね﹂
透とう明めい人にん間げんは、ナプキンをとりあげ、ゆっくりと口のあたりと思われるところをふき、
﹁かんたんなことなんだ。きみだって説せつ明めいをきけば、なーんだ、と思うよ。奇きせ跡きがおこったのでも、なんでもないさ﹂
﹁きみには、かんたんかもしれないが、ほかの者にとっては、奇きせ跡きとおなじくらいふしぎなことだよ﹂
﹁はっはっは﹂
透とう明めい人にん間げんは、ケンプ博はく士しに会ってからはじめて、ゆかいそうに笑わらった。
﹁さて、それではなにから話そうかな。ぼくが、はじめ医いが学くを勉べん強きょうしていたことは、きみも知っているとおりだ。その後あと、ふとしたことから医学を研けん究きゅうすることをよして、物ぶつ理りが学くにうつったんだ。ことに光ひかりの反はん射しゃとか屈くっ折せつとかが、ぼくの興きょ味うみをとらえてしまったんだ﹂
﹁昔むかしからきみは、そういうことを研けん究きゅうするのがすきだったじゃないか﹂
﹁そうだよ。しかも、この研けん究きゅうは人があまりやっていないので、いくらでも研究することが残のこされているのが、若いぼくには、たまらない魅みり力ょくだったのだ。まだ二十二才のわかい科かが学くし者ゃだったぼくには、これに一生しょうをささげて、いつかは世せけ間んのやつどもを、あっといわせるような研けん究きゅうをやりとげようと決けっ心しんしたんだ﹂
透とう明めい人にん間げんは、いつもの、いんきくさい世よをのろったような声とはまるでちがう、わかい張はりのある声で話しつづけた。
﹁それからのぼくの頭には、研けん究きゅうのことよりほかは、なにもなかったね。寝ねてもさめても考えるのは、研けん究きゅうのことばかり――六ヵ月ほどたったとき、はっと思いついたことがあったのだ﹂
﹁どんなことだ﹂
﹁きみも知っているとおり、物が見えるということは、光が物にあたったとき反はん射しゃするか、そのまま吸きゅ収うしゅうされてしまうか、または光がおれまがる具ぐあ合いによって、いろいろな色とか、形とかが、それぞれの姿すがたをもって目にみえるので――光のこの三つの働はたらきがなかったら、われわれは物をみることができないわけだ﹂
﹁そうだ﹂
﹁たとえば、われわれが赤い布ぬのをみるとするね。赤くみえるのは、太たい陽ようの光こう線せんのなかで赤い色のところだけを布ぬのが反はん射しゃして、あとの色はみんな吸すいこんでしまうからなんだ。また光をぜんぶ反はん射しゃしてしまえば、白くきらきらとかがやいてみえるだろう。そしてふつうのうすいガラスが、光のすくないうす暗いところなどでは見にくいわけは、光をほとんど吸きゅ収うしゅうしないし、はねかえすことも、おれまがる度どあ合いもすくないからなんだ﹂
透とう明めい人にん間げんはむちゅうで、しゃべりまくっている。ケンプ博はく士しはあきれ顔をして、じっと相あい手ての声をきいていた。
﹁そのガラスをこなごなにして、水のなかに入れてみたまえ。たちまち見えなくなってしまうだろう。これは水とガラスは、光がおなじような具ぐあ合いにおれまがるからなんだ。これから考えをすすめてゆけば、なにもガラスを水すい中ちゅうに入れなくても、水の中に入れたとおなじように見えなくすることができるはずだろう﹂
ガラスと人にん間げん
﹁そうだ。しかし、人にん間げんはガラスとちがうからな!﹂
﹁そんなことはない。人間はガラスとおなじように透とう明めいだよ﹂
﹁そんなむちゃな話はないよ﹂
﹁むちゃな話ではないんだ。りっぱにすじみちのとおっている話だよ。人間だって血けつ液えきの赤い色と毛もう髪はつの色などをとりのぞけば、体からだじゅうが無むし色ょくで透とう明めいになってしまうんだ。ガラスとたいしてちがわないよ﹂
ケンプ博はく士しは透とう明めい人にん間げんのきばつな考えに、ただうなずくばかりだった。透明人間のことばはますます熱ねつをおびてきた。
﹁ぼくがこれを考えついたのは、ロンドンを去ってチェジルストウにいたときだ。今から六年ほど前のことになるがね。その時のぼくの先せん生せいのオリバー教きょ授うじゅというのは、じつに根こん性じょうのまがった男で、学がく者しゃのくせに学がく問もんや実じっ験けんに身を入れないで、世せけ間んのひょうばんや名めい声せいばかりに気をとられているのだ。だから、ぼくはだれにも秘ひみ密つで、研けん究きゅうをすすめていくことにしたのだ﹂
﹁だれの手もかりないで、きみひとりでかい?﹂
﹁そうだ。ぼくは研けん究きゅうが完かん成せいしたそのとき、ぱっと世せけ間んに発はっ表ぴょうして、一夜で天てん下かに名をとどろかせてやろうと考えたんだ。研究はおもうとおりに進んだ。そのうち、思いもかけない大発見をしたのだ。これはぼくの手がらではないんだ。ぐうぜんなことで、おもいがけないたまものが、さずかったというわけだ﹂
﹁ずいぶん大げさなんだね。いったい、どんな大発見なんだい?﹂
﹁きみ、おどろいてはいけないよ。ぼくは血ちを無むし色ょくにすることができるということを見つけたんだよ。血ちを無むし色ょくにすることができれば、人間を透とう明めいにすることができる、というわけだ。人間の体からだの血けつ液えきを透とう明めいにしてしまえば、体じゅうが透明になるわけだからな。そうなれば、ぼく自じし身ん、透明になることはわけないというわけさ。もちろん、そのために体からだに害がいがあってはなんにもならないが、その点てんは自じし信んがあったのだ﹂
﹁な、なんだって……なんということを考えだしたのだ。おそろしい人だね、きみは﹂
﹁おどろくのもむりはないよ。それを発見したぼく自身、しばらくの間は、ぼうぜんとしていたくらいだからね。ぼくはその夜のことを、いまでも、はっきりとおぼえているよ――。研けん究きゅ室うしつにいるのはぼくひとりで、ひっそりとしずまりかえっていた。ぼくはじぶんのこの発見にすっかり興こう奮ふんしてしまい、じっとしていられなくなった。窓まどをおしひらいて、夜よぞ空らにしずかにまたたいている星をみあげ、いくどか、おれも透とう明めいになれるんだぞと、くりかえしてつぶやいた。それでいくらか落ちつきをとりもどしたんだよ﹂
﹁そうだろうね。その気もちは、ぼくにもわかるようだが……﹂
﹁ねえ、きみ、考えてみたまえ。すがたを消けして思いのままをやるのは、人間の昔むかしからのあこがれだったじゃないか。おとぎ話のなかの魔まほ法うつ使かいとおなじになれるんだ。こんなすてきなことがあるだろうか。それをぼくがやりとげたんだ﹂
透とう明めい人にん間げんは、いきおいこんで話しつづけた。せきをきった水のように、とまることをしらぬようにさえ思われた。ケンプ博はく士しはしずんだようすで、かれの話に耳をかたむけていた。
﹁これで、ながい間、ばかな主しゅ任にん教きょ授うじゅに見はられながら、苦くし心んしたかいがあったと思ったね。田いな舎かの大学で頭のさえない学生をあいてに心にそまない授じゅ業ぎょうをして、毎日をみじめにすごしてきたぼくが、これはどの成せい功こうをしようとは、だれも考えなかったろう。しかし、この研究をかんぜんなものにするために、それからさらに三年の年月、むがむちゅうで研けん究きゅうをつづけたんだ。ところが三年たってみると、この研けん究きゅうを完かん成せいさせるには、どうしても金かねがたりないということに気づいたんだ﹂
﹁金かねが……﹂
﹁そうだ﹂
透とう明めい人にん間げんは吐はきすてるように言って、だまりこんでしまった。
研けん究きゅうの鬼おに
ケンプ博はく士しもだまりこんで、じっとナイト・ガウンだけの人にん間げんを見つめていた。
ながい間、なんの物音もしなかった。
ふと、透とう明めい人にん間げんが口をひらいた。
﹁金がなければ、ぼくの研けん究きゅうをつづけることはできない。やむをえず、おやじの金かねを盗ぬすんでしまったんだ……﹂
﹁おとうさんの金を盗んだって……きみが?﹂
﹁うん、ところがそのお金は、おやじのものではなかったんだ――。そして……おやじはそのために自じさ殺つをしてしまったんだ﹂
ケンプ博士は、くらい目つきで、透とう明めい人にん間げんをみつめた。
﹁ぼくのそのころ、チェジルストウの家をひきはらって、ロンドンのポートランド街がいにもどっていた。部へ屋やをかりてすんでいたんだ。おやじの金をぬすんで、いろいろな実じっ験けんにいるものを買いととのえたので、ぼくの研けん究きゅうは気もちがいいほど具合よくすすんでいったんだ﹂
ケンプ博士はうなずいた。そして心のなかで、
︵なんというつめたい男だろう。やつは研究の鬼おにになってしまったんだ。やつの心には、もうあたたかい人間の血ちが通っていないのかもしれない。おそろしいことだ︶
と考えていた。が、透明人間は博はく士しの心のなかのことなどは気にもかけず、
﹁おやじの葬そう式しきは風のつめたい、さむい寒い日だったよ。ぼくはおやじがさびしい丘おかの中ちゅ腹うふくにほうむられるのをみても、考えるのはただ研けん究きゅうのことばかりで、さびしいとも悲かなしいとも思わなかったんだ。葬そう式しきをすませてじぶんの部へ屋やにかえってきたときには、はじめて生きているかいがあると思ったよ。ぼくはむちゅうになって研けん究きゅうにとりかかった﹂
透とう明めい人にん間げんは、ふと口をつむぐと、くらい顔ですわりこんでいる博はく士しに、
﹁きみ、つかれたのかい? 顔いろがさえないようだ﹂
﹁いや、なんでもない。さあ、つづけたまえ。それからどうなったんだ﹂
﹁そのときすでに研けん究きゅうは、九分ぶどおりできあがっていたんだ。その大だい体たいのことは、浮ふろ浪うし者ゃがもち逃にげしたノートに、暗あん号ごうをつかって書いてある。あいつめ、おれのノートを取りやがって……どんなことをしてもとりかえしてやるぞ。うらぎったやつには、思いしらせてやる!﹂
透とう明めい人にん間げんはあの浮ふろ浪うし者ゃのことを思いだし、研究の話をするのもわすれて、さんざんにののしりはじめた。すると、博はく士しが、
﹁研けん究きゅうのほうのことをきかせてくれたまえ。そしてどうなったんだい?﹂
﹁ついに待ちのぞんでいた日がきたんだ。その日の実じっ験けんには白い羊よう毛もうを使ってみたんだ。実じっ験けんはうまくいって、白い羊毛がじっと息いきをころしてみつめているぼくの目のまえで、けむりのように色がしだいにうすくなり、やがて、すーっと消きえていってしまったんだ。その光こう景けいは、なんともいいようのないくらい、ぶきみなものだったよ﹂
﹁それで……﹂
﹁白い羊よう毛もうがすっかり消きえて、ぼくの目に見えなくなったときには、まるで信しんじられない気がしたよ。ぼくはそっと、羊よう毛もうをおいたあたりをさわってみた。すると、どうだ! やはり羊よう毛もうはまえとおなじ場所に、ちゃんとあるんだ。そのときのぼくの気もちといったら、うれしいような、気き味みのわるいような、変へんな気もちだったよ﹂
ケンプ博はく士しは口のなかで、そっとつぶやいた。
﹁信しんじられん話だが………うそではなさそうだ﹂
そして透とう明めい人にん間げんに、ひとやすみしないかと言いい、ポケットからたばこをとりだした。
透明人間は一本ぬきとると、火をつけて口にくわえた。と言っても、やはり空くう中ちゅうにたばこがういているように見えるだけである。
﹁つぎの研究には、ねこをつかったんだ﹂
﹁生きてるねこをかい?﹂
﹁もちろんさ。そのねこは階かい下かにすむ、ひとり者ものの老ろう婆ばのかわいがっているねこなんだ。ぼくは血ちのいろをうすめる薬くすりやらそのほかの薬やらを、苦くし心んしてそのねこにのませたんだ。そして薬くすりで、ねこを眠ねむらせておいた。ねこがつぎに目をさましたときには、羊毛とおなじように、けむりのようにきえていたんだ﹂
﹁ねこが透とう明めいになってしまったって……?﹂
﹁そうだ。もっともすこし失しっ敗ぱいしたところもあって、うまく消きえうせてはしまわなかったがね。うまくいかなかったところは、ひとみと爪つめだ。ねこは薬くすりをのませると同どう時じに、ひもでしばって逃にげださぬようにしておいたんだ。そのうちに気をとりもどして、起きあがったときには、からだはかんぜんに消きえ、ふたつのほそい目と爪つめだけが、部屋のなかにゆうれいのように浮ういていたんだ﹂
﹁ぶきみな話だ! それに、ねこがかわいそうじゃないか﹂
ケンプ博はく士しは、とがめるように言った。
﹁持もち主ぬしの老ろう婆ばが、ねこを探さがしにきて、﹃わたしのねこが、こちらにきているでしょう。たしかになき声がしていましたよ﹄と、がなりたて、部へ屋やの中をじろじろとのぞきこんだが、ねこはクロロフォルムでねむらせてあったので、見つかるはずはない。うさんくさそうになんどもながめまわしてから、やっとひきあげていったよ。おかしかったねえ﹂
﹁透とう明めいになってしまったねこは、その後ご、どうしたんだね﹂
﹁さあ、どうしたかね。透とう明めいになると、ひどくあつかいにくくてね。つかまえようとしてもつかまえることができない。そして、にゃあにゃあ、なきつづけているので、とうとう、うるさくなって、窓まどをあけてそとへ追いだしてやったよ﹂
﹁すると透とう明めいねこは、いまでもどこかをさまよっているというわけだね﹂
﹁生いきていればね。だが、おそらく死しんでいるだろう。目に見えないねこに、えさをやる人もいないだろうからね﹂
﹁そうか、かわいそうに……﹂
博はく士しは、なんにもないところに、ねこの丸まるいひとみがふたつ、みどり色にひかり、かなしそうに食べ物をもとめてなく声だけがきこえる光こう景けいを、ありありと思いうかべて身ぶるいした。
﹁ぶきみなことだ!﹂
グリッフィン透とう明めいになる
つぎに透とう明めい人にん間げんが話しだしたのは、いよいよかれ自じし身んの体からだが、どのようにして透明にかわっていったか、ということだった。
﹁一月のことだったよ。雪ゆきのふる前の日で、おそろしくさむい日だった。ながい研けん究きゅうのつかれがでたのか、気きぶ分んはすぐれず、いつものように実じっ験けんをつづける元げん気きもなかったんだ﹂
透とう明めい人にん間げんはつかれたようすもなく、また話しはじめた。
﹁四年の間、あけてもくれても、ただ研けん究きゅうを完かん成せいさせることだけを考えてくらしていたが、もともとわずかばかりしかなかった金は、ほとんど使いはたしてしまい、体からだもくたくたにつかれきると、なにをするのもいやになってしまった。ぼんやりと丘おかにのぼって子どもたちがあそんでいるのをながめていたが、そのうち、ぼくの体からだが透とう明めいになって人目につかなくなったら、こんなみじめな境きょ遇うぐうからぬけだし、いろいろときばつな、ゆかいなことができるのではないかと、考えたんだ﹂
﹁それできみは、体からだを透とう明めいにするおそろしい仕事にとりかかったのかね?﹂
﹁そうなんだ。ぼくは下げし宿ゅくにかえると、さっそく薬くすりの調ちょ合うごうにかかったんだ。そこへ前からぼくのことをうさんくさい目でみていた下げし宿ゅくのおやじが、文もん句くを言いにきたんだ。おやじは部屋じゅうをじろじろながめまわして、﹃あんたはいったいこの部へ屋やで、どんな仕事をしているんですかね、へんなにおいがしたり、夜っぴてガス・エンジンがうなったり……おかげで下げし宿ゅくじゅうの人にん間げんが、おちおち暮くらすこともできないではありませんか。人には言えねえ怪あやしげな研けん究きゅうでもやっているんじゃありませんか……とんだめいわくをかけられたら、たまったものじゃありませんからな﹄と、くどくどといつまでもいいつづけるので、ぼくはとうとうかんしゃくを起こして、﹃うるさい! でていけっ!﹄と、どなってやったんだ﹂
﹁らんぼうだね!﹂
﹁しかたがないさ。おやじは、ぼくにどなられると、かんかんになっておこりがした。ぼくはついにがまんしきれなくなって、おやじのえり首くびをつかむと、ドアのそとへ力ちからいっぱいなげだしてやったよ。これでぼくは、この下げし宿ゅくからもでてゆかねばならないことになってしまったんだ﹂
透とう明めい人にん間げんの着きているナイト・ガウンが、はげしくぶるぶるとふるえた。そのときのことを思いだして、もういちど腹はらをたてているらしかった。
﹁こんなわからずやのおやじがいては、とてもじぶんの研けん究きゅうをこのままぶじにつづけることはできない、とわかったので、ぼくはすぐにつぎの手しゅ段だんを考えだした。大いそぎで薬やく品ひんの調ちょ合うごうにとりかかり、それができあがると、夕ゆう方がたから夜にかけて、ぼくは体からだを透とう明めいにするその薬くすりをのみつづけたんだ――﹂
ケンプ博はく士しは、そのとき口をもぐもぐさせて、なにか言いかけたが、そのまま、透とう明めい人にん間げんの話をだまってききつづけた。
﹁夜ふけになったとき、薬くすりのために、ぼくはたまらないほど気もちがわるくなってしまった。いすにぼんやりと腰こしかけていると、だれかがドアを力いっぱいたたくんだ。ぼくは動く気がしないので、ながいあいだ放ほうっておいたが、どうしてもノックをやめないんだ。たまりかねてドアをあけると、下宿のおやじが立っていて、なまいきな態たい度どで一枚の紙きれをさしだしたが、ひょいとぼくの顔をみると、目めだ玉まがとびでるほどおどろいて、紙かみきれをその場にほうりだして、ころがるように逃げていったよ﹂
﹁どうしたというのだい? そのおやじは……﹂
﹁ぼくも鏡かがみをみるまでは、わけがわからなかったんだ。が、おやじが逃にげだしてから、鏡をみて、やっと、やつのふるえあがったわけがわかったよ。ぼくの顔がまっ白にかわっていたんだ。すきとおるほど白くね﹂
﹁白く?………﹂
﹁そうだ。予よ期きしたようにね。それから夜あけまでの苦くるしみは、ぼくも予期しなかったことなんだ。皮ひ膚ふはもえるように熱あつくなり、体からだじゅうが、かっかっとほてって、その苦しさときたら、いまにも気きぜ絶つして、それっきり死んでしまうかと、たびたび思ったほどだった。歯はをくいしばってがまんしたが、うめき声はひとりでに高くなり、ついにぼくは気きぜ絶つしてしまったんだ﹂
ケンプ博はく士しは、おそろしさに身ぶるいしながら、心のなかで、
︵やつの魂たましいは悪あく魔まにみいられているにちがいない。でなければ、ふつうの人にん間げんに、そんなおそろしいことがたえきれるはずがないんだ︶
と、思っていた。透とう明めい人にん間げんは、じぶんの話にすっかりむちゅうになって、博はく士しのことなどわすれてしまっているようだった。
﹁こんど気がついたときは夜あけだったよ。はげしい苦くるしみはやんでいたが、ひどい疲つかれでくたくたになっていた。明けがたの光が窓まどからさしこんだとき、ぼくはじぶんの手をみて、おどろきとよろこびといっしょになった、言いようのない声をあげたんだ。なぜって――両手がくもりガラスのような色になってたんだ。そして、じっと見つめているうちに、両手はどんどん透きとおって、夜がすっかり明けきったころには、まったく透とう明めいになってしまったんだ﹂
﹁両りょ手うてといっしょに、体からだじゅうも透とう明めいになったのかい?﹂
﹁もちろんだ。一番さいごまで色が残っていたのは爪つめだったね。じぶんで決けっ心しんしてやったことだが、こうして成せい功こうして全ぜん身しんが透とう明めいになってしまうと、さすがのぼくも、たいへんなことをやったなと、心おだやかでなかった。もう一度ベッドにもぐりこんで、昼ひるちかくまでゆっくり眠ねむって元げん気きをとりもどすと、研けん究きゅうに使った機きか械いや道どう具ぐを二度ともとにできないように、めちゃめちゃにしておき、ここからでていくじゅんびに取りかかった。﹂
﹁なぜ機きか械いをこわしたんだい?﹂
﹁ほかの者に、ぼくの研究をかぎつけられないためさ。そこへまた夜のあけるのをまちかねた下げし宿ゅくのおやじが、くっ強きょうな若わか者ものを二人もつれて、﹃化ばけものやろうめ、きょうこそは、なにがなんでも追いだしてやるからな。腕うでづくでも追っぱらう気なんだ﹄といきまきながら、ドアをおしやぶってはいってきた。ぼくは、入れちがいにそとへでていったよ。もちろん、やつらはすこしも気づかなかった。部へ屋やのなかにぼくの姿すがたがみえないので大さわぎをしていたよ﹂
そこで透とう明めい人にん間げんはおかしそうに、くっくっくっとふくみ笑わらいをして、また話しだした。
﹁やつらがぼくの部へ屋やをひっかきまわしてさわいでる間に、ぼくは、おやじの部へ屋やにもぐりこんでようすを見ていたんだ。さわぎはだんだん大きくなって、下げし宿ゅくの人にん間げんはひとり残のこらず、そのうえ出で入いりの商しょ人うにんたちまでがぼくの部へ屋やにはいりこんで、実じっ験けんの機きか械いや薬やく品ひんをいじりはじめたんだ﹂
﹁それで……﹂
﹁ぼくはそのようすを見ながら、ふと、﹃こいつらのように無むが学くなやつどもがさわいでいる間はよいが、そのうちに学がく問もんのあるやつがこれを見にきて、ぼくの研けん究きゅうをかぎつけるようなことになるかもしれない﹄と考えたんだ﹂
﹁だってきみは、機きか械いをこわしておいたんだろう?﹂
﹁そうだ。だが、それで安心はしていられないよ。そこで永えい久きゅうにぼくの研けん究きゅうを秘ひみ密つにしておく方法を考えだしたんだ﹂
﹁どんな方法だい? そんなことができるのかい……﹂
﹁完かん全ぜんな方ほう法ほうだよ。ぼくは、ぼくの部へ屋やでさわいでいた連れん中ちゅうがすっかりひきあげると、そっと、おやじの部屋から、ぼくの部屋にひきかえして、そのへんにある書しょ類るいや紙かみくずを山とつみあげ、マッチをすって、火をつけてやった。燃もえあがるのをみて、その上にふとんやいすをつみかさね、さいごにゴム管かんをひっぱって、ガスをふきださせたんだ。ガスはすぐに燃もえあがり、たちまち、ふとんもいすもめらめらと火ひをふきだした。ぼくは、そこまで見とどけると、そっと玄げん関かんから、街まちへしのびでていったよ。いやな下げし宿ゅくにおさらばしてね﹂
﹁それじゃあ、きみは、放ほう火きしてきたというのかい?﹂
﹁そうさ。それよりほかに、ぼくの研けん究きゅうを永えい久きゅうに秘ひみ密つにしておける方法があるかね? ないだろう﹂
博はく士しには、そのときの透とう明めい人にん間げんの声が、地じご獄くのそこからきこえてくる悪あく魔まの声のようにおもえた。
街まちにでた透とう明めい人にん間げん
﹁街まちへふみだしてみて、ぼくははじめて透とう明めいになったことをゆかいに思ったよ。ぼくがうしろから、通つう行こう人にんの帽ぼう子しをはじきとばしたり、肩かたをぽんとたたいたら、そいつはどんなにおどろいた顔をするだろうかと思うと、まったく考えただけで、ふきだすほどうきうきしてきたんだ。ぼくは街まちをあちこちと気ままに歩いていった。ところが、夕ゆう方がたちかくなると、ぼくはすっかり弱よわってしまった。よくはれたあたたかい日だったが、一月になったばかりだもの、まっぱだかではたまったものではないよ。ぼくは歩きながら、がたがたふるえどおしだった﹂
﹁はっはっはっ、いくら透とう明めい人にん間げんになっても、人間はやはり人間だよ。ま冬ふゆにはだかでいられるものか﹂
ケンプ博はく士しは、はじめて気き味みよさそうに笑い声をたてた。
﹁笑わらいごとじゃないよ。日がかたむきかけてくるにつれて、寒さむさはいっそうひどくなった。ちょうどブルームズベリイ広ひろ場ばをぬけようとしていたときだ。ぼくは大きなくしゃみをひとつした。まわりにいた人たちが、いっせいにふしぎそうにあたりを見まわした。とたんに、近よってきた白い犬いぬが、ぼくをかぎつけたのか、わんわんとほえたててとびかかってきたんだ﹂
﹁透とう明めいになっていても、犬にはわかったのだろうか?﹂
﹁犬にはわかるらしいね。かぎつけるんだ。いまいましい話だが、それからぼくはラッセル広ひろ場ばまで犬に追われて、力のかぎり走りつづけたよ。ラッセル広場には、まだ人だかりがしていた。犬からのがれてほっとしたのもつかのま、また、つぎの災さい難なんがふりかかってきたんだ﹂
﹁つぎの災難っていうのは、どんなことだったのだい?﹂
﹁こんどは子どもに見つけられたんだ。もちろんぼくの姿すがたを見つけるはずはない。ぼくはつかれはてていたので、ひと休やすみしようと思って、博はく物ぶつ館かんのまっ白な階かい段だんをのぼっていったんだ。その近くで子どもたちが幾いく人にんも遊んでいたよ。そのひとりがふいに大声でさけんだんだ。
﹃あっ、みてごらん! おばけの足あとだよ。ほらほら、はだしの足あとが階かい段だんにつぎつぎとついてるよ。おかしいなあ――だあれも登のぼっていってないのに、足あとだけがくっついているよ﹄この声をきいた時には、ぼくはぎょっとして、どうしていいか、わからなくなってしまったね。進めば足あとがつくし、立ちどまっていれば、だれかがつかまえにあがってくるだろう。このときのぼくの気もちをさっしてくれたまえ﹂
﹁それで、どうした?﹂
﹁そのうち、子どもの声で、やじ馬うまがぞろぞろと集まってきだした。こうなっては逃げるよりほかはない。足あとがつこうが、そんなことにかまっていられなくなって、ぼくは、すぐそばでまごまごしている若い男をつきとばすと、いちもくさんにかけだした。やじ馬たちはわけもわからず、ただ足あとをたよりにわいわいと追っかけてきたんだ﹂
﹁とんだ災さい難なんにあったものだな﹂
﹁まったくだ。なんども街まちかどをまがって、めくらめっぽう逃にげていくうちに、足のうらのぬれていたのが乾かわいてきて、足あとがはっきりつかなくなってきた。しめたと思って、物かげにかくれ、足のどろをすっかりはらい落として、ゆっくりと休やすみ場ばし所ょをさがして歩きだしたんだ追っかけてきたやつらは、うすくなって、ついに消えてしまった足あとをさがして、その辺へんをうろうろしていたよ﹂
﹁やれやれ、透とう明めいになっても、いいことばかりじゃないね﹂
﹁それはそうだ。だが、もちろん、すてきなことだってあるからね。かけまわっているうちに体はぽかぽかあたたまってきたが、すっかり風か邪ぜをひいたらしく、しきりにくしゃみがでるのには閉へい口こうしたよ。落ちついてみると、ぼくの下げし宿ゅくのある街まちにきてたんだ﹂
透とう明めい人にん間げんは、ケンプ博はく士しになにもかも話してしまうつもりらしく、いっしんに話しつづけている。博士は、なにか、落ちつかないようすだが、それでも、じっとかれの話をきいていた。
﹁そのうち往おう来らいの人たちが、きゅうに、なにかさけびながら、いっさんにかけだしていった。人にん数ずうはつぎつぎにふえてゆき、やがて火事だとわかったときには、どうもぼくの下げし宿ゅくのあたりと思われる方ほう向こうから、もくもくとまっ黒な煙けむりがすごいいきおいで、電でん話わせ線んとかさなりあった家のむこうに見えてきたんだ。それをみて、ぼくは、ほっとしたね。これでぼくの秘ひみ密つは安あん全ぜんだ――そう考えると同時に、なにか新しい勇ゆう気きがわいてくるような気がしたんだ﹂
透とう明めい人にん間げんは、一気にここまでしゃべってきたが、なにを思ったか、いすにふかぶかと身をしずめて、だまって考えこんだ。
ケンプ博はく士しは、ちらりと窓まどのそとに、すばやい一べつをなげ、だまってすわっていた。
うらぎられた透とう明めい人にん間げん
透とう明めい人にん間げんの秘ひみ密つ
﹁透とう明めい人にん間げんになるということは、はじめぼくが考えたほど、すばらしい、ゆかいなものではなかったんだ。寒さむいからといって服ふくをきれば、透明人間でいることができなくなる。透明人間でいようと思えば、寒くても服ふくをきることができなくなるばかりか、もっとこまることが起こってきたんだ﹂
しばらくだまっていた透明人間は、ゆっくりと話しだした。
﹁はだかでいるより、もっとこまることというと、どんなことだい?﹂
ケンプ博士は、つかれてしまっていたので、気のりのしない調ちょ子うしできいた。
﹁おそらく、きみには想そう像ぞうもつかないことだろう。透とう明めいでいるために服をきないでいると、食べ物を口に入れることができないんだ。なぜって、考えてみたまえ……ぼくがはだかのままでパンをたべるとするね。パンはぼくの口にはいったときから、のどをとおり、胃いにとどき消しょ化うかしてしまうまで、人の目にさらされてしまうのだ。体からだの中にはいった食べ物がそのまま空くう中ちゅうに浮ういてみえるなんて、考えただけでもぞっとすることだろう。ぼくはそんなことになるのはいやだ。が、そうすれば、ぼくはいくら腹はらがすいていても、パンひとかけ口にすることができなくなるんだ﹂
﹁なるほど、そこまではぼくも考えつかなかったよ。そうすると、透とう明めいになるのも考えものだね﹂
﹁もちろん、こまることもあればいいこともある。けれども新しい生せい活かつにふみだしたいじょうは、いやでもやりぬくほかはないんだ。いまとなっては身みをよせる家もなければ、たよりにする人もない。働はたらいて金かねをもうけ、その金で楽しくくらすなどということは、夢ゆめにも思えない身の上になってしまったんだ﹂
透とう明めい人にん間げんの声は、しみじみとさびしそうだった。
ケンプ博はく士しも、さすがにかれの変わった境きょ遇うぐうに同どう情じょうして、
﹁それできみは、それからどうしたんだい?﹂
﹁どうするといって、ぼくは道のまん中につっ立ったまま、どうしていいかわからなくなってしまったんだよ。雪ゆきははげしく降ふりだし、寒さと空くう腹ふくはたまらなくぼくをせめたてるんだ。ぼくはただ雪の中からのがれて、屋や根ねの下でゆっくりとやすんで、腹はらいっぱい食べたいと、そればかり考えていたよ﹂
﹁そうだろうね。で、それから……﹂
﹁そのうえ、これこそ思いもかけなかったことだが、雪の中にじっとしていると、体からだに雪がつもって、たちまち、ぼくの体のりんかくがぼーっと浮かびあがってくるんだ。これにはまったくへいこうしたね。ぼくは身をきるような北きた風かぜが、雪といっしょに吹きつけてくる道を、あてどもなくさまよいつづけたんだ﹂
﹁なぜどこかの家の物おきへでも、もぐりこんで、雪の中を歩きまわることからだけでもまぬがれなかったんだ。食べ物にありつくことはできなくても、寒さむさだけはいくらかしのぎやすいのではないか?﹂
﹁ぼくだって、それは考えたんだ。ところがロンドンじゅうの家という家は一いっ軒けんのこらずドアをしめ、鍵かぎをかけているので、いくらぼくが透とう明めい人にん間げんでも、もぐりこむすきさえなかったんだ。だがぼくはそのとき、ふいにすばらしいことを考えついたんだよ﹂
透明人間は、そのときのことを思いだしたのか、いきいきとした声になって、
﹁デパートのなかにもぐりこめば、ぼくのほしい物はなんでも手にはいる。それにデパートならはいるにもでるにも、なんの苦くろ労うもないし、どうして早くこのことに気がつかなかったかと思ったね。ぼくはすぐ、ぞろぞろとひっきりなしに客きゃくが出入りしているデパートにもぐりこみ、閉へい店てんするのをまっていたんだ。やがて店がしまって店てん員いんたちがでていってしまった。店の品しな物ものはすっかり片づけられ、灯ひはけされて、あれほどにぎわっていたデパートも、しーんとなってしまった。ぼくはうす暗ぐらくなった店の中をわがもの顔がおで歩きまわって、下した着ぎやくつ下などの売うり場ばから、ふかふかしてあたたかそうな下着やくつ下をとりだして身につけた﹂
﹁ほっとしたろう﹂
﹁きみの言うとおりだよ。服ふく装そうをすっかりととのえおわり、体からだがあたたまってくると、こんどは地ちか下し室つの食しょ堂くどうにおりていって、そこに残っていた肉にくやパンやチーズを、いやというほどつめこんだんだ。おまけにおいしい果くだ物ものや菓か子しまで食べられるのだから、まるで天てん国ごくのようだったよ。体からだもあたたまり、腹はらごしらえもできると、にわかに眠ねむくなったんだ。さっそくふとんの売うり場ばのふかふかした羽は根ねぶとんの山の上によこになり、めずらしくのびのびとした気分でねむりに落ちていったのだ﹂
﹁まるでおとぎ話にでもでてきそうな話じゃないか……﹂
﹁ここまではよかったんだ。だが、朝になるとおもしろくないことがもちあがったんだ。目がさめたときには、すっかり夜があけ、明るい太たい陽ようがさしこんでいて、出しゅ勤っきんしてきた店てん員いんの話し声や掃そう除じをする音がきこえていた。あわててしまったぼくは羽は根ねぶとんの山をすべりおりて、どこから逃げたらいいかと、あたりを見まわしたとたん、羽根ぶとんの山が音をたててくずれおちたんだ。あっと思ったぼくは、思わず横っとびにかけだすと、目ざとい店てん員いんのひとりが、大声で、﹃あっ、首くびのない人にん間げんがいるぞ! あやしいやつだっ!﹄とさけんだんだ﹂
﹁そりゃあ、きみ、店員だって、さぞやびっくりしたろうさ﹂
ケンプ博はく士しは、ものかげから走りだした首くびのない人間を見つけた店てん員いんたちのようすを思いうかべて、デパートじゅうがひっくりかえるさわぎになったろうと考えていた。
﹁ここでつかまってはたいへんだと思ったので、死にものぐるいで逃げまわったんだ。逃げるにつれて、きれいにかざられてあった花びんがぶつかりあってくずれ落ちる、電気スタンドがころがる、おもちゃの山がくずれる、さいごに食しょ堂くどうをかけぬけて、ベッドの売うり場ばから洋よう服ふくダンスのならんでいるところへ逃げこんで、そのかげで、着ているものをすっかりぬぎすてて、もとの透とう明めいな姿すがたになって、追おっ手てにつかまるのをまぬがれたんだ﹂
﹁やれやれ、苦労をするではないか……﹂
﹁こんなわけで、せっかく手にいれた服はすっかりぬぎすててしまったので、ぼくはもとのはだかで、ふたたび雪のふる街まちへさまよいでなくてはならなくなってしまった。ぼくはデパートをそっとしのびでると、むやみに腹はらがたってたまらなかった。
しかし腹をたててみても、どうにもなるものではなし、ぼくはまえと同じように寒さむさとうえになやまされだしたのだ﹂
﹁けっきょく、うえをしのいで、たっぷり眠ねむれたというだけだったのだね。それでもいいではないか……﹂
﹁ちっともよくないよ。ぼくが一番のぞんでいるのは、服を手にいれることなんだ。服を身につけ、帽ぼう子しをかぶり、マスクでもつければ、どうやら人ひと前まえをごまかして、暮くらしていけるのではないかと思ったんだ。ぼくはついにロンドンのはずれのうすぎたない横よこ町ちょうにある古ふる着ぎ屋やにしのびこんで、ほしい物を手に入れ、できればお金かねもついでに手にいれることにしたんだ﹂
﹁金も手に入れるというのか?﹂
﹁そうだ。この古ふる着ぎ屋やでも、いくども見つかりそうになって、ひやひやしたよ。おやじというのは、かわった男で、おそろしく耳がするどくて、ぼくのかすかな足音をききつけ、﹃どうもおかしい、だれかこの家にしのびこんでるにちがいない﹄と、ひとり言ごとをいうと、ピストルを片かた手てに家いえ中じゅうをぐるぐるまわりはじめたんだ。おかげでぼくは古ふる着ぎの山を目のまえにみながら、どうすることもできなかったのだ﹂
透とう明めい人にん間げんは、その男のことを思いだしたのか、急きゅうにいらいらした口ぶりになって、
﹁いやな男だったよ。うたがい深ぶかくておく病びょうで、しまいには家じゅうのドアにも窓まどにも、かぎをかけはじめたんだ。ぼくがどこからも逃にげることができないようにしておいて、ピストルで射うちとろうとしたんだ。ぼくはそれを知ると、かっとなってしまった。こんなやつに射うたれてたまるものか、ぼくは階かい段だんをおりかけていたおやじのうしろにせまると、いきなり、古いすをふりあげて、やつの頭をちからまかせになぐりつけてやった﹂
﹁頭をなぐったって! なんてらんぼうなことをするんだ。古ふる着ぎ屋やはきみになぐられるようなことをなにもしていないよ……考えてみたまえ﹂
﹁らんぼうする気はなかったんだ。ただ、ぼくはその古ふる着ぎ屋やで服をきて、すがたをととのえなくては、こまるんだ。それだのにおやじは、ぼくを追おいまわして、ピストルで射うつつもりなんだから……。ぼくは追いつめられて、心ならずも乱らん暴ぼうをはたらいたというわけなんだ。おやじは物もいわずに、その場にたおれたので、手もとにあった古ふる着ぎでぐるぐるまきにしばりあげ、さるぐつわをかませた。そして、ぼくは手ばやく服を身につけ、だいどころにいって、たらふくパンとチーズをたべ、コーヒーをのんでから、帽ぼう子しをまぶかにかぶり、マスクをつけた。ちょっと見たぐらいでは、透明人間だと気づかれないように身じたくをととのえて、ゆうゆうとその古着屋をでてきた﹂
﹁で、きみはおやじをそのまま、ほうりっぱなしにしてかい?﹂
博はく士しは顔いろをかえてさけんだ。透とう明めい人にん間げんはおちつきはらって、
﹁もちろんだよ。あとでやつは、さんざん苦くし心んして自じゆ由うの体からだになっただろう。そうとうきつくしばってやったからな﹂
博はく士しはしばらく思いなやんでいるようすで、青きめた顔をうつむけて考えこんでいたが、
﹁それできみは、やっと人なみの生せい活かつができるようになったのだね﹂
と、ほそい声でいった。
﹁いや、人目の多いロンドンでは、やはりうまくいかなかったよ。食事をしようと思えば、どうしても透とう明めいなぼくの顔を給きゅ仕うじ人にんや、客きゃくの目にさらさないかぎり、肉のひときれも口にいれられないんだ。透明人間なんて、ほんとうに情なさけないものだよ。人目をおそれて、いつもびくびくしながら暮くらさなくてはならないんだからね﹂
﹁で、アイピング村へは、どうしていったのだい?﹂
﹁研けん究きゅうをつづけたくていったんだよ﹂
﹁研究をつづけるためにだって? だってきみの研究は完かん成せいして、望のぞみどおり透とう明めいになったじゃないか……﹂
﹁しかし、きみ、考えてくれたまえ。体からだが透とう明めいになったおかげで、ぼくはほかの人にん間げんが持つことのできない力をもつことができるようになった。だが、そのかわり、ぼくは何もかも失うしなってしまったんだ。科かが学くし者ゃとして名をあげてみても、ぼくの姿すがたがみえないのでは、どうにもしようがないだろう。あたたかい家かて庭いをつくって楽しく暮らすことも、友だちとゆかいに話しあうことも、永えい久きゅうにできなくなったのだ。ぼくはたったひとりぽっちで暮らすほかはなくなったのだ。ただ、たったひとつの望のぞみは、もとの体からだにかえることができる薬くすりを発はっ見けんしたいということなんだ。その研けん究きゅうのために、しずかなアイピング村へいったわけだよ﹂
﹁なるほど、そんなわけだったのか……﹂
博はく士しは、ナイト・ガウンの化ばけもののような透とう明めい人にん間げんをみつめた。そこに友人のグリッフィンがいる。かれはながい間、胸にたまっていた思いをケンプ博はく士しにうちあけて、ほっとしたのか、ゆったりといすに腰かけて、たばこに火をつけた。
悪あく魔まと天てん使し
﹁ところで、きみはこれから、どうするつもりだい? なんのために、このバードック町にやってきたんだ?﹂
はじめに下げし宿ゅくで放ほう火か、つぎに、古ふる着ぎ屋やでおそろしい殺さつ人じんをやりかけている。よくもわずかの間に、とんでもないことを仕し出でかしたものだと、むかしの友人のかわりはてた異いよ様うなすがたをながめながら、ケンプ博はく士しがたずねた。
﹁うん。ぼくがここにきたのは、国こく外がいにのがれたかったからさ。はだかで暮らすのには、イギリスはまだ、寒さむすぎるよ。洋よう服ふくをきればすぐ人にあやしまれて、追いまわされるし、ぼくは、もっと暖あたたかい地方へいってしまいたいと思って、この港みな町とまちへきたのだ﹂
﹁それで?﹂
﹁ここからは、フランス行きの便びん船せんがでる。フランスへわたり、汽きし車ゃでスペインへいって、そこからアフリカのアルジェリアへいくつもりだ。アルジェリアなら、姿すがたをけしてはだかで暮らしても、いっこう寒さむくはないだろうからね﹂
﹁アフリカにいくのか?﹂
﹁そうだ。ぼくの秘ひみ密つがしれてしまったからには、もう、どうしようもない……。ところが、それには、ぼくひとりではやれないのだ。ぼくが荷にも物つをもって歩くわけにはいかない。そうすると、このまえの金きん貨かが空くう中ちゅうをとぶような騒さわぎになって、すぐ、大さわぎになってしまうんだ。そこで、あの浮ふろ浪うし者ゃをやとったんだが、だいじな研けん究きゅうノートと金かねをもって、にげてしまった﹂
﹁浮浪者は警けい察さつにいるよ﹂
﹁えっ、あいつが……﹂
透とう明めい人にん間げんが、すっくと立ちあがった。
そのとき、玄げん関かんのベルがなった。
ベルの音をききつけると、透とう明めい人にん間げんはケンプ博はく士しから二、三歩とびさって、
﹁あれは、なんだ?﹂
と、するどく言いはなった。
﹁なにも聞こえないが……﹂
﹁いや、二階へあがってくる足音だ﹂
﹁気のせいだよ﹂
警けい官かんがきたことを、あいてにさとられまいとして、ケンプ博はく士しは、おだやかに言った。
﹁ちょっと見てくる﹂
博士がとめようとしたが、透とう明めい人にん間げんはドアに近づいていった。
すると、博士がドアを背にして、その前に立ちふさがった。
﹁なんだ、きみは! じゃまをするのか﹂
入口に近づけまいとする博はく士しから、ぱっと跳とびのいて、透明人間は身みがまえた。
﹁おれをだましたな!﹂
その声は、怒いかりにふるえていた。
﹁警けい官かんをよびやがって、よくも裏うら切ぎったな……裏切り者め!﹂
透とう明めい人にん間げんはガウンの前をひらくと、すばやく、下に着ているものを脱ぬぎはじめた。
この男を、この部へ屋やから外に出してはならない。博士はドアを後うしろ手でに開いて廊ろう下かにとびだし、バタンと閉しめた。カギがない。透明人間が内うち側がわから開けようとして、博士がにぎる把とっ手てをひねった。その力は、ものすごく強かった。博士はドアを開けさせまいとして、奮ふん闘とうした。ドアのすき間まからガウンの腕うでがのびた。博士はのどを絞しめつけられ、把手をはなした。博士はガウンの怪かい物ぶつに突きとばされた。
博はく士しからの手紙で、いそいで駆かけつけた、バードックの警けい察さつ署しょ長ちょうアダイ警けい部ぶは、玄げん関かんからホールを通って階かい段だんをのぼりかけたところで、目に見えない怪物と戦っている博士を見て、立ちすくんでしまった。
﹁なんだ?﹂
怪かい物ぶつと戦う博はく士しは、倒されたり起きあがったりしながら、二階の廊ろう下かから階かい段だんのおどり場へのがれてきた。怪物のガウンが宙を飛んできて、博士におそいかかって倒した。目の前のできごとに、びっくりしている署しょ長ちょうを、ガウンの化ばけものかなぐり倒した。
起きあがろうとする署しょ長ちょうを、怪かい物ぶつは階かい段だんから下にけり落として、動けなくしてしまった。階かい下かには応おう援えんの警けい官かんが二人いた。二人はあわてて、宙ちゅうを飛ぶガウンを追いまわした。追いまわすうち、ガウンは一階のホールの天てん井じょうへパッと舞まいあがったかと思うと、落ちてきて、そのまま、へなへなっと動かなくなった。
玄げん関かんのドアが、人ひと影かげもないのに開いて、バタンと閉しまった。
署しょ長ちょうは起きあがったが、顔をしかめて、また、へなへなとすわった。そこへ、透とう明めい人にん間げんとの格かく闘とうで傷きずだからけの顔となった博はく士しが、ふらふらになって階かい段だんを降りてきて、くやしそうに言った。
﹁しくじった。にげてしまった﹂
大だい捜そう査さじ陣ん
透とう明めい人にん間げんがあばれまわるのを見ただけでなく、したたかになぐられ、階かい段だんからけり落とされて動けなくなるほどの目にあいながら、アダイ署しょ長ちょうは、なおも信じられないという顔をしていた。
そんな顔の署しょ長ちょうに、血ちだらけの腫はれあがった顔のケンプ博はく士しが、ぐずぐずしてはいられないと、せきこんで言った。
﹁あいつは気がくるっている。このまま逃がしておいたら、どんなひどいことをしでかすか、わかりませんよ。けさも、これまでにやってきたことを、得とく意いになって話すんですからね。あきれたもんです。署長! あの男はもう、かなりたくさんの人を傷きずつけています。これからもっと暴あばれまわって、町や村のひとたちを恐れさせてやるんだと話していました﹂
﹁かならず逮たい捕ほしてみせます﹂
署しょ長ちょうがこたえた。
﹁大だい至しき急ゅう、警けい官かんの非ひじ常ょう召しょ集うしゅうをおこなって、この町から透とう明めい人にん間げんがにげだせないようにすることです﹂
﹁こころえています。さっそく召集して、道という道に見はりを立てて、あの怪かい物ぶつがにげられないようにしましょう﹂
﹁汽きし車ゃや船ふねに乗って、逃げられないように、駅えきや港みなとにも見はりをつけてほしいですな。あの男は、かけがえのない物と考えているノートを取りもどすまでは、この町をはなれないと思います。その浮ふろ浪うし者ゃのトーマスは、警けい察さつに保ほ護ごしてあるんでしょうな﹂
﹁ぬかりはありませんよ、博はく士し! そのノートのことも﹂
﹁透とう明めい人にん間げんをつかまえるには、食しょ物くもつをあたえないことです。ねむらせないことです。この二つのことを実じっ行こうすることです﹂
﹁なるほど﹂
署しょ長ちょうがうで組ぐみしてうなずいた。
﹁たべものは手のとどかないところにしまっておき、透明人間が家の中にはいれないように、町じゅうの家が、戸とや窓まどにカギをかけておくことです﹂
﹁さっそく署しょへもどって、作戦を立てるとしましょう﹂
署長は立ちあがって、博士といっしょに歩きながら話をきいた。
﹁やつは食しょ物くもつをのみおろすと、消しょ化うかするまでは体の中のものが見えるので、しばらくは、どこかに隠かくれてやすまねばならんのです。ここが、こちらのねらいです。それと、犬をですな……犬を、できるだけたくさん、かり集めることです﹂
﹁ほほオ、透とう明めい人にん間げんは犬には見えますかな﹂
﹁見えないことは、われわれ人間とおなじですが、犬はにおいで嗅かぎつけるんです。これは透明人間が、犬にかみつかれて弱ったと、じぶんで話してたことですから、まちがいありません﹂
﹁名めい案あんですな。ハルステッド刑けい務むし所ょの看かん守しゅたちが知ってる男に、警けい察さつ犬けんを飼かっておる男がいるそうですから、さっそく手ては配いしましょう﹂
こうしている間に、博はく士しの屋やし敷きからにげだした透明人間が、なにをしでかすか知れないと思うと、ケンプ博士は気が気でなかった。
﹁透とう明めい人にん間げんのもう一つの弱いところは、凶きょ器うきを持ってあるけないことです。鉄てつ棒ぼうとかナイフとか、太いステッキのような物は、手ごろの武ぶ器き……つまり凶器になりますが、あの男がこれらの物を手にして歩くと、鉄棒やナイフが宙ちゅうを浮いてうごくことになるので、すぐ気づかれてしまいます。ですから、やつが凶器を持ってあるく心しん配ぱいはありませんが、凶器につかわれそうな物は、どの家でも、かくしておくように知らせてもらいたいのです﹂
﹁ごもっともな意いけ見んです。その方ほう針しんで、かならず逮たい捕ほしてみせます﹂
アダイ署しょ長ちょうはこたえた。
﹁もう一つ、だいじなことがあります﹂
﹁なんです?﹂
﹁ガラスの破はへ片んを道どう路ろにまきちらすのです。透とう明めい人にん間げんは、はだかで、はだしで歩いていますから、これは効ききめがありますよ。すこし残ざん酷こくなやりかたですが、そんなことは言っておられませんので﹂
﹁スポーツマンシップに欠かけるようですが、お考えどおり、ガラスの破はへ片んをよういさせましょう。目に見えない怪かい物ぶつに、あばれられては大たい変へんですからな﹂
﹁あの男は、むかしのグリッフィンとは人が変わってしまった。けだものになって、気がくるっているのです﹂
博はく士しはアダイ署しょ長ちょうがよんだ辻つじ馬ばし車ゃに乗って、署長といっしょにバードックの警けい察さつ署しょにいそいだ。
石いし切きり場ばの殺さつ人じん
ケンプ博はく士しの家をとびだしてからの透とう明めい人にん間げんのゆくえは、どこに行ってしまったのか、さっぱりわからなかった。
港みな町とまちポート・バードックの人びとは、その日の朝のうちは透明人間の話もうわさにすぎなかったものが、午後になると、ほんものの怪かい物ぶつが町にあらわれたと知って、大さわぎになった。
なにしろ人の目に、その姿かたちが見えないのである。道をあるいていて、いきなりなぐられても防ふせぎようがない、というのだ。音もなく家に忍びこまれても、これまた、見えないのだから、どうしようもない。町の人は不安にかられていた。げんにその朝、道で遊んでいた子どもの一人が、いきなり何者ともしれないものに突きとばされて、ケガをしている。その場にいあわせた子どもたちは、友だちを突きとばしたものを、だれも見ていないのだ。
透とう明めい人にん間げんの危きが害いから町の人を守るには、怪かい物ぶつを捕とらえることである。そのための警けい察さつの手ては配いは着ちゃ々くちゃくとすすみ、おもったよりはやく、町のこれぞと思うところに、警官が動どう員いんされていた。
騎きば馬じゅ巡ん査さが町をねり歩いては、戸とじ締まりをげんじゅうにするよう、家々によびかけた。小学校は午後三時には授じゅ業ぎょうをうち切って、児じど童うを帰きた宅くさせた。町の人は、三人四人と組んで自じけ警いだ団んをつくり、鉄てっ砲ぽうやこん棒ぼうをもって警けい戒かいにあたった。港みなとの船ふな着つき場ば、汽きし車ゃの停てい車しゃ場ば、おもだった道の出入り口。バードックの町を中心にして三〇キロの半はん径けいの円にはいる地ちい域きの町や村が、透明人間の出しゅ没つぼつにそなえたのである。
透とう明めい人にん間げんにたいする注ちゅ意うき書がきが、ケンプ博はく士しとアダイ署しょ長ちょうの名をそえて、町のいたるところに貼はりだされた。食しょ物くもつをとらせないこと、眠る場所をあたえないことなどが、書かれてあった。警けい戒かいは万ばん全ぜんであった。
ところが、透明人間のゆくえは、どうなったのか。その日の朝、遊んでいる子どもを突きとばして、ケガをさせたのは、たしかに透明人間のしわざにちがいないが、それから先、どこへ行ったのか、音さたないのである。
ポート・バードックの町のうしろは、高こう原げんになっている。その遠くまでつづく高原には森もある。透とう明めい人にん間げんはおそらく、その森で、ひと休みしているのではないかと、ケンプ博はく士しも署しょ長ちょうも、そのように考えていた。
ケンプ博はく士しは、透とう明めい人にん間げんはかならず町にもどってくると思っていた。食しょ物くもつをもとめてのためか。それだけではない。博士に裏うら切ぎられたことへ、仕しか返えしをするために、夜になったら、きっと、博士の家にあらわれるものと信じていた。
夕方になった。透明人間のゆくえがわからないまま、遠くへにげられたのではないかと、みんないらいらしているところへ、町から一六キロはなれたところで起こった、殺さつ人じんのニュースがとどいた。むろん、その事じけ件んを調べたその土地の警けい察さつからである。奇きみ妙ょうな事件であった。
そこはバードック卿きょうの荘しょ園うえんのある高こう原げんの静かな土地で、荘園ではたらく執しつ事じが、じぶんの住すい居まいに昼の食事にかえるとちゅう、殺ころされたのである。
もうながいことバードック卿の荘園で執事をつとめるウィックスティード氏は、おだやかな人ひと柄がらで、ひとににくまれたり、けんかをしたりするような人でなかった。昼になると、荘園の木戸から一五〇メートルほどはなれたところにある住すま居いにもどって、食事をするのが日にっ課かとなっており、草そう原げんをとぼとぼ横切る執しつ事じを、その日も近所の女の子が見ていた。
﹁おじさーん﹂
いつものように声をかけると、いつもならすぐ、にこにこした執事の笑えが顔おと、おどけた返事がかえってくるのに、おじさんはステッキをふりまわして、女の子には見向きもしないで、通りすぎたというのだ。
﹁おじさん、なにしてるの?﹂
女の子は、太った執しつ事じのあとを追った。おじさんは、おかしなことをしていた。見ると、一本の鉄てつの棒ぼうが、執事があるく前に浮かんで、ふらふらとゆれているではないか。女の子は、びっくりした。世にもふしぎな宙ちゅうに浮く鉄てつ棒ぼうを追って、おじさんはステッキでその鉄棒を、たたき落とそうとした。
すーっと、鉄棒がにげた。
﹁この化ばけものやろう!﹂
口にしたこともないきたないことばを、おとなしい執しつ事じが、めずらしく吐はきすてた。つづいて、このやろう……このやろう、と夢むち中ゅうで鉄てつ棒ぼうにステッキで、なぐりかかっていった。
宙ちゅうに浮いた鉄棒と執しつ事じとのたたかいは、ブナ林をぬけて、なおもつづいた。おじさんは汗あせをかいて、へとへとになり、それでもあきらめずに、なんとかして鉄棒の化けものをたたき落として正しょ体うたいを見みや破ぶろうと、追いつづけ、ついにその鉄棒を石いし切きり場ばといらくさの茂しげみのあいだに追いつめたのである。
そこで執しつ事じウィックスティード氏は、鉄棒の化けものの猛もう反はん撃げきをくった。ただ、残ざん酷こくとしか言いようのない、無むざ残んな殺ころされようであった。頭はたたき割わられ、腕うではへし折られて、これがあの温おん厚こうな人の姿であるか、と憤いきどおりを感じさせるほどに、ひどいものだった。
﹁あいつのやったことです。透とう明めい人にん間げんのしわざです﹂
ケンプ博はく士しがニュースを聞いて、署しょ長ちょうにいった。
﹁かならず逮たい捕ほしてみせます。この町にはいってきたら、こんどこそ逃がしはしない﹂
アダイ署しょ長ちょうは博はく士しと、これからの打合わせをした。
﹁ぼくは家に帰って、透とう明めい人にん間げんがあらわれるのを待つことにします﹂
博士が警けい察さつ署しょをでると、外には夕ゆう闇やみがせまり、夜になろうとしていた。街まち角かどには警けい備びのひとが立ち、三人四人と隊を組んだ見張りの者が、町の通りをあるきまわっていた。
透とう明めい人にん間げんの最さい期ご
きんちょうのうちに一夜があけたが、なにごともなかった。町に透とう明めい人にん間げんがあらわれた話はなく、ケンプ博はく士しの屋やし敷きにも、透明人間は近づいてこなかった。
その朝もぶじに過ぎて、おそい昼の食事を博士がしていたときである。一通つうの手紙が舞まいこんできた。切きっ手てを貼はらないので、郵ゆう税ぜい二ペンスの不ふそ足くとなっている。透明人間からのものだ。消けし印んはヒントンディーン局きょく。どこかで紙を盗ぬすんで書いて、ポストに投げこんだものとみえる。
――よくも裏うら切ぎって、おれを苦しめたな。こんどは、かならず、きさまを殺ころしてやる!
差さし出だし人にんの名は書いてないが、透明人間、すなわちグリッフィンからの手紙にちがいなかった。
消印のヒントンディーン局のある町からここまで、一時間あれば、やってこられる道のりである。博はく士しは食事をやめて、窓まどぎわに寄って外を見た。それから家かせ政い婦ふにいいつけて、家じゅうの窓や戸のカギを調べさせた。どこにも手落ちはなく、透明人間が忍しのびこむすきは、どこにもない。そこへ警けい察さつ署しょ長ちょうが、しんぱいしてやってきた。玄げん関かんのドアを開くのも、人ひとりがやっと通れるくらいの細ほそ目めにして、署長を入れる用心ぶかさで、博士は署長を中にいれると、透とう明めい人にん間げんからの手紙をわたして見せた。
﹁あなたをねらって、ここへ……﹂
﹁かならずきますよ。もう、そのへんをうろついてるかも知れません﹂
博はく士しがそう言ったとき、ガチャーンと、ガラスが砕くだける音が、二階のどこかでした。
﹁二階の窓まどだ!﹂
ポケットにかくしておいた銀色の小こが型たピストルをにぎって、博士は二階にかけあがった。署長がそのあとにつづいた。書しょ斎さいにかけこむと、庭に面めんした三つの窓のうち二つが、めちゃくちゃにガラスをたたき割わられていて、床ゆかいちめんに、ガラスの破はへ片んがちらばっていた。
ケンプ博はく士しは、まだ破やぶられていない三つ目の窓まどに目をはしらせると、ピストルをぶっ放ぱなした。ガラスはたまに撃うちぬかれてひび割れ、三角かく状じょうの破はへ片んとなって内側へ落ちた。
﹁やつがいましたか﹂
署しょ長ちょうが目を大きくしてきいた。
﹁いや、ここまでは登のぼってこられませんよ。ねんのために、ぶっ放ぱなしたのです﹂
ドスン……と階かい下かで破はめ目い板たをたたき破やぶる音がした。つづいて、窓まどガラスがやぶられた。しかし、一階の窓には、のこらず鎧よろ戸いどがつけてある。かんたんには侵しん入にゅうできないだろう。
﹁警けい察さつ犬けんをつれてきましょう。用意してあるんです。十分とかかりません﹂
署しょ長ちょうはケンプ博はく士しからピストルを借かりて、外にでた。ところが、アダイ署長が芝しば生ふの上を門に近づいて、中ほどにきたときである。目に見えない怪かい物ぶつが、署長を襲おそった。
はじめ、いきなりなぐり倒された。署長がピストルで応おう戦せんした。起きあがったが、けり倒されてピストルを奪うばわれ、手をあげて家のほうへ歩きだしたが、ピストルを取り返そうとして射ち倒されてしまった。ピストルは透とう明めい人にん間げんの手にわたったのである。二人の警けい官かんが、かけつけてきた。博はく士しは用心ぶかく二人をなかにいれた。そのときはもう、裏うらにまわった透明人間が、物もの置おきから探さがしだした手てお斧ので、ガンガン、台だい所どころのドアを叩たたきこわしてるところだった。
﹁あれは?﹂
﹁透とう明めい人にん間げんだ。ピストルを持っている。残りのたまは二発……署しょ長ちょうは射うたれた﹂
おどろく警けい官かんに説せつ明めいして、博はく士しは火かき棒ぼうを手にして、台所に向かった。それに二人の警官も火かき棒を持って、あとにつづいた。
ガンガン………バリバリッと、がんじょうなドアは叩たたきやぶられ、見えない手が突きだしたピストルが、博士めがけて、二度、火を噴ふいた。博士と警官二人は広いホールに逃げて、ホールに入ってくる透明人間を包ほう囲いするように身みがまえ、火かき棒を前に突きだして敵を待った。
そこへ、手てお斧のが頭上の高さに回かい転てんしながら、ホールに飛びこんできた。大だい乱らん闘とうとなった。
﹁ケンプ! きさまと勝しょ負うぶだ﹂
怒いかりにふるえる声がした。警けい官かんのひとりが、くるいまわる手斧を、火かき棒でたたき落とした。もう一人の警官は見えない足で、け倒たおされた。そのあいだにケンプ博はく士しは、窓まどから庭へとび降り、町に向かって走った。それに気がついた透とう明めい人にん間げんは、警けい官かんをなぐり倒すと、ちくしょう! とさけんで、ケンプ博士のあとを追った。別べっ荘そうがつづく高たか台だいをかけ抜けると、町へ下るながい坂になっている。町へにげれば、追ってくる透明人間を、そこで捕とらえることができると博士は考えていた。はだしの足音が、すぐうしろに追っている。
博士は走って走って、まっ青になって走った。砂じゃ利りや石ころが、ごろごろしている道をえらんで走った。透明人間との間が少しはなれた。やっと、町の入口に走りついた。
﹁透明人間がきたぞーっ﹂
さけびながら博士は、町の大通りを、鉄てつ道どう馬ばし車ゃの駅えきのほうへ走った。駅の前に広場がある。その広場には砂利の山があり、シャベルを持った工こう夫ふがはたらいていた。
﹁透とう明めい人にん間げんだ、にがすな﹂
手に手に棒をにぎりしめた町の人が、わっと飛びだしてきて、博士のゆくての道をふさいだ。
﹁裏うら切ぎりやがったな!﹂
透明人間がま近にきたな、と感じた瞬しゅ間んかん、ケンプ博士は、したたかに顎あごに一撃げきをくらった。倒れたところを脾ひば腹らをけられ、つづいて胸を重いものがおさえつけ、のどをしめつけられた。
工こう夫ふの一人が、博はく士しの上になっている透明人間のせなかを、シャベルでなぐりつけた。手ごたえがあった。また、なぐった。すると、こんどは博士が上になり、警けい官かんもくわわって、透明人間の手や足をおさえつけた。姿すがたを見せない透明人間が、ぐったりとなった。博士のあいずで、みんな手をひいて立ちあがった。
﹁あっ?﹂
群ぐん衆しゅうに囲まれた広場の、博はく士しの足もとの地上に、はじめはかすかに、それから少しずつ……半はん透とう明めいの人の形をした物が姿をあらわし、まもなく、若い男の裸はだかの傷きずだらけの体からだがよこたわっているのが、見えてきた。透明人間グリッフィンの最さい期ごである。 ︵おわり︶
底本‥﹁透明人間﹂ポプラ社文庫、ポプラ社
1982︵昭和57︶年7月第1刷
1984︵昭和59︶年9月第5刷
入力‥京都大学電子テクスト研究会入力班︵大石尺︶
校正‥京都大学電子テクスト研究会校正班︵大久保ゆう︶
2010年7月31日作成
2012年4月10日修正
青空文庫作成ファイル‥
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