サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂
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座標: 北緯41度53分9.26秒 東経12度30分22.16秒 / 北緯41.8859056度 東経12.5061556度
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂︵サン・ジョバンニ・イン・ラテラノだいせいどう、San Giovanni in Laterano︶は、イタリアのローマにあるカトリック教会の大聖堂。ラテラン教会、ラテラン大聖堂とも呼ばれる。﹁ラテラノ﹂は﹁ラテラーノ﹂とも表記する[1]。ラテラノ宮殿が隣接している。
ローマの四大バシリカ︵古代ローマ様式の大聖堂︶の一つに数えられる。四大バシリカとはこのラテラノ大聖堂とサン・ピエトロ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂︵城壁外の聖パウロ大聖堂︶である。さらにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂︵城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂︶を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。
ラテラノ大聖堂はバチカンの領域外にあるが、ラテラノ条約によってバチカンの特別な権利が認められている。
ラテラノ・オベリスク
長らくアヴィニョンにあった教皇庁は紆余曲折をへてようやくローマに戻ったが、ラテラノ大聖堂と宮殿は荒れ果てていたため、教皇はとりあえずテヴェレ川沿いのサンタ・マリア大聖堂︵後のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂︶に住むことにした。後に教皇の居住用にサン・ピエトロ大聖堂の隣に教皇宮殿がつくられ、そちらに移った。以後、教皇は現代に至るまでバチカンの教皇宮殿で暮らしている。
16世紀の教皇シクストゥス5世は荒れ果てていたラテラノ大聖堂と宮殿を修復してかつての威容を取り戻そうと考えた。再建後、もともと一体化していたラテラノ大聖堂とラテラノ宮殿は切り離された。ラテラノ宮殿は現在では教皇庁立博物館として古代キリスト教関係の展示品を蒐集している。シクストゥス5世は、お気に入りの建築家ドメニコ・フォンターナに修復事業の総指揮をとらせた。
1620年11月15日、アジアから中東を経てヨーロッパにたどりついた日本人イエズス会士ペトロ岐部は、このラテラノ大聖堂で念願の司祭叙階の秘跡を受けた。彼はその後、迫害の激化していた日本に戻って殉教している。
17世紀になると教皇インノケンティウス10世はフランチェスコ・ボッロミーニに聖堂内部の装飾を大々的に行わせた[1]。18世紀のクレメンス12世はファサードのデザインを公募し、アレッサンドロ・ガリレイの案を採用した。現在見られる聖人たちが立ち並ぶ印象的なファサードはこの案にしたがって1735年に完成している。しかし、このファサードの設置によって教会正面に残っていたバジリカ時代の面影がすべて取り払われてしまうことになった。
ラテラノ大聖堂前の広場にはエジプトから運ばれたオベリスクが屹立している。この﹁ラテラノ・オベリスク﹂はもともとトトメス3世によってカルナックに建てられたものだったが、ローマ時代に大競技場チルコ・マッシモに建てるために運ばれ、その後、競技場がなくなると、現在地に移された。
大聖堂に隣接する八角系の洗礼堂は、コンスタンティヌス帝が洗礼を受けたという伝承の残る位置につくられ、永きにわたってローマでただ一つの洗礼堂として尊重された。