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輸入車(ゆにゅうしゃ)とは、外国から輸入した車両のことである。特に自動車やオートバイについて述べる。
通常、左側通行国では右ハンドル車︵運転席が進行方向右側にある︶が使用され、右側通行国では左ハンドル車︵運転席が進行方向左側にある︶が使用される。すなわち運転席の位置は、それぞれ道路の内側である。これは、車両すれ違い時の安全性や右左折時・追い越し時などの視界、対向車の確認のしやすさなどを考慮した結果であり、デファクトスタンダードともなっている。法的規制がある国も多い。
全世界での左側通行圏と右側通行圏のおよその比率は人口比で34対66であり、道路総延長距離での比率は27.5対72.5となっている︵車両の通行側#左ハンドルと右ハンドル︶。右側通行圏が数の上では多数派であるが、世界各国への輸出を行い販売実績を競う自動車メーカーにとっては左側通行圏も大切な市場であり、輸出先の各国の状況にあわせ、同一の車種についても右ハンドル車と左ハンドル車の両方を設計・製造することが一般的である。通常、ハンドル位置にかかわらず組み立て・生産を同一の工場で行うことが多いが、場合によってはメルセデス・ベンツ、BMW、VW、フォードなどのように、南アフリカなどに右ハンドル車専用工場を建設し、現地を含む左側通行圏︵右ハンドル市場︶に製品を提供していることもある。
日本において左ハンドル仕様車が販売の主力になっている車種の例。フェラーリ・360モデナ(写真はイギリス仕様右ハンドル)
右ハンドル仕様車がメーカーによって製造されていたにもかかわらず、日本向けには左ハンドル仕様車のみが正規販売されていた車種の例。メルセデス・ベンツ・SLS AMG(写真はオーストラリア仕様右ハンドル)
日本国内では、自動車は左側通行をすることが道路交通法により規定されている。
しかし、日本では一部の輸入車が左ハンドル仕様のままで正規輸入・販売されており、これは世界的には特殊な例である。海外においては、ごく一部の例に限られている[注1]。これは﹁左ハンドル﹂に対し、ごく一部において﹁ステータスシンボル﹂﹁高級外国車の象徴﹂といった、自動車本来の機能とは無関係な要素を見出している日本独特の現象であり、輸入販売元がその嗜好にあわせ対応している結果である。通常とは逆側の、運転席が歩道側に面する自動車が、ごく一部であるとはいえそのような地位を得ていることは、先進国の中では日本のみであり、極めて特殊な現象といえる。これには本項にて記述するとおり、輸入車の受容に関する日本独特の歴史的経緯が原因である。
前述のとおり、第二次世界大戦以前の日本では、国内で販売されているほとんどの自動車が輸入車であるか、外国メーカーのライセンス生産により製造された車両であった。フォードとGMの日本国内工場において生産された車両も右ハンドル仕様車であった。
しかし、敗戦を迎えると進駐軍により、北米仕様そのままの軍用ジープ、そして大衆車のシボレーはもとより、ビュイック、キャデラック、リンカーンといった豪奢なアメリカ車が直接持ち込まれるようになった。そういった車両を目の当たりにした戦後すぐの日本人は、それら左ハンドルのアメリカ車に対し憧れとしてのイメージを形成した。それに加え、日本国内のマーケットにおいても、大衆車・実用車の市場は国内メーカーが受け持ち、高級車は欧米からの輸入車が受け持つという構造が早くから形作られていた。日本政府も特にハンドル位置に対する規制を設けなかったこともあり、﹁舶来物﹂のエキゾチックな印象、あるいは日本車に対する輸入車としての象徴︵ステータスシンボル︶として、日本人は﹁左ハンドル﹂に対し強い憧れを持ち続けることになった。
このため、かつては日本に輸入される大半の輸入車が、日本と同じ左側通行圏のイギリス車を含めて左ハンドル車であった。日本での大衆レベルへの販売に力を入れていたフォルクスワーゲンなどは1950年代から右ハンドル車を輸入︵輸入元はヤナセ︶していたが、これは稀な例であった。
1970年代、新設された排気ガス規制︵昭和50年排ガス規制 - 昭和53年排ガス規制︶に対し、大半の日本国外のメーカーは同等の規制をクリアしていた北米カリフォルニア州仕様車をベースにすることで対応したため、結果的にますます左ハンドル車が多くなることになった。
しかし、こうした象徴性も、日本において輸入車の存在が一般化すると、徐々に消滅してゆく。バブル景気に伴って市場が拡大した1980年代中盤、まずは欧州車を中心に右ハンドル車の導入が進んだ。ポルシェでも、1991年モデルからは全シリーズに右ハンドルモデルが設定されるようになった[1]。1993年︵平成5年︶には、クライスラーがジープ・チェロキーの日本仕様を右ハンドルに変更・投入した[注2]。戦後ビッグスリーのアメリカ生産車としては初めてとなる。
2000年代以降は、日本自動車輸入組合︵JAIA︶の統計調査によると、輸入車全体の8割超が右ハンドル車となっている。現在は右ハンドル車のみ輸入されている車種が販売の主力になっている。
従来、右ハンドルの輸入車には、ドライビングポジションや、ブレーキペダルに対して高すぎるアクセルペダル、操作感などに問題がある場合があったが、1990年代の半ばぐらいからメーカー側でも設計時点からの考慮、ドライブ・バイ・ワイヤなど操作系の電子化などにより大きな改善を見せており、それらの問題はほぼなくなった。
一方、心情として﹁輸入車は左ハンドルであるべき﹂という信仰を持っている人たちも根強く存在し、スポーツカーや高級車では左ハンドル仕様車のみ輸入されているケースがある。メーカーにより右ハンドル仕様車が製造されているにもかかわらず、それが日本向けとしては用意されない車種すら存在している。フェラーリやランボルギーニといった高級スポーツカーブランドは、日本向け右ハンドル自体は用意されているが、実際の販売では今なお左ハンドル仕様車が中心である。消費者側でも﹁左ハンドル車を乗り継いだことによる慣れ﹂[注3] を優先して左ハンドル車が選択されることも多く、イギリス車でも、イギリスから見て本来は右側通行圏向け輸出仕様車である左ハンドル仕様が販売・購入されるケースがある[2]。この場合、日本が左側通行であるという点はもちろん、イギリス車が本国では右ハンドル仕様であるという点すら考慮されていない。
メーカー側の事情もある。GMやフォードの北米生産車では、1990年代の後半には積極的に右ハンドル仕様車を用意したが、2000年代後半に入り再び左ハンドル車に戻した︵キャデラック・セヴィルの後継車種であるSTS、フォード・エクスプローラーがその代表例︶。これは、両メーカーの業績が悪化したため、右ハンドル車を設計・製造し世界市場へ展開する余力が無くなったからである。キャデラックSTSに関しては2008年モデルから右ハンドル仕様車が再投入されたものの、2015年時点では、右ハンドル仕様のキャデラックは用意されていない。
基本的には左右ハンドルが選べる車種は同一グレードの場合、同じ価格だが、例外として、マイバッハやアルピナ︵共にオプション扱いになるため、右ハンドル車が割高︶といった少数輸入される高級車があるが、一部には、低価格車としてはGM大宇・マティス︵こちらは左ハンドル車が割高︶の例があった。かつて輸入されていたアルファロメオ・156や、クライスラー・300C︵2006年モデルまでと2011年モデル︶は、装備品の違いにより同一グレードでも価格が異なっていた。
2022年現在においては、前述の通り右ハンドル仕様の販売が大半を占め﹁左ハンドル﹂への特別視はごく一部を除き消滅しつつある。これについては、日本市場への輸入車の普及が本格化・一般化したものとする意見もある。
ハンドルの位置にかかわらず、基本的にターンシグナルスイッチ(レバー)の位置は、日本車とは逆の左側となる[注 4]。これは国際標準化機構(ISO)で決められた規格に準拠したものである[注 6]。→ターンシグナルスイッチの位置
日本では、完成車に対する輸入関税は、1978年に撤廃されており、税制上は世界で最も解放された自由市場となっている。日本の乗用車輸入関税が0%であるのに対して、同じく自動車生産国であるアメリカ合衆国では2.5%、EUでは10.0%、韓国では8.0%の乗用車輸入関税を課しており、税制上では不公正な状態が続いている [1]。
日本では、古くから輸入車は高級車の代名詞であった。実際、現在でも輸入車は日本車の同クラスの車種の1.5倍〜2倍程度の価格設定がされている場合がある。
この価格設定の理由として、特に欧州では一般的に日本車と比べて同一車種のバリエーションが多く[注7]、ブランド戦略上から日本に輸入されるのは、同車種でも欧米ではオプションとなっているような機能[注8] や内装をフル装備とした高グレードのものが中心ということがある。
また、オペル・ザフィーラと、同型で装備が優っているにもかかわらず50-100万円も安価なスバル・トラヴィックとの価格差が話題になったことや、2009年頃からの円高、ドル・ユーロ安に於いても値下げが行われていないことから、日本人の舶来品信仰に乗じた価格の上乗せも指摘されている。
また、北米においての欧州車の販売価格は日本と比べると同車種でも半額〜3分の2程度であり︵日本で600〜800万円台であればアメリカで4〜5万ドル台。ブガッティ・ヴェイロンも日本での価格は1億7900万円だが、アメリカでは125万ドルである︶メルセデス・ベンツの後輪駆動モデルでも、低価格帯の車種︵2万ドル台から用意されているメルセデス・ベンツ・Cクラスなど︶であれば、物価の差を考慮する必要があるとはいえ、必ずしも高所得者層の所有物とは限らない。北米ではCクラスは日産のインフィニティ・G︵日産・スカイライン︶、トヨタのレクサス・ISと同価格帯である。
以下は同クラスにあたるフォルクスワーゲン・パサート、ホンダ・アコード、マツダ・アテンザの比較である。国によって販売されているエンジン、グレードが異なるので一概に比較するのは難しいが、同一車種はなるべく近い装備とエンジン、変速機を搭載したグレードになるようにした。選択したグレードと変速機は値段の下に付記してある。
販売国(通貨単位) |
VW・パサート 1.4L TSI ガソリン |
VW・パサート 2.0Lディーゼル |
ホンダ・アコード 2.0Lガソリン |
マツダ・アテンザ2.2Lディーゼル
|
イギリス(英ポンド) |
22,575 ハイライン、7速DSG、ナパレザー非装着 |
23,010 ハイライン、MT |
23,730 ES、AT |
26,695 Sports、175馬力、AT
|
ドイツ(ユーロ) |
34,500 ハイライン、7速DSG、ナパレザーパッケージ装着(+2,250) |
33,300 ハイライン、MT |
28,590 S、AT |
36,990 Sports-Line、175馬力、AT
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日本(円) |
3,740,000 ハイライン、7速DSG、ナパレザーパッケージ標準 |
- |
2,498,000 20TL、AT |
3,400,000 XD Lパッケージ、175馬力、AT
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日本以外の各国の傾向は概ね同じで、175馬力のディーゼルエンジンを搭載したアテンザのATが最も高い。元々ディーゼル車はガソリン車より高い傾向にあり、かつアテンザは19インチホイールやレザーシートを装備した最上級グレードのATである為。英と独においては、パサート1.4TSIはアテンザに対し何れも安価である。独ではオプションのナパレザーパッケージを選択したが、それでもアテンザに対して2400ユーロほど安い。しかし日本においては価格が逆転しており、パサート1.4TSIハイラインはアテンザに対し34万円高となっている。なお、日本のアテンザはグレード名は異なるものの、英独の「Sports」と名づけられたグレードと装備・スペックはほぼ等しい。
日本では、1965年に自動車の輸入が自由化された。以後、年間の新規登録台数は数万台規模で推移していたが、1980年代後半から急激に増加した。1996年、史上最高となる42万7525台でピークを迎えたが、2年後の1998年には27万5869台まで減少した。以後は日本車︵国産車︶の販売と同様、ゆるやかな減少傾向となっている。2006年の新規登録台数は26万2274台であり、乗用車販売に占める輸入車のシェアは7.9%であった︵以上、日本自動車輸入組合統計資料︶。
日本は自動車販売台数で世界第3位の規模を持つ巨大市場[5] であるにもかかわらず、第二次世界大戦後、日本で現地生産を行う日本国外の自動車メーカーは僅かしかいない[注9]。これは、アメリカ合衆国やEU︵欧州連合︶の市場との大きな相違である。結果として、日本においては﹁他国のメーカー︵ブランド︶の自動車=輸入車﹂という関係がほぼ例外なく成り立っている。そのため、輸入車を外国車と呼んだり、それをさらに短縮して外車と呼ぶこともある。
このような状況のため、日本国内においては、販売される自動車を﹁輸入車/日本車﹂と明確に区分するうえ、それぞれを異なる基準で評価・認識する傾向がある。
日本は、20世紀の初頭から自動車を輸入し始めていた。しかし当時の日本には自動車自体への需要が乏しく、売りづらい状況があった。外国商館が輸入していたが、アメリカでの価格に比べ、日本での卸値を通常4倍ほどに設定していた。そのため、日本の販売店は一般向けに販売する価格を設定することができなかった。買い手がつかずレンタカーにしようとしたが、それでも借り手がつかなかったという。そののち日本自動車株式会社が花柳界を中心に売り出したところ、ある程度の販売が見込めるようになったが、その反動で一般人からは金持ちの道楽だというイメージが焼きついてしまった。当時の一般人の憧れは、自動車ではなく豪華な馬車であったという。
しばらくして大正時代になる頃には、直接外国との取引に乗り出す日本の商社が現れるようになった。日本での販売価格が安くなったことで、商社という商社があらゆる自動車を輸入するようになり、商社で自動車を取り扱っていないところはないほどであった。ほとんど手当たり次第に各種の自動車が輸入され、その多くがタクシー用途に使われた。この頃の運転手は特殊技術者かつ花形職業であり、一方、自動車のセールスマンには運転手から転進する者が多かった。花柳界や大会社を相手に販売するセールスマンは一匹狼であり、丁々発止で大金を稼いだ︵いわゆるブローカー︶と言えた。パッカードのその年の新車の第1号車を購入するために、毎年複数人が全身全霊をかけて販売店経営者と営業を接待したとか、さらにそれらを出し抜くため、購入者自身がアメリカに乗り込み手続きをし、日本の輸入元が売った際の販売手数料もきちんと支払い、船賃滞在費などすべて合わせても接待するより安かったというような逸話が残っている。しかし、ほどなくして官公庁が自動車を求めるようになると信用が求められるようになり、見積書の提出も必要になったため、輸入代理店は会社として信用のあるところが残って行く。
1923年︵大正12年︶の関東大震災により路面電車が使えなくなった東京市︵当時︶が、代替バスのベース車両用にフォード社に1000台のT型を発注した。しかしフォードは800台しか対応できず、逆にここに商機をみたフォード社は1925年︵大正14年︶に横浜市子安に組立工場[注10]を建設し、日本市場の開拓に乗り出す。2年後、ゼネラルモーターズがフォードを追って、大阪市鶴町にシボレー組立工場︵日本ゼネラル・モータース︶を建設した。この2社により日本での初期のモータリゼーションが始まった。トラックやバスへの架装も多く、乗用車は主にタクシー用途に使われた。
しかし軍部の影響力が強まるに従い、戦時体制へと傾倒する中、先述のアメリカ2社は日本から撤退し、外国製品排斥の気運から、自動車の輸入自体も極端に減少していった。
第二次世界大戦の敗戦で、GHQ︵連合国軍最高司令官総司令部︶が日本で活動するようになると、GHQ関係者が使用するため、東京を中心に大量の車が持ち込まれた。当初はジープやトラックが多かったが、日本人はすぐに大量の洗練されたアメリカ車を目の当たりにした。日本人高官や企業関係者もそれらの高級車を使用するようになった。アメリカ車が多かったが、GHQ内でもスポーツカーを好む者は欧州製を持ち込む傾向が強かった。アメリカで乗られている自動車とはどのようなものなのかを日本人はこのとき知った。
1950年代から1960年代はアメリカ自動車産業の最盛期であり、アメリカ車は憧れの対象であった。しかし、1950年代当初の﹁乗用車生産を日本がすべきか否か﹂という国レベルでの大議論を経て、最終的に﹁すべき﹂と判断した国と自動車メーカーが技術取得のためにライセンス生産に選んだのは欧州車であった。1950年代は欧州車が日本のメーカーにより組立︵ノックダウン生産︶、および販売されていた時代であった。日本車︵国産車︶はマイナーな存在であり、品質や性能でも欧州車を下回っていたため、日本では乗用車イコール輸入車、という時代が続いていた。1950年代末ごろまでは乗用車販売のほとんど、つまり輸入車の多くがハイヤー・タクシー用途への販売だった。
1960年代後半、本格的なモータリゼーションを迎えるが、それを担ったのは大衆車を初めとする日本車であった。1970年代、2度のオイルショックを経て﹁大きい﹂、﹁燃費が悪い﹂などの理由でアメリカ車の人気は凋落した。輸入車への需要は、主要なアメリカ車に比べたら小振りで、操縦安定性などにおいて一日の長のあった欧州車へと移行した。1970年代半ばにはランボルギーニ・カウンタックに代表される﹁スーパーカーブーム﹂も起こり、日本車の普及とは対照的に、日本における輸入車は、﹁高価で高性能﹂﹁特別な自動車﹂となった。
1980年代後半、バブル景気とも相まって国民の懐に余裕が生まれ、日本車、輸入車共に販売台数は大幅に増加した。それまでは富裕層が主な購入ターゲットだった輸入車も、より広い層へとマーケットを広げるようになり、1985年には約5万台であった年間販売台数が1990年︵平成2年︶には約22万台と急増した [2]。同時期には、BMW3シリーズが﹁六本木のカローラ﹂、メルセデス・ベンツ・190Eが﹁小ベンツ︵こべんつ︶﹂﹁赤坂のサニー﹂などと皮肉られることもあった。
輸入車市場の拡大とともに海外メーカーは日本法人を設立、それまで日本国内の代理店に与えていた輸入権を移す動きが広がった[6]。BMWジャパン︵1981年︶を始め メルセデス・ベンツ︵1986年︶、フォルクスワーゲン・グループ︵1991年︶など、海外メーカーが設立した日本法人が、相次いで輸入者となって日本でのビジネスをコントロールするようになった。業界を代表する輸入代理店であったヤナセではフォルクスワーゲンの輸入権喪失とともに販売店契約も破棄したが、従来の日本資本輸入代理店の大半は、うまみの少ない一ディーラーとして事業を続ける道を選んだ[6]。一方では、トヨタ自動車がフォルクスワーゲン︵VW︶と提携しての同車販売店︵DUO店︶展開、マツダが同社のユーノス店でシトロエンとランチアを販売するなど、輸入車の販売網は拡大した。
しかしバブル崩壊に伴い、早くも1991年︵平成3年︶には輸入車販売は減少に転じた。主にアメリカとの貿易摩擦回避など政治的な意味合いで、ホンダによるジープ・チェロキーの販売︵1993年 - ︶、トヨタによるシボレー・キャバリエ︵トヨタ・キャバリエとして︶の販売︵1996年 - ︶などもあったが、販売成績上は低調なものに終わった。1996年︵平成8年︶、輸入車販売台数は史上最高を記録したが、これはホンダ・アコードワゴンなど、国外生産された日本メーカー車の販売増加に拠るところが大きかった。
2000年︵平成12年︶、久しぶりの新規参入メーカーとしてヒュンダイ︵現・ヒョンデ︶が韓国車としては初めて本格的に参入した[注11]。しかし販売は極めて低調で、参入から9年目の2009年︵平成21年︶の年間登録台数は501台︵日本自動車輸入組合統計︶に留まり、同年11月には日本での乗用車市場から撤退することを発表、翌2010年︵平成22年︶をもって日本での乗用車販売を正式に終了した。代わって2009年︵平成21年︶から大型バス﹁ヒュンダイ・ユニバース﹂が輸入・販売され、韓国に近い九州を中心とした一部のバス事業者が観光バスや高速乗合バス用に導入している。スカニアは2002年︵平成14年︶に日野自動車と提携してトラクターヘッドを輸入・販売していたが、2010年︵平成22年︶からはスカニアジャパンを発足させて日野との提携を解消、トラクターヘッドだけでなく連節バスや二階建てバスなどの輸入・販売も行っている。
輸入車販売は、2003年︵平成15年︶以降、4年連続での前年販売割れとなっている。そんな中、日産自動車やトヨタ自動車などが日本国内販売向けの一部車種を海外工場で生産し、日本に輸入しているため、日本自動車輸入組合の発表する﹁車名別輸入車︵乗用・貨物・バス合計︶登録台数﹂の上位に名前を列ねている。
韓国ではもともと自動車が通関禁止品目で、正規ルートでの購入は不可能であった。しかし、韓国在住の外国人が持ち込んだ乗用車が中古で出回っていたため、1984年には既に2900台程の海外製乗用車が存在していたことが確認されている。1987年7月には対米貿易摩擦を避ける期待の下、2000cc以上の乗用車に限り自由輸入を開始し、翌1988年には排気量の制限も撤廃された[10]。
1987年に輸入された乗用車は漢城自動車が輸入したメルセデス・ベンツの10台のみであったが、1990年には2325台まで増加した。その後日本の要求による諸税引き下げを経て1996年には10,315台まで増加し、BMWなどが韓国法人を設置するまでに至ったが、アジア通貨危機により1998年には2075台まで減少する。しかし、2002年には内需市場の1%を占めるようになり、2011年には輸入台数が10万台を突破、2012年には10%を占めるようになった[10]。
2015年には24万3900台︵国産157万9705台︶で台数、占有率︵約13.4%︶ともに過去最高の数値を記録したが[8]、2016年はフォルクスワーゲンの排ガス不正問題の影響により17年ぶりの減少︵22万5279台、占有率12.4%[13]︶となった[11]。
カンボジアでは新車・中古車の区別なく政令により右ハンドル車の輸入が禁止されている[14]。
ペルーでは左ハンドル車は輸入可能だが、右ハンドル車として製造されたものを左ハンドル車に改造した車両は輸入できない[14]。
コスタリカでは法律により右ハンドル車及び右ハンドル車の左ハンドル車への改造車の国内走行が禁止されており輸入もできない[14]。
パナマでは交通・陸上運輸庁決議により右ハンドル車及び右ハンドル車の左ハンドル車への改造車の国内走行が禁止されており輸入もできない[14]。
パラグアイでは法律により右ハンドル車の国内走行が禁止されており輸入もできない[14]。
ドミニカ共和国では右ハンドル車及び左ハンドル車を右ハンドル車に改造した車両の輸入が禁止されている[14]。
エジプトでは右ハンドル車の輸入が禁止されており、左ハンドル車の輸入も車齢条件等による制限がある[14]。
ウズベキスタンでは、閣僚会議決定により、右ハンドル車の登録と使用が禁止されており、右ハンドル車は輸入自体が禁止されている[14]。また、国産車販売促進のため輸入車のシェアも極めて低い[14]。
- 『別冊モーターサイクリスト』八重洲出版 2008年4月号 51-55p