「三谷軌秀」の版間の差分
Ty19080914 (会話 | 投稿記録) カテゴリ |
|||
(4人の利用者による、間の5版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
[[File:Norihide Mitani.jpg|thumb|三谷軌秀]] |
|||
'''三谷 軌秀'''︵みたに のりひで、[[1858年]][[2月18日]]︵[[安政]]5年[[1月5日]]︶ - [[1934年]]︵[[昭和]]9年︶[[3月8日]]︶は、日本の[[政治家]]、[[実業家]]。[[衆議院議員]]。幼名は五市。
|
'''三谷 軌秀'''︵みたに のりひで、[[1858年]][[2月18日]]︵[[安政]]5年[[1月5日]]︶ - [[1934年]]︵[[昭和]]9年︶[[3月8日]]︶は、日本の[[政治家]]、[[実業家]]。[[衆議院議員]]。幼名は五市。
|
||
== 略歴 == |
== 略歴 == |
||
1858年2月18日(安政5年1月5日)、[[土佐国]][[長岡郡]][[ |
1858年2月18日(安政5年1月5日)、[[土佐国]][[長岡郡]][[西豊永村|粟生村]](現在の[[高知県]][[大豊町]])に生まれる。[[1886年]](明治19年)に[[東京法学校]](現在の[[法政大学]])を卒業する。 |
||
[[1887年]]([[明治]]20年)に[[公証人]]試験に合格するが、同年[[保安条例]]に触れ、三里以外の地に退去を命じられる。 |
[[1887年]]([[明治]]20年)に[[公証人]]試験に合格するが、同年[[保安条例]]に触れ、三里以外の地に退去を命じられる。 |
||
10行目: | 11行目: | ||
[[1893年]](明治26年)に[[片岡直温]]らとともに帝國物産を設立し、その[[顧問]]に就任し、[[1894年]](明治27年)に日本時計製造の設立に参加し、その[[監査役]]に就任する。 |
[[1893年]](明治26年)に[[片岡直温]]らとともに帝國物産を設立し、その[[顧問]]に就任し、[[1894年]](明治27年)に日本時計製造の設立に参加し、その[[監査役]]に就任する。 |
||
[[大阪市]] |
[[大阪市会]]議員、[[大阪府議会|大阪府会]]議員・議長を経て、[[1911年]]︵明治44年︶7月に衆議院議員[[補欠選挙]]に当選し<ref>﹃官報﹄第8428号、明治44年7月26日。</ref>、ついで[[1912年]]︵明治45年︶、[[第11回衆議院議員総選挙]]に当選する。
|
||
また、[[今里土地]]社長、[[参宮急行電鉄]]・[[大阪合同紡績]]の役員、関西競馬倶楽部副会頭などを歴任した。 |
また、[[今里土地]]社長、[[参宮急行電鉄]]・[[大阪合同紡績]]の役員、関西競馬倶楽部副会頭などを歴任した。 |
||
29行目: | 30行目: | ||
*『日本人名大辞典』([[講談社]]) |
*『日本人名大辞典』([[講談社]]) |
||
{{大阪府議会議長}} |
|||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
{{People-stub}} |
{{People-stub}} |
||
{{デフォルトソート:みたに のりひて}} |
{{デフォルトソート:みたに のりひて}} |
||
[[Category:衆議院議員 (帝国議会)]] |
[[Category:大阪府選出の衆議院議員 (帝国議会)]] |
||
[[Category: |
[[Category:明治時代の衆議院議員]] |
||
[[Category:大 |
[[Category:大正時代の衆議院議員]] |
||
[[Category:大阪府議会議長]] |
|||
[[Category:大阪市会議員]] |
[[Category:大阪市会議員]] |
||
[[Category:日本の実業家]] |
[[Category:日本の実業家]] |
2023年12月22日 (金) 09:12時点における最新版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bc/Norihide_Mitani.jpg/220px-Norihide_Mitani.jpg)
略歴[編集]
1858年2月18日︵安政5年1月5日︶、土佐国長岡郡粟生村︵現在の高知県大豊町︶に生まれる。1886年︵明治19年︶に東京法学校︵現在の法政大学︶を卒業する。 1887年︵明治20年︶に公証人試験に合格するが、同年保安条例に触れ、三里以外の地に退去を命じられる。 1889年︵明治22年︶に大阪で公証人となり、1891年︵明治24年︶に大阪商業会議所の特別会員となる。 1893年︵明治26年︶に片岡直温らとともに帝國物産を設立し、その顧問に就任し、1894年︵明治27年︶に日本時計製造の設立に参加し、その監査役に就任する。 大阪市会議員、大阪府会議員・議長を経て、1911年︵明治44年︶7月に衆議院議員補欠選挙に当選し[1]、ついで1912年︵明治45年︶、第11回衆議院議員総選挙に当選する。 また、今里土地社長、参宮急行電鉄・大阪合同紡績の役員、関西競馬倶楽部副会頭などを歴任した。 1934年︵昭和9年︶3月8日に死去、享年77。著書[編集]
- 『市制町村制義解』(時習社、1888)
- 『公民必携法規参照対比市制町村制』(積善館、1889)
- 『第二十八回衆議院重要問題商工政策に関する質問演説』(帝国議会要史編纂所、1912)
- 『根本的金利改善策解説』(1926)
脚注[編集]
- ^ 『官報』第8428号、明治44年7月26日。