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万関瀬戸

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万関瀬戸
全ての座標を示した地図 - OSM
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[1]500m341751.6 1292121.3 / 34.297667 129.355917 / 34.297667; 129.355917 (万関瀬戸)西

西1341644.2 1292110.9 / 34.278944 129.353028 / 34.278944; 129.353028 (大船越瀬戸)2km

38219963

[]

3
382

1900253[2]1905[3]

19552(2)

1974719753404.5

19901996沿

脚注[編集]

  1. ^ 日清、日露戦役の頃は久須保水道と呼ばれた。
  2. ^ 明治32年3月の工事設計変更によれば「敷幅弐拾四尺(約7.2メートル)、深さ干潮面ヨリ十尺(約3メートル)ノ掘割」とある。
  3. ^ 日本海海戦時に水雷艇隊は久須保水道(万関瀬戸)を通って出撃はしていない。明治37年9月から掘割拡幅のため同水道は締め切られていた。鎮海湾から第一戦隊(三笠)に随伴して出撃した水雷艇隊は波が高かったため、三浦湾に一時避難しただけである。また尾崎湾に停泊中の第三艦隊付艇隊(第41号 水野広徳大尉等)は大口湾口を経て出撃した。

外部リンク[編集]