田中阿歌麿
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田中 阿歌麿︵たなか あかまろ、1869年10月30日︵明治2年9月26日︶ - 1944年︵昭和19年︶12月1日︶は日本の地理学者。子爵。日本の陸水学︵湖沼学︶の先駆け。
略歴
築地にあった尾張徳川家の邸内で旧尾張藩士の田中不二麿の長男として生まれた。東京師範学校附属小学校で学び、さらに中村敬宇の私塾で学んだのち、1884年︵明治17年︶、16歳の時の富士登山で、眼下に広がる富士五湖の雄大さに感銘し、湖沼の研究を志す。その年外交官であった父の赴任に伴いローマに居住し、その校外や北イタリアのコモ湖畔に滞在し、イタリア中部火口湖やアルプス南麓の氷河湖を観察してまわる。1886年︵明治19年︶、スイスのレマン湖畔のローザンヌに移り、ブリテル︵国際法学者︶の家庭に寄寓し、地理学などを学ぶ。翌年、アルプス中央部の山河や湖沼を見学し、夏季牧畜に状況なども視察した。また、ローザンヌ近郊に居住するメチニコフに教えを受けた。加えて、ローザンヌの私立中学校で学んだ。[1]。 外交官であった父不二麿の意向で外交官修行のためスイスに留学。その時にした観光で地理学の面白さにとりつかれる。フランスの地理学者のエリゼ・レクルスにつき人文地理学を学びアフリカの地理研究にも2年わたって従事した。 1895年︵明治28年︶27歳の時に帰国し、日本に湖沼学を紹介する。東京地学協会︵1879年設立︶の月刊誌﹃地学雑誌﹄の編集委員となり、海外の事情の紹介に寝食を忘れるほどの熱の入れようだった。特にフランス語文献をもとに﹁マリアナ群島略誌﹂(1899 - 1900)などの地誌、各国の湖沼学の研究史展望︵1901-1903︶、﹁アルプ山地夏季住居とその放牧制度﹂(1904年)など集落地理など広範囲に及んだ。[2]。 1899年︵明治32年︶に日本初の科学的な湖沼研究となる山中湖の測深を行ってから、晩年まで日本各地の湖沼をめぐって湖盆形態や水温などの物理的性質を研究を中心して研究をつづけた。31歳の時、富士五湖の研究に着手した。まず、陸地測量部の作成した2万分の一帝国図をもとに等深図を作成した。調査対象は、箱根の芦ノ湖、磐梯山麓湖沼と猪苗代湖、関東地方・中部地方の湖沼に広げられた。このような調査研究の成果は﹁日本湖沼研究略報﹂として1900年から1908年発行の﹃地学雑誌﹄に長く連載された。[2]。 1931年︵昭和6年︶に日本陸水学会を組織した。1932年︵昭和7年︶から1933年︵昭和8年︶にかけては千島列島の湖沼研究を行った。また専修大学・中央大学・早稲田大学・京都大学などで教鞭をとった。1930︵昭和5︶年、﹃日本北アルプス湖沼の研究 ﹄を刊行する。1910年から長野県の信濃教育会北安曇部会の公園と助力を受け、さらに信濃教育会南安曇部会・西筑摩部会などの助力を受けて研究した。1932年から1936年、南千島︵択捉島・国後島・色丹島︶および北千島の湖沼と周辺地域を調査する。1936︵昭和11︶年、過去39年間に調査研究した湖沼数が約170に達した。1937年︵69歳︶ 京都大学から理学博士を授与される。1940︵昭和15︶年、72歳の時最後の著書﹃湖﹄を刊行した。1944︵昭和19︶年、老衰のため兵庫県武庫郡住吉村の自宅で没する[3]。墓所は雑司ヶ谷霊園。 三大研究として﹁諏訪湖の研究﹂、﹁日本北アルプスの湖沼の研究﹂、﹁野尻湖の研究﹂がある。栄典
●1889年︵明治22年︶9月26日 - 従五位[4] ●1943年︵昭和18年︶4月15日 - 従二位[5]家族
母のすまは、名古屋の上前津にあった芝居の道具製作の店﹁花新﹂の長女。妻の竹子は高崎正風の長女。息子は経済地理学者の田中薫、薫の妻は服飾デザイナーの田中千代。著書
- 『湖沼の研究』1911年刊、43歳、日本最初の湖沼学の専著
- 『湖沼学上に見たる諏訪湖の研究』全二巻、1918年、50歳
- 『趣味の湖沼学』1922年、54歳
- 『野尻湖の研究』1926年、58歳
- 『日本北アルプスの湖沼の研究』他多数
脚注
日本の爵位 | ||
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先代 田中不二麿 |
子爵 田中(不二麿)家第2代 1909年 - 1943年 |
次代 田中薫 |