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幼名は保都衛、のち秀枝︵ほつえ︶。弘化2年︵[[1845年]]︶1月23日、[[高知城]]下本丁筋︵現在の[[高知市]]︶の土佐藩士・吉松省平の長男に生まれた。母は[[前野氏]]の出。[[文久]]3年︵[[1863年]]︶{{要検証|date=2010年8月}}、藩兵として上洛。明治元年︵[[1868年]]︶の[[鳥羽・伏見の戦い]]には藩兵隊長として伏見を守る。その時の速之助の決断が官軍としての土佐藩の以後の行動を決定する。さらに[[迅衝隊]]第八小隊長として[[戊辰戦争]]では東征軍に参加、今市、日光、白浜、会津に転戦。[[会津戦争]]の際、大垣藩兵に捕らえられ凌辱のすえに生晒しにされた[[神保雪子]]︵[[会津藩]]重臣・[[神保修理]]の妻︶の放免を唱えたものの受け容れられず、密かに雪子の懇願を聞き届けて腰に据えた短刀を与え、その自刃を見届けたというエピソードがある。
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幼名は保都衛、のち秀枝(ほつえ)。弘化2年([[1845年]])1月23日、[[高知城]]下本丁筋(現在の[[高知市]])の土佐藩士・吉松省平の長男に生まれた。母は[[前野氏]]の出。[[文久]]3年([[1863年]]){{要検証|date=2010年8月}}、藩兵として上洛。明治元年([[1868年]])の[[鳥羽・伏見の戦い]]には藩兵隊長として伏見を守る。その時の速之助の決断が官軍としての土佐藩の以後の行動を決定する。さらに[[迅衝隊]]第八隊長として[[戊辰戦争]]に加わり、今市、日光と、会津と転戦した。 |
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[[会津戦争]]のおり、大垣藩兵に捕らえられ、凌辱のすえに生晒しにされた[[神保雪子]]︵[[会津藩]]重臣・[[神保修理]]の妻︶を見かけて放免を主張したものの、他藩の容喙は受け付けないと拒絶された。その後、密かに雪子の懇願を聞き届けて腰に据えた短刀を与え、その自刃を助けている。
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明治4年([[1871年]])、薩長土三藩の献兵によって[[御親兵]]が創立されたとき、陸軍[[大尉]]、中隊長となる。 |
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明治9年︵[[1876年]]︶、陸軍[[少佐]]に昇進。大隊長となり熊本鎮台福岡分営に屯した。同年、[[神風連の乱]]が起るや鎮し、翌年の[[西南戦争]]には福岡分営を出発、歩兵第十四聯隊第三大隊を率い、同郷で妻の伯父にあたる[[谷干城]]鎮台司令長官が守る[[熊本城]]救援に赴く。南関、高瀬、木葉と進んだが、2月22日の植木の戦いで、年下とはいえ上官である聯隊長代理[[乃木希典]][[中佐]]が軍旗を喪失した翌日、木葉において追撃してきた[[西郷隆盛|西郷]]軍と対峙した。苦境に陥った吉松は、乃木に援軍を要請した。すると乃木はわざわざ吉松の元に赴き、﹁今や我足下に分つべき余兵なし、たといまた之れ有らしむるも、乞ふ代りて之れに当たらん﹂と断った。すると吉松は笑って﹁余力があればのこと。君は全軍を指揮する聯隊長である。ここに長く留まるべきでは無い﹂と応じた。乃木が無事に去った後、踏みとどまった吉松は、部下20余名を率いて敵陣に突入、重傷を負いその夜息を引き取った。[[享年]]33であった。
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明治4年︵[[1871年]]︶、薩長土三藩の献兵によって[[御親兵]]が創立されたとき、陸軍[[大尉]]、中隊長となる。明治9年︵[[1876年]]︶、陸軍[[少佐]]に昇進。大隊長となり熊本鎮台福岡分営に屯した。この年に[[神風連の乱]]が起きたが、営内を鎮した。
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明治10年に[[西南戦争]]が勃発すると歩兵第十四聯隊第三大隊を率いて福岡から出撃し、同郷で妻の伯父にあたる[[谷干城]]鎮台司令長官が守る[[熊本城]]救援を図った。南関、高瀬、木葉と進んだが、2月22日の植木の戦いで、年下とはいえ上官である聯隊長代理[[乃木希典]][[中佐]]が軍旗を喪失した。その翌日、木葉で[[西郷隆盛|西郷]]軍と対峙した。二方向から攻撃されて苦戦に陥った吉松は、乃木に援軍を要請したが、乃木は司令部を離れてわざわざ吉松の元に自ら赴き、﹁今や我足下に分つべき余兵なし、たといまた之れ有らしむるも、乞ふ代りて之れに当たらん﹂と断った。すると吉松は笑って﹁余力があればのこと。君は全軍を指揮する聯隊長である。ここに長く留まるべきでは無い﹂と応じた。乃木が無事に去った後、最前線に踏みとどまった吉松はわずか20余名の部下とともに聯隊主力の退却を支えたが重傷を負い、その夜に息を引き取った。[[享年]]33であった。
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== 参考文献 == |
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== 参考文献 == |
2017年5月31日 (水) 17:14時点における版
吉松 速之助︵よしまつ はやのすけ、弘化2年1月23日︵1845年3月1日︶ - 明治10年︵1877年︶2月23日︶は幕末から明治の武士︵土佐藩士︶、陸軍軍人。最終階級は少佐。
来歴
幼名は保都衛、のち秀枝︵ほつえ︶。弘化2年︵1845年︶1月23日、高知城下本丁筋︵現在の高知市︶の土佐藩士・吉松省平の長男に生まれた。母は前野氏の出。文久3年︵1863年︶[要検証 – ノート]、藩兵として上洛。明治元年︵1868年︶の鳥羽・伏見の戦いには藩兵隊長として伏見を守る。その時の速之助の決断が官軍としての土佐藩の以後の行動を決定する。さらに迅衝隊第八隊長として戊辰戦争に加わり、今市、日光と、会津と転戦した。
会津戦争のおり、大垣藩兵に捕らえられ、凌辱のすえに生晒しにされた神保雪子︵会津藩重臣・神保修理の妻︶を見かけて放免を主張したものの、他藩の容喙は受け付けないと拒絶された。その後、密かに雪子の懇願を聞き届けて腰に据えた短刀を与え、その自刃を助けている。
明治4年︵1871年︶、薩長土三藩の献兵によって御親兵が創立されたとき、陸軍大尉、中隊長となる。明治9年︵1876年︶、陸軍少佐に昇進。大隊長となり熊本鎮台福岡分営に屯した。この年に神風連の乱が起きたが、営内を鎮した。
明治10年に西南戦争が勃発すると歩兵第十四聯隊第三大隊を率いて福岡から出撃し、同郷で妻の伯父にあたる谷干城鎮台司令長官が守る熊本城救援を図った。南関、高瀬、木葉と進んだが、2月22日の植木の戦いで、年下とはいえ上官である聯隊長代理乃木希典中佐が軍旗を喪失した。その翌日、木葉で西郷軍と対峙した。二方向から攻撃されて苦戦に陥った吉松は、乃木に援軍を要請したが、乃木は司令部を離れてわざわざ吉松の元に自ら赴き、﹁今や我足下に分つべき余兵なし、たといまた之れ有らしむるも、乞ふ代りて之れに当たらん﹂と断った。すると吉松は笑って﹁余力があればのこと。君は全軍を指揮する聯隊長である。ここに長く留まるべきでは無い﹂と応じた。乃木が無事に去った後、最前線に踏みとどまった吉松はわずか20余名の部下とともに聯隊主力の退却を支えたが重傷を負い、その夜に息を引き取った。享年33であった。