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この項目では、長野県歌について説明しています。令制国の信濃国については「信濃国」をご覧ください。 |
『信濃の国』(しなののくに)は、長野県の県歌である。1900年(明治33年)発表。
全6番からなり、4番のみメロディーとテンポが異なる(転調ではない)。4番が異なるのは、七五調の歌詞の中で「寝覚の床」「姨捨山」と字余りが2回出てくるのと、情緒を持たせるためだと言われている。
歌詞の内容は、各節で次のように分かれている。
- 長野県の地理に関する概要
- 山河
- 産業
- 旧跡/名勝
- 長野県出身の著名人
- 碓氷峠と鉄道(作曲の数年前に開通した信越本線)・結句
番 |
歌詞 |
現代語訳(例)
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一、
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- 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
- 聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
- 松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地
- 海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき
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- 信濃国は、10か国の令制国(上野国、越後国、越中国、飛騨国、美濃国、三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、武蔵国)と境を接する広大な国である。
- 当地にそびえる山は遥かに高く、流れる川は長大である。
- 山国ではあるが、松本平、伊那谷、佐久平、善光寺平の、計4つの肥沃な平地がある。
- 海がない内陸県ではあるが様々な物品を産し、物に不足することは無い。
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二、
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- 四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳
- 浅間は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり
- 流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川
- 南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり
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- 四方に聳える山々で著名なものを挙げるなら、御嶽山、乗鞍岳、木曽駒ケ岳。
- 浅間山は活火山として著名である。これら山はいずれも信州の地を鎮っている。
- 澱むことなく軽快に流れる川で著名なものを挙げるならば、北へ流れた末に日本海へ注ぐ犀川に千曲川。南へ流れ太平洋へ注ぐ木曽川に天竜川。
- これら川も信濃の地の基である。
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三、
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- 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
- 民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
- しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ
- 細きよすがも軽からぬ 国の命を繫ぐなり
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- 木曽谷にはヒノキはじめ有用な針葉樹が茂り、諏訪湖は水産物の宝庫である。
- 住民はさまざまな生業に励み、五穀の実らない村落など無い。
- そればかりか桑の葉でカイコを飼う、養蚕の技術も広範に広まっている。
- 養蚕は家ごとの零細な家内工業であり、生産された生糸は細くて軽い。しかし、その意味は決して軽くはない。信州の基幹産業として、さらに日本の重要輸出品として国の命運を繫いでいるのだ。
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四、
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- 尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床
- 木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋
- くる人多き筑摩の湯 月の名にたつ姨捨山
- しるき名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる
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- 信州の名所を挙げるなら、万葉集の時代から歌枕の地であった阿智村智里の「園原」をぜひとも訪ねたい。あるいは浦島太郎が玉手箱を開けた地との伝承がある「寝覚ノ床」で一夜の宿を結びたい。
- 旅人の便宜を図り、木曽川の断崖には「木曽の桟」が、犀川の流れには久米路橋が架けられた。だが、険しい道は心して進みたいものである。
- 奈良時代からの歴史がある筑摩の湯は旅客で賑わう。古今集が編纂された時代より、月見の名所と詠われた姨捨山。
- これら名所は風流人に愛され、和歌や漢詩に詠み込まれて伝えられてきた。
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五、
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- 旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も
- 春台太宰先生も 象山佐久間先生も
- 皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく
- 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず
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- 源平合戦で都に凱旋し、「旭将軍」と讃えられた源義仲。織田信長の甲州攻めの折、高遠城で対峙した仁科盛信。
- 儒学者として「経済」の語を世に知らしめた太宰春台。幕末の洋学者であり、維新の志士を教育した佐久間象山。
- みな信州にゆかりのある偉人である。
- 文武両道に優れた彼らを世人は山のように振り仰いで尊敬し、名声を川の流れのように末永く語り継いでいる。
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六、
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- 吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山
- 穿つ隧道二十六 夢にもこゆる汽車の道
- みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
- 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い
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- かのヤマトタケルが東国遠征の折、入水した妻・オトタチバナヒメを想い「吾妻はや」と嘆いた。そんな伝承がある碓氷峠。
- 中山道の難所だった碓氷峠にも、今や夢に見た鉄道(信越本線)が開通した。26か所ものトンネルが開削され、苦難の旅路は汽車でひと眠りのうちに通過できる文明開化の時代である。
- 山中を一直線に貫く鉄路のように、一心不乱で勉学したならば、先人に劣ることがあるだろうか。
- 古来より美しい山河、自然環境に恵まれた信州。そんな郷土から偉人が輩出されるのは道理である。
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全般に長野県域の地理・歴史・文化を賞揚するものであり、御嶽山・乗鞍岳・木曽駒ヶ岳・浅間山・犀川・千曲川・木曽川・天竜川・木曽谷・諏訪湖・佐久間象山と、長野県各地の事物や長野県に縁を持つ人物が列挙されている。但し、作詞者の浅井は中信地方出身の旧松本藩士族であるためか、取り挙げられている事物や人物には偏りが見られる。
その内容から、﹁複数の盆地の寄せ集め﹂﹁連邦﹂と揶揄される、長野県の一体性と結び付きを高める為の精神的支柱として使用されてきた。これに関連して、﹁信濃の国﹂には直接登場しない下高井郡では、独自に郡歌を作っている。
なお、5番において﹁仁科五郎盛信﹂が﹁仁科五郎信盛﹂として歌われている。仁科盛信は一般に﹁盛信﹂として知られているが、近年には﹁信盛﹂と記された文書が残されていることから、改名していた可能性が指摘されている[1]。
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作詞:浅井洌(左、1849年 - 1938年) 作曲:北村季晴(右、1872年 - 1930年)
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﹁信濃の国﹂はもともと郷土教育を目的として作られた歌であり、その歴史は明治時代初期までさかのぼる。現在の長野県域にほぼ相当する信濃国内の各地域は、山地・気候・交通網によって随所で細分されており、江戸時代にも多くの藩や天領に分かれており、明治時代に至っても尚、旧藩や旧天領に住民の帰属意識が残存していたため[2]、県域全体の一体感は希薄であった。
1871年︵明治4年︶の廃藩置県とその後の府県再編により、現在の長野県は長野に県庁を置く長野県と、松本に県庁を置く筑摩県︵現在は岐阜県に属する飛騨国の領域も含んだ︶に分かれていた。しかし、1876年︵明治9年︶に松本の筑摩県庁舎が火災で焼失したことを機に、同年8月20日、筑摩県が廃止され同県が管轄していた信濃国の部分が長野県に編入された。その結果、信濃国全域が長野県の管轄下に入ったが、以来﹁南北戦争﹂﹁南北格差﹂とまで呼ばれる、長野市と松本市との激しい地域対立が続いており、県民意識の一体性を高めることが大きな課題となっている。
﹁信濃の国﹂は本来、同時期に作られて流行していた﹁鉄道唱歌﹂などと同様に、県内の地理教育の教材として作られたものである。当時、同様の地理唱歌は他の県や地域でも多く作られており、長野県だけに特異な事例ではない[3]。しかし、上記のような事情を背景に、県内各地の事象をほぼ万遍なく歌いこみ、本来は都市名である﹁長野﹂ではなく県内の大方の地域が該当する﹁信濃﹂という旧国名で県域を包括したことで、本来の地理唱歌という枠を超えて、地域全体の共同体意識を喚起する歌として歌い継がれてきた。時代はまさに日清戦争・日露戦争の狭間の時期にあり、国家主義的地域ナショナリズムを鼓舞する目的も存在した[2][4]。
﹁信濃の国﹂の最初のバージョンは、1898年︵明治31年︶10月に信濃教育会が組織した小学校唱歌教授細目取調委員会の委嘱により、長野県師範学校︵現信州大学教育学部︶教諭であった浅井が作詞し、同僚の依田弁之助が作曲して創作したものである。この曲は﹁信濃教育雑誌﹂︵1899年︵明治32年︶6月発行︶に掲載されたが、あまり歌われることはなかった。翌1900年︵明治33年︶、同師範学校女子部生徒が、依田の後任であった北村に同年10月の運動会の遊戯用の曲の作曲を依頼した。このとき新たに作曲されたバージョンが現在歌われているものである。師範学校から巣立った教員たちが長野県内各地の学校で教え伝えたことから、この曲は戦前から長野県内に普く定着した。
1947年︵昭和22年︶には日本国憲法公布を記念して新しい﹁長野県民歌﹂︵作詞・北村隆男、作曲・前田孝︶が公募を経て制定され、県内各地で発表会を開催したり歌詞と楽譜を配布するなど普及が図られたが県民の間では戦前から歌われて来た﹁信濃の国﹂が余りにも浸透していたため、この﹁県民歌﹂は遂に受容されること無く忘れ去られて行った[5]。
﹁信濃の国﹂にまつわる逸話として以下のようなものがよく語られる。1948年︵昭和23年︶春の第74回定例県議会で、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が中信・南信地方︵合併前の筑摩県域︶出身議員らから提出され、分割に反対する北信出身議員の病欠などもあって可決されそうになった。この際に、傍聴に詰めかけた、分割に反対する北信地方と東信地方︵合併前の長野県域︶の住民達が突如として﹁信濃の国﹂の大合唱を行ない、分割を求める県会議員たちの意思を潰して分割を撤回させたと言われている[6][7][8]。しかし、当時の県職員は、投票前に歌が歌われていた記憶が無く、また、仮に県議会で分割案が可決されたとしても政府や国会は分県を認めない方針であったとしている[7]。長野県議会によれば、1948年3月19日の本会議採決において、分県反対派議員が牛歩戦術を行った上に、傍聴人が﹁信濃の国﹂を大合唱するなど議事が混乱したことで、この日の本会議が流会になったとされる。しかし、その後もなお分県賛成派は意見書の採決を諦めず、4月1日の本会議で改めて分割案の採決が行われたが、反対派であった県議会議長が欠席したため、賛成派の副議長が代理として議長席に座ることになった。賛成派の副議長が議長代理となったために賛成派による過半数による可決が不可能になったが、可否同数だと議長代理による裁決で可決できる可能性があったため、反対派議員の一部があえて白票を投じるという機転を効かせたことで最終的には﹁賛成‥29票 反対‥26票 白票‥3票﹂となり、可決に必要な過半数の票を得られず、なおかつ可否同数も防げたため意見書は廃案となった[9]。
以下は主なレコード会社から発売された音源である。ここで挙げた以外にも、高等学校の校歌や青年団歌などの非売品レコードにカップリングで歌唱されたものを含めて膨大な数の音源が存在するとみられる。
歌詞・旋律のいずれも著作権の保護期間を満了しているため、アレンジも盛んに行われている(#普及度を参照)。
初めて市販されたのは1931年(昭和6年)12月に日本コロムビアから発売された内田栄一の歌唱によるSPレコード(規格品番:26591)で、収録時間の都合により全6番中4番までに短縮されていた。B面収録曲は「信州男児」(作詞・田中常憲、作曲・山下信太郎)。
1949年(昭和24年)には小山清茂の編曲で浅野千鶴子がソプラノ、鷲崎良三がテナー、三枝喜美子がアルト、尾籠晴夫がバスをそれぞれ担当する合唱でA面/B面にそれぞれ曲の前・後半を収録したSP盤(B313)が製造され[11]、これが全6番を完全に収録した初の音源となった。後年には同内容で規格を変更したシングル盤(SA-921)も製造されている。
制定告示翌年の1969年(昭和44年)にはステレオで新録を行ったコンパクト盤(ASS-447)が発売され、A面に山本直純の編曲で戸田政子がソプラノ、成田絵智子がアルト、鈴木寛一がテナー、平田栄寿がバリトンをそれぞれ担当する〈歌唱編〉、B面に〈行進曲編〉と〈軽音楽編〉のアレンジ2種が収録された。このコンパクト盤の〈歌唱編〉は「安曇節」のシングル(FK-115)B面にも再録されている。
ビクター[注釈 1]では藤井典明と女声合唱団が歌うSP盤(AE-98)を最初に製造していた。このSP盤も収録時間の都合により、全6番中1・4・6番を抜粋したものとなっている。
制定告示翌年の1969年(昭和44年)には立川清登(澄人)と東京混声合唱団歌唱のバージョンが『信濃の国 長野県歌 =歌唱編=』と題したシングル盤(SGC-119)として発売され、その後、1981年(昭和56年)にカセットテープ(VK-135)化、1997年(平成9年)5月21日に8センチCD(VIDG-30001[12])化、更に2014年(平成26年)8月20日には12センチCDとしてシングル盤のジャケットを復元した新装盤のマキシシングル(VICL-36950[13])が発売され[14]、2024年(令和6年)時点でもこの立川版がダウンロード配信を含めて最も入手が容易な音源となっている。
立川版はアルバム『決定盤 信濃の民謡』(VZCG-87)にも収録された。また、立川の『歌唱編』と同時に『信濃の国 器楽編』と題したシングル盤(SGC-120)も発売されA面に吹奏楽、B面に器楽合奏・管弦楽のインストゥルメンタルをそれぞれ収録していた。
キングレコードでは上條恒彦と花井真里子(両名とも長野県出身)によるデュエットを発売しており、2016年(平成28年)発売の6枚組『山の歌ベスト』(NKCD-7790〜7795)ディスク5のトラック11に収録された。このレコードのB面には行進曲アレンジが収録されているが、CD化はされていない。