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2008年1月16日 (水) 14:45時点における版
赤井 直正︵あかい なおまさ、享禄2年︵1529年︶ - 天正6年3月9日︵1578年4月8日︶︶は、戦国時代の丹波国の豪族。通称は悪右衛門。赤井時家の次男。赤井氏の実質的な指導者として、氷上郡を中心に丹波で大きな勢力を誇った。一時織田信長従うもののまもなく背き、信長の派遣した明智光秀に対して猛烈な抵抗を繰り広げた。
出自
赤井氏は清和源氏頼季流︵河内源氏・頼信の子。発祥は信濃国︶より発した芦田氏の流れということになっている︵寛政重修諸家譜より︶が、故ありて丹波に流されたことになっており、仮冒であろう。丹波国氷上郡内に芦田の地名があることから元から氷上郡にいた在地の土豪であろう。九郎為家が赤井に住み、1215年に父・八郎家範から氷上、天田、何鹿の3郡を与えられたことから、赤井氏の本格的な活動が始まる。
荻野氏時代
直正の兄、赤井家清のとき氷上郡のほぼ全域を支配する勢力に成長した。直正は次男であったことから赤井氏の同族で黒井城︵兵庫県丹波市春日町︶に拠る荻野氏の養子に入って荻野姓を称した。のちにまだ青年のころ、義父で舅の荻野伊予守を殺害し、黒井城を奪う︵1554年︶。通称の﹁悪右衛門﹂はこの事件からついたのだとも、自称していたものだとも諸説ある。また、勇猛ぶりから﹁丹波の赤鬼﹂と恐れられ、﹁青鬼﹂こと多紀郡籾井城︵兵庫県篠山市︶の籾井教業と並び称せられた。正室として波多野元秀の娘を娶ったが死別し、その後、前関白近衛前久の妹の近衛氏を正室として娶る。彼女との間に一女をもうけた。
赤井氏の後見人として
1555年、高良合戦で兄家清が、三好家の松永長頼との戦いで戦死したため、直正は黒井城に居住したまま幼少の甥忠家を後見して赤井一族を率いた。このため、赤井姓をもって呼ばれることが普通である。
1558年には天田郡の荒木尚雅を滅ぼすなど勢力拡大に努めている。
1565年には三好長慶逝去後の混乱を突いて兄の仇である内藤宗勝︵松永長頼の内藤氏の継承後の名︶を攻め滅ぼすことに成功した。
織田氏との戦い
1570年、本家の忠家とともに織田信長に降り、3郡の所領安堵を受けている。
しかし、1571年に山名氏が氷上郡を攻撃すると、これを打ち破り、逆に山名氏本城の此隅山城・竹田城を占拠する。山名氏は信長に救援を頼んだため、信長の丹波侵攻を招くこととなる。
1575年、織田信長は明智光秀をして丹波攻略を命じた。名目は赤井直正討伐である。赤井直正は黒井城に篭って戦う。八上城の波多野秀治が直正に呼応したため、光秀は敗走した。
これ以降、丹波は京都を中心に畿内の支配を固めた織田信長の侵攻にさらされるが、直正ら赤井一族は波多野氏と結束して頑強に抵抗し、明智光秀率いる織田軍を何度か撃退することに成功する。
明智光秀と戦ったとき、直正は、光秀軍を取り囲み、光秀は﹁もはやこれまで﹂と覚悟を決めるほどだったという。
直正の死と丹波の平定
しかし、1578年に病により死去。彼の死により赤井一族は求心力を失い、織田氏による丹波平定を早めることになった。
死の直前、単独で勧降に訪れた脇坂安治の態度に感心し、貂︵テン︶の皮で作った槍の鞘を彼に贈った。安治はこれを持ち帰り、以後﹁貂の皮﹂は脇坂家の家宝となったという説があるが、真偽は不明である。
1577年10月に光秀は亀山城を築城し丹波における拠点を固める。
1578年中に亀岡盆地の豪族の平定がなったようで11月には多紀郡の入り口を固める﹁青鬼﹂籾井越中守教業を滅ぼす。
1579年に入ると但馬と連係し、攻略スピードは上がった。7月に北桑田郡の有都氏を、8月に多紀郡の波多野氏、同じく8月に天田郡の塩見氏、9月に氷上郡赤井氏が降伏した。