アーサー・グリフィス
アーサー・グリフィス︵英語‥Arthur Griffith, アイルランド語‥Árt Ó Gríofa, 1871年3月31日 - 1922年8月12日︶は、アイルランドの政治家でシン・フェイン党の創設者の1人。アイルランド独立戦争の休戦条約である英愛条約の交渉においてはアイルランド側の代表を務めた。
アーサー・グリフィス(左)とウォルター・コール
多くの歴史家は1905年11月28日をシン・フェイン党の結成日としている。この日、グリフィスはシン・フェイン党綱領を発表し、1800年に発布された連合法は不正であり、グラタン合意と1782年憲法において定められていたグレートブリテン・アイルランド両王国の連合が現在も有効であると宣言した。
シン・フェイン党の基本的姿勢は、1904年に出版されたグリフィスの著書﹃ハンガリーの復活﹄に見ることができる。この本の中でグリフィスは、オーストリア帝国の一部でしかなかったハンガリー王国がいかにしてオーストリア=ハンガリー二重帝国の一翼を担うまでになったかについて述べている。君主主義者ではなかったものの、グリフィスはイギリス・アイルランドが対等である二重王国の設立の可能性について検討している。彼の試案ではイギリス国王を両国の君主として認め、イギリス政府と対等のアイルランド政府がアイルランド島を統治するとしていた。このような試案はマイケル・コリンズのような独立戦争の指導者たちには受け入れられなかったが、ケヴィン・オイギンスなどからは一定の支持を得ていた。
グリフィスの方針は、イギリス政府との宥和を図るパーネル主義、および最右翼の完全独立主義の中間をいくものであった。彼はアイルランド選出のイギリス下院議員が議会に参加することを批判し、アイルランド独自の議会を設立するべきだと考えていた。
1907年に北リートリムで行われた補欠選挙において、シン・フェインの候補者が当選した。この頃になると、IRBのメンバーが党組織に浸透するようになった。IRBは地方支部の代表にその支持者を送り込み、月刊誌﹃アイルランドの自由﹄などを中心に活動していた。IRBはグリフィスの二重王国案を否定し、シン・フェインは共和国建国を目指すべきであると考えていた。グリフィスは次第にIRBの主張に対して妥協するようになってゆく。
グリフィスは社会的な事柄に対しては、非常に保守的な考えを有していた。W・B・イェーツが推進していたナショナル・シアターにおいて上演されたジョン・ミリントン・シング作﹃グレンの影﹄と﹃西国一の人気男﹄について、モラルが堕落していると批判し、イェーツがイギリス政府から助成金を受け取ったことも攻撃した。カトリックの神父の支持のもとに1904年にリムリックで小規模なポグロムが発生した際には、これへの支持を発表している。
初のドイル・エアラン - 1919年4月
1918年のイギリス下院総選挙でシン・フェイン党はアイルランド議会党を破り、グリフィスも東キャヴァン県で議席を獲得した。シン・フェイン党の議員たちは下院への参加を拒否し、アイルランド独自の議会、第1回ドイル・エアランを招集した。これとほぼ同時にアイルランド独立戦争が開始された。建国が宣言されたアイルランド共和国 (Irish Republic) の指導者はエイモン・デ・ヴァレラ︵ドイル・エアラン議長、後にアイルランド共和国大統領︶、マイケル・コリンズ︵アイルランド共和国財政大臣、IRB指導者、IRA情報局長︶などである。デ・ヴァレラがアイルランドの支持を訴え、資金を集めるためにアメリカへと向かっている間、グリフィスはデ・ヴァレラの代役を務めた。1921年にはイギリス軍に逮捕されたが、ただちに釈放され、その年の末にはデ・ヴァレラによって休戦条約締結のための使節団長に選ばれた。
アーサー・グリフィスにより注釈が付された条約の草稿
イギリス政府とアイルランド共和国暫定政府の代表による交渉の末、英愛条約が締結された。この条約では新たに建国されるアイルランド自由国が大英帝国の自治領︵ドミニオン︶に留まること、北アイルランドの所属についてはユニオニストが優勢を占める北アイルランド政府に決定を委ねることなどが取り決められたが、これらは多くのアイルランド民族主義者にとって受け入れがたいものであった。その中でグリフィスは、これはアイルランドにとり不利な条件ではないと考えていた。1921年にドイル・エアランで、翌年には南アイルランド議会でも条約が批准されると、条約に反対していたデ・ヴァレラは大統領を辞任し、グリフィスが後任に指名された。条約の賛成派、反対派の対立によりアイルランドでは内戦が開始され、コリンズとの関係も悪化していたグリフィスは1922年8月12日に心臓発作により死去した。その10日後にはコリンズがコーク県で暗殺されている。