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「駐日英国大使館」の版間の差分

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[[File:British legation in tokyo 1888.jpg|thumb|東京の英国公使館。1888年]]

[[File:British legation in tokyo 1888.jpg|thumb|東京の英国公使館。1888年]]

[[File:UK Embasy in Tokyo, 1912.png|thumb|ボイス設計の赤レンガ作りの英国大使館。『東京府名勝図絵(1912年)』より。[[国会図書館]]「[[近代デジタルライブラリー]]」]]

[[File:UK Embasy in Tokyo, 1912.png|thumb|ボイス設計の赤レンガ作りの英国大使館。『東京府名勝図絵(1912年)』より。[[国会図書館]]「[[近代デジタルライブラリー]]」]]

[[1859年]][[7月6日]]([[安政]]6年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]])、[[ラザフォード・オールコック]]により[[高輪]][[東禅寺 (東京都港区)|東禅寺]]に英国総[[領事館]]が開設された。オールコックの公使昇進により、領事館は[[公使館]]となった。しかしながら、2度の[[東禅寺事件]]により公使館員が殺傷されたため、公使館は[[横浜]]に移った。その後[[江戸幕府]]は、英国を含む五カ国に対して建設費の1割を年賃貸料とすることで公使館を[[品川 (東京都)|品川]][[御殿山 (品川区)|御殿山]]に建設する約束を交わした。オールコックはスケッチ案を幕府作事方に提示し、普請は順調に進んだが、完成直前の[[1863年]][[1月31日]]([[文久]]2年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]])に[[高杉晋作]]らによる焼き討ちにあってしまった([[英国公使館焼き討ち事件]])。2代目公使のハリー・パークスは幕府を当てにすることを止め、本国外務省に対してしっかりとした公館施設を建設するよう要求した。1867年、本国政府からの回答を受け取る前に、パークスは居留地技師のブリジェンスに公使館と横浜領事館の建物設計を依頼した。その直ぐ後に、英国政府は極東在外公館施設建物の営繕のため工兵ウィリアム・クロスマン少佐を派遣することにし、クロスマンは横浜に到着するとブリジェンスの設計をやり直して完成させた。クロスマンの提案で、英国政府は上海に工務局分署を置き、極東在外公館建築の営繕を行った。江戸には[[泉岳寺]]前に仮公使館を置いた。

[[1859年]][[7月6日]]([[安政]]6年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]])、[[ラザフォード・オールコック]]により[[高輪]][[東禅寺 (東京都港区)|東禅寺]]に英国総[[領事館]]が開設された。オールコックの公使昇進により、領事館は[[公使館]]となった。しかしながら、2度の[[東禅寺事件]]により公使館員が殺傷されたため、公使館は[[横浜]]に移った。その後[[江戸幕府]]は、英国を含む五カ国に対して建設費の1割を年賃貸料とすることで公使館を[[品川 (東京都)|品川]][[御殿山 (品川区)|御殿山]]に建設する約束を交わした。オールコックはスケッチ案を幕府作事方に提示し、普請は順調に進んだが、完成直前の[[1863年]][[1月31日]]([[文久]]2年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]])に[[高杉晋作]]らによる焼き討ちにあってしまった([[英国公使館焼き討ち事件]])。2代目公使のハリー・パークスは幕府を当てにすることを止め、本国外務省に対してしっかりとした公館施設を建設するよう要求した。1867年、本国政府からの回答を受け取る前に、パークスは居留地技師のブリジェンスに公使館と横浜領事館の建物設計を依頼した。その直ぐ後に、英国政府は極東在外公館施設建物の[[営繕]]のため工兵ウィリアム・クロスマン少佐を派遣することにし、クロスマンは横浜に到着するとブリジェンスの設計をやり直して完成させた。クロスマンの提案で、英国政府は上海に工務局分署を置き、極東在外公館建築の営繕を行った。江戸には[[泉岳寺]]前に仮公使館を置いた。



明治維新後、多くの[[大名屋敷]]が空になった。このため、[[1869年]]1月(明治元年11月または12月)頃、パークスは公使館を[[三田 (東京都港区)|三田]][[上野国|上野]][[沼田藩]]の[[下屋敷]]跡に移した<ref>荻原、pg67</ref>。さらに、パークスは恒久的な公使館用地を求めて<ref>荻原、pg70。原資料は[[1871年]][[11月19日]]付のパークスからハモンド外務次官への手紙</ref>、[[江戸城]]近くの複数の用地を物色した結果、[[1872年]]5月(明治5年)、[[七戸藩]][[上屋敷]]、[[櫛羅藩]]上屋敷、[[七日市藩]]上屋敷、および[[旗本]]水野兵部の屋敷跡を合わせた12306坪([[1884年]](明治17年)の本契約では10833坪)をほぼ永久に貸与されることとなった<ref>荻原、pg76。原資料は明治5年3月28日(1872年5月5日)付けの「英国公使館地所証書」</ref>が、賃料が低い水準に抑えられたことが両国間の問題となっていく(後述)。その後現在にいたるまで、この場所が英国大使館([[1905年]](明治38年)に公使館から大使館に昇格)の所在地となっている。

明治維新後、多くの[[大名屋敷]]が空になった。このため、[[1869年]]1月(明治元年11月または12月)頃、パークスは公使館を[[三田 (東京都港区)|三田]][[上野国|上野]][[沼田藩]]の[[下屋敷]]跡に移した<ref>荻原、pg67</ref>。さらに、パークスは恒久的な公使館用地を求めて<ref>荻原、pg70。原資料は[[1871年]][[11月19日]]付のパークスからハモンド外務次官への手紙</ref>、[[江戸城]]近くの複数の用地を物色した結果、[[1872年]]5月(明治5年)、[[七戸藩]][[上屋敷]]、[[櫛羅藩]]上屋敷、[[七日市藩]]上屋敷、および[[旗本]]水野兵部の屋敷跡を合わせた12306坪([[1884年]](明治17年)の本契約では10833坪)をほぼ永久に貸与されることとなった<ref>荻原、pg76。原資料は明治5年3月28日(1872年5月5日)付けの「英国公使館地所証書」</ref>が、賃料が低い水準に抑えられたことが両国間の問題となっていく(後述)。その後現在にいたるまで、この場所が英国大使館([[1905年]](明治38年)に公使館から大使館に昇格)の所在地となっている。


2019年4月12日 (金) 02:31時点における版

駐日英国大使館

使: British Embassy Tokyo使


使

1860
31868
使
使1888
使1912

185976667使使2使使1使殿調186313121224使2使1867使使

186911112使[1]使[2]1872551230618841710833[3]使190538使使

使1874712[4]19231219294198762

使使H.M.S.Return1946216使British Liaison Mission in Tokyo195227428使[5]


20112331125使西西使使216[6]


1872535000使102013257008129[7][8][9]201325128

使

在勤者

大使:1905年(明治38年)以前は公使

使使




使



使


















(一)^ pg67

(二)^ pg7018711119

(三)^ pg765328187255使

(四)^ The Far East, A Monthly Illustrated Journal, Tokyo, January 31, 1875

(五)^ 使使

(六)^ 西-1

(七)^ 使. . (20131220). https://www.sankei.com/politics/news/131220/plt1312200026-n1.html 20131220 

(八)^ 使8. . (20131220). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20131220-OYT1T00656.htm 20131220 

(九)^ 使8 . . (20131220). http://www.nikkei.com/article/DGXNASDF20004_Q3A221C1EB1000/ 20131220 

参考文献

関連項目

外部リンク

座標: 北緯35度41分12.7秒 東経139度44分39.4秒 / 北緯35.686861度 東経139.744278度 / 35.686861; 139.744278