武田祐吉
日本の国文学者
人物情報 | |
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生誕 |
1886年5月5日 日本 東京都中央区 |
死没 | 1958年3月29日 (71歳没) |
出身校 | 國學院大學 |
学問 | |
研究分野 | 国文学 |
人物 編集
東京市日本橋区︵現・東京都中央区︶出身。大阪で育ち、天王寺中学、小田原中学︵後輩に尾崎一雄がいた[1]︶を経て國學院大學に入学。三矢重松に師事[2]。
1913年に大学を卒業した後は一時母校・小田原中学の教諭となる。後に辞職して佐佐木信綱の﹃校本万葉集﹄編纂に従事する。なお、その最中に佐佐木が蒐集していた古文書の中から花山院長親の﹃耕雲千首﹄を発見し、その奥書より後亀山天皇の元中年間の南朝に仙洞︵上皇︶がいたことを示す記述を発見した。元中年間には既に後醍醐天皇・後村上天皇は崩御しており、仙洞として存在する可能性があるのは、この当時即位の事実について議論されていた長慶天皇以外には考えられなかった。
文学の立場から同天皇の即位について研究し、その研究は﹁長慶天皇を仰ぎ奉りて﹂︵﹃日本及日本人﹄第696号︶として発表される。武田の研究は、同じく同天皇在位の研究を行った八代国治の発表よりは遅れたものの、同天皇が歴代天皇に加えられた際には八代とともにその功労を評価されて皇室から褒賞を与えられることになった。
1920年に國學院大學講師、1926年には同教授となる。
1930年﹁万葉集仙覚本ノ研究﹂で京都帝国大学文学博士。
﹃万葉集﹄・﹃古事記﹄の研究で知られ、1950年には﹃万葉集﹄の研究によって日本学士院賞が授与された。
1958年、心臓衰弱のため死去[3]。墓所は多磨霊園。