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[[1941年]]︵昭和16年︶4月、[[支那派遣軍]]総参謀副長に就任し[[中国]]に出征。同年8月、陸軍中将に進み[[太平洋戦争]]を迎えた。[[1942年]]︵昭和17年︶12月、[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]長に親補され[[満州]][[チチハル市|チチハル]]に駐屯。[[1943年]]︵昭和18年︶10月、[[教育総監#本部長|教育総監部本部長]]に発令され、[[1944年]]︵昭和19年︶7月から11月まで教育総監代理を務めた。[[1945年]]︵昭和20年︶3月、[[陸軍機甲本部]]長を兼務。同年4月、[[第51軍 (日本軍)|第51軍]][[司令官]]となり[[土浦市|土浦]]で終戦を迎えた。1945年10月、[[東北軍管区]]司令官に発令され、同年12月、[[予備役]]に編入。同月から翌年3月まで東北復員監を務めた。
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* [[1943年]](昭和18年)[[10月9日]] - [[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]<ref>『官報』第5029号「叙任及辞令」1943年10月15日。</ref> |
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;外国勲章佩用允許 |
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[[Category:陸軍士官学校 (日本)の教員]] |
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野田 謙吾 | |
---|---|
生誕 |
1891年(明治24年)4月22日![]() |
死没 | 1961年(昭和36年)11月28日 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1912年(明治45年) - 1945年(昭和20年) |
最終階級 |
![]() |
野田 謙吾︵のだ けんご、1891年︵明治24年︶4月22日 - 1961年︵昭和36年︶11月28日︶は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴[編集]
熊本県出身。農業・野田市九郎の四男として生れる。熊本中学校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年︵明治45年︶5月、陸軍士官学校︵24期︶を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第55連隊付となる。1914年︵大正3年︶8月から12月まで青島の戦いに出征。1920年︵大正9年︶11月、陸軍大学校︵第32期︶を卒業した。 1921年︵大正10年︶7月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍歩兵学校教官、朝鮮軍参謀、歩兵第14連隊大隊長、参謀本部員などを経て、1931年︵昭和6年︶11月から翌年4月まで、陸大専攻学生として学んだ。1932年︵昭和7年︶4月、歩兵学校教官となり、陸軍省軍務局課員、欧州出張、陸士教官などを歴任し、1935年︵昭和10年︶8月、歩兵大佐に昇進し、翌月、歩兵第33連隊長に就任した。1938年︵昭和13年︶1月、歩兵学校教導連隊長に就任し、1938年︵昭和13年︶7月、陸軍少将に進級し教育総監部第2部長となった。1939年︵昭和14年︶10月、人事局長に就任。 1941年︵昭和16年︶4月、支那派遣軍総参謀副長に就任し中国に出征。同年8月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた。1942年︵昭和17年︶12月、第14師団長に親補され満州チチハルに駐屯。1943年︵昭和18年︶10月、教育総監部本部長に発令され、1944年︵昭和19年︶7月から11月まで教育総監代理を務めた。1945年︵昭和20年︶3月、陸軍機甲本部長を兼務。同年4月、第51軍司令官となり土浦で終戦を迎えた。1945年10月、東北軍管区司令官に発令され、同年12月、予備役に編入。同月から翌年3月まで東北復員監を務めた。 1947年︵昭和22年︶11月28日 公職追放の仮指定を受けた[1][注釈 1]。栄典[編集]
- 位階
- 勲章
- 外国勲章佩用允許
親族[編集]
著作[編集]
- 自伝『思出』私家版。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 同書では「野田謙吉」と記載。