ヨハン・ムセウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨハン・ムセウ

Johan Museeuw19651013 - Varsenare19882004退1990 (Lion of Flanders)

32HEW

[]


198819891990

19951996UCI1996

19983退20002

20023USHEW2004退

退 2007124使

人物[編集]

  • 父親のエディ・ムセウもプロのロードレーサーだったため、エディ・メルクスアクセル・メルクスのように親子二代にわたるロードレーサー家族である。ただ、父親の方の選手生活は2年間(実働1年)という短いものだった。
  • 同じ時期に活躍していたマリオ・チポリーニがイタリア人らしく派手な言動を好むのとは対照的に、フラマン人らしく寡黙で地味な性格である。レース内容についてマスコミから批判されても反論することはほとんど無く、スポーツカーを乗り回すトップ選手が多い中、ムセウは父親が経営するディーラー(プジョー)から購入した普通の乗用車に乗っていた。

エピソード[編集]

  • 選手生命はおろか日常生活に差しさわりが出る程の深刻なケガが多く、1992年には世界選手権の合宿中に集団落車で大腿骨を複雑骨折、1998年にはパリ〜ルーベの落車で膝蓋骨の複雑骨折を負っているほか、レース以外にもオートバイ運転中の事故で頭蓋骨の陥没骨折という大ケガをしたことがある。
  • 1996年のパリ〜ルーベでは同チームのメンバーとともに1~3位を独占する逃げを決め、ゴール前はパレードのような走行をしてチーム内順列どおりの着順となった。このため一部から「勝負をするべき」という声が上がったが、2位に入ったジャンルカ・ボルトラーミは「やっても同じ結果になっただろう」というコメントを残している。
  • 前述のマリオ・チポリーニとは「名スプリンター」、「家族がロードレーサー」、「自国ではスーパースター扱い」など共通項が多い。ちなみにGB-MG所属時代、グランツールではチポリーニのアシストを務めていた。
  • 多くのスター選手に漏れず、有能なアシストに恵まれた。常に共に行動したのは同胞のウィルフレッド・ピータース(1994年ヘント〜ウェヴェルヘム優勝)だが、マルコ・サリガーリ(1993年ツール・ド・スイス優勝)、ジャンルカ・ボルトラーミ(1994年ワールドカップチャンピオン)、アンドレア・タフィなどもアシストを務めていた。

所属チーム[編集]

  • 1988~1989年 ADRenting
  • 1990~1992年 ロット
  • 1993~1994年 GB-MG
  • 1995~2000年 マペイ(1995~1997年Mapei-GB、1998年Mapei-Bricobi、1999~2000年Mapei-QuickStep)
  • 2001~2002年 ドモ・ファームフリッツ
  • 2003~2004年 クイックステップ・ダヴィタモン

主な成績[編集]

獲得メダル
1996 ルガーノ 個人ロードレース

グランツール[編集]

  • 1990年 ツール・ド・フランス2勝

ステージレース[編集]

  • 1991年 ブエルタ・ア・アンダルシア区間2勝
  • 1992年 ボルタ・ア・コムニダ・バレンシアナ区間2勝
  • 1993年 ツール・ド・スイス区間1勝
  • 1995年 ダンケルク4日間レース総合優勝
  • 1997年 ブエルタ・ア・アンダルシア区間3勝
  • 1998年 ダンケルク4日間レース総合優勝

ワンデイレース[編集]

  • 世界選手権優勝(1996年)
  • ベルギーの旗 ベルギー選手権優勝(1992年、1996年)
  • 1991年 チューリッヒ選手権優勝
  • 1993年 ロンド・ファン・フラーンデレン優勝 パリ~ツール優勝
  • 1994年 アムステルゴールドレース優勝
  • 1995年 ロンド・ファン・フラーンデレン優勝 チューリッヒ選手権優勝
  • 1996年 パリ~ルーベ優勝
  • 1998年 ロンド・ファン・フラーンデレン優勝
  • 2000年 オムロープ・ヘット・フォルク優勝 パリ~ルーベ優勝
  • 2002年 パリ~ルーベ優勝 HEWサイクラシック優勝
  • 2003年 オムロープ・ヘット・フォルク優勝

そのほか[編集]

  • 1995~1996年 UCIワールドカップチャンピオン

外部リンク[編集]