﹁シェフィールド﹂の沈没以降、ウッドワード提督は、最終的上陸のための条件作りに努めており、自己の裁量の範囲内で上陸作戦に不可欠なフォークランド諸島内の偵察および排除水域の実効性の確保を行った。
5月9日には、イギリス空母戦闘群の捜索にあたっていたアルゼンチン海軍の情報収集船﹁ナルワル﹂ (ARA Narwal) が排除された。まずシーハリアーが機銃掃射したのちに8名のSBS隊員がヘリコプターからファストロープ降下して突入し、機銃掃射により死亡していた船長を除いて、情報士官を含む11名の生存者全員を捕虜にした。
5月10日には、フォークランド水道内の機雷の敷設状況を確認するため﹁アラクリティ﹂﹁アロー﹂が分派された。機雷は敷設されていないことが確認されたほか、この通峡の途中、﹁アラクリティ﹂はアルゼンチンの輸送艦Isla De Los Estadosをレーダーで捉え、艦砲射撃によって撃沈した。またこの他、夜間に継続して艦砲射撃、爆撃、照明弾射撃を行うことで、アルゼンチン軍守備隊の睡眠妨害を試みていた。
サン・カルロス上陸 (5月10日-5月21日)
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4月30日より、SAS・SBSの計10チームがフォークランド諸島各所に潜入し、上陸候補地点の地理的情報の収集にあたっていた。また第3コマンドー旅団参謀のサウスビー=テルユア少佐は、以前にフォークランド海兵隊分遣隊の隊長だったとき、余暇を利用して海岸線をくまなくヨットで調査してレポートを作成しており、大いに参考になった。
5月10日、これらの情報を踏まえて、上陸地点はサン・カルロスと決定された。同日、第317任務部隊指揮官フィールドハウス大将は、その上陸部隊である第317.1任務群指揮官トンプソン准将︵第3コマンドー旅団長︶に対し、フォークランドへの上陸を準備するよう指示した。そして5月12日、隷下部隊に対し、﹁作戦命令3/82﹂として、水陸両用作戦である﹁サットン作戦﹂を発令した。
なお第317.1任務群は第3コマンドー旅団から編成されていたが、同旅団のみでは兵力に不安があるとして、陸軍の第5歩兵旅団︵旅団長‥ウィルソン准将︶から第2・3空挺大隊が抽出されて増援されていたほか、5月3日には旅団そのものが派遣されることになっていた。これら2個旅団を統一指揮する組織としてフォークランド諸島陸上軍︵LFFI︶が設けられ、その指揮官としてはムーア海兵隊少将が任命されて、指揮権は5月20日に発動された。サットン作戦においては、ムーア少将と第5歩兵旅団の到着前に、第3コマンドー旅団によって橋頭堡を確保し、ここに第5歩兵旅団を投入して戦果を拡大することとなっていた。
シーハリアーは空中戦での損害はなかったものの、5月4日にグースグリーンを攻撃中の機体が対空砲火で撃墜され、また6日にはレーダーコンタクトの捜索に向かった2機が消息を絶って、一挙に17機に減勢してしまった。しかし5月18日には、シーハリアーFRS.1の予備機による第809飛行隊と、空軍のハリアーGR.3攻撃機による第1飛行隊が到着した。﹁ハーミーズ﹂には、6機のハリアーGR.3と4機のシーハリアーFRS.1が追加されて計21機となり、﹁インヴィンシブル﹂には4機のシーハリアーFRS.1が追加搭載されて計10機となり、空母戦闘群としての艦上戦闘機・攻撃機は31機に増勢した。これによって、近接航空支援・航空阻止はハリアーGR.3の担当となり、シーハリアーFRS.1はCAPに注力できるようになった。
アルゼンチン海軍は、4月24日に、西フォークランド島のすぐ北にあるペブル島の飛行場にT-34C軽攻撃機4機を配置していた。また空軍も、5月1日のシーハリアーの攻撃を受けて、グースグリーンに配置していたプカラ攻撃機12機を同地に移動させていた。
上陸地点がサン・カルロスに決したのち、イギリス軍にとって、同地から約40キロメートルしか離れていないペブル島に︵貧弱なターボプロップの軽攻撃機とはいえ︶敵機が存在することは看過できない問題となった。5月10日の作戦会議で、ウッドワード少将は、SASに対してこの飛行場の攻撃を命じた。SASはまず偵察することを考えており、3週間はかかると考えていたが、ウッドワード少将は15日までに実行するよう求めたことから、SASはその夜のうちに偵察部隊を出発させた。
悪天のため、実際の偵察は13日から14日にかけてとなり、この結果を踏まえて、14・15日の夜に本隊が進入して航空機に爆弾を仕掛け、駆逐艦﹁グラモーガン﹂も艦砲射撃を行なった。これにより同島に配置されていた航空機は全て破壊され、燃料・弾薬も炎上し、以後この飛行場がアルゼンチン軍に使用されることはなかった。SASは2名が負傷しただけで、全員が帰還した。
21日未明、上陸開始に先駆けて、まず「アントリム」の艦砲射撃とSBSの地上攻撃により、ファニング・ヘッドにいるアルゼンチン軍「鷲分遣隊」の監視哨が駆逐された。またこれと並行して、3時30分頃、上陸部隊本隊第1波として、海兵隊第40コマンドーと陸軍第2空挺大隊がLCUによって上陸を開始した。
鷲分遣隊の本隊はポート・サン・カルロスに所在しており、ファニング・ヘッドでの艦砲射撃の音は聞こえていたが、監視哨は通信を送る間もなく壊滅したため、具体的に何が起きているかを把握することはできなかった。夜明けを待って斥候を送り、8時10分頃、イギリス軍の揚陸作戦が実施されていることが判明した。分遣隊はこれらの情報を全てグース・グリーンの第12歩兵連隊へ無線で報告し、航空機による対地攻撃を要請したのち、東方へ離脱した。この間、誤って上空を飛行したイギリス軍のシーキングおよびガゼル・ヘリコプター各1機を撃墜、ガゼル1機に損害を与えた。この損害を受けて、イギリス第3空挺大隊は鷲分遣隊を掃討しようとしたが、そのために投入された中隊同士が同士討ちしてしまい、分遣隊の捕捉には失敗した。
5月4日の駆逐艦﹁シェフィールド﹂の被弾を受けて、エクゾセの脅威を避けるため、2隻のイギリス空母は後方へと配置された。仮に2隻の空母のいずれかを失った場合、イギリス軍の作戦全体が成り立たなくなることから、この措置はやむを得ないものではあったが、航空母艦を後方に配置したため、ハリアーの上陸区域における作戦時間が約30分まで低下していた。そして、水陸両用戦の部隊と共にサン・カルロス湾に入ったフリゲートに兵力の防衛を依存することとなった。
アルゼンチンの航空攻撃が予期されたため、艦艇は最高度の警戒状態を維持していた。この予想通り、5月21日13時25分(UTC)より航空攻撃が開始され、実に45ソーティに及ぶ出撃が行われた。水陸両用艦艇の護衛のために7隻の艦艇がフォークランド水道およびサン・カルロス湾に入ったが、﹁アーデント﹂が沈没し、﹁プリマス﹂と﹁ヤーマス﹂の2隻を除く他のすべての艦が損害を受けた。
しかしこのようにイギリス軍に損害を与えつつも、アルゼンチン軍は大きな失敗を犯していた。すなわち、これらの護衛艦艇が攻撃の主目標とされ、荷を下ろしている船や、陸揚げされ野積みになっている武器、弾薬、資材等は見逃されていたのである。上陸部隊自身のレイピア地対空ミサイルの揚陸が遅れ、防空網が完成されていない時期であったことから、第3コマンドー旅団にとっては幸運だった。またアルゼンチン軍機の損害も少なくなく、10機︵ダガー5機、A-4Q 3機、A-4C 2機︶を失い、これ以外のアルゼンチン軍機も小火器により被害を受け、修理をせずに作戦を行うことは出来ない状態であった。
5月23日には、アルゼンチン軍のA-4攻撃機が﹁アーデント﹂と交代した21型フリゲート﹁アンテロープ﹂を攻撃し、500kg爆弾2発を命中させた。これは不発弾であったが信管除去作業中に爆発し、﹁アンテロープ﹂は翌24日に沈没した。
5月25日にはアルゼンチン空軍第5グループのA-4Bが42型駆逐艦﹁コヴェントリー﹂と22型フリゲート﹁ブロードソード﹂を攻撃し、﹁コヴェントリー﹂に爆弾3発を命中させ撃沈に成功した。
その直後アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダールがイギリス空母機動部隊を攻撃し、空対艦ミサイルエグゾセAM39の2発を発射した。イギリス海軍艦艇はエグゾセの探知には成功し、各艦艇のチャフロケットとデコイを搭載したリンクスヘリコプターによりエグゾセに対抗した。しかしチャフにより目標を逸れたエグゾセ1発がイギリス海軍に徴用されていたコンテナ船﹁アトランティック・コンベアー﹂に命中、同船は大破炎上して沈没した。
同船は航空機の輸送に用いられており、シーハリアーとハリアーは既に空母に移動して無事だったものの、ヘリコプター多数︵チヌーク3機、ウェセックス6機、リンクス1機︶が失われ、同日に予定されていたヘリボーン作戦は断念せざるを得なかった。特に空軍のチヌーク輸送ヘリコプター4機で編成された第18飛行隊は、撃沈前に発艦していた1機を除く3機と整備機材・予備品のほとんどを失い、地上部隊を落胆させた。被害を免れた1機 (Bravo November) は孤軍奮闘し、戦争終結まで弾薬や野砲の輸送、イギリス軍兵士やアルゼンチン捕虜の輸送などで活躍した。
5月30日午後にはアルゼンチン軍は最後の空対艦エグゾセAM39の1発を使ってイギリス機動艦隊への攻撃を敢行した。海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機[注7]と空軍第4グループのA-4スカイホーク攻撃機4機で編成された攻撃隊はイギリス艦隊へ接近し、イギリス艦隊側はこれをレーダーに捕らえた。レーダーに捉えられたシュペルエタンダール攻撃機は全速で艦隊に接近するとレーダーでロックオンしてミサイルを発射後、2機とも退避。ミサイルに続く形で4機のスカイホーク攻撃機が突撃をかけた。このとき攻撃対象とされたのは実際には空母ハーミーズとインヴィンシブルではなく、艦砲射撃と特殊部隊上陸のために主力艦隊から離れて航行していた42型駆逐艦エクゼターと21型フリゲートアヴェンジャーだった。両艦は攻撃隊のレーダー探知後、チャフロケットを即座に発射し、対空砲火による防空を行った。飛来したエグゾセはこの際に空中で撃破された[注8]。さらにエクゼターは突撃してくるスカイホーク部隊に対してシーダート対空ミサイルによる迎撃を行い、2機を撃墜した。残った2機のスカイホークは両艦を爆弾で攻撃したが命中させることは出来なかった。
結局、この攻撃によるイギリス側の損害はなかったが、攻撃に参加したアルゼンチン側パイロットは空母にミサイルを命中させたと主張し[注9]、シュペルエタンダール攻撃機にはインヴィンシブルのキルマークが描かれた。アルゼンチン政府は新聞に煙を上げる空母の写真すら掲載して損害を与えたと主張したものの、明らかな合成写真であったため、イギリス政府から失笑を買ったという。
グース・グリーンの戦い (5月27・28日)
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5月21日にイギリス軍がサン・カルロスに上陸して以降、アルゼンチン軍の抵抗は航空攻撃に限られていた。一方、イギリス軍の側は、上陸以降の作戦については事前の計画は乏しかったが、これらの情勢から、任務部隊司令部ではアルゼンチン軍の積極性について楽観的な見方が広がっていた。第3コマンドー旅団長トンプソン准将は、25日にはケント山からチャレンジャー山にかけての地域に大規模なヘリボーン作戦を行ってスタンリー攻略の地歩を固めることを企図していたが、同日の﹁アトランティック・コンベアー﹂の喪失によって多数のヘリコプターが失われ、この作戦は実行不能となった。
スタンリーに進出する前に、まずグース・グリーンとダーウィンに駐屯するアルゼンチン軍を攻撃する必要があった。トンプソン准将はもともと、グース・グリーンに対する︵占領を前提としない︶襲撃作戦を計画しており、22日には第2空挺大隊長ハーバート・ジョーンズ中佐に作戦立案を下令していたが、﹁アトランティック・コンベアー﹂の喪失を受けて、この作戦は第5歩兵旅団とヘリコプターの増援を待って行う方針としていた。しかし逆に、ロンドンの任務部隊司令部と政治家は、この喪失を補うためにも何らかの行動を示すべきであると考えるようになっていた。結局、26日にトンプソン准将が任務部隊司令部と衛星通信で直接話し合い、グース・グリーンへの攻撃とスタンリーへの進撃にむけた機動を始めるよう命令をうけた。
一方、アルゼンチン軍において、グース・グリーン防衛の主力部隊となっていたのは第12連隊であり、連隊長はイタロ・ピアッヒ中佐であった。連隊の兵士の半分以上は2月に徴兵されたばかりで訓練はほとんど完了しておらず、舶送される予定の重装備も到着しておらず、人員・装備ともに不十分な状態であった。部隊の抽出や配属があり、28日の時点でグース・グリーンに配備されていた部隊は総兵力1,007名、歩兵3個中隊を基幹として105mm榴弾砲3門、120mm重迫撃砲︵状態不良︶1門、81mm迫撃砲3門、35mm対空機関砲2門などを保有しており、メルセデス任務部隊と称された。
イギリス側では、SASによる最初の偵察結果では士気薄弱な1個中隊程度と見積もられていたが、22日午後に第3空挺大隊がアルゼンチン軍の下士官を捕虜にするなど情報収集を進めた結果、26日には、ほぼ上記のような部隊の全容を把握していた。一方の第2空挺大隊は、上陸以降、橋頭堡の南側を防御するためサセックス山に布陣していたが、冷たい風と湿った土地、そして防水性に欠ける軍靴のために、塹壕足をはじめとする病気や負傷によって、既に兵力の約4%に相当する27名の兵士が後送されていた。
27日10時、BBCは全世界に対して﹁空挺大隊はまさにグース・グリーンとダーウィンを攻撃する準備ができている﹂と放送した。これを聞き、大隊長ジョーンズ中佐は激怒し、奇襲効果は失われたと信じた。また上記のようにアルゼンチン軍が当初予想よりも強力だったこともあり、第2空挺大隊固有の部隊に加えて、L118 105mm榴弾砲3門の配属を受けるとともに艦砲射撃の支援を受けることになった。一方、第12連隊長ピアッヒ中佐は、まさかBBCが自国軍の正確な情報を放送するとは思わず、欺瞞情報と考えたが、その他の予兆から、イギリス軍の攻撃が迫っていることは察知していた。
同日、第2空挺大隊はカミラ・クリーク・ハウスに移動し、15時よりジョーンズ中佐は命令を下達した。当初の作戦計画は、イギリス空挺部隊の練度を活かして夜間のうちに攻撃を完了するもので、6つの段階に分かれた複雑な計画であった。中佐のせっかちな性格のために急いで下達されたこともあり、中隊長以下、誰も命令を理解できなかった。また上記の通り、トンプソン准将はあくまで襲撃作戦として下令したが、ジョーンズ中佐はこれを拡大解釈し、占領作戦に変更していた。
18時より、第2空挺大隊の各部隊は順次前進して攻撃位置に進入した。攻撃開始予定は28日2時であったが、艦砲射撃を担当するフリゲート﹁アロー﹂は昼間は別の任務を割り当てられており、4時30分には艦砲射撃を終了しなければならなかった。このため、大隊の攻撃開始前の22時から3時間に渡って射撃することで十分な地ならしをすることになったが、これにより、ジョーンズ中佐が企図した﹁始めは静かに接近﹂という要領は最初から挫折した。
イギリス側は、アルゼンチンの戦力はほぼ正確に見積もっていたが、その配置は把握しておらず、ジョーンズ中佐の込み入った作戦は、戦闘が開始されるとすぐに齟齬を来しはじめた。例えば最初に攻撃を開始したA中隊は、無抵抗のうちに当初目標を速やかに占領したあと、他の部隊の戦闘を横目にしばらく停止させられた。その後攻撃した次の目標もやはり無抵抗であったため、中隊長はそのまま更に次の目標に前進しようとしたが、ジョーンズ中佐は、A中隊を自ら確認したいとしてこれを却下した。そして中佐の到着を待つ1時間の間に夜は明け始めており、次の目標であるダーウィン丘において、A中隊は激烈な抵抗に遭遇した。またこれとほぼ同時刻、B中隊も、その西側において、50口径機銃などの強力な火力を備えた陣地に遭遇し、前進を阻止された。
A・B中隊の攻撃が頓挫しているのをみて、7時30分頃、D中隊は主防衛線を迂回して助攻を行うことを、またC中隊は機関銃により火力支援を行うことを、それぞれ上申したが、ジョーンズ中佐はいずれも却下し、無線を混乱させるなと叱責した。またこの他にも、支援中隊長や砲兵指揮官からも多数の有益な示唆が提案されたが、中佐はこれらを全て拒絶し、8時30分頃よりA中隊と合流して、同中隊のみで攻撃を継続させた。しかしそれでも攻撃は停滞しており、焦った中佐は手近な人員を集めて、自ら陣頭にたって突撃した。この突撃に参加した人員は20名程度に過ぎず、また将校や無線手が多かったこともあって、たちまち阻止された。ひとりジョーンズ中佐のみ前進できたが、結局9時30分時頃に戦死した。しかし突撃隊員が、中佐を狙撃した塹壕を66mmロケット弾で撃破することに成功すると、その破壊力を恐れた周囲の塹壕が降伏し、勝利をもたらした。
ケント山は、スタンリーを見下ろす位置にあるにもかかわらず、アルゼンチン軍は同地に有力な部隊を配備できずにいた。5月24日のSASの偵察によってイギリス軍もこのことを知り、ただちにここに大兵力を投入しようとしたが、25日の航空攻撃によってヘリコプターが多数失われたために断念され、SASのD中隊のみが山頂を固めた。
29日には海兵隊第42コマンドーがこれを増強する予定だったが、悪天候のために順延された。その直後より、アルゼンチン軍コマンド部隊による攻撃が開始された。アルゼンチン第602特殊作戦中隊第3突撃分隊はケント山の左斜面に降着し、ただちに激しい近接戦闘が展開された。彼らは吹雪に紛れてSASの防衛線に浸透し、SASは後退も検討したが、同地の重要性を鑑み、トンプソン准将はぜひとも同地を保持するよう命じた。
30日の夜明けにはSASが優勢となっており、またアルゼンチン軍の第2突撃分隊が来る兆候がないことから、第3突撃分隊は攻撃を断念して後退した。第2突撃分隊が乗ったヘリコプターは悪天候のために同地に到達できず、離れたところに降着したのち徒歩行軍で同地に向かったため、結局、第3突撃分隊の戦闘に間に合わず、30日夜に戦闘を開始することになった。またこの戦闘中、やっとイギリス海兵隊第42コマンドーが同地に到着し、イギリス側の優位が確立されたことから、同分隊も戦闘継続を断念して後退した。
フォークランド諸島地上軍︵LFFI︶司令官のムーア少将は、5月29日に揚陸艦﹁フィアレス﹂へ移乗して司令部を開設、30日より全面的な指揮を開始した。
ケント山の占領成功を受けて、イギリス軍地上部隊はそちらに向けて兵力の集中を図ったが、ヘリコプターの不足と酷寒の気候、湿った土地のために、その行軍は困難なものとなった。ちょうどこの頃、本国から増援されてきた第5歩兵旅団がフォークランド諸島に到着し、ヘリコプターはその揚陸のために使われていた。第3コマンドー旅団の各隊は、しばしば地元住民がトラクターで支援してくれたとはいえ、基本的には徒歩行軍により前進せざるをえなかった。
第2空挺大隊は、グース・グリーンを占領したのち、まず6月2日にはその東北東25キロメートルの入植地を攻撃し、同地が無人であったため容易に占領した。ここでフィッツロイの入植地住民との電話連絡に成功し、同地にもアルゼンチン軍が駐屯していないことを知ると、同日午後のうちに、イギリス軍唯一のチヌークを乗っ取って、同地への進出に成功した。この大胆な前進により、来るべきスタンリー攻撃作戦の際の右翼の援護が確保された。しかし悪天候のためにアルゼンチン軍はこの動きを察知できず、大隊は攻撃を受けずに済んだとはいえ、敵中に深く突出し、補給線からも切り離された脆弱な状態となった。
第2空挺大隊を援護するためにも迅速な前進が望まれたことから、6月3日、ムーア少将は、第5歩兵旅団を海上輸送によってフィッツロイに前進させることを決心した。しかしフィッツロイには揚陸可能な砂浜が乏しく、また本国のフィールドハウス大将が損害に神経質になっていたこともあり、計画は度々変更されて、実施部隊を憤激させた。まず5日から6日の夜間に﹁イントレピッド﹂を用いて第1回の海上輸送が行われた。多くの困難が経験されたとはいえ、スコットランド近衛大隊は、無事にフィッツロイ対岸のブラフ・コーヴに到着した。しかしこのとき、同大隊と交代した第2空挺大隊が、フィッツロイに移動するために、同大隊が乗ってきた舟艇を勝手に借用したことで、後の海上輸送に大きな障害が生じた。
続いて6日から7日の夜間に、﹁イントレピッド﹂と﹁サー・トリストラム﹂を用いて第2回の海上輸送が行われた。しかしこの輸送の際に現地での荷役に使う予定だった舟艇が第2空挺大隊に借用されて所在不明となっていたため、﹁イントレピッド﹂に乗艦してきたウェールズ近衛大隊などの部隊を全て上陸させることができなかった。この部隊を輸送するため、7日夜、﹁サー・ガラハド﹂を用いて第3回の輸送が行われた。しかしこの時、フィッツロイではまだ﹁サー・トリストラム﹂による擱座揚陸の途中であり、﹁サー・ガラハド﹂が着岸する余地はなかった。またウェールズ近衛大隊は、本隊がいるブラフ・コーヴまで乗船するつもりでおり、航空攻撃を警戒して下船を勧告にきた海兵隊のサウスビー=テルユア少佐の助言を無視した。
イギリス軍は、航空母艦を後方に配したことによる哨戒時間短縮を補うため、サン・カルロスにアルミニウム板をしきつめた長さ850フィート︵約260 メートル︶の滑走路を完成させて、6月2日より運用を開始した。これによってハリアー・シーハリアーのCAP時間が大幅に延長されることになった。
6月4日には、ケント山に対し、ダガー6機とプカラ4機による航空攻撃が行われた。いずれも、イギリス軍には全く損害を与えなかったが、部隊の防空体制の不十分さが浮き彫りとなった。
そして6月6日にはイギリス側が海上輸送を行っていることも察知しており、8日11時15分、アルゼンチン軍の観測所よりイギリス輸送船のフィッツロイ入港が報告された。12時50分、空軍のA-4Q 5機が攻撃をかけ、﹁サー・ガラハド﹂は大破して48名戦死、﹁サー・トリストラム﹂も中破して2名戦死を生じた。また、ダガー攻撃機部隊の投下した500kg爆弾4発がフォークランド海峡にいたフリゲート艦﹁プリマス﹂を直撃した。しかしいずれも不発で﹁プリマス﹂は対潜爆雷が炎上し火災が発生したが沈没は免れた。
これは、この戦争におけるアルゼンチン空軍の最後の大戦果であったが、結果として、イギリス軍のスタンリー進攻を約2日遅らせただけであった。なおこの際にアルゼンチン軍機3機がシーハリアーに撃墜された。また6月8日11時には、エンジンが故障したハリアーが上記の滑走路へクラッシュ・ランディングを行い、アルミニウム板の多くを吹き飛ばしてしまったため、この日いっぱいこの臨時滑走路が使えなくなった
スタンリー外郭防衛線への攻撃 (6月11・12日)
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スタンリーの西側には、北からロングドン山、ハリエット山、ツー・シスターズ山という3つの山が連なっており、アルゼンチン軍の外郭防衛線となっていた。このため、イギリス軍はまずこれらの攻略を志向することになった。
アルゼンチン軍は6月8日の航空攻撃の戦果を過大評価しており、500~900名の戦死者を出したものと評価された。これを受けてアルゼンチン本国は高揚し、さっそくマルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将に対してフィッツロイの攻撃を要求したが、メネンデス少将は、部隊の機動力の欠如と航空・海上優勢の喪失、そしてイギリス軍の攻撃が先行するであろうことから不可能であると結論し、本国からの支援を求めるため参謀長ダエル少将をブエノスアイレスに派遣した。しかしガルチェリ大統領は、既にマルビナス諸島にはイギリス軍を撃退できるだけの十分な兵力を配しているとして、死守命令を下した。
6月7日には第3コマンドー旅団はケント山の斜面に移動しており、11日には、イギリスの地上部隊は攻撃開始の準備ができていた。双方の地上戦力はほぼ同程度であったが、アルゼンチン側は航空優勢は﹁ほぼ﹂、海上優勢は﹁完全に﹂失った状態であった。またアルゼンチン側は防衛側であり数週間前から陣地を準備できるという強みはあったが、イギリスがスタンリーに直接上陸してくると想定していたため、防御方向は海側︵西側︶を指向していた。5月26日には、アルゼンチン軍も、イギリス軍がサン・カルロスから陸路進撃してくる公算が高いことを認識したものの、依然として、イギリス軍が再度、今度はスタンリーに近いところに上陸作戦を行う可能性が高いと考えていたため、サン・カルロスからの進攻に対応できるよう南側に部隊を再配置することはなかった。
イギリス軍においては、第2空挺大隊とウェールズ近衛大隊が第5旅団から第3コマンドー旅団の指揮下に移されて、体制が強化された。第5旅団長ウィルソン准将はこの措置について、海兵隊員であるムーア少将が海兵隊を贔屓したのではないかと考えたが、これは6月8日の航空攻撃で第5歩兵旅団が損害をうけたことと、そしてムーア少将がウィルソン准将の能力に疑問を抱いたためであった。ロンドンの任務部隊司令部はもともとウィルソン准将の能力を不安視しており、ムーア少将は最初はこれに同意していなかったが、この時点では、トンプソン准将であれば3個大隊の戦闘を指揮できるのに対し、ウィルソン准将は2個以上の大隊の戦闘を指揮すべきでないと考えていた。
6月11日19時59分より、スタンリー西側の外郭防衛線に対する艦砲射撃が開始された。﹁アロー﹂﹁ヤーマス﹂﹁アヴェンジャー﹂﹁グラモーガン﹂が合計788発を射撃し、この戦争での最大の艦砲射撃となった。ロングドン山において、イギリス陸軍第3空挺大隊は既に前進を開始しており、20時16分に攻撃開始線を通過した。しばらくはイギリス軍が前進するのみで動きがなかったが、21時30分頃に一人の伍長が地雷を踏んで片足を吹き飛ばされたのを切っ掛けに、アルゼンチン軍が射撃を開始した。イギリス軍は砲兵支援を要請したが、陣地に対しては限られた効果しか発揮できなかった。
同山に配備されていたアルゼンチン軍部隊は、第7歩兵連隊B中隊︵中隊長カルロス・カリソ=サルバドレス少佐︶を基幹とする約220名程度であり、陣地の位置も作りも悪く、鉄条網も土嚢もなく、地雷敷設も適切でなかったが、同山はもともと天然の要害であり、イギリス軍は攻略に難渋した。特に暗視装置を備えた狙撃兵および50口径の重機関銃に対して苦戦を強いられ、手榴弾と銃剣による近接戦闘、また対戦車兵器も投入して、犠牲を出しつつ陣地を掃討していった。カリソ=サルバドレス少佐は3時頃に1個小隊の増援を得て、イギリス軍の攻撃を何度も凌いだものの、5時には限界が近づいていることが分かった。B中隊は整然と退却したが、287名の人員のうち、撤退に成功したのは78名であり、50名が捕虜となり、戦死31名、負傷者は少なくとも120名であった。一方、イギリス側は18名の戦死者と約40名の負傷者を出した。
ツー・シスターズ山の攻略を担当したのはイギリス海兵隊第45コマンドー︵指揮官アンドリュー・ホワイトヘッド少佐︶であった。この山は、名前の通り、東西に2つの頂をもつ山であり、ホワイトヘッド少佐の当初の計画では、まず西側の頂を確保したのち、そこからの支援を受けて東側を確保することになっていた。しかし地形の関係で、西側の頂を確保する中隊の行軍が遅れたため、12日0時16分、まず東側の頂を担当する2個中隊が攻撃を開始し、まもなく西側の頂への攻撃も開始された。この結果、3個中隊がほぼ同時に攻撃を行うことになり、特に西側の頂では前後に敵を見るかたちになった。この結果、まず西側の頂が確保された。
東側の頂の攻撃もおおむね順調に進展したが、アルゼンチン軍の機銃・迫撃砲・野砲の激しい射撃を受けて、1時間にわたって攻撃が停滞する状況もあった。しかしそのとき、1人の小隊長 (Clive Dytor) が立ち上がって﹁総員前進!﹂と叫び、中隊名を意味する﹁ズールー!ズールー!ズールー!﹂と叫びながら突撃しはじめた。部下は最初それを諌めたり罵声を飛ばしたりしていたが、すぐに中隊全員がこれに続き、銃撃しながら攻め上がった。この突撃によって東側の頂も確保され、4時18分までに陣地の掃討も完了した。
ハリエット山の攻略を担当したのはイギリス海兵隊第42コマンドー︵指揮官ニック・ヴォークス少佐︶であった。同山のアルゼンチン軍陣地は非常に堅固であるように認められたことから、ヴォークス少佐は正面攻撃を避けて迂回攻撃を行うことにした。すなわち、1個中隊で西側から陽動攻撃を行う一方、2個中隊を南側に進出させて後方から奇襲攻撃するという作戦であった。
まず偵察小隊が先行したのち、16時15分より迂回行動が開始された。この間第7コマンド砲兵中隊や艦砲による射撃が行われていたこともあって、迂回行動は成功し、22時より予定通り攻撃を開始した。この迂回攻撃はアルゼンチン軍の予備兵力を直撃し、不慣れな夜間戦闘だったこともあり、経験のない徴集兵は降伏しはじめた。ロングドン山と同様、重機関銃座や暗視装置を備えた狙撃兵陣地は頑強な抵抗を示し、一部では600メートル前進するために数時間かかる状況もあったが、夜明けまでにはイギリス軍の勝利となり、イギリス軍2名戦死・13名負傷という比較的軽微な損害で、アルゼンチン軍に対して、10名戦死・53名負傷・300名以上が捕虜になるという戦果をあげた。これはヴォークス少佐の独創的な作戦によってアルゼンチン側が戦意を喪失したところが大きく、また降伏しようとする兵士に対してアルゼンチン軍の将校・下士官が銃撃するのをみたイギリス海兵隊が、これらの将校等を積極的に攻撃目標としたのも理由のひとつであった。
スタンリー内郭防衛線の戦いの関係図。
6月12日朝にアルゼンチン軍首脳部は、ロングドン山からハリエット山にかけて約4,500人のイギリス兵が集結していると報告を受けたが、この情報はマルビナス駐留部隊には伝えられなかった。6月13日には、マルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将とガルチェリ大統領が交信し、メネンデスは、﹁イギリス軍が示した行動から考えて、まさに今晩彼らは最終的攻撃をかけてくるだろう。必然的に今日から明日にかけてスタンリーの運命は風前のともしびにある﹂と警告したが、ガルチェリ大統領は、あくまでスタンリーを死守するよう命じた。6月12日にはスタンリーに設置されていたトレーラー改造のミサイル発射台から輸送機で空輸していたエグゾセMM38艦対艦ミサイルを発射し、駆逐艦﹁グラモーガン﹂に命中させて中破に追い込んだ。
6月13日より、イギリス軍はスタンリーの内郭防衛線への攻撃を開始した。これに先立って、12日夜には﹁アクティブ﹂と﹁アロー﹂が186発を、そして13日23時には﹁アヴェンジャー﹂、﹁ヤーマス﹂、﹁アクティブ﹂、﹁アムバスケード﹂が4時間に渡って856発を撃ち込んだ。また砲兵隊も合計で7,120発を射撃した。しかし艦砲も砲兵も残弾不足に悩んでおり、艦砲はこの規模の砲撃をもう1回行う程度で、砲兵隊もあと2日分の弾薬しか残っていなかった。
まずスコットランド近衛大隊がタンブルダウン山を攻撃した。同山は内郭防衛線で最も高い場所であり、アルゼンチン海兵隊第5歩兵大隊︵大隊長カルロス・ロバシオー中佐︶が守備していた。この大隊は比較的経験を積んだ兵士によって編成されていた上に平時の駐屯地が南アメリカ最南端のフエゴ島であり、耐寒性を考慮した装備を保有していた。また4月上旬からフォークランド諸島に派遣されていたため、陣地もよく準備されたものであった。スコットランド近衛大隊は、まず17時より、新たに揚陸したスコーピオン軽戦車を加えて陽動攻撃を行ったのち、21時より主攻を開始した。イギリス側の期待に反してアルゼンチン軍は頑強に抵抗し、攻撃はなかなか進捗しなかったが、3時頃よりイギリス軍が戦闘を調整し直して野砲射撃と近接戦闘を連携させるようになると、陣地は徐々に突破されていった。8時には同山での戦闘は終了し、イギリス側は死者8名・負傷者35名であったのに対し、アルゼンチン側は死者20名以上・負傷者多数であった。
その南方のウィリアム山は、当初計画ではスコットランド近衛大隊がタンブルダウン山を占領した後にグルカ小銃大隊によって攻略する予定であったが、タンブルダウン山攻略が意外に難航したことから、グルカ小銃大隊は、これを待たずに2時35分より前進を開始することになった。タンブルダウン山の陥落とともにウィリアム山のアルゼンチン軍も後退したため、実質的な反撃はほとんどなかったが、砲撃、地雷、また友軍の誤射もあり、グルカ小銃大隊による占領は13時5分となった。
ロングドン山東方のワイヤレス・リッジの攻撃を担当したのは第2空挺大隊であった。同大隊はグース・グリーンでの苦戦の戦訓を踏まえて、攻撃に先立ち砲兵隊・フリゲート﹁アンバスケード﹂・第2及び第3空挺大隊の迫撃砲・機関銃小隊及び配属された軽戦車によって大規模な準備砲撃を行った後に前進することにした。この結果アルゼンチン軍の反撃はほとんど無く、次々に陣地を放棄して後退していった。アルゼンチン砲兵が放棄した陣地に対して正確な射撃を加えてきたために若干の損害が出たが、これも艦砲射撃で砲兵陣地を撃破することで解決した。最終的に、第2空挺大隊は2名の戦死者を出しただけでワイヤレス・リッジの占領を達成した。
ワイヤレス・リッジの喪失により、もはやスタンリーを防御しうる自然障害物は消滅した。多数のアルゼンチン兵がこれらの陥落した陣地からスタンリーへと戻り始めており、イギリス軍のムーア少将は、これらのアルゼンチン軍兵士を攻撃しないように自軍兵士に命令を出した。
アルゼンチン軍においては、マルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将は﹁14日早朝には残っている防衛線が持ちこたえられない﹂と結論付けた。10時頃にガルチェリ大統領へ電話をかけて、スタンリーを夜まで保持できるとは思えないことと、戦闘を続けるなら多くのアルゼンチン軍兵士が戦死し、降伏より悪い事態となることを指摘したが、ガルチェリ大統領は実情が理解できず、メネンデス少将は自己の責任において降伏することとなった。12時から13時半頃には既に戦場では実質的な戦闘停止が自然に形成されていた。そして14日19時59分にメネンデスが降伏文書に署名し、正式に戦闘停止と降伏が発効した。
スタンリーの陥落を受けて翌15日にはガルチェリ大統領が﹁戦闘終結宣言﹂を出したが、敗戦によってアルゼンチン国民の軍事政権に対する不満が爆発した。15日昼頃から夜半にかけてブエノスアイレスでガルチェリ大統領の退陣を要求する反政府暴動が起き、加えてガルチェリに大統領の座を追われたロベルト・エドゥアルド・ビオラを始めとして軍内部からも責任追及の動きが起きるなど求心力を失い、17日には大統領を解任され、翌18日には陸軍司令官の座も失った。比較的戦果を挙げた空軍総司令官のバシリオ・ラミ=ドーゾ准将も8月17日に退任し、海軍総司令官のアナヤ提督は戦争で打撃を受けたにも関わらず地位を維持していたが、10月1日付けで辞任した。
6月20日にイギリス軍がサウスサンドイッチ島を再占領し、イギリス政府は停戦宣言を出した。こうして72日にも及び、両国に多大な犠牲を出した戦争は終結した。