「ジョン・バチェラー」の版間の差分
Lionheartclub (会話 | 投稿記録) →関連項目: 追記 |
→札幌時代: 札幌移住の時期を訂正 |
||
(4人の利用者による、間の4版が非表示) | |||
31行目: | 31行目: | ||
[[1884年]]︵明治17年︶、東京の英国公使館にて[[ウォルター・アンデレス]]の姉ルイザ・アンザレスと結婚。しかし、この頃バチェラーは[[和人]]との対立に悩まされる。﹁滞在許可条件を守っていない﹂として告訴され、[[1885年]]︵明治18年︶、新しいパスポートの申請を却下された<ref>[[#小柳(2007)]]、232頁</ref>。裁判の結果、告訴内容は誤解によるものと認められ、パスポートも発給されたが、裁判後に役人から﹁バチラー師はアイヌ語を存続させようと努力しているが、われわれ日本当局は死滅することを望んでいる﹂と釘を刺されている<ref name="名前なし-pRBw-1">[[#小柳(2016)]]、79頁</ref>。また、近代化による環境の変化で酒に溺れるアイヌが多かったため、バチェラーは知り合ったアイヌに熱心に断酒を勧めていたが、アイヌに酒を売ることで利益を得ていた和人商人の反感を買い、平取からの追放運動が起こった<ref name="名前なし-pRBw-1"/>。
|
[[1884年]]︵明治17年︶、東京の英国公使館にて[[ウォルター・アンデレス]]の姉ルイザ・アンザレスと結婚。しかし、この頃バチェラーは[[和人]]との対立に悩まされる。﹁滞在許可条件を守っていない﹂として告訴され、[[1885年]]︵明治18年︶、新しいパスポートの申請を却下された<ref>[[#小柳(2007)]]、232頁</ref>。裁判の結果、告訴内容は誤解によるものと認められ、パスポートも発給されたが、裁判後に役人から﹁バチラー師はアイヌ語を存続させようと努力しているが、われわれ日本当局は死滅することを望んでいる﹂と釘を刺されている<ref name="名前なし-pRBw-1">[[#小柳(2016)]]、79頁</ref>。また、近代化による環境の変化で酒に溺れるアイヌが多かったため、バチェラーは知り合ったアイヌに熱心に断酒を勧めていたが、アイヌに酒を売ることで利益を得ていた和人商人の反感を買い、平取からの追放運動が起こった<ref name="名前なし-pRBw-1"/>。
|
||
平取を追われたバチェラーは幌別村(現在の[[登別市]])を訪れ、アイヌに対するキリスト教教育やアイヌ語教育を始め、[[1888年]](明治21年)に金成喜蔵([[金成太郎]]の父)の私塾[[愛隣学校|相愛学校]]の設立に関わる。金成太郎はアイヌ初の受洗者(バチェラーが洗礼を授けたともされるが、当時バチェラーは[[司祭]]の資格を持っていない)かつ伝道者であり、バチェラーにとってアイヌ語の先生でもあった<ref name="名前なし-pRBw-2">[[#小柳(2007)]]、233頁</ref>。[[1892年]](明治25年)、アイヌが無料で治療を受けられるように[[アイヌ施療病室]]を開設する。 |
平取を追われたバチェラーは幌別村︵現在の[[登別市]]︶を訪れ、アイヌに対するキリスト教教育やアイヌ語教育を始め、[[1888年]]︵明治21年︶に[[金成喜蔵]]︵[[金成太郎]]の父︶の私塾[[愛隣学校|相愛学校]]の設立に関わる。金成太郎はアイヌ初の受洗者︵バチェラーが洗礼を授けたともされるが、当時バチェラーは[[司祭]]の資格を持っていない︶かつ伝道者であり、バチェラーにとってアイヌ語の先生でもあった<ref name="名前なし-pRBw-2">[[#小柳(2007)]]、233頁</ref>。[[1892年]]︵明治25年︶、アイヌが無料で治療を受けられるように[[アイヌ施療病室]]を開設する。
|
||
=== 札幌時代 === |
=== 札幌時代 === |
||
[[ファイル:John Batchelor a.jpg|thumb|ジョン・バチェラー(中央)とアイヌの人々]] |
[[ファイル:John Batchelor a.jpg|thumb|ジョン・バチェラー(中央)とアイヌの人々]] |
||
1892年︵明治25年︶1月1日、バチェラーは[[伊藤一隆]]を中心とする[[北海道禁酒会]]の招聘に応えて函館を離れ、翌日[[札幌市|札幌]]に移った<ref>{{Cite book|和書 |title=異境の使徒 英人ジョン・バチラー伝 |date=1991-8-29 |publisher=北海道新聞社 |pages=82-83 |author=仁多見巌}}</ref><ref group="注釈">自叙伝﹃我が記憶をたどりて﹄︵1928年文録社刊238頁、2008年北海道出版企画センター刊235頁︶では、︵札幌移住の︶﹁許可は明治25年の秋でしたから、翌年︵1892︶1月1日長く住まわった函館を引き払って、明治26年1月2日に札幌へ着きました﹂となっている。明治24年︵1891︶9月30日北海道毎日新聞に、北海禁酒会がバチェラーの函館から札幌までの旅行免状下付を外務大臣出願した旨の記事があり、﹁来月10日頃には許可になるべく﹂とあることから、実際の許可は明治24年の秋であり、翌年1月に札幌に移住したものと考えられる。</ref>。以後離日まで札幌に住み続け、北海道︵のち[[樺太]]も︶におけるアイヌ伝道の拠点とした。自宅では聖公会の日本人信徒のためにバイブルクラスと日曜礼拝も行っていた。バチェラーの自宅は現在も[[バチェラー記念館]]として移築・保存されている。
|
|||
[[1892年]](明治25年)に[[札幌聖公会]]が正式に組織された。[[1895年]](明治28年)には平取と[[有珠郡|有珠]]で教会堂を建設した。 |
[[1892年]](明治25年)に[[札幌聖公会]]が正式に組織された。[[1895年]](明治28年)には平取と[[有珠郡|有珠]]で教会堂を建設した。 |
||
69行目: | 69行目: | ||
* 蝦和英三対辞書([[1889年]]) |
* 蝦和英三対辞書([[1889年]]) |
||
* The Ainu and their Folk-Lore(1901年) |
* The Ainu and their Folk-Lore(1901年) |
||
* アイヌ・英・和辞典 (1905年) |
|||
* アイヌ人と其説話(1925年) |
* アイヌ人と其説話(1925年) |
||
* アイヌの炉辺物語(1925年) |
* アイヌの炉辺物語(1925年) |
||
80行目: | 81行目: | ||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
<references /> |
|||
=== 注釈 === |
|||
{{Notelist}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{reflist|3}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
102行目: | 107行目: | ||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
{{DEFAULTSORT:はちえら しよん}} |
{{DEFAULTSORT:はちえら しよん}} |
||
[[Category:19世紀のプロテスタント信者]] |
|||
[[Category:20世紀のプロテスタント信者]] |
|||
[[Category:日本のプロテスタントの信者]] |
|||
[[Category:イギリスの宣教師]] |
[[Category:イギリスの宣教師]] |
||
[[Category:聖公会の聖職者]] |
[[Category:聖公会の聖職者]] |
2024年3月25日 (月) 07:59時点における最新版
![]() 1928年頃のバチェラー | |
人物情報 | |
---|---|
生誕 |
1854年3月20日![]() |
死没 | 1944年4月2日 (90歳没) |
出身校 | セント・ポール学院 |
学問 | |
研究分野 | 東洋学(アイヌ研究) |
生涯[編集]
初期[編集]
1854年にサセックス州アクフィールドで、11人兄弟の第6子として生まれる[1]。初めは庭師として働いていたが、インド宣教をしていた宣教師の説教を通して、東洋伝道の志を持つ。イギリス教会宣教会︵CMS︶に入会し、1876年に香港のセント・ポール学院に入学したが、香港の気候風土が合わず体調を崩し、マラリアを発症する。函館時代[編集]
1877年︵明治10年︶、静養のため香港を離れ、横浜と東京を経由して、気候が英国に近い函館に渡来する。函館での伝道中にアイヌ民族の窮状を知り、また先に函館で活動していた宣教師デニングの影響もあり、アイヌ伝道を志す[2][3]。1879年︵明治12年︶、CMSの信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。同年、ウォルター・デニングのすすめで日高地方の平取を訪れ、長老ペンリウクの家に4ヶ月滞在してアイヌ語を学んだ。1881年︵明治14年︶にも平取を訪れペンリウクからアイヌ語を学んでいる。 1882年︵明治15年︶にイギリスに一時帰国し、翌年再び函館に帰任した。 1884年︵明治17年︶、東京の英国公使館にてウォルター・アンデレスの姉ルイザ・アンザレスと結婚。しかし、この頃バチェラーは和人との対立に悩まされる。﹁滞在許可条件を守っていない﹂として告訴され、1885年︵明治18年︶、新しいパスポートの申請を却下された[4]。裁判の結果、告訴内容は誤解によるものと認められ、パスポートも発給されたが、裁判後に役人から﹁バチラー師はアイヌ語を存続させようと努力しているが、われわれ日本当局は死滅することを望んでいる﹂と釘を刺されている[5]。また、近代化による環境の変化で酒に溺れるアイヌが多かったため、バチェラーは知り合ったアイヌに熱心に断酒を勧めていたが、アイヌに酒を売ることで利益を得ていた和人商人の反感を買い、平取からの追放運動が起こった[5]。 平取を追われたバチェラーは幌別村︵現在の登別市︶を訪れ、アイヌに対するキリスト教教育やアイヌ語教育を始め、1888年︵明治21年︶に金成喜蔵︵金成太郎の父︶の私塾相愛学校の設立に関わる。金成太郎はアイヌ初の受洗者︵バチェラーが洗礼を授けたともされるが、当時バチェラーは司祭の資格を持っていない︶かつ伝道者であり、バチェラーにとってアイヌ語の先生でもあった[6]。1892年︵明治25年︶、アイヌが無料で治療を受けられるようにアイヌ施療病室を開設する。札幌時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/John_Batchelor_a.jpg/220px-John_Batchelor_a.jpg)