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「カルロス・クライバー」の版間の差分

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| Name = カルロス・クライバー

| Name = カルロス・クライバー

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|宣伝=2018年12月

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'''カルロス・クライバー'''('''Carlos Kleiber'''、出生名:カール・ルートヴィヒ・クライバー({{Lang|de|Karl Ludwig Kleiber}})、[[1930年]][[7月3日]] [[ベルリン]]- [[2004年]][[7月13日]] [[:sl:Konjšica|コニシツァ]])は、[[ドイツ]]出身の[[指揮者]]。第二次世界大戦期に[[アルゼンチン]]に亡命し、後に父の国籍である[[オーストリア]]国籍を取得した(居住はしていない)。父は世界的な指揮者であった[[エーリヒ・クライバー]]。


''''''Carlos Kleiber{{Lang|de|Karl Ludwig Kleiber}}[[1930]][[73]] [[]] - [[2004]][[713]] [[:sl:Konjšica|]][[]][[]][[]][[]][[]]


== 人物・来歴 ==

==生涯==

===出生===

=== 出生 ===


[[]]Ruth GoodrichKarl[[|]][[]][[]][[]]

[[]]Ruth GoodrichKarl[[|]][[]][[]][[]]


===デビュー===

=== デビュー ===


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[[1950]][[]][[1952]][[]][[]][[|]][[]][[1954]][[]][[]] 


===世界的指揮者へ===

=== 世界的指揮者へ ===

その後、[[デュッセルドルフ]]、[[チューリッヒ]]、[[シュトゥットガルト]]などの歌劇場で第1指揮者を務め、[[1968年]]には[[バイエルン国立歌劇場]]の指揮者となり名声を確立する。[[1973年]]、ウィーン国立歌劇場に『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』でデビューし、翌年6月には[[ロンドン]]の[[ロイヤル・オペラ・ハウス|ロイヤル・オペラ]]に『[[ばらの騎士]]』で、7月には[[バイロイト音楽祭]]に『トリスタンとイゾルデ』でデビューを果たす。[[1978年]]には[[シカゴ交響楽団]]を指揮してアメリカデビュー。その後も世界の著名な歌劇場やオーケストラの指揮台に立つが、一度も特定の楽団や歌劇場と音楽監督などの常任契約を結ぶことなくフリーランスの立場に徹している。

その後、[[デュッセルドルフ]]、[[チューリッヒ]]、[[シュトゥットガルト]]などの歌劇場で第1指揮者を務め、[[1968年]]には[[バイエルン国立歌劇場]]の指揮者となり名声を確立する。[[1973年]]、ウィーン国立歌劇場に『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』でデビューし、翌年6月には[[ロンドン]]の[[ロイヤル・オペラ・ハウス|ロイヤル・オペラ]]に『[[ばらの騎士]]』で、7月には[[バイロイト音楽祭]]に『トリスタンとイゾルデ』でデビューを果たす。[[1978年]]には[[シカゴ交響楽団]]を指揮してアメリカデビュー。その後も世界の著名な歌劇場やオーケストラの指揮台に立つが、一度も特定の楽団や歌劇場と音楽監督などの常任契約を結ぶことなくフリーランスの立場に徹している。



===晩年===

=== 晩年 ===

1980年代後半から指揮の回数が2,3年に数回のペースとなってゆく(指揮したオーケストラは主にバイエルン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン・フィル、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィル]]など)。クライバーがどこかのオーケストラを指揮するというだけで大ニュースになり、首尾良く演奏会のチケットを入手しても当日、本当に彼が指揮台に立つまでは確かに聴くことができるか保証の限りではなかったが、多くのファンが彼の演奏会を待ち望んでいた。

1980年代後半から指揮の回数が2,3年に数回のペースとなってゆく(指揮したオーケストラは主にバイエルン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン・フィル、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィル]]など)。クライバーがどこかのオーケストラを指揮するというだけで大ニュースになり、首尾良く演奏会のチケットを入手しても当日、本当に彼が指揮台に立つまでは確かに聴くことができるか保証の限りではなかったが、多くのファンが彼の演奏会を待ち望んでいた。




[[1999]]12[[]]姿[[2004]]713 [[:en:Stanka Brezovar|Stanka Brezovar]][[]]<ref></ref>

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==逸話==

== 逸話 ==

クライバーはその指揮の回数の少なさに比例してレコーディングの数が極端に少なかったが、ウィーン・フィルとのベートーヴェンの交響曲第5番、[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|第7番]]と[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[交響曲第4番 (ブラームス)|交響曲第4番]](いずれも[[ドイツ・グラモフォン]]による録音)は、評判が高い。ウィーン・フィル以外の録音では、バイエルン国立管弦楽団を指揮したベートーヴェンの『[[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|交響曲第4番]]』が、発売当初から一大センセーションを巻き起こした。[[オペラ]]録音でも『[[魔弾の射手]]』『[[椿姫 (オペラ)|椿姫]]』『トリスタンとイゾルデ』(以上録音)『こうもり』(録音と映像)『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』(映像)『ばらの騎士』(映像2種)など数少ないものの、それぞれ各曲の代表的名演とされる演奏記録である<ref>たとえば、音楽之友社が数年置きに評論家アンケートを実施して発行している「名曲名盤300」2011年版では、彼の数少ない公式録音のうち、曲自体がマイナーなため対象外となったドヴォルザークのピアノ協奏曲を除く全ディスク(ただし、2点のニューイヤーコンサートライブは1巻にまとめられたもの)が各作品の1位を占め、しかも大部分は他を圧した高得点を得ている。これには映像ソフトしか存在しないモーツァルトやリヒャルト・シュトラウスは含まれない。</ref>。しかし『[[ラ・ボエーム (プッチーニ)|ラ・ボエーム]]』など多くの録音セッションがクライバー自身の放棄により中断してしまっている。その正規録音の少なさに比例して、放送録音やファンによる会場録音から製作された多くの[[ブートレグ|海賊盤]]が市場に出回っている。彼はある時期(1970年代頃か)からレパートリーを少なく限定し、リハーサルの時間を同時代の[[セルジュ・チェリビダッケ|チェリビダッケ]]<ref>ちなみにカルロスは彼の演奏が大のお気に入りだったようで、彼の海賊版CDを多く持っていることを密かに自慢していたという。そしてチェリビダッケの毒舌が新聞の記事を賑わせた際に、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]になりすまし反論のテレックスを打ったことがある。</ref>に匹敵するほど(通常の倍以上)多くとり、自分の意に沿わないとわかった仕事は次々とキャンセルするという仕事のスタイルを採り続けた。これはかえってカリスマ的人気を煽り、キャンセルにより代替指揮者が立つリスクがあるにもかかわらず、常にチケットは瞬時で売り切れた。

クライバーはその指揮の回数の少なさに比例してレコーディングの数が極端に少なかったが、ウィーン・フィルとのベートーヴェンの交響曲第5番、[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|第7番]]と[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[交響曲第4番 (ブラームス)|交響曲第4番]](いずれも[[ドイツ・グラモフォン]]による録音)は、評判が高い。ウィーン・フィル以外の録音では、バイエルン国立管弦楽団を指揮したベートーヴェンの『[[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|交響曲第4番]]』が、発売当初から一大センセーションを巻き起こした。[[オペラ]]録音でも『[[魔弾の射手]]』『[[椿姫 (オペラ)|椿姫]]』『トリスタンとイゾルデ』(以上録音)『こうもり』(録音と映像)『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』(映像)『ばらの騎士』(映像2種)など数少ないものの、それぞれ各曲の代表的名演とされる演奏記録である<ref>たとえば、音楽之友社が数年置きに評論家アンケートを実施して発行している「名曲名盤300」2011年版では、彼の数少ない公式録音のうち、曲自体がマイナーなため対象外となったドヴォルザークのピアノ協奏曲を除く全ディスク(ただし、2点のニューイヤーコンサートライブは1巻にまとめられたもの)が各作品の1位を占め、しかも大部分は他を圧した高得点を得ている。これには映像ソフトしか存在しないモーツァルトやリヒャルト・シュトラウスは含まれない。</ref>。しかし『[[ラ・ボエーム (プッチーニ)|ラ・ボエーム]]』など多くの録音セッションがクライバー自身の放棄により中断してしまっている。その正規録音の少なさに比例して、放送録音やファンによる会場録音から製作された多くの[[ブートレグ|海賊盤]]が市場に出回っている。彼はある時期(1970年代頃か)からレパートリーを少なく限定し、リハーサルの時間を同時代の[[セルジュ・チェリビダッケ|チェリビダッケ]]<ref>ちなみにカルロスは彼の演奏が大のお気に入りだったようで、彼の海賊版CDを多く持っていることを密かに自慢していたという。そしてチェリビダッケの毒舌が新聞の記事を賑わせた際に、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]になりすまし反論のテレックスを打ったことがある。</ref>に匹敵するほど(通常の倍以上)多くとり、自分の意に沿わないとわかった仕事は次々とキャンセルするという仕事のスタイルを採り続けた。これはかえってカリスマ的人気を煽り、キャンセルにより代替指揮者が立つリスクがあるにもかかわらず、常にチケットは瞬時で売り切れた。



ドイツ系の若手指揮者不足が問題化された時期でもあり、カルロスは数少ない希望の星として<!--<ref>{{独自研究範囲|date=2019-6|同世代のドイツ系指揮者としては、[[ニコラウス・アーノンクール]]はまだ古楽専門家と見なされており、[[クリストフ・フォン・ドホナーニ]]は後年ほど国際的名声は得られていなかった。早くにドイツを離れた[[アンドレ・プレヴィン]]は、元々外国人系でもあり既にアメリカ人指揮者と見なされていた。やや下の世代でも[[クリストフ・エッシェンバッハ]]はまだピアニストのイメージが強く、[[テオドール・グシュルバウアー]]もややローカルな活動にどどまっていた。少し上の[[クラウス・テンシュテット]]が急速に台頭し始めた時期とはいえ、70年代後半のドイツ人若手としてはカルロスは孤高ともいえる存在であった。}}</ref>-->ベルリン・フィルの後任音楽監督候補に擬せられたこともあるが、彼自身はそうした期待とはまったく逆の方向へと走っていったといえる<ref>カラヤンが亡くなった際、ベルリン・フィルの団員の強い希望で彼を首席指揮者に据えようという話が上がった。しかしカルロス本人に全くその気がなかったため話は流れ、結局「では[[クラウディオ・アバド|アバド]]でどうか」という提案にすんなり落ち着いたと言われる。</ref>。クライバー自身は[[インタビュー]]嫌いで有名であり、自身の信条を開陳することはめったになかったが、親交のあった[[レナード・バーンスタイン|バーンスタイン]]に「'''私は庭の野菜のように太陽を浴びて成長し、食べて、飲み、愛し合いたいだけ<!--I want to eat and drink and sleep and make love and that's it.のmake loveを「眠る」と訳すのは無理-->'''<!--<ref>英訳ではmake loveとあるので、もう少し性的な意味が含まれる可能性もある。実際、カルロスにはプレイボーイな面もあったようである。</ref>-->」とこぼしている。しかし、その舞台回数の少なさは、彼のこと音楽に関する極度の神経過敏<ref>特に本番前は非常にナーバスな状態になっていたようである。それを例証するものとして以下のようなエピソードがある。1970年代、バイエルン国立歌劇場との「ばらの騎士」の本番前に、同劇場の音楽監督であった[[ヴォルフガング・サヴァリッシュ]]が彼の楽屋を訪れた。二人は丁寧な挨拶をし、篤い握手を交わし、舞台袖までサヴァリッシュはついて行った。カルロスは開演が近づくにつれ狼狽しはじめたが、サヴァリッシュが「大丈夫だから!」と背中を押して無理やり指揮台へと向かわせたという。</ref>と、父エーリヒと比較されることへの恐怖心から来るものといわれている。

ドイツ系の若手指揮者不足が問題化された時期でもあり、カルロスは数少ない希望の星として<!--<ref>{{独自研究範囲|date=2019-6|同世代のドイツ系指揮者としては、[[ニコラウス・アーノンクール]]はまだ古楽専門家と見なされており、[[クリストフ・フォン・ドホナーニ]]は後年ほど国際的名声は得られていなかった。早くにドイツを離れた[[アンドレ・プレヴィン]]は、元々外国人系でもあり既にアメリカ人指揮者と見なされていた。やや下の世代でも[[クリストフ・エッシェンバッハ]]はまだピアニストのイメージが強く、[[テオドール・グシュルバウアー]]もややローカルな活動にどどまっていた。少し上の[[クラウス・テンシュテット]]が急速に台頭し始めた時期とはいえ、70年代後半のドイツ人若手としてはカルロスは孤高ともいえる存在であった。}}</ref>-->ベルリン・フィルの後任音楽監督候補に擬せられたこともあるが、彼自身はそうした期待とはまったく逆の方向へと走っていったといえる<ref>カラヤンが亡くなった際、ベルリン・フィルの団員の強い希望で彼を首席指揮者に据えようという話が上がった。しかしカルロス本人に全くその気がなかったため話は流れ、結局「では[[クラウディオ・アバド|アバド]]でどうか」という提案にすんなり落ち着いたと言われる。</ref>。クライバー自身は[[インタビュー]]嫌いで有名であり、自身の信条を開陳することはめったになかったが、親交のあった[[レナード・バーンスタイン|バーンスタイン]]に「'''私は庭の野菜のように太陽を浴びて成長し、食べて、飲み、愛し合いたいだけ<!--I want to eat and drink and sleep and make love and that's it.のmake loveを「眠る」と訳すのは無理-->'''<!--<ref>英訳ではmake loveとあるので、もう少し性的な意味が含まれる可能性もある。実際、カルロスにはプレイボーイな面もあったようである。</ref>-->」とこぼしている。しかし、その舞台回数の少なさは、彼のこと音楽に関する極度の神経過敏<ref>特に本番前は非常にナーバスな状態になっていたようである。それを例証するものとして以下のようなエピソードがある。1970年代、バイエルン国立歌劇場との「ばらの騎士」の本番前に、同劇場の音楽監督であった[[ヴォルフガング・サヴァリッシュ]]が彼の楽屋を訪れた。二人は丁寧な挨拶をし、篤い握手を交わし、舞台袖までサヴァリッシュはついて行った。カルロスは開演が近づくにつれ狼狽しはじめたが、サヴァリッシュが「大丈夫だから!」と背中を押して無理やり指揮台へと向かわせたという。</ref>と、父エーリヒと比較されることへの恐怖心から来るものといわれている。



===ウィーン・フィル===

=== ウィーン・フィル ===

クライバーが指揮した数少ないオーケストラの一つであるウィーン・フィルは、1974年に[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の「[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]」のレコーディング・セッションで初共演して以来、良好な関係を保ち続けるであろうと思われたが、[[1982年]]12月にベートーヴェンの「交響曲第4番」を練習中、意見の相違で楽員と対立し、定期演奏会をキャンセルしてしまう(「テレーズ事件」と呼ばれている<ref>テレーズ事件とは、クライバーがウィーン・フィルとベートーヴェンの交響曲第4番をレコーディングしていた際に起こった事件のことである。第2楽章の伴奏のフレーズを「テレーズ、テレーズ」というリズムで演奏するようクライバーは指示したのだが、オケは「マリー、マリー」としか演奏できなかった(セッションだったためリハーサルからレコーダーが回っており、没後制作のドキュメンタリー"I am lost to the World"で初めて紹介。「何故この通りに出来ないのか」など苛立ったクライバーの様子が聴く事が出来る)。そのためクライバーは指揮棒を真っ二つに折って帰ってしまったという。なお、レコーディングを引き継いだのは[[ロリン・マゼール|マゼール]]だったが、事情を聞いた彼は「それじゃあ私はマゼール、マゼールでいってみようか」と冗談めかしたという。カルロス指揮の歌劇公演を招聘し個人的にも親交のあった佐々木忠次は著書の中でカルロス本人から電話で「ウィーン・フィルと日本に行くつもりだったが、団員と喧嘩したので予定されていた日本公演では指揮したくない」と経緯を聞き、カルロスと関係の良好だったバイエルン国立管弦楽団との86年の来日を企画したと記している。</ref>)。6年間の空白の後、[[1988年]]3月に和解して再び指揮台に立ち、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[交響曲第36番 (モーツァルト)|交響曲第36番「リンツ」]]と[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[交響曲第2番 (ブラームス)|交響曲第2番]]で、このときはあまりの練習の多さでミスが目立ったが、以来回数は決して多くないものの演奏を繰り広げた。[[1989年]]と[[1992年]]にはウィーン・フィルの有名な[[ニューイヤーコンサート]]を指揮している<ref>カルロスの没後ウィーン・フィルは定期演奏会(2004年9月)でカルロス哀悼のため、[[ニコラウス・アーノンクール]](カルロスと同じベルリン生まれで1歳年上)の指揮で、「[[フリーメイソンのための葬送音楽|フリーメイスン葬送音楽]]」を演奏した。</ref>。

クライバーが指揮した数少ないオーケストラの一つであるウィーン・フィルは、1974年に[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の「[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]」のレコーディング・セッションで初共演して以来、良好な関係を保ち続けるであろうと思われたが、[[1982年]]12月にベートーヴェンの「交響曲第4番」を練習中、意見の相違で楽員と対立し、定期演奏会をキャンセルしてしまう(「テレーズ事件」と呼ばれている<ref>テレーズ事件とは、クライバーがウィーン・フィルとベートーヴェンの交響曲第4番をレコーディングしていた際に起こった事件のことである。第2楽章の伴奏のフレーズを「テレーズ、テレーズ」というリズムで演奏するようクライバーは指示したのだが、オケは「マリー、マリー」としか演奏できなかった(セッションだったためリハーサルからレコーダーが回っており、没後制作のドキュメンタリー"I am lost to the World"で初めて紹介。「何故この通りに出来ないのか」など苛立ったクライバーの様子が聴く事が出来る)。そのためクライバーは指揮棒を真っ二つに折って帰ってしまったという。なお、レコーディングを引き継いだのは[[ロリン・マゼール|マゼール]]だったが、事情を聞いた彼は「それじゃあ私はマゼール、マゼールでいってみようか」と冗談めかしたという。カルロス指揮の歌劇公演を招聘し個人的にも親交のあった佐々木忠次は著書の中でカルロス本人から電話で「ウィーン・フィルと日本に行くつもりだったが、団員と喧嘩したので予定されていた日本公演では指揮したくない」と経緯を聞き、カルロスと関係の良好だったバイエルン国立管弦楽団との86年の来日を企画したと記している。</ref>)。6年間の空白の後、[[1988年]]3月に和解して再び指揮台に立ち、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[交響曲第36番 (モーツァルト)|交響曲第36番「リンツ」]]と[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[交響曲第2番 (ブラームス)|交響曲第2番]]で、このときはあまりの練習の多さでミスが目立ったが、以来回数は決して多くないものの演奏を繰り広げた。[[1989年]]と[[1992年]]にはウィーン・フィルの有名な[[ニューイヤーコンサート]]を指揮している<ref>カルロスの没後ウィーン・フィルは定期演奏会(2004年9月)でカルロス哀悼のため、[[ニコラウス・アーノンクール]](カルロスと同じベルリン生まれで1歳年上)の指揮で、「[[フリーメイソンのための葬送音楽|フリーメイスン葬送音楽]]」を演奏した。</ref>。



===リハーサル===

=== リハーサル ===

映像に残る彼のリハーサル風景は、楽員に対し彼の音楽解釈を比喩的な表現を用いて事細かく説明するものである(この点に関して父エーリヒも同様だったという)。またリハーサルの前には必ず作曲家の自筆譜を調べ、他の演奏家による録音を入手して演奏解釈をチェックし、また父エーリヒが使用した総譜を研究するなど入念に準備を行った。しかし極めて緻密なリハーサルに対し、本番はバレエを連想させるような独特の流麗優美な指揮姿<ref>評論家吉田秀和は著書「オペラ・ノート」([[白水社]])の中で「世界でいちばん優雅な指揮者」と評している。</ref>で、観客を(そしてオーケストラの楽員や同僚の音楽家までも)魅了してやまなかった(それらは幸い多くの映像に残されており、オペラ映像では舞台上で歌が続く最中にピットの指揮姿だけを1分以上映し続けるという、常識ではありえない編集が行われているものもある)。その指揮から溢れ出る音楽は、めくるめくスピード感、快刀乱麻のごときリズム感、色彩の鮮やかさ、詩情の美しさで群を抜いており、世間からしばしば「天才指揮者」と称せられた。またその疾走するような若々しさから、カルロスは常に新時代をリードする音楽家とされてきたが、実際はオーケストラを対向配置(第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが左右に向き合う配置)にしたり<ref>厳密に言えば単純な対向配置ではなく、舞台正面に対して左から1stヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、2ndヴァイオリンという並びにしている場合が多い。これは現代オーケストラが標準とする1st、2nd、ヴィオラ、チェロといういわゆるストコフスキー・シフトが考案される以前最も多かった配置であり、高音から低音までブレンドされた濃厚な音色になるのが特徴である。</ref>、楽譜に改変を行ったり、楽曲のある部分では弦楽器の弓使いを[[プルト]]ごとに上下逆に弾かせるといった、第2次世界大戦以前に盛んだった方式を用いることが多く、父エーリヒの強い影響の下に旧時代の指揮者たちの流れを汲んでいると見るのが妥当である。オーケストラの[[パート譜]]は自分で所有して[[ボウイング]]など細かい指示を書き込んで常にそれをリハーサルで使わせたという話である<ref>自分が所有するパート譜を使わせるのも、[[ブルーノ・ワルター]]ら19世紀生まれの大指揮者達が行っていたことである。ただしカルロスがウィーン楽友協会の資料室を頻繁に訪れ、作曲家の自筆資料を調べていた事を館長のオットー・ビーバ博士が証言しており、父からの遺産だけに頼らず独自に楽譜や解釈に磨きをかける努力を重ねていた事が判る。金子建志はベートーヴェンの交響曲第5番のウィーン・フィル盤で第1楽章34小節のホルンに朝顔状の極端なクレッシェンドを付けて吹かせている点に言及し、自筆スコアなどベートーヴェンが関わった初期資料にしか存在せず当時普及していた楽譜(ブライトコプフ&ヘルテル社のベートーヴェン全集に基づく)では落とされていたクレッシェンドの反映が自筆スコアを研究した成果であると指摘している。他にもベートーヴェンの交響曲では4番第4楽章のティンパニ、7番第2楽章最後のヴァイオリンのピツィカート、シューベルトの『未完成』でも多くのデクレッシェンドをアクセントと読んている点など自筆資料の研究成果とみられる。全てピリオド楽器のオーケストラによって考証と演奏が行われる前の事である。</ref>。

映像に残る彼のリハーサル風景は、楽員に対し彼の音楽解釈を比喩的な表現を用いて事細かく説明するものである(この点に関して父エーリヒも同様だったという)。またリハーサルの前には必ず作曲家の自筆譜を調べ、他の演奏家による録音を入手して演奏解釈をチェックし、また父エーリヒが使用した総譜を研究するなど入念に準備を行った。しかし極めて緻密なリハーサルに対し、本番はバレエを連想させるような独特の流麗優美な指揮姿<ref>評論家吉田秀和は著書「オペラ・ノート」([[白水社]])の中で「世界でいちばん優雅な指揮者」と評している。</ref>で、観客を(そしてオーケストラの楽員や同僚の音楽家までも)魅了してやまなかった(それらは幸い多くの映像に残されており、オペラ映像では舞台上で歌が続く最中にピットの指揮姿だけを1分以上映し続けるという、常識ではありえない編集が行われているものもある)。その指揮から溢れ出る音楽は、めくるめくスピード感、快刀乱麻のごときリズム感、色彩の鮮やかさ、詩情の美しさで群を抜いており、世間からしばしば「天才指揮者」と称せられた。またその疾走するような若々しさから、カルロスは常に新時代をリードする音楽家とされてきたが、実際はオーケストラを対向配置(第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが左右に向き合う配置)にしたり<ref>厳密に言えば単純な対向配置ではなく、舞台正面に対して左から1stヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、2ndヴァイオリンという並びにしている場合が多い。これは現代オーケストラが標準とする1st、2nd、ヴィオラ、チェロといういわゆるストコフスキー・シフトが考案される以前最も多かった配置であり、高音から低音までブレンドされた濃厚な音色になるのが特徴である。</ref>、楽譜に改変を行ったり、楽曲のある部分では弦楽器の弓使いを[[プルト]]ごとに上下逆に弾かせるといった、第2次世界大戦以前に盛んだった方式を用いることが多く、父エーリヒの強い影響の下に旧時代の指揮者たちの流れを汲んでいると見るのが妥当である。オーケストラの[[パート譜]]は自分で所有して[[ボウイング]]など細かい指示を書き込んで常にそれをリハーサルで使わせたという話である<ref>自分が所有するパート譜を使わせるのも、[[ブルーノ・ワルター]]ら19世紀生まれの大指揮者達が行っていたことである。ただしカルロスがウィーン楽友協会の資料室を頻繁に訪れ、作曲家の自筆資料を調べていた事を館長のオットー・ビーバ博士が証言しており、父からの遺産だけに頼らず独自に楽譜や解釈に磨きをかける努力を重ねていた事が判る。金子建志はベートーヴェンの交響曲第5番のウィーン・フィル盤で第1楽章34小節のホルンに朝顔状の極端なクレッシェンドを付けて吹かせている点に言及し、自筆スコアなどベートーヴェンが関わった初期資料にしか存在せず当時普及していた楽譜(ブライトコプフ&ヘルテル社のベートーヴェン全集に基づく)では落とされていたクレッシェンドの反映が自筆スコアを研究した成果であると指摘している。他にもベートーヴェンの交響曲では4番第4楽章のティンパニ、7番第2楽章最後のヴァイオリンのピツィカート、シューベルトの『未完成』でも多くのデクレッシェンドをアクセントと読んている点など自筆資料の研究成果とみられる。全てピリオド楽器のオーケストラによって考証と演奏が行われる前の事である。</ref>。



==評価==

== 評価 ==


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20[[]]19818204[[|]]<ref></ref>[[]][[|]][[|]][[ ()|]]


==来日==

== 来日 ==


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[[1974]][[1981]][[1986]][[1988]][[1994]]<ref>[[]][[|]][[]]1992</ref>1992[[|]]

===来日演奏会===

====1974年====

=== 来日演奏会 ===

==== 1974年 ====

* 共演楽団:バイエルン国立歌劇場

* 共演楽団:バイエルン国立歌劇場

* 日程:9月24日〜10月9日

* 日程:9月24日〜10月9日

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* 初来日公演

* 初来日公演



====1981年====

==== 1981年 ====

* 共演楽団:ミラノスカラ座

* 共演楽団:ミラノスカラ座

* 日程:9月2日〜30日

* 日程:9月2日〜30日

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* エピソード:9月25日、大阪フェスティバルホールで行われたプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」の公演でとんでもないハプニングがあった。第四幕、クライバーのタクトの元、胸を病んだ薄幸のヒロイン、ミミが瀕死の床で最後の力を振り絞って歌い、観客の涙をさそっているその場面で、突然舞台裏から動物の鳴き声が会場中に響き渡った。その動物の正体は第二幕で登場したロバ。通常は会場の外に出しているのだが、外は激しい雨が降っており、そのためスタッフがロバが濡れないように中に入れていたために起こったハプニングだった。クライバーは終演後、このハプニングに怒るどころか、にこっと笑い「いやあ、今日は思いがけない二人目のテノールの競演というおまけがついたね」とユーモアたっぷりに答えたという。

* エピソード:9月25日、大阪フェスティバルホールで行われたプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」の公演でとんでもないハプニングがあった。第四幕、クライバーのタクトの元、胸を病んだ薄幸のヒロイン、ミミが瀕死の床で最後の力を振り絞って歌い、観客の涙をさそっているその場面で、突然舞台裏から動物の鳴き声が会場中に響き渡った。その動物の正体は第二幕で登場したロバ。通常は会場の外に出しているのだが、外は激しい雨が降っており、そのためスタッフがロバが濡れないように中に入れていたために起こったハプニングだった。クライバーは終演後、このハプニングに怒るどころか、にこっと笑い「いやあ、今日は思いがけない二人目のテノールの競演というおまけがついたね」とユーモアたっぷりに答えたという。



====1986年====

==== 1986年 ====

* 共演楽団:バイエルン国立歌劇場管弦楽団

* 共演楽団:バイエルン国立歌劇場管弦楽団

* 日程:5月9日〜19日

* 日程:5月9日〜19日

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* 519NHK1986

* 519NHK1986


====1988年====

==== 1988年 ====

* 共演楽団:ミラノスカラ座

* 共演楽団:ミラノスカラ座

* 日程:9月16日〜30日

* 日程:9月16日〜30日

* 演目:プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」

* 演目:プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」



====1992年====

==== 1992年 ====

* 共演楽団:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

* 共演楽団:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

* 本人の体調不良によりキャンセル。代行指揮者は[[ジュゼッペ・シノーポリ|シノーポリ]]が務めた。

* 本人の体調不良によりキャンセル。代行指揮者は[[ジュゼッペ・シノーポリ|シノーポリ]]が務めた。



====1994年====

==== 1994年 ====

* 共演楽団:ウィーン国立歌劇場

* 共演楽団:ウィーン国立歌劇場

* 日程:10月7日〜20日

* 日程:10月7日〜20日

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** 1020

** 1020


==ディスコグラフィ==

== ディスコグラフィ ==

前述の通り、クライバーが極端にレコーディングを避けていたため、正規の音源は以下のもので全てである(初出[[レーザーディスク|LD]]と記した映像ソースはすべてのちに[[DVD]]化されている)。ただし、レコーディングはしたもののクライバーが発売を差し止めたという音源も存在するため、これからそういった音源が発掘されて、正規盤として発売される可能性は大いにある(ちなみにその差し止めとなった音源には[[リヒャルト・シュトラウス]]「[[英雄の生涯]]」や「ばらの騎士」などがある)。オペラの公演映像についても同様である。また、リハーサルは開始されたものの中断され、レコーディングに至らなかったものとしては、[[アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ]]とのベートーヴェン「皇帝」などがある。数少ない正規録音の中で最大の比率を占めるのがヨハン・シュトラウスであり、たとえ同じ作曲家であっても、嗜好の合わない曲を演奏するのを避けたクライバーにあっては異例なことである。他に、1970年にシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮した「魔弾の射手」「こうもり」の各序曲のリハーサルを収録したTV番組がDVD化されており、本番も収録されているので、これも正規録音に含めることが可能である。「こうもり」序曲は、ソフト化はされていないが1986年来日公演のものもNHKが収録放映しており、3つのオーケストラによる4つのライブ映像(うち1つは全曲公演のピット)と1つのスタジオ録音が流通している状態である。

前述の通り、クライバーが極端にレコーディングを避けていたため、正規の音源は以下のもので全てである(初出[[レーザーディスク|LD]]と記した映像ソースはすべてのちに[[DVD]]化されている)。ただし、レコーディングはしたもののクライバーが発売を差し止めたという音源も存在するため、これからそういった音源が発掘されて、正規盤として発売される可能性は大いにある(ちなみにその差し止めとなった音源には[[リヒャルト・シュトラウス]]「[[英雄の生涯]]」や「ばらの騎士」などがある)。オペラの公演映像についても同様である。また、リハーサルは開始されたものの中断され、レコーディングに至らなかったものとしては、[[アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ]]とのベートーヴェン「皇帝」などがある。数少ない正規録音の中で最大の比率を占めるのがヨハン・シュトラウスであり、たとえ同じ作曲家であっても、嗜好の合わない曲を演奏するのを避けたクライバーにあっては異例なことである。他に、1970年にシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮した「魔弾の射手」「こうもり」の各序曲のリハーサルを収録したTV番組がDVD化されており、本番も収録されているので、これも正規録音に含めることが可能である。「こうもり」序曲は、ソフト化はされていないが1986年来日公演のものもNHKが収録放映しており、3つのオーケストラによる4つのライブ映像(うち1つは全曲公演のピット)と1つのスタジオ録音が流通している状態である。



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* シュトラウス:楽劇「ばらの騎士」(全曲)、初出:2008年10月(SACD) バイエルン国立管弦楽団この演奏はバイエルンだけで通算82回演奏されたうちの1973年7月13日のミュンヘン・オペラ祭に録音されたもののライヴで、ヴィデオのものとは違う音源。

* シュトラウス:楽劇「ばらの騎士」(全曲)、初出:2008年10月(SACD) バイエルン国立管弦楽団この演奏はバイエルンだけで通算82回演奏されたうちの1973年7月13日のミュンヘン・オペラ祭に録音されたもののライヴで、ヴィデオのものとは違う音源。



==ドキュメンタリー==

== ドキュメンタリー ==

* Georg Wubbolt 『Ich bin der Welt abhanden gekommen』(邦題『アイ・アム・ロスト・トゥ・ザ・ワールド』、2011年)

* Georg Wubbolt 『Ich bin der Welt abhanden gekommen』(邦題『アイ・アム・ロスト・トゥ・ザ・ワールド』、2011年)



==文献==

== 参考文献 ==

* 『カルロス・クライバー』([[木之下晃]]写真集)、アルファベータ、2004年 ISBN 4-87198-533-4

* 『カルロス・クライバー』([[木之下晃]]写真集)、アルファベータ、2004年 ISBN 4-87198-533-4



==脚注==

== 脚注 ==

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=== 注釈・出典 ===

<div class="references-small"><references /></div>

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2019年11月4日 (月) 10:38時点における版

カルロス・クライバー
ファイル:Carlos Kleiber.jpg
カルロス・クライバー
基本情報
出生名 カール・ルートヴィヒ・クライバー
Karl Ludwig Bonifacius Kleiber
生誕 (1930-07-03) 1930年7月3日
出身地 ドイツの旗 ドイツ国ベルリン
死没 (2004-07-13) 2004年7月13日(74歳没)
スロベニアの旗 スロベニアリティヤ市 コシニツァ
学歴 スイス連邦工科大学チューリヒ校
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
活動期間 1954年 - 1999年
レーベル ドイツ・グラモフォン

Carlos KleiberKarl Ludwig Kleiber193073  - 2004713 

人物・来歴

出生


Ruth GoodrichKarl

デビュー


195019521954 

世界的指揮者へ


119681973671978

晩年


198023

199912姿2004713 Stanka Brezovar[1]74

逸話


5744椿2[2]1970[3]沿

[4][5]

ウィーン・フィル


197451982124[6]61988336219891992[7]

リハーサル


調使姿[8]姿112[9]使2使[10]

評価


2019818204[11]

来日


19741981198619881994[12]1992

来日演奏会

1974年

  • 共演楽団:バイエルン国立歌劇場
  • 日程:9月24日〜10月9日
  • 演目:リヒャルト・シュトラウス 楽劇「ばらの騎士」
  • 初来日公演

1981年

  • 共演楽団:ミラノスカラ座
  • 日程:9月2日〜30日
  • 演目:ヴェルディ 歌劇「オテロ」
  • 演目:プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」
  • エピソード:9月25日、大阪フェスティバルホールで行われたプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」の公演でとんでもないハプニングがあった。第四幕、クライバーのタクトの元、胸を病んだ薄幸のヒロイン、ミミが瀕死の床で最後の力を振り絞って歌い、観客の涙をさそっているその場面で、突然舞台裏から動物の鳴き声が会場中に響き渡った。その動物の正体は第二幕で登場したロバ。通常は会場の外に出しているのだが、外は激しい雨が降っており、そのためスタッフがロバが濡れないように中に入れていたために起こったハプニングだった。クライバーは終演後、このハプニングに怒るどころか、にこっと笑い「いやあ、今日は思いがけない二人目のテノールの競演というおまけがついたね」とユーモアたっぷりに答えたという。

1986年




5919

 4

 7

 

 33

 2

 

519NHK1986

1988年

  • 共演楽団:ミラノスカラ座
  • 日程:9月16日〜30日
  • 演目:プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」

1992年

  • 共演楽団:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 本人の体調不良によりキャンセル。代行指揮者はシノーポリが務めた。

1994年




10720

 


1020

1020

1020

ディスコグラフィ


LDDVD1970TVDVD1986NHK3411

ドキュメンタリー

  • Georg Wubbolt 『Ich bin der Welt abhanden gekommen』(邦題『アイ・アム・ロスト・トゥ・ザ・ワールド』、2011年)

参考文献

脚注

注釈・出典



(一)^ 

(二)^ 3002011211

(三)^ CD

(四)^ 

(五)^ 1970!

(六)^ 42"I am lost to the World"86

(七)^ 200491

(八)^ 

(九)^ 1st2nd1st2nd

(十)^ 使19調5134&4472

(11)^ 

(12)^ 1992

(13)^ CD

(14)^ 199610HDNHK調調20114BSDVD5.1ch198919964A8