「島村抱月」の版間の差分
→その他: 加筆 |
→来歴: 芸術座第1回公演を追記 |
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『早稲田文学』[[1906年]](明治39年)1月に「囚はれたる文芸」を発表、1906年[[坪内逍遥]]とともに[[文芸協会]]を設立、2月17日芝紅葉館で発会式、「妹背山」「沓手鳥孤城落月」「新曲浦島」を上演。『早稲田文学』1908年1月に「文芸上の自然主義」を発表した。[[1909年]](明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に[[新劇]]運動をはじめる。しかし[[1913年]](大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の[[松井須磨子]]との恋愛沙汰が[[不祥事|醜聞]]となったことで逍遥との関係が悪化。これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となった。 |
『早稲田文学』[[1906年]](明治39年)1月に「囚はれたる文芸」を発表、1906年[[坪内逍遥]]とともに[[文芸協会]]を設立、2月17日芝紅葉館で発会式、「妹背山」「沓手鳥孤城落月」「新曲浦島」を上演。『早稲田文学』1908年1月に「文芸上の自然主義」を発表した。[[1909年]](明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に[[新劇]]運動をはじめる。しかし[[1913年]](大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の[[松井須磨子]]との恋愛沙汰が[[不祥事|醜聞]]となったことで逍遥との関係が悪化。これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となった。 |
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同年、抱月は須磨子とともに劇団・[[芸術座 (劇団)|芸術座]]を結成。翌[[1914年]](大正3年)に[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の小説を基に抱月が脚色した『[[復活]]』の舞台が評判になり、各地で興行が行われた。須磨子が歌う劇中歌『[[カチューシャの唄]]』はレコードにも吹き込まれて大ヒット曲になり、新劇の大衆化に貢献した。[[1915年]](大正4年)、須磨子とともに[[ロシア帝国]]の[[ウラジオストク]]を訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同公演をプーシキン劇場で行い大好評を博した。しかしその成功も束の間、[[1918年]](大正7年)、抱月は世界的に大流行していた[[スペインかぜ|スペイン風邪]]に罹患し、さらに[[急性疾患|急性肺炎]]を併発し、[[東京市]][[牛込区]][[横寺町]](現・[[東京都]][[新宿区]]横寺町)の芸術倶楽部の居室で急死した。戒名は安祥院実相抱月居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)170頁</ref>。須磨子は抱月の死後も芸術座の公演を続けたが、やがて抱月の後を追って[[自殺]]。芸術座も解散になった。 |
同年9月、抱月は須磨子とともに劇団・[[芸術座 (劇団)|芸術座]]を結成。第1回公演として[[モーリス・メーテルリンク]]の﹁モンナ・ヴァンナ﹂を有楽座で上演<ref>下川耿史﹃環境史年表 明治・大正編(1868-1926)﹄p.387 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。翌[[1914年]]︵大正3年︶に[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の小説を基に抱月が脚色した﹃[[復活]]﹄の舞台が評判になり、各地で興行が行われた。須磨子が歌う劇中歌﹃[[カチューシャの唄]]﹄はレコードにも吹き込まれて大ヒット曲になり、新劇の大衆化に貢献した。[[1915年]]︵大正4年︶、須磨子とともに[[ロシア帝国]]の[[ウラジオストク]]を訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同公演をプーシキン劇場で行い大好評を博した。しかしその成功も束の間、[[1918年]]︵大正7年︶、抱月は世界的に大流行していた[[スペインかぜ|スペイン風邪]]に罹患し、さらに[[急性疾患|急性肺炎]]を併発し、[[東京市]][[牛込区]][[横寺町]]︵現・[[東京都]][[新宿区]]横寺町︶の芸術倶楽部の居室で急死した。戒名は安祥院実相抱月居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]﹃作家の臨終・墓碑事典﹄︵東京堂出版、1997年︶170頁</ref>。須磨子は抱月の死後も芸術座の公演を続けたが、やがて抱月の後を追って[[自殺]]。芸術座も解散になった。
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== 家族 == |
== 家族 == |
2024年3月2日 (土) 14:45時点における版
島村 抱月 | |
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誕生 |
佐々山瀧太郎 1871年2月28日 日本 島根県那賀郡小国村 (現・浜田市) |
死没 |
1918年11月5日(47歳没) 日本 東京府東京市牛込区横寺町 (現・東京都新宿区横寺町) |
墓地 | 浄光寺(浜田市) |
職業 | 文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人、大学教授 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
活動期間 | 1894年 - 1918年 |
文学活動 |
自然主義文学 新劇運動 |
パートナー | 松井須磨子 |
ウィキポータル 文学 |