足利基氏
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足利基氏 | |
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時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 暦応3年/興国元年3月5日(1340年4月2日) |
死没 | 貞治6年/正平22年4月26日(1367年5月25日) |
改名 | 光王(亀若丸)、基氏 |
別名 | 入間川殿 |
戒名 | 瑞泉寺玉巌道昕 |
官位 | 従五位下左馬頭、従四位下左兵衛督、従三位 |
幕府 | 鎌倉幕府鎌倉公方 |
氏族 | 足利氏(足利将軍家) |
父母 | 父:足利尊氏、母:赤橋登子 |
兄弟 | 竹若、直冬、義詮、基氏、鶴王ほか |
妻 | 正室:畠山家国の娘 |
子 | 氏満 |
生涯
足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱が起こると、父は鎌倉にいた嫡男で基氏の兄義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、貞和5年/正平4年︵1349年︶に次男である基氏を鎌倉公方として下し、鎌倉府として機能させる。この折、幼い基氏を補佐した執事︵後の関東管領︶の1人に上杉憲顕がいた。
﹁鎌倉九代後記﹂によれば、基氏は約6年間もの長期間、南朝方との戦闘のため鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから﹁入間川殿﹂と呼ばれ、その居館は入間川御陣と称された。父の死後、南朝方の新田義興を滅ぼすと共に、康安元年/正平16年︵1361年︶には執事として基氏を補佐していた畠山国清と対立した家臣団から国清の罷免を求められた結果、抵抗した国清を討つに至る。後任には一時高師有を用いるが、貞治2年/正平18年︵1363年︶6月、越後にいた上杉憲顕を関東管領として鎌倉に呼び寄せる。
この頃、基氏は兄の義詮と図り、父を助けて越後・上野守護を拝命していた宇都宮氏綱に隠れて、密かに越後守護職を憲顕に与えていたと見られる。この動きに激怒し、憲顕を上野で迎撃しようとした氏綱の家臣で上野守護代の芳賀禅可を基氏は武蔵苦林野で撃退した上、宇都宮征伐に向かう。途中の小山で小山義政の仲介の元、氏綱の釈明を受け入れて鎌倉に戻り、公式に氏綱から上野・越後の守護職を剥奪して憲顕に与え、関東における足利家の勢力を固める。また、夢窓疎石の弟子である義堂周信を鎌倉へ招き、五山文学や禅の普及を奨励するなど、鎌倉ひいては関東の文化の興隆にも努めた。
貞治6年/正平22年︵1367年︶に死去、享年28。死因ははしかと伝わる。[1]また難太平記は死因を自殺としている。同年12月7日には兄義詮も亡くなっている。
基氏の子孫である鎌倉公方系統の足利家︵数流に分かれる。当該項目参照︶の1つは、江戸時代には喜連川家として、1万石に満たない少禄ながら10万石格の大名になる。明治時代には華族に列せられ、名字を足利に復して存続している。
経歴
※日付=旧暦
●1349年︵正平4年/貞和5年︶9月9日、鎌倉公方就任。
●1350年︵正平5年/観応元年︶従五位下に叙し、左馬頭に任官。
●1352年︵正平7年/文和元年︶2月25日、元服し、基氏と名乗る。同日、従四位下に昇叙し、左兵衛督に転任。
●1364年︵正平19年/貞治3年︶4月14日、従三位に昇叙。左兵衛督如元。
偏諱を受けた人物
戦国時代中期に古河公方を務めた足利高基(基氏から6代目の子孫)も基氏から一字を取っている。
関連項目
脚注
- ^ 田辺久子「関東公方足利氏四代」66ページ
関連書籍
- 田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』吉川弘文館、2002年発行。ISBN 9784642077897
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