畠山基国
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畠山 基国 | |
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『本朝百将伝』より | |
時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
生誕 | 正平7年/文和元年(1352年) |
死没 | 応永13年1月17日(1406年2月5日) |
別名 | 三郎(通称) |
戒名 | 長禅寺殿春岩徳元 |
官位 | 右衛門佐(あるいは左衛門佐)、右衛門督、従四位下 |
幕府 | 室町幕府侍所頭人、引付頭人、管領、越前国・越中国・河内国・能登国・紀伊国・山城国守護 |
主君 | 足利義詮→義満 |
氏族 | 畠山氏 |
父母 | 父:畠山義深 |
兄弟 | 石垣左京大夫満国[1] |
子 | 満家、満慶(満則) |
畠山 基国︵はたけやま もとくに︶は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。室町幕府の6代管領。家系は足利氏一門の畠山氏。基国は畠山氏で初めて管領となった人物であり、室町時代に畠山氏が三管領家となったことから、畠山氏の中興の祖と言われている。
侍所頭人、引付頭人、越前国・越中国・河内国・能登国・紀伊国・山城国守護などを歴任した[2]。通称は三郎[3]。官途は右衛門佐[2][4]︵﹃続群書類従﹄では、左衛門佐[5]︶、右衛門督[3]。法名は徳元[2]。
生涯[編集]
畠山義深の嫡男。子に満家、満慶︵満則︶がいる。﹁基﹂の字は初代鎌倉公方・足利基氏より偏諱の授与を受けたものとされている[6]が、活動としては基氏の兄・義詮から続く足利将軍家に仕えた。 天授2年/永和2年︵1376年︶に侍所頭人に就任[7]、天授5年/康暦元年︵1379年︶に父が死去したため越前守護を継承した。同年の康暦の政変で管領となった斯波義将と越中を交換、越中守護に代わった[8][9]。また、能登は当初は吉見氏頼、次いで本庄宗成が守護職であったが、いずれも失脚したため元中8年/明徳2年︵1391年︶に基国が守護となり、以後畠山氏の分国となった。 弘和2年/永徳2年︵1382年︶2月、将軍・義満から楠木正儀追討を命じられ、正儀に代わって河内国守護に就任した[10]。﹃津川本畠山系図﹄では、居城・若江城の他、飯盛城、八尾城、竜泉城などをつくったことが記されている[11]。ただし、﹃藤井寺市史﹄では、最終的な結論として、本拠は不明としている[12]。 明徳3年︵1392年︶1月、楠木正勝の守備する千早城は落城し、正勝らは大和国の吉野十津川方面へと逃走した。楠木氏は60年以上続いた最も象徴的な根拠地を失ったのと同時に、畠山氏は名実共に河内国の支配者となった。 また、元中8年/明徳2年に山名氏が蜂起した明徳の乱では幕府方の一員として参陣。翌年から応永元年︵1394年︶まで侍所頭人に再任、山城国守護も兼任した[7]。応永5年︵1398年︶8月5日、管領に任じられた[7][5]。同12年︵1405年︶8月まで務めた[5]。 応永6年︵1399年︶10月に大内義弘が蜂起した応永の乱でも戦った[13]。同年11月29日の戦闘では、基国・満家父子が先陣を務めた[14]。戦後、義弘の領国だった紀伊国を与えられた[15][3]。 応永9年︵1402年︶から翌応永10年︵1403年︶まで、山城国守護に再任された[7]。これにより、基国の分国は、山城国、河内国、紀伊国、能登国、越中国となった[3]。また、この他に、﹃両畠山系図﹄では、摂津国欠郡︵﹃大阪府史﹄では、東成郡、あるいは、同郡及び住吉郡と推測している[16]︶と大和国宇智郡の分郡守護であったことが記されている[3]。 応永13年︵1406年︶1月10日、死去[2]。53歳。嫡男の満家が当時失脚していたため、家督は次男の満慶が継いだ。法号は長禅寺殿春岩徳元。後に満慶は満家に家督を譲り能登一国を領有、子孫は分家として満家の系統の本家を支えていった。辛国神社[編集]
「辛国神社」も参照
大阪府藤井寺市にある神社。河内国守護だった基国が社領200石を寄進し、奈良から天児屋根命を勧請して春日社と称するようになった[17]。明治時代になって辛国神社と改称した[18]。
偏諱を与えた人物[編集]
●遊佐国長 - 家臣・守護代︵河内国・越中国︶。法名は長護。基国・満家父子に臣従して活動した[19]。 ●遊佐国盛 - 国長の子か。満家の代に守護代を務める。 ●吉見国頼 - 吉見氏。前述の吉見氏頼の甥にあたる。基国の代の内衆︵家臣団︶[編集]
明徳3年︵1392年︶8月28日、相国寺の仏殿が完成した際、将軍義満以下、幕府の大名などが多数参列した[20]。このとき、基国に従った内衆︵家臣団︶は以下の通りである[20]。 遊佐国長︵河内守︶、遊佐助国︵豊後守︶、斎藤基則︵次郎︶、隅田家朝︵彦次郎︶、遊佐基光︵孫太郎︶、古山胤貞︵次郎︶、神保国久︵宗三郎︶、飯尾清政︵善六︶、遊佐家国︵五郎︶、門真国康︵小三郎︶、三宅家村︵四郎︶、三宅慶明︵次郎︶、誉田孫次郎、酒匂国頼︵次郎︶、斎藤利久︵彦五郎︶、斎藤国家︵四郎︶、槇島光基︵次郎左衛門尉︶、槇島光貞︵三郎︶、杉原貞平︵五郎︶、井口奉忠︵彦五郎︶、斎藤利宗︵次郎左衛門尉︶、佐脇久隆︵孫五郎︶、椎名長胤︵次郎︶、吹田国通︵孫太郎︶、斎藤利房︵孫左衛門尉︶、松田秀久︵孫左衛門尉︶、稲生基宗︵平左衛門尉︶、和田正友︵太郎︶、神保氏久︵肥前守︶、神保国氏︵四郎左衛門尉︶[20]脚注[編集]
(一)^ ﹃両畠山系図﹄
(二)^ abcd藤井寺市史編さん委員会 1997, p. 892.
(三)^ abcde大阪府史編集専門委員会 1981, p. 30.
(四)^ 藤井寺市史編さん委員会 1997, p. 803.
(五)^ abc続群書類従完成会 1926, p. 361.
(六)^ 伯父の畠山国清が基氏を補佐する立場の関東管領であり、おば︵国清の妹︶の清渓尼が基氏の妻であったことによる縁である。康安元年︵1361年︶11月の畠山国清の乱以後は父・義深とともに幕府に従った。
(七)^ abcd大阪府史編集専門委員会 1981, p. 46.
(八)^ 藤井寺市史編さん委員会 1997, pp. 802–803.
(九)^ 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 45.
(十)^ 藤井寺市史編さん委員会 1997, p. 801.
(11)^ 藤井寺市史編さん委員会 1997, p. 807.
(12)^ 藤井寺市史編さん委員会 1997, p. 808.
(13)^ 大阪府史編集専門委員会 1981, pp. 5–10.
(14)^ 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 8.
(15)^ 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 9.
(16)^ 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 31.
(17)^ 藤井寺市史編さん委員会 1997, p. 639.
(18)^ 藤井寺市史編さん委員会 1997, p. 640.
(19)^ "遊佐国長". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2023年9月13日閲覧。
(20)^ abc大阪府史編集専門委員会 1981, p. 80.
参考文献[編集]
●﹁巻第九十一 執事補任次第﹂﹃続群書類従﹄ 第四輯上︽帝王部.補任部︾︵再版︶、続群書類従完成会、1926年4月30日。NDLJP:936499/185。 ●大阪府史編集専門委員会 編﹃大阪府史﹄ 第4巻︽中世編 Ⅱ︾、大阪府、1981年5月30日。NDLJP:9574696。(要登録) ●国史大辞典編集委員会編﹃国史大辞典11にた - ひ﹄吉川弘文館、1990年。 ●藤井寺市史編さん委員会 編﹃藤井寺市史﹄ 第一巻︽通史編一︾、藤井寺市、1997年3月31日。NDLJP:9576798。(要登録) ●平野邦雄、瀬野精一郎編﹃日本古代中世人名辞典﹄吉川弘文館、2006年。 ●佐藤和彦、錦昭江、松井吉昭、櫻井彦、鈴木彰、樋口州男共編﹃日本中世内乱史人名事典﹄新人物往来社、2007年。関連項目[編集]
●高屋城外部リンク[編集]
●﹃畠山基国﹄ - コトバンク
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