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* [[徳川義親]] - バチェラーの支援者の一人。 |
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* [[ニール・ゴードン・マンロー]] - バチェラーと同じく平取のアイヌと関わりを持ったイギリス人。 |
* [[ニール・ゴードン・マンロー]] - バチェラーと同じく平取のアイヌと関わりを持ったイギリス人。 |
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* [[愛隣学校]] - |
* [[愛隣学校]] - バチェラーの構想のもとで開設された「相愛学校」を改称して[[1888年]]に設立された。 |
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{{明治時代の来日宣教師}} |
{{明治時代の来日宣教師}} |
2022年9月16日 (金) 01:05時点における版
![]() 1928年頃のバチェラー | |
人物情報 | |
---|---|
生誕 |
1854年3月20日![]() |
死没 | 1944年4月2日 (90歳没) |
出身校 | セント・ポール学院 |
学問 | |
研究分野 | 東洋学(アイヌ研究) |
ジョン・バチェラー︵John Batchelor、1854年3月20日 - 1944年4月2日︶は、イギリス人の聖公会宣教師。半世紀以上にわたって、アイヌへの伝道、アイヌ文化およびアイヌ語の研究、困窮するアイヌの救済に尽力し、﹁アイヌの父﹂と呼ばれた。バチラーとも表記される。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/John_Batchelor_a.jpg/220px-John_Batchelor_a.jpg)
ジョン・バチェラー︵中央︶とアイヌの人々
1891年︵明治24年︶1月1日、バチェラーは伊藤一隆を中心とする北海道禁酒会の招聘に応えて函館を離れ、翌日札幌に移った[7]。以後離日まで札幌に住み続け、北海道︵のち樺太も︶におけるアイヌ伝道の拠点とした。自宅では聖公会の日本人信徒のためにバイブルクラスと日曜礼拝も行っていた。バチェラーの自宅は現在もバチェラー記念館として移築・保存されている。
1892年︵明治25年︶に札幌聖公会が正式に組織された。1895年︵明治28年︶には平取と有珠で教会堂を建設した。
1899年︵明治32年︶の北海道旧土人保護法成立頃から、教会でのアイヌ語の説教を中止する︵1900年︶など、バチェラーは北海道庁や日本政府の政策に協力的になっていき、離反するアイヌもあった[6][8]。その傍証として、1903年には北海道の聖公会信徒2895人中アイヌ人2595人だったが[9]、1919年には3392人中アイヌ人650人に激減している[8]。
1906年︵明治39年︶、バチェラーが運営する﹁アイヌガールズスクール﹂の生徒であった向井八重子を養女にする。八重子は養父母とともに伝道活動を行いつつ、歌人としても活躍し、バチェラー離日後は蔵書・遺品の管理を行った。
1922年︵大正11年︶にはアイヌの教育のためにアイヌ保護学園を設立する。1923年︵大正12年︶にバチェラーは70歳になり、規定により宣教師を退職したが、その後も札幌に留まり、北海道庁の社会課で嘱託として働いた。1933年︵昭和8年︶には長年のアイヌのための活動が評価されて勲三等瑞宝章が授与された。
生涯
初期
1854年にサセックス州アクフィールドで、11人兄弟の第6子として生まれる[1]。初めは庭師として働いていたが、インド宣教をしていた宣教師の説教を通して、東洋伝道の志を持つ。イギリス教会宣教会︵CMS︶に入会し、1876年に香港のセント・ポール学院に入学したが、香港の気候風土が合わず体調を崩し、マラリアを発症する。函館時代
1877年︵明治10年︶、静養のため香港を離れ、横浜と東京を経由して、気候が英国に近い函館に渡来する。函館での伝道中にアイヌ民族の窮状を知り、また先に函館で活動していた宣教師デニングの影響もあり、アイヌ伝道を志す[2][3]。1879年︵明治12年︶、CMSの信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。同年、ウォルター・デニングのすすめで日高地方の平取を訪れ、長老ペンリウクの家に4ヶ月滞在してアイヌ語を学んだ。1881年︵明治14年︶にも平取を訪れペンリウクからアイヌ語を学んでいる。 1882年︵明治15年︶にイギリスに一時帰国し、翌年再び函館に帰任した。 1884年︵明治17年︶、東京の英国公使館にてルイザ・アンザレスと結婚。しかし、この頃バチェラーは和人との対立に悩まされる。﹁滞在許可条件を守っていない﹂として告訴され、1885年︵明治18年︶、新しいパスポートの申請を却下された[4]。裁判の結果、告訴内容は誤解によるものと認められ、パスポートも発給されたが、裁判後に役人から﹁バチラー師はアイヌ語を存続させようと努力しているが、われわれ日本当局は死滅することを望んでいる﹂と釘を刺されている[5]。また、近代化による環境の変化で酒に溺れるアイヌが多かったため、バチェラーは知り合ったアイヌに熱心に断酒を勧めていたが、アイヌに酒を売ることで利益を得ていた和人商人の反感を買い、平取からの追放運動が起こった[5]。 平取を追われたバチェラーは幌別村︵現在の登別市︶を訪れ、アイヌに対するキリスト教教育やアイヌ語教育を始め、1888年︵明治21年︶に金成喜蔵︵金成太郎の父︶の私塾相愛学校の設立に関わる。金成太郎はアイヌ初の受洗者︵バチェラーが洗礼を授けたともされるが、当時バチェラーは司祭の資格を持っていない︶かつ伝道者であり、バチェラーにとってアイヌ語の先生でもあった[6]。1892年︵明治25年︶、アイヌが無料で治療を受けられるようにアイヌ施療病室を開設する。札幌時代
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/John_Batchelor_a.jpg/220px-John_Batchelor_a.jpg)
最晩年
1936年︵昭和11年︶にルイザが死去し、ルイザの姪であるフローレンスが世話のため来日。日本永住を希望していたが、1940年︵昭和15年︶、日本と米英の関係悪化に伴って敵性外国人として帰国させられ、1944年︵昭和19年︶に郷里で生涯を終えた。太平洋戦争後の1946年︵昭和21年︶に札幌キリスト教会でバチェラーの追悼式が行われた。業績・評価
アイヌ文化研究の先駆者であり、アイヌ語訳聖書の翻訳出版やアイヌ語の言語学的・民俗学的研究に多くの業績を残し、アイヌに関する著作を多数発表してアイヌ民族のことを国内外に広く紹介した。日本のアイヌ研究史における重要人物の一人であるが、元々言語学や民俗学の専門家ではなかったこともあり、バチェラーによる記録や考察は後に批判の対象ともなった。
●知里真志保は、世界的名声に比してバチェラーの文法書や辞書は役に立たない﹁珍本﹂であり、﹁バチラーさんにしても、永田方正さんにしても、開拓者としての功績はまことに偉大なものがあるのでありますが、進んだ今のアイヌ語学の目から見れば、もうその人たちの著書は、欠陥だらけで、満身創痍、辛うじて余喘を保っているにすぎない程度のものなのであります。﹂と批判している[10]。
●バチェラーの説には現在では否定されている説もあり、例えば﹁近江・アイヌ語由来説﹂について鏡味明克は、現代の語形に基づく無理のある説であり、地名研究書の水準と信頼度を低くしている一端であるとしている[11]。