「ジョン・バチェラー」の版間の差分
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'''ジョン・バチェラー'''︵{{lang|en|John Batchelor}}、[[1854年]][[3月20日]] - [[1944年]][[4月2日]]︶は、[[イギリス人]]の[[聖公会]] |
'''ジョン・バチェラー'''︵{{lang|en|John Batchelor}}、[[1854年]][[3月20日]] - [[1944年]][[4月2日]]︶は、[[イギリス人]]の[[聖公会]][[宣教師]]。50年以上にわたって、[[アイヌ]]への[[福音伝道|伝道]]、[[アイヌ文化]]および[[アイヌ語]]の研究、困窮するアイヌの救済に尽力し、﹁アイヌの父﹂と呼ばれた。'''バチラー'''とも表記される。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 初期 === |
=== 初期 === |
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[[1854年]]に[[サセックス|サセックス州]][[アクフィールド]]に生まれる。 |
[[1854年]]に[[サセックス|サセックス州]][[アクフィールド]]に生まれる。初めは[[園丁]]として働いていたが、[[イギリス領インド帝国|インド]][[福音宣教|宣教]]をしていた宣教師の[[説教]]を通して、東洋伝道の志を持つ。[[イギリス教会宣教会]]︵CMS︶に入会し、[[1876年]]に[[香港]]の[[セント・ポール学院]]に入学した。
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=== 函館時代 === |
=== 函館時代 === |
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香港にて[[マラリア]]を発症し、[[1877年]]︵[[明治]]10年︶、静養のため来日し、[[横浜市|横浜]]と[[東京]]を経由して[[函館市|函館]]に渡来する。函館での伝道中にアイヌ民族のことを知り、アイヌ伝道を志す<ref>中村2011年、77-78頁</ref>。[[1879年]]︵明治12年︶、CMSの[[信徒伝道者]]に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。同年、アイヌの中心地の一つである[[日高地方]]の[[平取町|平取]]を訪れ、長老[[平村ペンリウク|ペンリウク]]の家に3ヶ月滞在して[[アイヌ語]]を学んだ。
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[[1882年]](明治15年)にイギリスに一時帰国し、1883年(明治16年)に再び函館に帰任した。[[1884年]](明治17年)、東京の英国公使館にてルイザ・アンザレスと結婚。 |
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バチェラーは、[[1879年]](明治12年)に、CMSの[[信徒伝道者]]に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。[[1879年]]にアイヌの中心地の一つである[[日高地方]]の[[平取町|平取]]を訪問した。ここでアイヌの長老[[平村ペンリウク|ペンリウク]]の家に3ヶ月滞在して、[[アイヌ語]]を学んだ。 |
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[[1885年]]︵明治18年︶、幌別村︵現在の[[登別市]]︶を訪れ、アイヌに対するキリスト教教育やアイヌ語教育を始め、[[1888年]]︵明治21年︶に金成喜蔵の私塾[[愛隣学校|相愛学校]]の設立に関わる。[[1892年]]︵明治25年︶、アイヌが無料で施療できるように[[アイヌ施療病室]]を開設する。
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[[1885年]](明治18年)、幌別村(現在の[[登別市]])を訪れ、アイヌへキリスト教教育のほか、アイヌ語教育をはじめる。[[1888年]](明治21年)、[[金成太郎]]を校主として[[キリスト教]]教育を行なうアイヌ学校設立構想の下、金成喜蔵が息子の太郎をアイヌに教育を行うアイヌ教師とするために私塾の[[愛隣学校|相愛学校]]を設立する。[[1892年]](明治25年)、アイヌが無料で施療できるように、[[アイヌ施療病室]]を開設する。 |
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=== 札幌時代 === |
=== 札幌時代 === |
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[[ファイル:John Batchelor a.jpg|thumb|ジョン・バチェラー]] |
[[ファイル:John Batchelor a.jpg|thumb|ジョン・バチェラー]] |
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[[1891年]] |
[[1891年]]︵明治24年︶1月1日、バチェラーは[[伊藤一隆]]を中心とする[[北海道禁酒会]]の招聘に応えて函館を離れ、翌日[[札幌市|札幌]]に移った<ref>"アイヌの父 ジョン・バチェラー"(1963, 仁多見巌 著, p.88,98)</ref>。札幌に構えた自宅で聖公会の日本人信徒のためにバイブルクラスと日曜礼拝を始め、また札幌を拠点にアイヌ伝道を展開した。
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[[1892年]] |
[[1892年]]︵明治25年︶に[[札幌聖公会]]が正式に組織された。[[1895年]]︵明治28年︶には平取と[[有珠郡|有珠]]で教会堂を建設した。1903年には北海道の聖公会信徒2895人中アイヌ人が2595人であった<ref>中村2011年、82頁</ref>。
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[[1906年]]︵明治39年︶、バチェラーが運営する﹁アイヌガールズスクール﹂の生徒であった[[バチェラー八重子|向井八重子]]を養女にする。八重子は養父母とともに伝道活動を行いつつ、詩人としても活躍し、バチェラー離日後の蔵書・遺品の管理も行った。
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アイヌの[[向井八重子]]を養女にする。[[1917年]]([[大正]]6年)[[江賀寅三]]に洗礼を授ける。江賀は後に札幌に来て、アイヌ語辞典の編纂に協力して、バチェラーとの関わりで[[献身]]する。後に、[[中田重治]]の影響で、聖公会を脱会して、[[日本ホーリネス教会]]の[[牧師]]になる。 |
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[[1922年]] |
[[1922年]](大正11年)にはアイヌの教育のために[[アイヌ保護学園]]を設立する。[[1923年]](大正12年)にバチェラーは70歳になり、規定により宣教師を退職したが、その後も札幌に留まり、[[北海道庁]]の社会課で嘱託として働いた。[[1933年]]([[昭和]]8年)には長年のアイヌのための活動が評価されて[[勲三等瑞宝章]]が授与された。 |
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=== 最晩年 === |
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1941年(昭和16年)に[[太平洋戦争]]が始まると、敵性外国人として、帰国させられた。1944年に英国で91年の生涯を終える。 |
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[[1936年]]︵昭和11年︶にルイザが死去し、ルイザの姪であるフローレンスが世話のため来日。[[1940年]]︵昭和15年︶、日本と米英の関係が悪化するなか、敵性外国人として帰国させられた。[[1944年]]、英国で91年の生涯を終える。[[太平洋戦争]]後の[[1946年]]︵昭和21年︶に札幌キリスト教会でバチェラーの追悼式が行われた。
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== 洗礼を授けた主な人物 == |
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* [[金成太郎]]([[1885年]]) - アイヌ初の受洗者であり、アイヌ初の伝道者。 |
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* [[江賀寅三]]([[1917年]]) |
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== アイヌ観 == |
== アイヌ観 == |
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* バチェラーはアイヌの境遇に心を痛めつつ、近代化によるアイヌ社会の変貌については﹁時勢でしかたのないこと﹂﹁変わらなければ進むことができない﹂とし、和人との混血が進むことは﹁大昔にあったように混血になってついに完全の日本人となることが出来るのだと思い、むしろ喜ぶべきこと﹂と述べている<ref>﹃我が記憶をたどりて﹄第20章6節﹁アイヌの状況が変わる﹂</ref>。バチェラーはアイヌについて、北海道から九州まで日本列島全域の先住民族であり、本州以南のアイヌは後から来た[[大和民族]]との混血・同化で消滅したと考えていた<ref>﹃我が記憶をたどりて﹄第7章</ref>。
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バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌと和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから﹁一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった<ref>仁多見厳・飯田洋右﹃わが人生の軌跡―ステップス・バイ・ザ・ウェイ﹄北海道出版企画センター、1993年、154ページ</ref>﹂と記述している。
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* バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌと和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから﹁一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった<ref>仁多見厳・飯田洋右﹃わが人生の軌跡―ステップス・バイ・ザ・ウェイ﹄北海道出版企画センター、1993年、154ページ</ref>﹂と記述している。
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== 業績・評価 == |
== 業績・評価 == |
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*バチェラーは、[[アイヌ語訳聖書]]の翻訳出版や[[アイヌ語]]の言語学的研究と民俗学的研究に多くの業績を残した。アイヌに関する多くの著作を発表してアイヌ民族のことを広く紹介した。このことから、バチェラーは日本のアイヌ文化研究の重要な研究者の一人 |
* バチェラーは、[[アイヌ語訳聖書]]の翻訳出版や[[アイヌ語]]の言語学的研究と民俗学的研究に多くの業績を残した。アイヌに関する多くの著作を発表してアイヌ民族のことを広く紹介した。このことから、バチェラーは日本のアイヌ文化研究の重要な研究者の一人とされているが、[[知里真志保]]は世界的名声に比してバチェラーの文法書や辞書は役に立たない珍本であり﹁バチラーさんにしても、[[永田方正]]さんにしても、開拓者としての功績はまことに偉大なものがあるのでありますが、進んだ今のアイヌ語学の目から見れば、もうその人たちの著書は、欠陥だらけで、満身創痍、辛うじて余喘を保っているにすぎない程度のものなのであります。﹂と批判している<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/001540/files/53897_50735.html 知里真志保 アイヌ語学]</ref>。
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*バチェラーの説には |
* バチェラーの説には現在では否定されている説もあり、例えば﹁[[近江国|近江]]・アイヌ語由来説﹂は、現代の語形に基づく無理のある説であり、地名研究書の水準と信頼度を低くしている一端とされる<ref>吉田金彦 糸井通浩編 ﹃日本地名学を学ぶ人のために﹄ 世界思想社 2004年 p.85 鏡味明克の見解</ref>。
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*[[バチェラー記念館]]がある。 |
* [[バチェラー記念館]]がある。 |
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== 逸話 == |
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* [[1911年]](明治44年)の[[園遊会|観桜会]]にて[[明治天皇]]<ref>『我が記憶をたどりて』第21章3節「明治天皇に拝謁後不思議な力を託せらる」</ref>、同年[[室蘭市|室蘭]]にて皇太子時代の[[大正天皇]]<ref>『我が記憶をたどりて』第21章5節「大正天皇陛下(皇太子殿下当時)に御拝謁」</ref>、[[1922年]](大正11年)に道庁および[[豊平館]]にて皇太子時代の[[昭和天皇]]<ref>『我が記憶をたどりて』第24章1節「皇太子殿下に御拝謁」</ref>と、3代にわたって歴代天皇と謁見している。また[[1881年]](明治14年)に平取視察中の[[小松宮]]と[[永山武四郎]]に遭遇しているが、その正体を知らないまま、暑い日だったため上着を脱ぎ酒樽に腰かけた状態で応対したという<ref>『我が記憶をたどりて』第11章7節「ある宮殿下」</ref>。 |
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* 禁酒家であり、親しくなったアイヌから酒を交わすよう求められても頑なに断り続け、そのことでアイヌ語の師であるペンリウクにも深く失望されたという<ref>『我が記憶をたどりて』第11章8節「ペンリさんについての事件」など</ref>。 |
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* アイヌに関心のある外国人がバチェラーのもとを訪ねることが度々あり、その中には[[バジル・ホール・チェンバレン]]や[[ブロニスワフ・ピウスツキ]]もいた。 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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* 蝦夷今昔物語([[1884年]]) |
* 蝦夷今昔物語([[1884年]]) |
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* 蝦和英三対辞書([[1889年]]) |
* 蝦和英三対辞書([[1889年]]) |
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* The Ainu and their Folk- |
* The Ainu and their Folk-Lore(1901年) |
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* アイヌ人と其説話 |
* アイヌ人と其説話(1925年) |
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* アイヌの炉辺物語 |
* アイヌの炉辺物語(1925年) |
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* Ainu life and |
* Ainu life and lore(1927年) |
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* 我が記憶をたどりて |
* 我が記憶をたどりて(1928年) |
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* ジョン・バチェラーの手紙 |
* ジョン・バチェラーの手紙(1965年) |
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* わが人生の軌跡 |
* わが人生の軌跡(1993年) |
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** 来日から離日までの思い出をフローレンスが[[口述筆記]]したもの。長年日の目を見なかったが、1993年にその一部が邦訳出版された。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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* [[高橋昌郎]]『明治のキリスト教』[[吉川弘文館]]、2003 |
* [[高橋昌郎]]『明治のキリスト教』[[吉川弘文館]]、2003 |
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* [[中村敏]]『プロテスタント海外宣教史』[[新教出版社]]、2011年 |
* [[中村敏]]『プロテスタント海外宣教史』[[新教出版社]]、2011年 |
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* ジョン・バチェラー著、[[村崎恭子]]校訂『ジョン・バチラー自叙伝 我が記憶をたどりて』、北海道出版企画センター、2008年 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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*[[芥川清五郎]] |
* [[芥川清五郎]] |
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{{明治時代の来日宣教師}} |
{{明治時代の来日宣教師}} |
2022年6月27日 (月) 07:14時点における版
![]() 1928年頃のバチェラー | |
人物情報 | |
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生誕 |
1854年3月20日![]() |
死没 | 1944年4月2日 (90歳没) |
出身校 | セント・ポール学院 |
学問 | |
研究分野 | 東洋学(アイヌ研究) |
生涯
初期
1854年にサセックス州アクフィールドに生まれる。初めは園丁として働いていたが、インド宣教をしていた宣教師の説教を通して、東洋伝道の志を持つ。イギリス教会宣教会︵CMS︶に入会し、1876年に香港のセント・ポール学院に入学した。函館時代
香港にてマラリアを発症し、1877年︵明治10年︶、静養のため来日し、横浜と東京を経由して函館に渡来する。函館での伝道中にアイヌ民族のことを知り、アイヌ伝道を志す[1]。1879年︵明治12年︶、CMSの信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。同年、アイヌの中心地の一つである日高地方の平取を訪れ、長老ペンリウクの家に3ヶ月滞在してアイヌ語を学んだ。 1882年︵明治15年︶にイギリスに一時帰国し、1883年︵明治16年︶に再び函館に帰任した。1884年︵明治17年︶、東京の英国公使館にてルイザ・アンザレスと結婚。 1885年︵明治18年︶、幌別村︵現在の登別市︶を訪れ、アイヌに対するキリスト教教育やアイヌ語教育を始め、1888年︵明治21年︶に金成喜蔵の私塾相愛学校の設立に関わる。1892年︵明治25年︶、アイヌが無料で施療できるようにアイヌ施療病室を開設する。札幌時代
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/John_Batchelor_a.jpg/220px-John_Batchelor_a.jpg)