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「薄田泣菫」の版間の差分

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[[1906年]]12月、京都で市川修(通称修子)と結婚、翌年長女が誕生。この結婚をきっかけに詩作が減る。

[[1906年]]12月、京都で市川修(通称修子)と結婚、翌年長女が誕生。この結婚をきっかけに詩作が減る。



[[明治]]の終わりごろから一時小説に興味を移したが、結局随筆に転じ、詩作を離れた。[[国民新聞社]]、[[帝国新聞社]]に勤めた後、[[大阪毎日新聞社]]に勤め、[[1915年]]、『[[茶話]]』の連載開始。これは「茶を飲みながら喋る気楽な世間話」と言う意味で、古今東西の噂話、失敗談、面白おかしい話を幅広く紹介している。『[[大阪毎日新聞]]』、『[[東京日日新聞]]』、『[[サンデー毎日]]』、『[[苦楽]]』、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』他に執筆され、異本が多い。

[[明治]]の終わりごろから一時[[小説]]に興味を移したが、結局随筆に転じ、詩作を離れた。[[国民新聞社]]、[[帝国新聞社]]に勤めた後、[[大阪毎日新聞社]]に勤め、[[1915年]]、『[[茶話]]』の連載開始。これは「茶を飲みながら喋る気楽な世間話」と言う意味で、古今東西の噂話、失敗談、面白おかしい話を幅広く紹介している。『[[大阪毎日新聞]]』、『[[東京日日新聞]]』、『[[サンデー毎日]]』、『[[苦楽]]』、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』他に執筆され、異本が多い。



[[1917年]]、[[パーキンソン病]]に罹患。

[[1917年]]、[[パーキンソン病]]に罹患。

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== 逸話 ==

== 逸話 ==

[[File:Keats grave.jpg|thumb|right|土井晩翠が泣菫に贈る菫を摘んだキーツの墓(ローマ)。]]

[[File:Keats grave.jpg|thumb|right|土井晩翠が泣菫に贈る菫を摘んだキーツの墓(ローマ)。]]

*中学校を二年で中退した事については種々の流説があるが、泣菫自身は器械体操が不得手であったことを理由にしている。学びたいものを選んで学ぶという決意がここに見られる。

*中学校を二年で中退した事については種々の流説があるが、泣菫自身は[[器械体操]]が不得手であったことを理由にしている。学びたいものを選んで学ぶという決意がここに見られる。

*東京では一日も休まず上野の帝国図書館に通う傍ら、英語塾にも通い、ヨーロッパの古典を英語で読み知識を身に着けた。愛好する[[ジョン・キーツ|キーツ]]の詩集を常に持ち歩いたと言われる。帝国図書館では当時新進作家であった[[樋口一葉]]の姿を目にしている。

*東京では一日も休まず上野の帝国図書館に通う傍ら、英語塾にも通い、ヨーロッパの古典を英語で読み知識を身に着けた。愛好する[[ジョン・キーツ|キーツ]]の詩集を常に持ち歩いたと言われる。帝国図書館では当時新進作家であった[[樋口一葉]]の姿を目にしている。

*1897年、二十歳になり[[徴兵検査]]のために帰郷したが、肺病と診断され、そのまま故郷で養生する事となった。

*1897年、二十歳になり[[徴兵検査]]のために帰郷したが、肺病と診断され、そのまま故郷で養生する事となった。

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[[Category:19世紀日本の詩人]]

[[Category:19世紀日本の詩人]]

[[Category:20世紀日本の詩人]]

[[Category:20世紀日本の詩人]]

[[Category:新聞社人物]]

[[Category:20世紀随筆家]]

[[Category:国民新聞社の人物]]

[[Category:大阪毎日新聞社の人物]]

[[Category:明治時代の国民新聞社の人物]]

[[Category:二松學舍出身の人物]]

[[Category:二松學舍出身の人物]]

[[Category:岡山県立岡山朝日高等学校出身の人物]]

[[Category:岡山県立岡山朝日高等学校出身の人物]]

[[Category:岡山県出身の人物]]

[[Category:岡山県出身の人物]]

[[Category:パーキンソン病の人物]]

[[Category:1877年生]]

[[Category:1877年生]]

[[Category:1945年没]]

[[Category:1945年没]]


2021年6月28日 (月) 10:03時点における版


  187710519 - 194520109


薄田 泣菫
誕生 薄田 淳介
1877年5月19日
岡山県浅口郡大江連島村
死没 (1945-10-09) 1945年10月9日(68歳没)
日本の旗 日本 岡山県
職業 詩人随筆家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 岡山県尋常中学校中退
代表作 『暮笛集』(1899年)
『二十五絃』(1905年)
白羊宮』(1906年)
茶話』(1915-30年)
艸木虫魚』(1929年)
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生涯


1877513退[1]

1894[2][3]

1897稿

190612

1915西

1917

1919西

1923

1945104109尿68[4]


退

姿

1897

稿稿稿



1900

1903Cimetière anglais de RomeThe Grave of KeatsBut gentle violets weepingwith the dew[5]


  歿   [6]

1954西稿1965[7]1979[8]

199920037[9]




189911

190110

19055

19056

19065

192819831999

19148

191610

19184

19196

19244

192612

19275

192911940

19296

193110

19344 

19433



8 1938391984




1993

 152007


 

 3西1983-84811

19981928154

1998

2009



(一)^ 2002518 

(二)^  1977295-297 

(三)^ 2008736-37 

(四)^ 2015122 

(五)^ p19p55

(六)^ ︿24520072142ISBN 978-4-8212-5245-9 

(七)^  .  . 20191013

(八)^ :(9)

(九)^ p143p147


︿1977 

 1981 

 2007 

調 2019 

 2014-20163




 

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