オーバーランド方面作戦

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オーバーランド方面作戦

両軍の指揮官、グラント(左)とリー
戦争南北戦争
年月日:1864年5月4日-6月24日
場所バージニア州
結果:北軍の勝利
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗 北軍 南軍
指導者・指揮官
ユリシーズ・グラント
ジョージ・ミード
ロバート・E・リー
戦力
118,700 64,000
損害
55,000(うち戦死7,600) 32,600(うち戦死4,200)

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荒野の戦い(1864年5月5日-7日)[編集]

5月5日の朝、イーウェルの軍団が急速にオレンジ・ターンパイクを駆け下り、ウォーレンの第5軍団と激しく衝突したときに、荒野の戦いは始まった。時間が経つにつれて、さらに南のオレンジプランク道路沿いでA・P・ヒルの軍団がハンコックの第2軍団と遭遇して戦いは拡がった。5月6日、ロングストリートの軍団が戦場に到着した。先ず北軍の前進を止め、続いて側面攻撃を行って北軍を後退させ、ブロック道路の近くで防御的姿勢を採らせた。全体の混乱の中でロングストリートは友軍の弾で負傷し、軍団指揮はリチャード・H・アンダーソンが取って代わった。5月7日、グラントは、前任者達がリー軍との戦闘後に北に撤退する「習慣」があったのとは異なり、部隊を南と東に送ってスポットシルバニア・コートハウスの十字路の方に移動させた。

スポットシルバニア・コートハウスの戦い(5月8日-21日)[編集]

リー軍はグラントをその目標にして叩き、塹壕戦に入った。2週間以上にわたる一連の戦いで、グラントは南軍の戦線を叩き続け、その大半は「ミュールシュー」と呼ばれる突出部に行われた。5月12日に行われたハンコックの第2軍団によるこの戦線の「ブラッディアングル」と呼ばれる場所への大規模攻撃は、後の第一次世界大戦で塹壕に対する突破戦術として採用された。グラントは再度戦いを止めてさらに南東に動いた。

イェロータバンの戦い(5月11日)[編集]

ミード軍にあるシェリダンの騎兵軍団は純粋に遮蔽と偵察任務に使われていた。シェリダンはミードの頭越しにグラントの了解を求め、別働隊としてスチュアートの騎兵軍団を追跡し交戦する許可を得た。両軍の騎兵隊がリッチモンドの直ぐ北にあるイェロータバンでぶつかり、スチュアートは瀕死の重傷を負った。

メドウ橋の戦い(5月12日)[編集]

シェリダンの騎兵軍団が雨で脹れ上がったチカホミニー川に架かる鉄道橋を渡ることを強行し、工兵が近くに道路橋を架けることを可能にし、騎兵は安全に逃げられるようになった。

ウィルソン桟橋の戦い(5月24日)[編集]

フィッツヒュー・リーの騎兵師団がウィルソン桟橋にあった北軍補給基地を攻撃し、エドワード・ワイルド准将が指揮する2個黒人連隊に撃退された。

ノースアンナの戦い(5月23日-26日)[編集]

リーはグラントの動きを妨害して、ノースアンナ川の突出部の背後に陣取り、グラント軍がそこを攻めるためには軍を分ける必要があるようにした。5月23日、ヒル軍団の1個師団が川を渡ってきた第5軍団を襲い、流血は多いが決着は付かなかった。5月24日、北軍歩兵隊がオックス浅瀬で反撃されたが南軍の右翼に進出した。リー軍にはグラント軍を各個撃破する機会があったが、その仕掛けた罠を発動させるために必要なやり方で攻撃できなかった。恐らくは病気のためと考えられている。グラントはオールドコールド・ハーバーの方向に南東への移動を続けた。

ホーズショップの戦い(5月28日)[編集]

グレッグの北軍騎兵師団がトーバート師団の支援を受けて進撃し、ポトマック軍がパマンキー川を渡りトトポトミー・クリークに移動する動きをカバーした。ウェイド・ハンプトンの騎兵師団はホーズショップの1マイル (1.6 km)西にあるエノン教会で北軍と遭遇した。騎兵の大半は馬を降りて7時間に及ぶ交戦後、北軍の前進が止められ、リーはグラント軍歩兵の動きについて貴重な情報を得た。

トトポトミー・クリークの戦い(5月28日-30日)[編集]

リー軍はトトポトミー・クリークの背後に塹壕を掘って入り、リッチモンド方向に接近するあらゆる道筋を抑えた。第2軍団はクリーク徒渉を2箇所で強行し南軍の塹壕線で最初のものを占領したが、主力線の前に前進は止まった。一方、第5軍団は北軍の最左翼にあるベセスダ教会近くに移動したが、アーリーの軍団に攻撃された。激しい交戦の後で、北軍はシェイディグラブ道路まで後退した。

オールドチャーチの戦い(5月30日)[編集]

トトポトミー・クリークの前線で両軍が手詰まりとなり、北軍騎兵隊は東と南を探り始めた。トーバートの騎兵師団はオールドチャーチ近くでマシュー・C・バトラーの旅団を攻撃して打ち破った。バトラーの騎兵はオールドコールド・ハーバーに向かう道路を堅実に後退し、翌日シェリダンが重要な交差点を抑える道を空けてしまった。

コールドハーバーの戦い(5月31日-6月12日)[編集]


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トレビリアン・ステーションの戦い(6月11日-12日)[編集]


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セントメアリー教会の戦い(6月24日)[編集]

ハンプトンの騎兵隊が、トレビリアン・ステーション襲撃から帰るシェリダンの騎兵隊を遮断しようとした。シェリダンはその保護下にあった長い補給輜重隊を守るために遅延作戦を行い、その後にバミューダ・ハンドレッド方面作戦を遂行する北軍に合流した。

戦闘の後[編集]

オーバーランド方面作戦は北軍が戦争に勝利するために必要な推進力であり、幾つかの戦闘で敗北した(特にコールド・ハーバーの戦いが顕著)にも拘わらず、作戦自体は北軍の戦略的勝利となった。リー軍と戦いながら同時に決して逃しはせずに、グラントはリー軍を動きの取りにくい状態に追い込んだ。この方面作戦全体はアメリカ史の中でも流血の多い作戦となった。北軍は55,000名の損失(戦死7,600名)を出し、南軍は32,600名の損失(戦死4,200名)を出した。

この方面作戦全体の損失については資料により推計値が異なる。下表は一般にある様々な情報源の要約である。

オーバーランド方面作戦の推計損失
情報源 北軍 南軍 損失合計
戦死 負傷 捕虜または不明 合計 戦死 負傷 捕虜または不明 合計
国立公園局 - - - 38,691 - - - 31,448 70,139
Bonekemper, 勝利者(肉屋ではない) 7,621 38,339 8,966 54,926 4,206 18,564 9,861 32,631 87,557
Esposito, ウェストポイント・アトラス - - - 55,000 - - - 20,000-40,000 75,000-95,000
McPherson, 鬨の声 - - - 65,000 - - - 35,000 100,000
Smith, グラント - - - 約65,000 - - - 35,000 約100,000
アメリカ陸軍省公式記録 6,586 26,047 6,626 39,259 - - - - -

グラントは当時「肉屋」という評判を取った。グラントはリーよりも容易に失われた兵士や武器の補充ができるということを知っていたので、これがグラントの戦略を形作った可能性がある。しかし、歴史家達は、グラントがその軍隊の損失を顧みず、リー軍を叩くために無益な全面攻撃に必要以上に人命を投入して、単にリー軍を損耗させるためだけに何度も攻撃を行わせたかということについては、同意していない。

リー軍の損失は絶対数では少なかったが、全体に対する比率では高かったことは注目すべきである。グラントは55,000名という損失を出し、これは過去にリー軍に対抗したどの前任北軍将軍の数字よりも高かったが、過去3年間の損失を総計すればもっと大きな数字になったことも事実である。

オーバーランド方面作戦はグラント軍がジェイムズ川を渡り、リッチモンド・ピーターズバーグ方面作戦と呼ばれるピーターズバーグ包囲戦に入ったことで終わった。このことはグランの戦略が変わったことを意味した。グラントはリー軍と雌雄を決するような会戦に訴えることは出来ないと悟り、その焦点を地理的かつ政治的な対象であるリッチモンドとピーターズバーグ両市に移した。南方から両市に物資を補給している鉄道を占領してしまえば、リー軍は出てこざるを得なくなると考えられた。グラントは自分が考案した多方面の協調攻撃が失敗した事も認識した。唯一、シャーマンのみがアトランタに侵攻し、他の将軍達は手詰まりになるか敗れていた。

脚注[編集]

  1. ^ a b Eicher, p. 660.

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]