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1946年6月に[[復員]]するが、家庭内の問題(父親が大学進学直前に死去して経済的問題を抱えていた)もあって本格的な登山への復帰は[[1948年]](昭和23年)に入ってからになった。この年だけで17回の山行と28か所の登頂に成功していいる<ref>春日俊吉、1973年、pp.185-186.</ref>。そして、[[12月19日]]、槍ヶ岳を[[焼岳]]に向かって[[縦走]]するために新宿駅を出発することになった(なお、12月11日から16日までの山行は今回の事前準備と下見も兼ねており、問題となる[[北鎌尾根]]にも立ち寄っている)<ref>春日俊吉、1973年、pp.177-178.</ref>。 |
1946年6月に[[復員]]するが、家庭内の問題(父親が大学進学直前に死去して経済的問題を抱えていた)もあって本格的な登山への復帰は[[1948年]](昭和23年)に入ってからになった。この年だけで17回の山行と28か所の登頂に成功していいる<ref>春日俊吉、1973年、pp.185-186.</ref>。そして、[[12月19日]]、槍ヶ岳を[[焼岳]]に向かって[[縦走]]するために新宿駅を出発することになった(なお、12月11日から16日までの山行は今回の事前準備と下見も兼ねており、問題となる[[北鎌尾根]]にも立ち寄っている)<ref>春日俊吉、1973年、pp.177-178.</ref>。 |
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この縦走には東京農大の後輩だった[[有元克己]]も同行する予定であったが、彼の仕事の都合もあり12月26日に北鎌尾根の第二峰の頂上で会う約束を交わして先行することにし、予定よりも2日早い24日に北鎌尾根に予め築いておいた雪洞に到着した。しかし、12月24日に新宿駅を出た有元は途中の[[信濃大町]]で集中豪雨と[[湯俣川]]の増水に巻き込まれて到着が約束よりも4日遅い12月30日になってしまった。しかも、麓での天候悪化は山岳部では猛吹雪となって現れて、2人は雪洞に閉じ込められ、年が明けても風雪が収まる見込みがなかった(後に明らかになったところでは、年末年始の3週間で晴天はわずか2日でほとんどの期間が暴風雨もしくは暴風雪の状態であったという)<ref>春日俊吉、1973年、pp.179-181.</ref>。やがて死を覚悟して遺言を認めた後、1月6日に死去<ref name=":0" />(春日俊吉は遺言に書かれた状況から5日夜に死去したとしている<ref>春日俊吉、1973年、pp.181-182・186-188.</ref>)。享年26。松濤らの遺体は雪の解けた1949年7月に発見された{{要出典|date=2022-04}}。 |
この縦走には東京農大の後輩だった[[有元克己]]<ref>[https://www.nodai.ac.jp/campus/club/setagaya/noyukai/sangaku/ 東京農業大学山岳部(部の歴史)]</ref>も同行する予定であったが、彼の仕事の都合もあり12月26日に北鎌尾根の第二峰の頂上で会う約束を交わして先行することにし、予定よりも2日早い24日に北鎌尾根に予め築いておいた雪洞に到着した。しかし、12月24日に新宿駅を出た有元は途中の[[信濃大町]]で集中豪雨と[[湯俣川]]の増水に巻き込まれて到着が約束よりも4日遅い12月30日になってしまった。しかも、麓での天候悪化は山岳部では猛吹雪となって現れて、2人は雪洞に閉じ込められ、年が明けても風雪が収まる見込みがなかった(後に明らかになったところでは、年末年始の3週間で晴天はわずか2日でほとんどの期間が暴風雨もしくは暴風雪の状態であったという)<ref>春日俊吉、1973年、pp.179-181.</ref>。やがて死を覚悟して遺言を認めた後、1月6日に死去<ref name=":0" />(春日俊吉は遺言に書かれた状況から5日夜に死去したとしている<ref>春日俊吉、1973年、pp.181-182・186-188.</ref>)。享年26。松濤らの遺体は雪の解けた1949年7月に発見された{{要出典|date=2022-04}}。 |
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遭難中に記した日記や遺書は死後に『[[風雪のビバーク]]』として出版され<ref name=":0" />、[[ベストセラー]]となった{{要出典|date=2022-04}}。「最後の手帳」は[[大町山岳博物館]]に収蔵されている<ref name=":0" /><ref>中西俊明『YAMAMAPシリーズ①白馬岳・鹿島槍・唐松・五竜・針ノ木・蓮華・朝日』p99 2002年 山と渓谷社</ref>。 |
遭難中に記した日記や遺書は死後に『[[風雪のビバーク]]』として出版され<ref name=":0" />、[[ベストセラー]]となった{{要出典|date=2022-04}}。「最後の手帳」は[[大町山岳博物館]]に収蔵されている<ref name=":0" /><ref>中西俊明『YAMAMAPシリーズ①白馬岳・鹿島槍・唐松・五竜・針ノ木・蓮華・朝日』p99 2002年 山と渓谷社</ref>。 |
2023年1月28日 (土) 12:42時点における版
著書および関連書籍
- 『風雪のビバーク』(朋文堂、1960年)
- 『新編・風雪のビヴァーク』山と溪谷社、2000年(『風雪のビバーク』の改題改訂版)ISBN 4-635-04702-4
- 春日俊吉「哀しいノート(北鎌尾根)」『山の遭難譜』二見書房、1973年、pp.177-188.
- 山際淳司『山男たちの死に方:雪煙の彼方に何があるか 遭難ドキュメント』KKベストセラーズ、1984年、ISBN 9784122023635
- 平塚晶人『二人のアキラ、美枝子の山』文藝春秋、2004年、ISBN 9784163660301