「見性院」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''見性院'''(けんしょういん)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]の女性。父は[[武田信玄]]で次女、母は[[三条夫人]]。穴山梅雪(信君)の正室。
|
'''見性院'''(けんしょういん、[[1554年]]︵[[天文 (元号)|天文]]23年︶ - [[1622年]][[6月17日]]︵[[元和]]8年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]︶)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]の女性。父は[[武田信玄]]で次女、母は[[三条夫人]]。[[穴山梅雪]](信君)の正室。
|
||
[[甲斐国]] |
[[甲斐国]]︵[[山梨県]]︶に生まれる。[[永禄]]年間に武田信玄(晴信)の姉の夫に当たる[[武田氏]]家臣の[[穴山信友]]の子、穴山梅雪(信君)の正室となる。[[1582年]]([[天正10年)に信君が[[土一揆]]で殺され、[[織田信長]]の侵攻による武田氏滅亡後は[[徳川家康]]に保護され、[[江戸城]]北の丸に邸を与えられる。江戸幕府の2代将軍の[[徳川秀忠]]が次女に生ませた子(幸松、[[保科正之]])を養育する。
|
||
墓所は[[埼玉県]][[さいたま市]][[緑区]]の清泰寺。 |
墓所は[[埼玉県]][[さいたま市]][[緑区]]の清泰寺。 |
||
10行目: | 10行目: | ||
---- |
---- |
||
'''見性院'''(けんしょういん)は、安土桃山時代から江戸時代の女性。[[土佐国]][[高知藩]]主となる[[山内一豊]]の正室。出自は諸説。名は千代、まつ。
|
'''見性院'''(けんしょういん、[[1557年]]︵[[弘治]]3年︶ - [[1617年]][[12月31日]]︵[[元和]]3年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]︶)は、安土桃山時代から江戸時代の女性。[[土佐国]][[高知藩]]主となる[[山内一豊]]の正室。出自は諸説あり、[[浅井氏]]家臣の若宮喜助友興の子とも、群上八幡城主の遠藤盛数の子とも言われる。名は千代、まつ。
|
||
内助の功で夫を支えたエピソードで知られる。 |
内助の功で夫を支えたエピソードで知られる。 |
||
墓所は[[高知県]][[高知市]]の山内家墓所 |
墓所は[[高知県]][[高知市]]の山内家墓所。 |
||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2005年3月5日 (土) 06:35時点における版
見性院(けんしょういん、1554年︵天文23年︶ - 1622年6月17日︵元和8年5月9日︶)は、安土桃山時代から江戸時代の女性。父は武田信玄で次女、母は三条夫人。穴山梅雪(信君)の正室。
甲斐国︵山梨県︶に生まれる。永禄年間に武田信玄(晴信)の姉の夫に当たる武田氏家臣の穴山信友の子、穴山梅雪(信君)の正室となる。1582年([[天正10年)に信君が土一揆で殺され、織田信長の侵攻による武田氏滅亡後は徳川家康に保護され、江戸城北の丸に邸を与えられる。江戸幕府の2代将軍の徳川秀忠が次女に生ませた子(幸松、保科正之)を養育する。
墓所は埼玉県さいたま市緑区の清泰寺。
見性院(けんしょういん、1557年︵弘治3年︶ - 1617年12月31日︵元和3年12月4日︶)は、安土桃山時代から江戸時代の女性。土佐国高知藩主となる山内一豊の正室。出自は諸説あり、浅井氏家臣の若宮喜助友興の子とも、群上八幡城主の遠藤盛数の子とも言われる。名は千代、まつ。
内助の功で夫を支えたエピソードで知られる。
墓所は高知県高知市の山内家墓所。