「花山院信賢」の版間の差分
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[[嘉暦]]3年︵[[1328年]]︶5月[[弾正尹]]を辞退した父師賢により[[正四位下]]に申叙されたのが初見<ref>﹃[[公卿補任]]﹄。同時に弟家賢も[[従五位下]]に初叙されている。</ref>。[[大臣家]]の母を持つ家賢と違い母の家柄が低いこと、[[元弘]]2年/[[正慶]]元年︵[[1332年]]︶討幕に関与した父が流罪地で客死したことから、以降頼るべき縁者もなく昇進に難渋したとみられる。﹃[[尊卑分脈]]﹄の尻付には﹁[[左中将]]﹂と記すのみで[[北朝 (日本)|北朝]]で[[公卿]]に列した形跡はないが、南朝の准勅撰集﹃[[新葉和歌集]]﹄に前[[大納言]]として1首入集しており、南北朝分立当初から南朝に参仕していた可能性が高い。﹃[[園太暦]]目録﹄に正平12年/[[延文]]2年︵[[1357年]]︶2月﹁家賢卿・信賢朝臣﹂が一緒に南朝に参仕したとあるのは、北朝での処遇に不満を持っていた家賢を南朝の信賢が手引きして出奔させたとも考えられよう。﹁朝臣﹂は[[四位]]の称で、嘉暦3年から30年近く北朝での位階に変化が見られないのも、信賢が南朝に長年伺候してきたことの裏付けとなる。
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南朝での事績は史料がないが、[[極官]]は大納言に至り、やがて辞職・[[出家]]した。新葉集の1首は出家前の決意を詠み込んだものである︵雑下・1277︶。さらに同集によると、[[正平 (日本)|正平]]17年/[[康安]]2年︵[[1362年]]︶頃の3月<ref>流布本・奏覧本は年紀を欠く。松井本のみは詞書に﹁正平十七年﹂とあるのを﹁朱ニテ消ス﹂と注して抹消するが、同年の前後と考えて誤りはないという︵小木︶。</ref>、[[頼意]]に伴われて家賢らとともに[[住吉行宮|住吉]]の藤を鑑賞している︵春下・157︶。従って、﹃[[断絶諸家略伝]]﹄・﹃花山院家譜﹄などが正平13年/[[延文]]3年︵[[1358年]]︶に[[筑紫]]で戦死した<ref>正平14年/延文4年︵[[1359年]]︶の[[筑後川の戦い]]を指すか。[[懐良親王]]に従軍して討死した公家の中に﹁花山院四位少将﹂︵﹃[[太平記]]﹄巻33﹁菊池合戦事﹂︶がいる。</ref>とするのは誤り。他に﹃[[南朝公卿補任]]﹄は[[建徳]]2年/[[応安]]4年︵[[1371年]]︶出家、﹃[[寛政重修諸家譜]]﹄は[[法名]]を'''素蓮'''とし、[[元中]]7年/[[明徳]]元年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]︵[[1390年]][[10月3日]]︶に[[卒去]]したと伝えるが、何れも確証はない。
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南朝での事績は史料がないが、[[極官]]は大納言に至り、やがて辞職・[[出家]]した。新葉集の1首は出家前の決意を詠み込んだものである︵雑下・1277︶。さらに同集によると、[[正平 (日本)|正平]]17年/[[康安]]2年︵[[1362年]]︶頃の3月<ref>流布本・奏覧本は年紀を欠く。松井本のみは詞書に﹁正平十七年﹂とあるのを﹁朱ニテ消ス﹂と注して抹消するが、同年の前後と考えて誤りはないという︵小木︶。</ref>、[[頼意]]に伴われて家賢らとともに[[住吉行宮|住吉]]の藤を鑑賞している︵春下・157︶。従って、﹃[[断絶諸家略伝]]﹄・﹃花山院家譜﹄などが正平13年/[[延文]]3年︵[[1358年]]︶に[[筑紫]]で戦死した<ref>正平14年/延文4年︵[[1359年]]︶の[[筑後川の戦い]]を指すか。[[懐良親王]]に従軍して討死した公家の中に﹁花山院四位少将﹂︵﹃[[太平記]]﹄巻33﹁菊池合戦事﹂︶がいる。</ref>とするのは誤り。他に﹃[[南朝公卿補任]]﹄は[[建徳]]2年/[[応安]]4年︵[[1371年]]︶出家、﹃[[寛政重修諸家譜]]﹄は[[法名]]を'''素蓮'''とし、[[元中]]7年/[[明徳]]元年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]︵[[1390年]][[10月3日]]︶に[[卒去]]したと伝えるが、何れも確証はない。
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2016年1月2日 (土) 15:54時点における版
花山院信賢 | |
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時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 素蓮(法名)? |
戒名 | (伝)宝蔵院 |
官位 | 大納言(南朝) |
主君 | 後醍醐天皇→後村上天皇→長慶天皇? |
氏族 | 藤原北家師実流、花山院家 |
父母 | 父:花山院師賢、母:源仲時女 |
兄弟 | 経賢、信賢、家賢 他 |
子 | 師資?、青山師重? |
経歴
嘉暦3年︵1328年︶5月弾正尹を辞退した父師賢により正四位下に申叙されたのが初見[1]。大臣家の母を持つ家賢と違い母の家柄が低いこと、元弘2年/正慶元年︵1332年︶討幕に関与した父が流罪地で客死したことから、以降頼るべき縁者もなく昇進に難渋したとみられる。﹃尊卑分脈﹄の尻付には﹁左中将﹂と記すのみで北朝で公卿に列した形跡はないが、南朝の准勅撰集﹃新葉和歌集﹄に前大納言として1首入集しており、南北朝分立当初から南朝に参仕していた可能性が高い。﹃園太暦目録﹄に正平12年/延文2年︵1357年︶2月﹁家賢卿・信賢朝臣﹂が一緒に南朝に参仕したとあるのは、北朝での処遇に不満を持っていた家賢を南朝の信賢が手引きして出奔させたとも考えられよう。﹁朝臣﹂は四位の称で、嘉暦3年から30年近く北朝での位階に変化が見られないのも、信賢が南朝に長年伺候してきたことの裏付けとなる。
南朝での事績は史料がないが、極官は大納言に至り、やがて辞職・出家した。新葉集の1首は出家前の決意を詠み込んだものである︵雑下・1277︶。さらに同集によると、正平17年/康安2年︵1362年︶頃の3月[2]、頼意に伴われて家賢らとともに住吉の藤を鑑賞している︵春下・157︶。従って、﹃断絶諸家略伝﹄・﹃花山院家譜﹄などが正平13年/延文3年︵1358年︶に筑紫で戦死した[3]とするのは誤り。他に﹃南朝公卿補任﹄は建徳2年/応安4年︵1371年︶出家、﹃寛政重修諸家譜﹄は法名を素蓮とし、元中7年/明徳元年8月24日︵1390年10月3日︶に卒去したと伝えるが、何れも確証はない。
子の師重は尹良親王に従って東国に下り、上野国吾妻郡青山郷に居住。以後青山を家名としたという。
脚注
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻727「藤原氏頼通流花山院支流/青山」
- 『花山院家譜』(東京大学史料編纂所蔵)
- 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815
- 井上宗雄 『中世歌壇史の研究 南北朝期(改訂新版)』 明治書院、1987年(初版は1965年)、ISBN 9784625474484