ビックスバーグの包囲戦
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ビックスバーグの包囲戦(ビックスバーグのほういせん、英:Siege of Vicksburg)は、南北戦争のビックスバーグ方面作戦では最後の大きな戦闘である。北軍の指揮官ユリシーズ・グラント少将のテネシー軍はミシシッピ川を渡った後で、南軍ジョン・C・ペンバートン中将の部隊を要塞都市ビックスバーグを取り巻く防御線の中に追い込んだ。グラントは1863年5月19日と22日の2回、南軍の要塞に対する攻撃を行って大きな損失を出し撃退された後は、5月25日から7月4日までビックスバーグ市を包囲した。この7月4日に南軍は降伏し、ミシシッピ川の支配権が北軍の手に落ちた。この南軍の降伏は、その前日(7月3日)東部戦線におけるゲティスバーグの戦いでロバート・E・リー軍が敗北したことと組み合わせて、南北戦争の転回点と見なされている。
背景[編集]
グラントはビックスバーグの南ブルーンズバーグでミシシッピ川を渡った後は、ポートギブソンとレイモンドでの戦闘に勝利し、1863年5月半ばにミシシッピ州の州都ジャクソンを占領して、ペンバートン軍を西方に退かせた。ペンバートンはチャンピオンヒルとビッグブラック川橋の戦いで北軍の前進を止めようとしたが失敗した。北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍団が北から南軍の側面を衝こうとしていることが分かったペンバートンは、撤退するか側面を衝かれるに任せるかという選択肢しかなくなった。ペンバートンはビッグブラック川に架かる橋を燃やし、防御の堅いビックスバーグ市に撤退する道すがら、動物や植物、あらゆる食用に出来るもの全てを取っていった[4]。
南軍はヘインズブラフを明け渡して、シャーマンの騎兵隊が5月19日にこれを占領し、また北軍の蒸気船は最早ビックスバーグの大砲に対抗する必要も無くなったので、ヤズー川上流で固まってドック入りが可能になった。グラントは以前はルイジアナ州から補給物資を得ていたのを、より直接にグランド湾やブルーンズバーグでミシシッピ川を渡り、その後に北へ動かして補給できるようになった[4]。
ペンバートン軍はその前の2つの戦闘で4分の3以上を失っており、ビックスバーグにいる多くの者は南軍の西部方面軍を指揮するジョセフ・ジョンストン将軍が市を解放してくれると期待したが、それは起こらなかった。北軍の大部隊が市を包囲するために行軍してきており、燃やされたビッグブラック川の橋も修理した。グラント軍は5月18日に橋を渡った。ジョンストンはその部下であるペンバートンに市を犠牲にして軍隊を救うよう求める伝言を送ったが、ペンバートンにとっては受け入れがたいことだった(ペンバートンの生まれは北部であり、もしビックスバーグを放棄すれば、南部の大衆に非難されることを恐れたと考えられる)[5]。
ペンバートンは、ビックスバーグとポートハドソンは死守しなければならないと主張したジェファーソン・デイヴィスを喜ばそうと努め、またどちらも軍事的には価値がないと考えたジョセフ・ジョンストン将軍を喜ばそうともしたので、板挟みになり、複雑な指揮系統と彼自身の決断力の無さの犠牲になった。明確に考えるにはあまりに意気消沈しており、市を明け渡して北へ向かい再び新たな作戦に逃避できていた可能性を棄てて、ビックスバーグ市内にそのボロボロの軍隊を引き込ませる道を選んだ。ペンバートンはビックスバーグにその軍隊を後退させることを選んだとき、決死の覚悟で守ろうと考えたその軍隊と市の運命を封じ込めた。- Vicksburg, Michael J. Ballard.[6]
対戦した勢力とビックスバーグの防御力[編集]
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ユリシーズ・グラント
北軍少将 -
ジョン・C・ペンバートン
南軍中将
攻撃[編集]
グラントは南軍が十分に防御を施す前に圧倒してしまいたいと思い、5月19日にストッケード・レダンに対する即座の攻撃を命じた。シャーマン軍団の部隊がルス・ヘーベル准将の旅団に属する第36ミシシッピ歩兵連隊からの銃撃や砲撃に遭って、接近するだけでも苦労した。このレダンの高さ17フィート (5.2 m)の壁に攻撃する前に逆茂木に守られた急な谷間や深さ6フィート (1.8 m)幅8フィート (2.4 m)の溝をこえていく必要があった。この最初の試みは容易に撃退された。グラントは防御を弱めるために砲撃を命じ、午後2時頃、シャーマン指揮下のフランシス・P・ブレア少将師団が再度挑戦したが、極少数の兵士がレダン下の溝まで到達するのがやっとだった。この攻撃はライフル銃の一斉射撃や手投げ弾が前後に投げ込まれる中で崩壊した[8]。 5月19日に北軍の攻撃が失敗したことはその士気に影響し、ミシシッピ州中で勝利を重ねてきた兵士達が感じていた自信をへこませた。この攻撃は損失が大きく、戦死157名、負傷777名となり、8名が不明となった。対する南軍の損失は戦死8名、負傷62名だった。士気の落ちていたはずの南軍は戦う意志を取り戻した[9]。 グラントは5月22日に再度攻撃を計画したが、このときはもっと注意を払った。まず十分な偵察を行い、大砲や海軍の艦砲で防御を弱めさせた。先導部隊には砦の壁を越えるための梯子が与えられた。グラントは長期間の包囲戦を望まず、この攻撃は広い防御線全体にわたって行われることになった[10]。 北軍は5月19日に損失を出して撃退されたにも拘わらず、その士気は高く、このときは略奪してきたもので十分な食料もあった。グラントが通り過ぎるのを見た一人の兵士が﹁乾パン﹂と言った。間もなく近くにいた全兵士が﹁乾パン!乾パン!﹂と叫び始めた。北軍は5月21日の夜に乾パン、豆およびコーヒーを供出した。あらゆる者が翌日ビックスバーグが落ちるものと予測した[11]。 北軍は220門の大砲と川に浮かぶデイビッド・D・ポーター海軍少将の艦隊からの艦砲を使って夜通し市内を砲撃し、資産に与えた損害は大したことがなかったものの、市民の士気は大きく下げた。5月22日の朝、防御側は再度4時間にわたる砲撃を受け、その後午前10時に3マイル (5 km)にわたる前線に北軍が再度攻撃を始めた[12]。 シャーマンは今一度墓地道路を通って攻撃し、150名の志願兵︵絶望的望みの分遣隊と渾名された︶が梯子と板を持って先導し、その後をブレアとジェイムズ・M・タトル准将の師団が続き、狭い前線に大部隊を集中させることで突破できることを期待して、連隊を長い縦隊に組んだ。この部隊は激しいライフル銃撃に遭って撃退された。ブレア指揮下のジャイルズ・A・スミスとT・キルビー・スミス各大佐の旅団はストッケード・レダンの南端にあるグリーンのレダンから100ヤード (90 m)の尾根まで到達し、そこから南軍陣地に激しい銃撃を行ったが、ほとんど効果は無かった。タトルの師団は前進の順番を待っていたがその機会は訪れなかった。シャーマン軍団の最右翼、フレデリック・スティール准将の師団はミントスプリング・バイユーの谷間を通って敵陣に迫ろうとすることで午前中を使ってしまった[13]。 マクファーソンの軍団はジャクソン道路に沿った敵陣中央の攻撃を割り当てられた。その右側面では、トマス・E・G・ランサム准将の旅団が敵陣から100ヤード (90 m)まで接近したが、グリーンのレダンから側面攻撃を受ける危険を避けるために停止した。マクファーソンの軍団左側面では、ジョン・A・ローガン少将の師団が第3ルイジアナ・レダンとグレート・リダウトに対する攻撃を任された。ジョン・E・スミス准将の師団がレダンの斜面まで辿り着いたが、そこで留まってしまい、暗くなるまで手投げ弾に身をかわしながら過ごし、最後は呼び戻された。ジョン・D・スティーブンソン准将の旅団はリダウトに対して2列縦隊でかなり前進したが、その用意した梯子が砦の壁を越えるには短すぎて、その攻撃も失敗した。アイザック・F・クィンビー准将の師団は数百ヤード前進したが、その将軍達が混乱した議論を始め、数時間も止まったままだった[14]。 北軍の左翼、マクラーナンド軍団はボールドウィンフェリー道路に沿い、ミシシッピ・サザン鉄道に跨って動いた。ユージーン・A・カー准将の師団は鉄道リダウトと第2テキサス三日月堡の占領を割り当てられた。ピーター・J・オスターハウス准将の師団は方形砦に当てられた。カーの部隊は第2テキサス三日月堡で小さな突破に成功し援軍を求めた[15]。 午前11時までに突破は起こりそうにないことが明らかとなり、シャーマン軍団とマクファーソン軍団の前進が失敗した。ちょうどこの時、グラントはマクラーナンドからの伝言を受け取り、マクラーナンド軍が激しく交戦していること、南軍は増強されつつあることを伝え、およびその右手にあるマクファーソンの軍団からの陽動攻撃を要請していた。グラントは当初この要請を拒否し、マクラーナンドにはその予備隊を援軍に使うよう告げた。グラントは、マクラーナンド軍団があまり交戦しておらず、マクファーソン軍団の方が激しく交戦しているという印象を持っていたが、それは誤りであり、事実は反対だった。マクラーナンドは追加の伝言を送り、それでは﹁星条旗が砦の上に翻っている﹂というふうに既に2つの砦を占領したと示唆する部分的に誤解させる情報が入っていた。またその前線をもう一押しすれば北軍が勝利を掴むという内容だった。グラントは再度異議を唱えたが、その伝言をシャーマンに見せ、シャーマンは自分の軍団に再度前進を命じた。グラントは再考し、マクファーソンにマクラーナンド軍団の応援のためにクィンビーの師団を派遣するよう命令した[16]。我々の前線が出発し、我々の鬨の声が空中に消える前に、敵兵で完全に混雑していた前面の南軍砦から挑戦の鬨の声が上がり、我々の隊列に一繋がりのマスケット銃火が降り注ぎ、続いて前面と両横の砦や砲台から熄むことのない銃弾や砲弾が我々の前線に浴びせられて恐ろしい結果になり、われわれを目掛けた銃弾の嵐は破裂する砲弾と悪魔のような南軍の鬨の声と混ざり合い、ダンテの地獄絵以外比べようもないもので、言葉では表せないような恐ろしいものだった。
包囲戦[編集]
我々は塹壕線を敵軍の大変近くまで引いていったので、手投げ弾を砦の中に投げ入れられるほどになった。我々の狙撃手が近くにいて見張っているので、敵は如何なる時にもその胸壁から頭を出そうとしない。町は完全に包囲された。我が軍の陣地は大変強固なので、私自身そこを放っておいて、守備隊を2回叩けるくらいの部隊を連れて20マイルや30マイルは外出できると思う。
指揮の変化[編集]
この包囲戦中にグラントが採った行動の一つとして長引くライバル関係の決着があった。5月30日、マクラーナンド将軍は自画自賛のメモをその部下宛に書き、間もなく得られる勝利は大いに自分の功績だと主張した。グラントは6ヶ月間というもの、この方面作戦の初期、アーカンソー・ポストの戦い頃に衝突して以来、マクラーナンドが口を滑らすのを待っていた。1863年1月にマクラーナンドを解任する許可を得ていたが、明確な挑発を待っていた。グラントは遂に6月18日にマクラーナンドを解任した。グラントが念入りに事を運んだので、マクラーナンドは頼る伝もなく軍隊を離れた。マクラーナンドの第13軍団はハッチー橋の戦いで受けた傷から快復したエドワード・オード少将に渡された。1864年5月、マクラーナンドは遠くテキサス州の部隊指揮で復活した[30]。 もう一つの指揮官変更は6月22日に起こった。ペンバートン軍を前にすることに加えて、グラントは後方にいるジョセフ・ジョンストン軍のことも心配しなければならなかった。グラントはビッグブラック川橋に1個師団を置き、もう一つの師団は遠く北のメカニクスバーグまで偵察させ、どちらも自軍を遮蔽させるように行動させた。6月10日までに、ジョン・G・パーク少将の第9軍団はグラントの指揮下に移された。この軍団は、キャントンで軍を集めているジョンストンが包囲戦を妨害しないようにする特別任務の中核になった。シャーマンがこの任務に宛てられ、フレデリック・スティール准将が第15軍団を引き継いだ。ジョンストン軍は遂にペンバートン軍解放のために動き始め、7月1日にビッグブラック川に到達したが、シャーマン軍との困難になりそうな対決をビックスバーグ要塞に間に合わないほど先延ばしして、結局はジャクソンに後退した[31]。第3ルイジアナ・レダンのクレーター[編集]
包囲戦の後半、北軍は第3ルイジアナ・レダンの下にトンネルを掘り、2,200ポンド (1,000 kg)の火薬を填めた。6月25日に南軍の前線を吹き飛ばし、その後で第17軍団のローガン師団からの部隊による歩兵攻撃が行われた。ジャスパー・A・モルトビー大佐の第45イリノイ連隊︵﹁坑道先導連隊﹂と呼ばれた︶が、直径40フィート (12 m)、深さ12フィート (3.6 m)のクレーターに容易に突撃したが、回復してきた南軍歩兵に止められた。南軍兵も破滅的な効果をもたらす短い導火線付き砲弾を穴に転げ落とすなどしたため、北軍兵は動けなくなった。北軍の工兵が歩兵を解放するためにクレーターの中に砲郭を据え、間もなく兵士達は新しい防御線の中に戻った。この日の爆発で残されたクレーターから、北軍の坑夫達は新しい坑道を南に掘った。7月1日、坑道は爆破されたが歩兵の攻撃は無かった。工兵達は7月2日と3日も、将来起こりうる攻撃のためにクレーターを4列縦隊で通れるように拡げた。しかし、その翌日の出来事でそれ以上の攻撃の必要性は無くなった[32]。降伏とその後[編集]
遺産[編集]
伝説に拠れば、ビックスバーグでは7月4日に降伏したために、第2次世界大戦のときまで、7月4日の独立記念日が祝われることはなかった[37]。 ビックスバーグ周辺の工作物はビックスバーグ国立軍事公園の一部として、アメリカ合衆国国立公園局によって保存されている。脚注[編集]
- ^ National Park Service. グラント軍は5月18日にビックスバーグ郊外に到着したが、正式な包囲戦はグラントの特別命令第140号が発せられた5月25日に始まった。 (Simon, p. 267).
- ^ Kennedy, p. 172.
- ^ a b c Kennedy, p. 173.
- ^ a b Esposito, text for map 105.
- ^ Smith, p. 251; Grabau, pp. 343-46; Catton, pp. 198-200; Esposito, text for map 106.
- ^ Ballard, p. 318.
- ^ Eicher, pp. 467-68.
- ^ Eicher, p. 468; Ballard, p. 327-32.
- ^ Bearss, vol. III, pp. 778-80; Ballard, p. 332.
- ^ Ballard, p. 339.
- ^ Ballard, p. 333.
- ^ Kennedy, p. 171; Foote, p. 384; Smith, p. 252.
- ^ Ballard, p. 338-39; Bearss, vol. III, pp. 815-19.
- ^ Ballard, p. 339-40; Bearss, vol. III, pp. 819-23.
- ^ Ballard, p. 340-43.
- ^ Ballard, p. 343-44; Bearss, vol. III, pp. 836-38.
- ^ Ballard, pp. 344-45.
- ^ Ballard, pp. 344-46.
- ^ Eicher, p. 469; Bearss, vol. III, p. 869; Kennedy, p. 172.
- ^ Foote, p. 386.
- ^ Simon, pp. 267-68.
- ^ Grant, ch. XXXVII, p. 1.
- ^ Smith, p. 253; Foote, p. 412; Catton, p. 205.
- ^ Bearss, vol. III, pp. 860-61; Foote, p. 387.
- ^ Bearss, vol. III, pp. 963, 1071-79.
- ^ NPS Milliken's Bend; Bearss, vol. III, pp. 1175-87.
- ^ Bearss, vol. III, p. 875.
- ^ Korn, pp. 149-52; Catton, p. 205; Ballard, pp. 385-86.
- ^ Korn, p. 139; Foote, p. 412.
- ^ Bearss, vol. III, pp. 875-79; Ballard, pp. 358-59; Korn, pp. 147-48.
- ^ Esposito, text for map 107.
- ^ Garbau, pp. 428-38; Bearss, vol. III, pp. 908-30.
- ^ Smith, pp. 254-55.
- ^ Grant, ch. XXXVIII, p. 16.
- ^ McPherson, p. 638.
- ^ Ballard, pp. 398-99.
- ^ 歴史家のマイケル・G・バラードはその著書Vicksburg campaign history, pp. 420-21, で、この話は事実にほとんど基づいていないと主張している。市当局がその祝日としてこの日を認めていたかは不明だが、南部が7月4日を長年祝ってきたかは、公式の市や郡の行事よりも家族のピクニックで多く特徴づけられていた。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- Ballard, Michael B., Vicksburg, The Campaign that Opened the Mississippi, University of North Carolina Press, 2004, ISBN 0-8078-2893-9.
- Bearss, Edwin C., The Campaign for Vicksburg, Volume I: Vicksburg is the Key, Morningside House, 1985, ISBN 0-89029-312-0.
- Bearss, Edwin C., The Campaign for Vicksburg, Volume II: Grant Strikes a Fatal Blow, Morningside House, 1986, ISBN 0-89029-313-9.
- Bearss, Edwin C., The Campaign for Vicksburg, Volume III: Unvexed to the Sea, Morningside House, 1986, ISBN 0-89029-516-6.
- Catton, Bruce, Never Call Retreat, Doubleday, 1965, ISBN 0-671-46990-8.
- Eicher, David J., The Longest Night: A Military History of the Civil War, Simon & Schuster, 2001, ISBN 0-684-84944-5.
- Foote, Shelby, The Civil War, A Narrative: Fredericksburg to Meridian, Random House, 1958, ISBN 0-394-49517-9.
- Grabau, Warren E., Ninety-Eighty Days: A Geographer's View of the Vicksburg Campaign, University of Tennessee Press, 2000, ISBN 1-57233-068-6.
- Grant, Ulysses S., Personal Memoirs of U. S. Grant, Charles L. Webster & Company, 1885–86, ISBN 0-914427-67-9.
- Kennedy, Frances H., ed., The Civil War Battlefield Guide, 2nd ed., Houghton Mifflin Co., 1998, ISBN 0-395-74012-6.
- Korn, Jerry, and the Editors of Time-Life Books, War on the Mississippi: Grant's Vicksburg Campaign, Time-Life Books, 1985, ISBN 0-8094-4744-4.
- McPherson, James M., Battle Cry of Freedom: The Civil War Era (Oxford History of the United States), Oxford University Press, 1988, ISBN 0-19-503863-0.
- Smith, Jean Edward, Grant, Simon and Shuster, 2001, ISBN 0-684-84927-5.
- Simon, John Y. (ed.), The Papers of Ulysses S. Grant, Volume 8: April 1- July 6, 1863, Southern Illinois University Press, 1979, ISBN 0-8093-0884-3.
- National Park Service battle description
- Woodworth, Steven E., ed., Grant's Lieutenants: From Cairo to Vicksburg, University Press of Kansas, 2001, ISBN 0-7006-1127-4.
- Woodworth, Steven E., Jefferson Davis and His Generals: The Failure of Confederate Command in the West, University Press of Kansas, 1990, ISBN 0-7006-0461-8.
- Woodworth, Steven E., Nothing but Victory: The Army of the Tennessee, 1861- 1865, Alfred A. Knopf, 2005, ISBN 0-375-41218-2.