ルテニア人
ルテニア人︵ルテニアじん‥ラテン語: Rutheni, Ruteni ‥ウクライナ語: Руте́ни︶は、東スラヴ系の民族である。今日のウクライナ人とベラルーシ人の祖先であるルーシ人のラテン語による外名で、﹁ルーシ﹂のラテン語名﹁ルテニア﹂︵Ruthenia︶に由来する。したがって元来はルーシ人の同義語であるが、特に西ウクライナのウクライナ人の古称としても用いられる。
1911年にアメリカ合衆国で発行されたオーストリア=ハンガリー帝 国の地図。右上、黄緑色の Ruthenians の地域がルテニア人の居住地域。その地域には GALICIA と書かれており、 RUSSIA と書かれている地域︵ロシア帝国の領土に含まれる地域︶と明確に区別されている。後者の地域には、今日のウクライナも含まれる[1]。
英語やドイツ語、フランス語など西欧の文献では一般的な用語であるが、当のルーシ語や今日のウクライナ語、ベラルーシ語、ポーランド語、リトアニア語では、特にこの外名を選ぶ理由がなければ使われない。
一方、日本語での用法は西欧の用法とも東欧の用法とも異なっている。日本語文献ではポーランド・リトアニア共和国に居住したルーシ人をルテニア人と呼ぶこともないわけではないが、基本的にはオーストリア=ハンガリー帝国領となったガリツィア︵ハルィチナー︶・ヴォルィーニ・ブコヴィナ・カルパティア地方等に居住したウクライナ人だけを特に指す[2]。その一方で、より広義にウクライナに居住するルシン人などの少数民族やハンガリーなどほかのヨーロッパ諸国に居住するルーシ系︵ウクライナ系︶の少数民族がルテニア人と呼ばれる場合がある︵この場合も通常、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の旧領に居住する民族について言う︶[3]。ルシン人と書かれることがある[4]が、これが少数民族のルシン人がしばしば﹁ルテニア人﹂と書かれることもあり、混乱を招いている。また、日本語における研究ではキエフ大公国︵キエフ・ルーシ︶を﹁ルテニア﹂と呼ぶ習慣がないので、その時代のルーシ人をルテニア人と呼ぶのは一般的ではない︵西欧米の研究では呼ぶ場合がある︶。また、ロシア帝国領内の小ロシア人や白ロシア人をルテニア人と呼ぶのも一般的ではない。
概要
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﹁ルーシ﹂のラテン語名である﹁ルテニア﹂が使用されるとともに、﹁ルーシ人﹂のラテン語名である﹁ルテニア人﹂の名称も使われ始めた。すでに、キエフ・ルーシ時代の11世紀から12世紀の年代記には、この名称が用いられている。アウクスブルク年代記︵1089年︶における﹁ルテニア人の王﹂︵Rex Ruthenorum︶、ヘルドルドゥスによる﹁ルテニアの海﹂︵Mare Rutenum︶、サクソ・グラマティクスによる﹁ルテニア人﹂︵Ruteni︶がその例である。
15世紀から17世紀にかけては、ポーランド王国や西欧の歴史学者らがこの名称を用いた。ヤン・ドゥウゴシュとミェフフのマチェイは﹁モスクワ人﹂︵Moskouitae︶と区別して﹁ルテニア人﹂︵Ruteni︶という用語を用いたし、アレッサンドロ・グアニーニもこの用語を用いた。1596年には、ローマ教皇とローマ教皇庁の公文書において、東方典礼カトリック教会に所属するルーシ人︵ウクライナ人とベラルーシ人︶を指す名称として用いられた。
﹁ルテニア﹂という集合名称が地図上で確認されるのは、14世紀から18世紀にかけての紅ルーシやウクライナ全土の地図のいくつかと、20世紀に西欧で作成されたザカルパッチャ地方の地図のいくつかである。19世紀末から20世紀初頭にかけて、﹁ルテニア人﹂という名称および﹁ルテニア人の、ルテニアの﹂という形容詞は、ウクライナ語で рутени ︵名詞︶および рутенський ︵形容詞︶、ドイツ語で Ruthenen、フランス語で Ruthènes、英語で Ruthenians というように、多くの言語学者の研究において用いられた。この時代の代表的な研究者には、言語学を研究した O・M・オホノーウシクィイ、 Ye・I・ジェレヒーウシクィイ、 S・I・スマーリ=ストーツィクィイ、 T・ガルトナー、 B・G・ウンベガーウン、歴史学の分野では I・ボルシュチャークがいる。これらの学者が﹁ルーシ﹂ではなく﹁ルテニア﹂という用語を選んだ理由は、﹁ロシア人﹂を意味する русский というよく似た単語との区別をはっきりさせるためであった[注1]。同様の理由から、﹁ルーシ﹂と﹁ロシア﹂を明確に区別するために﹁ルテニア﹂という用語を選んだポーランド人研究者もいた︵O・ハレツキ︶。
19世紀後半には、民俗学の方針を巡るウクライナ人と保守派のルシン人との争いの中で、ルテニア人という意味の «рутени» という用語とともにその同義語である «рутенці» という用語が、あまりにオーストリア=ハンガリー政府に忠実なハルィチナーの要素を持った定語であるという皮肉と軽蔑のニュアンスを込めて用いられた。その互換性において、この名称は I・Ya・フランコー[5]や M・I・パウルィークによって用いられた。 «рутенці» という名称は、そこかしこで中央および東ウクライナの﹁小ロシア人﹂という名称に答えるものとして用いられた。
20世紀初頭には、ロシア帝国に取り込まれるのを防ぐ目的もあり、ルーマニア、チェコスロバキア、ハンガリーなどの東欧諸国に住んでいたウクライナ人は、その国の政府によって﹁ウクライナ人﹂と名乗るのを禁じられ、﹁ルテニア人﹂と呼ばれていた。
地理
編集脚注
編集出典
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(一)^ Distribution of Races in Austria-Hungary. In: William R. Shepherd: Historical Atlas. New York 1911.
(二)^ 以下の本文と脚注解説を参照。
●光吉淑江 著﹁ウクライナ史研究と﹁歴史なき民﹂概念について﹂、阪東宏 編﹃ポーランド史論集﹄三省堂、東京、1996年、339頁。ISBN 4-385-35767-6。﹁ハプスブルク帝国における<中略>ウクライナ人︵ルテニア人︶﹂
●光吉淑江﹁ウクライナ史研究と﹁歴史なき民﹂概念について﹂﹃ポーランド史論集﹄、349頁。﹁﹁ルテニア人﹂はガリツィア地方に住むウクライナ人を指す歴史的名称である。本稿では、エンゲルス、﹃新ライン新聞﹄が﹁ルテニア人﹂と表記しているので、それについて述べる場合に限り﹁ルテニア人﹂と表記する。その他の箇所では﹁ウクライナ人﹂と表し、この場合はロシア帝国下のウクライナ人とハプスブルグ帝国下のルテニア人両方を含む。﹂
●黒川祐次﹃物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国﹄中央公論新社、東京︿中公新書; 1655﹀、2002年、152頁。ISBN 4-121-01655-6。﹁またハーリチナではウクライナ人は、ルーシ人がラテン語化した﹁ルテニア人﹂という名前で呼ばれた。﹂
●チャールズ・ジェラヴィチ、バーバラ・ジェラヴィチ﹃バルカン史﹄木戸蓊日本語版監修、野原美代子訳、202頁。﹁ルテニア人 ウクライナ人の一派。カルパチア・ウクライナ地方や東ガリツィア地方がハプスブルク帝国の統治下におかれた一九世紀、それらの地方からヴォイヴォディナ地方などにも移住。カルパチア・ウクライナ人とも称される。﹂
従って、﹁ルテニア人﹂という用語には、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にない地域あるいは時代の﹁ルーシ人﹂は含まれていない。この意味では、例えばキエフ・ルーシ時代からポーランド・リトアニア時代までのルーシ人や、ロシア帝国領となった地域に住んでいた白ロシア人や小ロシア人は﹁ルテニア人﹂には含まれない。
●チャールズ・ジェラヴィチ、バーバラ・ジェラヴィチ﹃バルカン史﹄木戸蓊日本語版監修、野原美代子訳︵第1版第1刷︶、恒文社、1982年、24頁。ISBN 978-4770404633。﹁その時、ソ連は、一九一八年からルーマニア領で、多くのルテニア人が居住する北部および中部ブコヴィナ地方をも併合した﹂
●スティーヴン・クリソルド﹃ケンブリッジ版 ユーゴスラヴィア史﹄田中一生・柴宜弘・高田敏明訳︵第1版第1刷︶、恒文社、1980年、82頁。ISBN 978-4770403711。﹁植民者は帝国の他の地方からもたらされた大概はカトリック教徒で、主にドイツ人、ポーランド人、チェコ人、ルテニア人であった。﹂
●R.オーキー﹃東欧近代史﹄越村勲・南塚信吾・田中一生訳、1987年、205頁。﹁二十世紀初頭には、オーストリアに住むイタリア人、ルテニア人、スロヴェニア人の生活において、﹁大学問題﹂が激しい争点となった。﹂
●月村太郎﹃オーストリア=ハンガリーと少数民族問題﹄1994年、194頁。﹁ガリツィアにはポーランド人の他にルテニア人が存在していたが、帝国の指導者グループは、ポーランド人の民族リーダーであった大貴族に対して、帝国への忠誠と引き換えに、ガリツィアに大幅な自治を与えたのである。﹂
(三)^ 以下を参照。
●柴宜弘﹃バルカン史﹄山川出版社、東京︿世界各国史; 18﹀、1998年、15頁。ISBN 978-4634414808。﹁さらに、ハンガリー人、ロシア人、ウクライナ人、主としてカルパチア山脈の周辺地域に居住するルテニア人︵自称はルシン︶、アルメニア人、タタール人、イタリア人、チェコ人、スロヴァキア人、ポーランド人などが少数民族として存在している﹂
●塩川伸明﹃多民族国家ソ連の興亡I民族と言語﹄2004年、107頁。﹁ウクライナ西部ではルテニア人︵ルーシン人︶がウクライナ人とは異なる独自のアイデンティティーを主張しはじめているし、﹂
●ドラーゴ・ロクサンディチ﹃クロアティア=セルビア社会史断章﹄越村勲、1999年、58頁。﹁地図6 17世紀末ドナウ流域の民族分布 ルテニア人/ウクライナ人︵図︶﹂
●千田善﹃なぜ戦争は終わらないか ユーゴ問題で民族・紛争・国際政治を考える﹄2002年、21頁。﹁ボイボディナ自治州の民族構成 ルテニア人︵表︶﹂
●家田修﹁ウクライナ・ザカルパッチャ州現地調査から …ルシン人問題に寄せて…﹂﹃スラブ研究センターニュース79号 1999年 秋号﹄第79号、北海道大学スラブ研究センター、北海道・札幌市、1999年、2011年7月22日閲覧。
(四)^ 以下を参照。
●稲子恒夫﹃ロシアの20世紀﹄2007年、520頁。﹁7.6.…ルシーン人︵元オーストリア領のウクライナ人︶…のソ連への移住の協定﹂
(五)^ оп. «Ruteńcy», зб. оп. «Рутенці: типи гал. русинів із 60-их та 70-их pp. минулого в.», 1913.
参考文献
編集- Енциклопедія українознавства. У 10-х т. / Гол. ред. Володимир Кубійович. — Париж; Нью-Йорк: Молоде Життя, 1954—1989.
- Белей, Любомир (18 лютого, 2011). “Затоплені асиміляцією. Історія українців Словаччини: від незнання до безпам’ятства”. ウクライナの一週間 (Киев) (6 (171)). ISSN 19961561 2011年7月22日閲覧。.