「野田謙吾」の版間の差分
Omaemona1982 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
→栄典: 年号訂正 |
||
(13人の利用者による、間の14版が非表示) | |||
12行目: | 12行目: | ||
| 所属組織 = [[日本陸軍]] |
| 所属組織 = [[日本陸軍]] |
||
| 軍歴 = [[1912年]](明治45年) - [[1945年]](昭和20年) |
| 軍歴 = [[1912年]](明治45年) - [[1945年]](昭和20年) |
||
| 最終階級 = [[陸軍中将]] |
| 最終階級 = [[ファイル:帝國陸軍の階級―襟章―中将.svg|40px]] [[陸軍中将]] |
||
| 除隊後 = |
| 除隊後 = |
||
| 墓所 = |
| 墓所 = |
||
25行目: | 25行目: | ||
[[1941年]]︵昭和16年︶4月、[[支那派遣軍]]総参謀副長に就任し[[中国]]に出征。同年8月、陸軍中将に進み[[太平洋戦争]]を迎えた。[[1942年]]︵昭和17年︶12月、[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]長に親補され[[満州]][[チチハル市|チチハル]]に駐屯。[[1943年]]︵昭和18年︶10月、[[教育総監#本部長|教育総監部本部長]]に発令され、[[1944年]]︵昭和19年︶7月から11月まで教育総監代理を務めた。[[1945年]]︵昭和20年︶3月、[[陸軍機甲本部]]長を兼務。同年4月、[[第51軍 (日本軍)|第51軍]][[司令官]]となり[[土浦市|土浦]]で終戦を迎えた。1945年10月、[[東北軍管区]]司令官に発令され、同年12月、[[予備役]]に編入。同月から翌年3月まで東北復員監を務めた。
|
[[1941年]]︵昭和16年︶4月、[[支那派遣軍]]総参謀副長に就任し[[中国]]に出征。同年8月、陸軍中将に進み[[太平洋戦争]]を迎えた。[[1942年]]︵昭和17年︶12月、[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]長に親補され[[満州]][[チチハル市|チチハル]]に駐屯。[[1943年]]︵昭和18年︶10月、[[教育総監#本部長|教育総監部本部長]]に発令され、[[1944年]]︵昭和19年︶7月から11月まで教育総監代理を務めた。[[1945年]]︵昭和20年︶3月、[[陸軍機甲本部]]長を兼務。同年4月、[[第51軍 (日本軍)|第51軍]][[司令官]]となり[[土浦市|土浦]]で終戦を迎えた。1945年10月、[[東北軍管区]]司令官に発令され、同年12月、[[予備役]]に編入。同月から翌年3月まで東北復員監を務めた。
|
||
== 栄典 == |
|||
;位階 |
|||
* [[1913年]](大正2年)[[2月20日]] - [[正八位]]<ref>『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。</ref> |
|||
* [[1941年]](昭和16年)[[9月15日]] - [[従四位]] |
|||
* [[1943年]](昭和18年)[[10月1日]] - [[正四位]] |
|||
;勲章 |
|||
* [[1943年]](昭和18年)[[10月9日]] - [[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]<ref>『官報』第5029号「叙任及辞令」1943年10月15日。</ref> |
|||
;外国勲章佩用允許 |
|||
* [[1941年]](昭和16年)[[12月9日]] - [[満州国|満州帝国]]:[[記念章#建国神廟創建紀念章|建国神廟創建記念章]]<ref>『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。</ref> |
|||
== 親族 == |
== 親族 == |
||
32行目: | 44行目: | ||
== 著作 == |
== 著作 == |
||
* 自伝『思出』私家版。 |
* 自伝『思出』私家版。 |
||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{Reflist}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
38行目: | 54行目: | ||
* 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 |
* 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 |
||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:のた けんこ}} |
{{DEFAULTSORT:のた けんこ}} |
||
[[Category:大日本帝国陸軍将 |
[[Category:大日本帝国陸軍中将]] |
||
[[Category:日中戦争の人物]] |
[[Category:日中戦争の人物]] |
||
[[Category:太平洋戦争の人物]] |
[[Category:太平洋戦争の人物]] |
||
⚫ | |||
[[Category:陸軍歩兵学校の教員]] |
|||
[[Category:陸軍士官学校 (日本)の教員]] |
|||
[[Category:陸軍大学校出身の人物]] |
|||
[[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]] |
|||
[[Category:熊本県立熊本高等学校出身の人物]] |
|||
[[Category:正四位受位者]] |
|||
[[Category:勲一等瑞宝章受章者]] |
|||
[[Category:熊本県出身の人物]] |
[[Category:熊本県出身の人物]] |
||
[[Category:1891年生]] |
[[Category:1891年生]] |
||
[[Category:1961年没]] |
[[Category:1961年没]] |
||
⚫ |
2023年3月27日 (月) 04:23時点における最新版
野田 謙吾 | |
---|---|
生誕 |
1891年(明治24年)4月22日![]() |
死没 | 1961年(昭和36年)11月28日 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1912年(明治45年) - 1945年(昭和20年) |
最終階級 |
![]() |
経歴[編集]
熊本県出身。農業・野田市九郎の四男として生れる。熊本中学校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年︵明治45年︶5月、陸軍士官学校︵24期︶を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第55連隊付となる。1914年︵大正3年︶8月から12月まで青島の戦いに出征。1920年︵大正9年︶11月、陸軍大学校︵第32期︶を卒業した。 1921年︵大正10年︶7月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍歩兵学校教官、朝鮮軍参謀、歩兵第14連隊大隊長、参謀本部員などを経て、1931年︵昭和6年︶11月から翌年4月まで、陸大専攻学生として学んだ。1932年︵昭和7年︶4月、歩兵学校教官となり、陸軍省軍務局課員、欧州出張、陸士教官などを歴任し、1935年︵昭和10年︶8月、歩兵大佐に昇進し、翌月、歩兵第33連隊長に就任した。1938年︵昭和13年︶1月、歩兵学校教導連隊長に就任し、1938年︵昭和13年︶7月、陸軍少将に進級し教育総監部第2部長となった。1939年︵昭和14年︶10月、人事局長に就任。 1941年︵昭和16年︶4月、支那派遣軍総参謀副長に就任し中国に出征。同年8月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた。1942年︵昭和17年︶12月、第14師団長に親補され満州チチハルに駐屯。1943年︵昭和18年︶10月、教育総監部本部長に発令され、1944年︵昭和19年︶7月から11月まで教育総監代理を務めた。1945年︵昭和20年︶3月、陸軍機甲本部長を兼務。同年4月、第51軍司令官となり土浦で終戦を迎えた。1945年10月、東北軍管区司令官に発令され、同年12月、予備役に編入。同月から翌年3月まで東北復員監を務めた。栄典[編集]
- 位階
- 勲章
- 外国勲章佩用允許
親族[編集]
著作[編集]
- 自伝『思出』私家版。