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「古橋義真」の版間の差分

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== 経歴<!--経略 けいりゃく(1)はかり治めること。国家を経営統治すること。広辞苑第六版--> ==

== 概要 ==

古橋義真は1850年12月31日(嘉永3年11月28日)、[[三河国]][[設楽郡]][[稲橋村]]([[愛知県]][[豊田市]])に古橋家六代古橋暉皃(1813年~1892年)の次男として生まれた。母は[[中津川市|中津川]]の市川益吉五女・奈加。幼名は英四郎。諱は義真。


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1856年(安政3年)に[[瑞龍寺 (豊田市)|瑞龍寺]]の僧加藤邁宗について学び、1866年(慶応2年)には[[平田篤胤]]の門人馬島靖庵に[[国学]]と[[漢学]]を学び、水戸浪士木村久之進(浦山長左衛門)に剣を学んだ。


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1868年(明治元年)19歳で稲橋村の[[名主]]となり、1870年(明治3年)に[[加茂郡]]内4ヵ村(閑羅瀬・余平・小瀧野・坪崎)、大野瀬・押山・川手・中当・野入・黒田・桑原・武節8ヵ村の取締を兼帯した。


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1872年(明治5年)には家督を相続、源六郎を襲名。同年11月19日に古橋家に縁のある美濃中津川の国学者間杢右衛門の三女都留(1855年~1932年)を娶った。


退


1874年(明治7年)に第十三大区副区長となり、翌年、その区長となった。

神道の崇敬者でもあり、神道葬祭を奨励し、伊勢神宮参詣を奨め、神職の養成にもつとめた。



1876年(明治9年)には第十四大区区長となり、郡区制の改正によって11年には北設楽郡郡長となった。


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古橋家のコレクションは[http://kaikokan.org/ ''[[古橋懐古館]]'']で見ることが出来る。


1886年(明治19年)1月に愛知県会議員に当選し辞退、同年4月に東加茂郡長、8月に北設楽郡長に転任、10月には東加茂郡長を兼任。


1887年(明治20年)12月には愛知県知事[[勝間田稔]]と意見を異にするをさとり、依願免職して帰村した。


1889年(明治22年)11月に稲橋村名誉村長。


1891年(明治24年)5月に北設楽郡参事委員。


1893年(明治26年)11月には稲橋村村長となり、再び出身村の中心に立った。


1897年(明治30年)5月には、地方制度の変更により稲橋・武節組合村の村長となった。


1909年(明治42年)11月13日に没した。60歳。稲橋・武節組合村は、村葬によってその労に報いた。墓所は豊田市稲武町大井平の古橋家墓地にある。


== 勧業活動 ==

=== 産馬 ===


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産馬事業は次第に進展し、明治33年(1900年)には三河全域を統合して三河産馬組合を組織するに至り、義真はその組合長に就任した。


明治34年(1901年)農商務省の種馬所を設置するに及び、義真の斡旋により三河産馬組合を愛知県立種馬所となった。


=== 林業 ===


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明治35年(1902年)10月、義真は大日本山林会総裁伏見宮貞愛親王より「本会に対し功績特に顕著なるを認め、永くその名誉を表彰せん」ためとして有功章が贈られた。


=== 養蚕 ===


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=== 農談会 ===


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=== 稲橋銀行 ===


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=== 信参鉄道 ===


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== 教育活動 ==

暉皃と義真父子は、稲橋組合村十二ヵ村村人に新時代の教育をさせようと学校設立の運動を起こした。明治5年(1872年)、額田県に出願・許可を得て、武節村にあった無住の寺一円寺を校舎として、国学同門佐藤清臣を校長として迎え、瑞龍寺の住職加藤邁宗、御所貝津の医師松井春城を補助として、明治新政府下の学制制度に先んじる2ヵ月前の8月15日に開校した。当日は中秋の明月にあたり、校舎の下を流れる名倉川の清風が心地よくそよいでくることから、学校を明月清風校と名付けた。この郷学校は地域の開化と殖産を担う人物の育成という実学を重んじた。



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また義真は、明治28年10月に県農会に工業学校と農学校設立を提議、そして決議して、今日の名古屋鶴舞の県立工業高等学校及び安城農林高等学校に結実した。


== 勤倹貯蓄 ==


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==伝記==

==伝記==

*[[国府犀東]]『古橋源六郎翁 : 付・遺稿』愛知県北設楽郡農会、1912年。

*[[国府犀東]]『古橋源六郎翁 : 付・遺稿』愛知県北設楽郡農会、1912年。


== 出典 ==

* 芳賀登「古橋暉皃と義眞―維新体験と報徳受容の二つの型をめぐって―」『社会文化史学』4号 総合歴史教育研究所、1968年

* 古橋茂人『古橋家の歴史』財団法人古橋会、1977年

* 芳賀登編『豪農古橋家の研究』 雄山閣、1979年

* 古橋茂人・北原宣幸共著『新古橋林業誌』 財団法人古橋会、2003年


== 外部リンク ==

* [http://kaikokan.org/ 古橋懐古館]



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